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イオ

とことん江戸城・番外編(両国界隈) (2023/06/16 訪問)

この日は東京で朝一番の仕事。始発で家を出ても間に合わないため前夜に東京入りし、早起きして両国界隈を散策しました。昨年は両国橋で外郭めぐりを終えたので、その続きになります。

隅田川は江戸城の外堀にあたるため外郭に通じる橋は架けられていませんでしたが、そのために明暦の大火で多くの死者を出すことになったことから、両国橋、永代橋、新大橋(と後に吾妻橋)が架けられ、両国橋の両岸には火除地として広小路が設けられました。両国橋によって城下が隅田川東岸に拡大したことが江戸の人口増加を支え、両国広小路は芝居小屋や茶屋が軒を連ねる江戸最大の繁華街となっています。現在の両国橋の東岸に両国橋の石碑がありますが、往時の橋は50mほど下流に架かっていたようで、跡地に旧両国橋・広小路跡の説明板が立てられています。

両国橋を渡ったところには、明暦の大火での身元不明の死者を弔うべく建立された回向院があります。往時の正門は両国橋から直進した回向院西側にありましたが(説明板あり)、現在は北側の京葉道路沿いに山門が建てられています。境内には明暦の大火はもとより、安政の大震災、浅間山の大噴火、信州上州地震、奥羽飢饉、関東大震災、東京大空襲など様々な天災、人災による死者、さらには人間だけでなく犬や猫、馬、オットセイに至るまで、あらゆる生あるものの供養塔が建てられています。著名人では竹本義太夫や二代目中村勘三郎の墓があり、鼠小僧次郎吉の墓の前立てを削って持っていると幸運のお守りになるんだとか。鼠小僧の墓の隣には、猫の恩返し(ジブリ映画にあらず)の逸話が伝わる猫塚もありました(鼠のとなりが猫…)。また、境内では江戸中期から勧進相撲が催され、今日まで続く大相撲の起源となっています。境内には物故力士や年寄を祀った力塚も見られました。現在も両国国技館で相撲興業が行われているのはこういう背景あってのことなんですね。

回向院の東側には、忠臣蔵で知られる吉良邸跡や囲碁の名門・本因坊屋敷跡、勝海舟生誕の地などもあり、両国界隈はなかなかに見どころ盛りだくさんです(続く)。
 

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にのまる

古代山城 (2023/05/29 訪問)

鬼ノ城(岡山)に行った際にすすめられ、行きたいなーと思っていたところです。
年始の四国めぐりの最終日に徳島から寄ることを検討したのですが、キャリーバッグ持ちで行けるのか?駅か現地にコインロッカーはあるのか?ということがわからずじまいだったので、見送っていました。
今回は4日分の荷物をリュックに詰め込んで背負っているので大丈夫です。

松山城・湯築城訪問後、松山から特急いしづち16号で高松へ向かいました。
高松から屋島へも特急に乗り換えていけますが、各停で行ってもシャトルバスは15:05発で変わらないので450円ケチって各停で行きました。
バス待ち時間は約30分。駅でじーっと何もせずに待ちます。
しばらくたってから、そういえば……と「お城をさがす」を開いてみて、旧高松城である喜岡城が駅の反対側にあるのを確認しましたが、時すでに遅し。シャトルバスを逃すわけには行かないので帰りに寄ることにしました。(←帰るときにはすっかり忘れて琴電屋島で降りてしまいました^^;)

山上に到着した頃に雨が降り出し傘をさしての観光となりました。しかし朝から雨予報だったので、この時間まで降らないでいてくれたことがむしろありがたいです。

島内(現在は陸続きです)マップや案内はいくつも設置されていたので、距離はありましたが城門まで迷わずに行けました。
修復、復元された石垣のかっこよさは思わず感嘆の声をあげてしまうほど。新たに加工して補った石は石積みの石と色分けされており、発見当時の様子も想像できます。
幻の古代山城の石積みが発見され甦ってからまだ20数年。知られてない遺構がまだあるのではと期待が膨らみます。

帰りは最終のバス一本しか残されていないので、滞在可能時間は約1時間半。城門見学のあと、時間の許す限り島内を散策しました。
屋島は源平合戦の舞台になったところでもあり、ゆかりの地を展望することもできます。供養塔もありました。
あいにくのお天気でしたが霧のかかった景色は幻のベールに包まれた長い歴史そのもののようでもあり、こういうのも悪くないなと思ったりしました。

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しんちゃん

本丸と二の丸の間の堀切が見事 (2023/04/30 訪問)

白井城は利根川と吾妻川の合流点に突き出した台地上に築かれています。
北から北曲輪、三の丸、二の丸、本丸と続き標識もあって
わかりやすくなっています。本丸の南に出丸の笹曲輪があり
南東側に南曲輪、さらにその先には新曲輪がありました。
本丸、二の丸、三の丸の間には今でも大きな堀切が残り
本丸と二の丸の間の堀切は幅も広く、深さもあり三日月堀の表記があります。
二の郭と三の郭の間の堀の一部は、なんと畑になっています。それだけ
大きい堀ということです。本丸周辺には高い土塁が残り、枡形門跡周辺には
石積みが残っています。
本丸は広く、駐車も可能です。二の丸と三の丸、北曲輪は畑地になっています。

案内板に寄れば白井城は15世紀中ごろに関東管領山内上杉憲実の信任が厚かった
長尾景仲によって築かれたと考えられています。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに際し前田利家に攻略され開城し
戦国の城としての役目を終えました。その後、徳川家康の関東移封に伴い
本多広孝、康重が城主となり現在の姿に整備されたと考えられています。
その後、戸田康長、井伊直孝、西尾忠永、本田紀貞と続き、寛永元年(1624)
紀貞の病没とともに廃城となったそうです。






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織田晃司

現在は (2023/07/22 訪問)

松帆山感応寺となっており石垣が残る。

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ぴーかる

更木陣屋 (2023/07/15 訪問)

【更木陣屋】
<駐車場他>更木陣屋前に4台程度可能
<交通手段>車

<見所>建物跡
<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第1弾6城目。美濃国出生の戦国武将徳山則秀は初め斎藤氏に仕え、織田信長のもと柴田勝家の与力、賤ヶ岳の戦い後は丹羽長秀・長重⇒前田利家に仕え、関ヶ原合戦直前に出奔して東軍に参加します。戦後家康から美濃国各務郡5000石を与えられこの地に陣屋を建てます。徳山氏は明治まで旗本として存続します。
 現地は公園化されて復元の陣屋門・土塀・庭園の池があります。建物跡地は草が多く石列が残っていますが、暗渠は木の板で塞がれています。陣屋跡としてはこじんまりとした敷地範囲と遺構で、徳山氏は歴代ほぼ江戸住まいで陣屋には家臣が常駐していたそうです。5000石という小さい陣屋跡が残されているのがとてもいい。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

ちょっと消化不良。主郭を土塁で囲む。 (2023/04/30 訪問)

横尾八幡城は主郭を土塁で囲み、周囲に二重に郭を配している
ようなのですが、訪問した日には雨天もあり、主郭とその周囲の帯廓しか
確認しておりません。虎口は南西の方向についているようですが
他にも二つほどあるようです。
案内板によれば約40mの方形の平地を高さ4mの土塁で囲む
一郭式の砦とされています。
大永年間に尻高三河守によって築城された(吾妻記)と伝えられ
後に塩原源左衛門が城代となり、天正8年(1580)真田昌幸の
吾妻進出によって富沢豊前守が配置されたと記載されています。

この日は近くのロックハート城にも寄ってきました。
「翔んで埼玉」のロケ地にも使われていて、ロケカレーを
撮影現場のみんなで食べていたというので注文してみましたが
実はGACKTさんだけ食べていないみたいです。
微妙に残念ですね。

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しんちゃん

城跡の雰囲気を漂わす正蓮寺 (2023/04/30 訪問)

正蓮寺が渋川城の城址とされています。
周囲を堀のように水路がめぐり、正蓮寺自体が周囲より
小高い丘状の地形に立地しており城址の雰囲気を漂わせています。
というか石段のところにある門が冠木門ですからね。
なんとなく狙っていませんか。

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しんちゃん

本丸の前の堀は見ててワクワクするほど深い (2023/04/30 訪問)

小川城は小川氏の城ですね。五代小川可遊斎は武田勝頼滅亡後
上杉を頼り落ちのび、城代は真田家家臣で小川家門葉の北能登守が居城したと有ります。
その後、豊臣秀吉の斡旋で沼田は北条のものとなり、城代が入りますが
北条は滅び城が真田に帰ってきます。北能登守は吾妻の奉行になり、
寛永15年(1638)真田伊賀守が小川城三の丸陣屋に住みついて
明暦3年(1657)沼田城五代城主真田信利となり、小川城は空き城になったとのことです。
城は国道291号線により東西に分かれ東に本丸があり、二の丸との境を
深い堀が渡っています。
二の丸の大部分は国道西側に残り、堀は消滅していますが標識が立てられています。
かつて真田伊賀守が住んでいた三の丸にも標識が建っているので把握はしやすいです。

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しんちゃん

大阪城 おまけの巻③ 石 (2023/07/17 訪問)

桜門枡形虎口に入って目の前にある巨石が通称・蛸石(たこいし)
で大阪城で1番の巨石です。左側に蛸のようなシミが
有るのでそう呼ばれているようです。
岡山藩の池田忠雄公によるもので、忠雄公は城内2番目の大きさの
肥後石、3番目の袖振石も設置しています。
多聞櫓のある大手枡形内に設置されている大手見付石と大手二番石は
熊本藩の加藤忠広公によって設置されたもので城内4・5番目の大きさを
誇ります。
内容は大阪城の巨石を扱う複数のサイトを参考にさせていただきました。
有難うございます。
要所要所でパズルのように、きれいに積み上げられた石垣が目を引き
それだけでも楽しめそうです。

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ヒロケン

「三つ葉葵の紋」ゆかりの地 (2023/08/06 訪問)

1440年本多定忠が伊奈村を平定し、この地を拠点と定め築いたのが、伊奈城です。以来、本多康利が徳川家康公関東移封に伴い、関東に移るまでの150年間、伊奈本多氏の居城でした。
この城は、徳川家の「三つ葉葵の紋」ゆかりの地でもあります。岡崎城主・松平清康が吉田城を攻めたときに、当時の伊奈城主・本多正忠が清康軍の先陣をきって攻め落とした際に、伊奈城に戻り戦勝の祝いをし、水葵の葉に酒の肴を盛って清康に出したところ、大いに気に入り、葵の紋(立ち葵)を家紋とする、本多家の協力で勝てたこともあり、松平家の紋とするようになったと伝わっています。

現在の城跡は伊奈城址公園として整備され、土塁と本丸の郭が残っています。土塁は戦国中期の平城を今に伝える貴重なものとして保存されています。
駐車場・トイレも完備されておりますが、今の季節は草木が生い茂り、訪れる方も少ないように思われます。春の季節に訪問されることをお勧めします。

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しんちゃん

大阪城 おまけの巻② 千貫櫓 二の丸庭園 豊国神社 (2023/07/17 訪問)

多聞櫓を拝見したので次は千貫櫓です。
多聞櫓が思いのほか良かったので、期待していたのですが
入っていきなり登れない‥。現存櫓があるのに
二階に登れない。なぜかと尋ねると「階段が急なので危ない」
だからだそうです。アホですか‥
せっかく上がったテンションダダ下がりです。
これが他の城に波及しないことを望みます。
仕方無いので二の丸庭園にむかいますが、庭園とは名ばかりで
ただの広場です。でも天守は良く見えます。
近代的なビルとの対比が面白い。まあ天守の中身もビルなのですが
ここは妥協して‥ 庭園のはずれに重要文化財 焔硝蔵があります。
非公開ですが大阪城の数少ない重要な遺構であることに間違いはありません。
豊国神社には豊臣秀吉公の銅像があります。
名古屋市や京都市にもあるようです。案外多いんですね。

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しんちゃん

大阪城 おまけの巻 多聞櫓。 (2023/07/17 訪問)

せっかく季節限定で櫓を公開しているので
拝見させていただきました。天守閣のチケット売り場に
もの凄い行列が並んでいて、正直ビビりましたが
特別拝観のチケットならすぐに購入できるそうです。
この行列は天守閣だけのチケットを購入する人たちの
行列なんですね。
せっかく櫓を公開しているのだからセット券を買った方がいいのに
と思いながらサクッとチケットを購入。
サクッと天守閣を見学して本命の櫓に向かいます。
まずは多聞櫓から拝見するのですが、これがなかなか広い。
さすが大阪城の多聞櫓です。石落としや鉄砲狭間などの
防御設備はもちろんですが、長い廊下の左手に武者溜りがたくさんあり
かなりの人数を収納できるようです。トイレは無いようですが
いざという時はどうするんだろう‥
多聞櫓の次は千貫櫓なのですが‥‥

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しんちゃん

大阪が 天下に誇る 石垣や ‥‥大阪城の石垣は日本一ィィ (2023/07/17 訪問)

大阪は古い歴史を持つ、世界でも有名な大都市で、
日本でも常に2~3番目の位置につけています。それだけでも
凄いことですが、じゃあ大阪の持ってる日本一ってなんだろうと
考えてみました。経済では東京、人口では神奈川の方が多いですよね
伝統は京都、古さは奈良に負けますね。
日本一の物はいろいろあります。
あべのハルカスは日本一のビルですね。仁徳天皇稜は日本どころか
世界一の大きさを誇る墳墓です。でも城好きとしては
やはり大阪城の石垣ですね。私は大阪城の石垣は日本一だと思います。
高さもさることながら、台地状に築かれた石山本願寺、さらにその上に
築かれた豊臣氏の大阪城を覆い隠すように築かれた
今の大阪城の石垣は非常に立体的で映えるのです。
技巧を凝らした熊本城や金沢城もすごい城ですが、やはり大阪城の
スケールは突き抜けていると思います。

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スティクラ

雲海以外にも石垣が素晴らしかった備中松山城 (2023/08/05 訪問)

備中高松城を見た後に車で向かい、12時過ぎに到着。
土日祝日は、自家用車では途中の駐車場(五合目くらい)までしか行けず、そこからはマイクロバスで上に向かう。
マイクロバスは往復500円。歩いていくと1時間くらいかかるらしい。

ふいご峠でマイクロバスを降りてからは、30分ほどで城に到着。
途中の登りはほぼ日陰で日差しは避けられるが、登り慣れていない人にはきつい階段が続く。
途中の見晴台から城下町や川の景色がとてもよかった。

天守に着く前に見事が石垣があり、それだけでも十分魅力的だった。
頂上に着くと、猫城主のさんじゅうろーがバテ気味でお出迎え。

天守はそれほど大きくはないため、15分ほど見学。

天守があるところは、小松山城というらしくさらに奥に大松山城があると案内があったので行ってみたが、
石垣らしきものがわずかしかなく、遺構も少ないため、あまりお勧めしない。
時間は15分から20分ほどで到着するが、天守までの道のりより道が整備されていないため、
山登りに近い服装でなければやめた方がいい。

雲海の時期にまた来たいと思わせてくれる魅力的なお城。

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しんちゃん

人が入れるのは現状、北の堀切と郭まで。 (2023/07/16 訪問)

超昇寺城は超昇寺氏の城で佐紀神社の北側に主郭があり、その北側にも
郭があるようです。東に御前池があり、その東には佐紀城があり
超昇寺城の出城と伝わっています。
佐紀神社の北側、竹藪の東側から攻めようと試みましたが
竹密度が高すぎ、人が入るのは無理そうです。
口コミを見ると皆さん、北の堀切から攻めているようなので
北側に回りこんで堀切に突入。竹をかきわけながら
北の郭に何とかたどり着きます。
周囲を散策してみますが、南の主郭側は竹密度が高すぎ
やはり攻めるのは無理そうです。
堀切を脱出すると近所のオヤジがこちらを凝視しています。
いくら奈良市が閉鎖的とはいえ、近所の竹藪から怪しい人物が
出てきたら苦情の一つも言いたくなるでしょう。
辰市城でも記述しましたが、トラブルは避けたいので
出来るだけ地元住民を刺激しないように心がけたいですね。

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スティクラ

秀吉の水攻めで有名な備中高松城 (2023/08/05 訪問)

岡山駅から車で向かい、11時過ぎに到着。
日差しが強すぎて、前回来た時になかった新しい資料館にいったん避難。
資料館は広くはないけど、備中高松城の年表パネルでじっくり見ることができるだけでなく資料映像もあるので十分楽しめる。

資料館を見た後は、暑すぎるため日陰を探しながら二ノ丸跡・本丸跡を中心に30分ほど散策。

城址公園の少しはなれた場所に清水宗治自刃跡があると資料館の人に教えてもらい少し歩いて見学して備中松山城へ向かう。

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しんちゃん

団地土台が石垣っぽいのは城跡だから? (2023/07/18 訪問)

沢良宜城は藤井氏の居城で、応仁の乱(1467~77)かその以前
(15世紀初期)に廃城となったとのことですが、その後の藤井氏の
詳細ははわかりません。かつての馬場跡に佐和良義神社の参道が
まるで土塁のように南北に長く連なっていて、周囲より高地になっています。
南東部の美沢公園の案内板に藤井氏に関する記述や明治初期ごろに書かれたと
される東摂城址図誌の縄張り図が記載されており、それにも佐和良義神社の
参道が描かれています。南西側の丘陵にも縄張りがあったそうで
かつての縄張り一帯に住宅団地や住宅がひしめいていますが
北側の住宅団地の敷地土台が石垣を積み上げたようになっているのが
ユニークな気がしました。

案内板周辺
大阪府茨木市美沢町13
34°47'53.6"N 135°34'08.7"E
34.798230, 135.569081

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初芽

背中反らないと石垣と櫓が全部撮れない(完璧) (2023/08/05 訪問)

滞在時間:1時間

備中松山城の後に登城しましたがどちらも石垣がとにかく高い!
さらに備中櫓がその上に建ってるのですごい迫力…!
写真撮るのに苦労したので事前に背中と腰のストレッチは必要だと思いました👍それくらい見上げてた
鐘撞き堂の石垣も良かった〜!
竹田城の石垣を思い出していたけど、この長い直線の石垣はやっぱりどっちも好き!

天守閣跡から眺める景色も素敵✨
もし天守閣が残っていたら…?
さらにこの上から城下を眺められたってこと?備中櫓と天守閣が並び建つ?最強では?と妄想が捗りました。

桜の季節にまた訪問してみたいですが、青葉ともよく映えていて最高の思い出になりました!

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初芽

岩と石垣の上に建つお城がめっちゃ素敵! (2023/08/05 訪問)

滞在時間:1時間半

ずっと行きたかった備中松山城へ!
最初は現存天守を拝めるのを楽しみにしていましたが、荒々しい岩の上に整然と石垣が並び、さらに堂々とお城が建っている景色…めちゃくちゃかっこよくて行きも帰りも眺めていました。
天守を見ている時間より石垣たちを眺めている時間の方が多かったかも🙏

真田丸のオープニングのモデルになった城と知って、全てCGだと思っていたあの頃の自分をビンタしたい🤜

天守の中にも入って囲炉裏や御社壇を生で見ることができて良かったです〜!

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チェブ

あたふたの城攻め。 (2023/07/04 訪問)

小田原観光(?)の後、通り道という事もあり「波多野城」へ転戦。

平安時代から鎌倉時代にあったとされる「波多野城」です。
波多野氏は、源 頼朝さんの挙兵を拒み討伐されました。その後、波多野家は許され 鎌倉幕府の御家人にまでなります。

中学校脇の田んぼに下りる道。「波多野城」の道標がありました。
ゆるゆる下ると、畑仕事を終えた軽トラを何台か見送りました。
ん?ポツリ ポツリと大きめ雨粒が!
その後、ザーーーーッと夕立。最近はゲリラ豪雨って表現するのかな?
多分、軽トラは豪雨予測ができていたのでしょう。
退陣の法螺貝が脳内で響きます。

後で調べたら、近くに『源 実朝公首塚』があるようです。
波多野家は、頼朝さんには逆らってしまいましたが、時をかけて御首を護る位の御家になったのでしょう。
と、行ってもないのに勝手な想像です。

発掘しても城跡だったかは分からないそうです。
手前の田んぼを見て、堀だったのかな?なんて想像しました。
勝手に遺構へ脳内変換しなくなる「波多野城」攻めでした。

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