孫の運動会観戦の後、多賀城外郭復元南門を訪ねた翌日浜松へ帰る午前中を、昨年11月10日柿岡城探訪で時間切れと成り断念した石岡城を初登城しました。早朝北関東道常磐道経由千代田石岡ICを降りて、国道6号線水戸方向へ約3.4km程の貝地交差点1本手前の細い道を南方向へ約500m程、岡田稲荷神社の鳥居に到着します。ここが石岡城1郭北の堀土塁の残る城域に当たる。
駐車場:特に無し、岡田稲荷神社鳥居前に1台可能。
参考資料:余湖図コレクションさん城郭放浪記さんグーグルマップに依る。
余湖図コレクションの縄張図で当たると岡田稲荷神社、裏の札掛神社辺りが1郭北側の土塁上に鎮座、北側に藪に成って居ますが空堀が廻っている。神社から南へ50m程の民家の北側に切岸、土塁のような形状が見て取れる。
周りは畑、ビニールハウスと成っており、縄張図と比較できないが、グーグルマップの航空写真で見ると、何となく石岡城の輪郭が分かって来る、丘陵部南端に城郭を築いたことが分かますし、宅地化されて無く、畑として残ってるのが幸いです、丘陵地の高低差が城塁の境の様子。
案内板に依ると
建保2年(1214年)常陸大掾を継承した大掾資幹は鎌倉幕府から府中の地頭職をあたえられ、この地に居館を構えた。南北朝時代大掾氏の拠点として城郭整備し大掾高幹の居城とした、高幹の子詮国の代に大掾氏は常陸国衙を拡張して府中城を築き、本拠を移し、石岡城は外城と呼ばれた。天正18年の秀吉の小田原征伐時に大掾氏滅亡とともに外城石岡城は廃城と成って居る。(抜粋)
この後は時間も有り北西4.2km程の志筑城を目指す。
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