城端城は城端別院善徳寺が建っている場所に築かれて
いたとされ、善徳寺は戦国期に瑞泉寺、勝興寺と並んで、
加賀一向一揆の中心となりました。
現在の善徳寺は左を山田川、右を池川に挟まれた△形の
台地上に築かれています。寺の西側はかなりけわだった切岸に
なっていて、かつての城塞としての防御力は健在です。
永禄2年(1559)か元亀3年(1572)にかつての城主、荒木大膳が
善徳寺に城の敷地、城門を寄進したと有ります。
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2023/09/10 00:58
西の切岸はかなり険しい。 (2021/11/18 訪問)
城端城は城端別院善徳寺が建っている場所に築かれて
いたとされ、善徳寺は戦国期に瑞泉寺、勝興寺と並んで、
加賀一向一揆の中心となりました。
現在の善徳寺は左を山田川、右を池川に挟まれた△形の
台地上に築かれています。寺の西側はかなりけわだった切岸に
なっていて、かつての城塞としての防御力は健在です。
永禄2年(1559)か元亀3年(1572)にかつての城主、荒木大膳が
善徳寺に城の敷地、城門を寄進したと有ります。
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2023/09/09 23:56
兼六園 ライトアップ (2021/11/18 訪問)
2021年11月 北陸へ行ってきたのですが、この時期
コロナも沈静化してきており、各地の観光地にもお客さんが
戻ってきているようでした。
わたしも2020年は城めぐりを自粛していたのですが、この年から
城めぐりを再開しています。
この日は、兼六園のライトアップを見てきたのですが、昼間とは
また違った雰囲気で楽しませていただきました。
帰りは近くの城山亭で治部煮をいただいたのですが、なかなか
おいしくいただけました。個人的に好きな味なので、自分でも
何回か作ってみたりしています。
なぜ金沢で治部少輔なのか?という疑問はありますが、じぶじぶ煮る
から、じぶ煮をいう説もあるようです。でも治部少輔の名が
こういった形で残っているのも少しうれしかったりします。
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2023/09/09 23:35
葵塚・巴塚 富山県小矢部市 (2021/11/19 訪問)
葵塚・巴塚古墳群は倶利伽羅峠に向かう道中にあります。
いずれも源義仲の愛妾で、他の武将たち同様、鎧を身に着け
戦場で活躍したそうです。すごいですね、義仲ファミリー。
ジェンダーフリーの先駆けともいえそうですが、
何かが違うような気がします。
葵御前は倶利伽羅峠の戦いで戦死し、ここ葵塚に葬られたとあります。
巴塚は供養塔ではないでしょうか。
巴御前は有名ですが、ここを訪問するまで葵御前のことは
全く知りませんでした。個人的には好きな武将なので
大河ドラマになったら、そのあたりも見てみたいです。
出来れば脚本のしっかりした方で。
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2023/09/09 23:14
倶利伽羅峠③ 地獄谷のぞき (2021/11/19 訪問)
倶利伽羅峠を縦断する道は倶利伽羅不動尊へと続いています。
ですので、倶利伽羅峠へのアクセスは簡単です。
一般的なイメージに対してハードルが意外と低いんです。
倶利伽羅不動尊はかつての源平の合戦で焼失しましたが
源頼朝が再建しています。アフターフォローは大事ですね。
周辺をひとしきり散策したので山中に入って地獄谷を目指します。
といっても、正式なルートなど見あたらないので
それらしい道を進んでいきます。進んでいくと土塁らしき遺構が
ちらほら散見できます。この周辺は長い間、砦としていろいろな
人物が利用していたので、その遺構が残っているのかもしれません。
地獄谷まで到達はしていないのですが、だいぶ近くまで行けました。
まだまだこの周辺には人知れない遺構が残っているのかも
しれません。
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2023/09/09 23:00
倶利伽羅峠② 石川県河北郡津幡町 / 富山県小矢部市 (2019/11/19 訪問)
倶利伽羅峠最高部には猿ケ馬場が広がり、その南側に
展望台が設置されています。かつての平氏の本陣が置かれていたあたりで、
倶利伽羅権現のあたりにも布陣していたと思われます。
倶利伽羅権現は周囲より高所にあり、見張りに適している
箇所になります。展望台のやや西側、源平供養塔の裏手に平為盛塚があります。
平為盛は清盛の異母弟、平頼盛の次男で倶利伽羅峠の戦いに参陣しています。
寿永2年(1183)5月11日に火牛の計に敗れるも、
12日未明に50騎を率い源氏を襲撃しますが
義仲の配下の樋口兼光に首をはねられたとされています。
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2023/09/09 22:38
北の丸、本丸
西の丸の後は北の丸に向かいました。向かう道に沿って大きな空堀が続いていました。おそらく本丸へ行かせない戦法。北の丸に着くと周りは低土塁に囲まれていました。本丸へは復元された木橋がかかっており大空堀を見ることができます。その後は天主櫓跡に行きましたが、礎石らしきものはなく天主があったかどうかも不明なようです。本丸には西の丸と同じで二の丸方向に障子堀が立ちはだかっていました。こちらも見応え抜群!
最後は二の丸で締めます。
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2023/09/09 22:35
倶利伽羅峠 (2021/11/19 訪問)
倶利伽羅山付近の山塊は古来より、北陸道の通る
要衝の地で、寿永2年5月、平維盛率いる平氏軍が木曽義仲の
西上を阻止するため陣を敷いたとあります。
それ以降も南北朝の時代には富樫氏が南朝方の桃井直常に備え
陣を敷き、長享2年(1488)には越智伯耆を首魁とする一向一揆軍、
天正12年には佐々成政も前田氏に対して砦を築いています。
今では倶利伽羅峠古戦場として整備が進み、数々の遺構が残ります。
写真では、芭蕉句碑、平氏が追い落とされた地獄谷(上から)
古戦場碑、芭蕉塚、平家本陣、ウシ を紹介させていただきました。
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2023/09/09 22:16
2023/09/09 22:10
埴生八幡宮 富山県小矢部市埴生2992 (2021/11/19 訪問)
埴生八幡宮の創建は伝承によると養老2年(718)とされています。
木曽義仲が倶利伽羅峠の戦いに際して、戦勝祈願をしたと
伝えられ、ここに陣を敷いたとされています。
前田利長や佐々成政らの崇敬も厚く、社領を寄進されています。
遊佐慶親の寄進による石段があるようです。
境内には木曽義仲の騎馬像があり、社殿の東側に基檀状の遺構が残り
かつてここに義仲が陣を敷いた際に騎馬や兵たちが、ずらりと
並んだ姿を想像したりします。
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2023/09/09 22:08
二重堀砦(小牧長久手古戦場散歩 小牧の巻) (2023/09/09 訪問)
羽柴方の砦で日根野弘就と、弟の盛就が守っていたと伝わっています。「ふたえぼり」と読むそうです。城びとには未登録の砦跡です。遺構はありません。細い道を入った道路沿いに、「日根野備中守弘就砦跡」の石碑がありました。
名鉄小牧原駅から徒歩15分くらいです。
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2023/09/09 22:05
2023/09/09 22:00
2023/09/09 21:54
2023/09/09 21:49
岩崎山砦(小牧長久手古戦場散歩 小牧の巻) (2023/09/09 訪問)
小牧長久手の戦いのときに稲葉一鉄が守っていたとされる砦です。城びとには未登録の砦跡です。名前は似ていますが長久手の戦いに出てくる岩崎城とは異なります。標高は55m程で、今は熊野神社となっています。遺構はありませんが、小牧山城がよく見えます。
小牧長久手の戦いとは関係ありませんが、この山は天然の良質の石が産出された様です。その跡が山頂付近にも見られます。織田信長は小牧山城の石垣を築くためにここから石を運び、後に名古屋城が築かれた時もここの石が石垣に使われました。麓には石垣がありますが、岩崎山前土地区画整理事業、市道拡張工事に伴い発掘された石を使って作ったとのことです。
名鉄味岡駅より徒歩15分くらいで行くことができます。
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2023/09/09 21:40
2023/09/09 21:32
主郭は案外小さい。周囲にも城域が広がっていたのかも。 (2021/11/19 訪問)
蓮沼城の跡地には現在石碑が立てられています。
周囲は田畑や宅地になっており、かつての城跡をうかがわせる
遺構らしきものは見当たりません。
城域は東西26間、南北36間、堀の幅は5間と記録が残ります。
1間=1.82mとすると、およそ東西47m、南北65mということに
なります。堀の幅は9mくらいですか。城域はそれほどでもないのですが
堀の幅は結構ありますね。宝暦14年(1764)の書状申帳によるものなので
かつては周囲に郭などの遺構があったのではないでしょうか。
蓮沼城は永享年間(1429~1441)遊佐氏が築いたのが始まりとされます。
遊佐氏が一向一揆の圧力に屈して亡命し、その後は一向一揆の勢力下に置かれたものと
考えられますが、一向一揆と敵対す康る石黒氏の支配下にあった時期もあるようです。
永禄12年(1569)以降、椎名康胤が入城したとされますが、天正4年(1569)上杉謙信に
攻められ落城し、康胤は敗死したとされます。
謙信死後は佐々成政の支配下に置かれますが、前田利家に攻められ落城したようです。
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2023/09/09 20:08
歴史は古く、廃城まで多くの者達に使われている。 (2021/11/19 訪問)
津幡城はかつての津幡小学校跡に建てられていて、周囲の建造物や
グラウンド一帯を含む丘地の上全体が城跡だったと思われます。
中央にある石碑のある小岡は物見台のようにも見え、その下側が
駐車場になっています。朝駆けで訪問しているので、城跡に建てられた
津幡ふるさと歴史館「れきしる」は訪れていません。
城域内には為広塚や清水八幡神社があり、八幡神社の階段を下りて
下から見上げると高低差によって城址の雰囲気を感じ取ることが出来ます。
津幡城の歴史は古く、平維盛が寿永2年(1183)倶利伽羅峠の戦いに際して
この地に砦を設けたことに始まるそうです。
天正4年には一向一揆が立てこもって戦いましたが、天正9年(1581)柴田勝家に
攻められ落城したと有ります。
天正12年(1584)前田利家が築城し直して、弟の前田秀継に守らせたとあります。
9月に、末森城が佐々軍に包囲されると、それを救出するための軍議が
ここで開かれたとされています。
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2023/09/09 19:39
越中一向一揆の拠点。 (2021/11/19 訪問)
安養寺城は安養寺御坊として渋江川の南の
台地城に築かれていました。周囲は田畑となっており
現在、石碑が建っているあたりが、かつての中心部だったようです。
周囲には土塁が築かれていたようで、畑地の周囲は切岸のように
なっており、南西の八幡宮には土塁が残ります。
元は蓮如上人の次男蓮乗が築いた土山御坊が前身で、高木場移転を経て、
永正16年(1519)三代実玄によって、この地に移転したとあります。
かつての寺領は十数万石におよび、瑞泉寺と並んで越中一向一揆の
中心として機能していたようです。
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2023/09/09 18:12
2つの櫓が現存 (2023/09/08 訪問)
坤櫓と巽櫓が見所です。帯曲輪からのアングルが二つの櫓が撮れておすすめです
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2023/09/09 17:57
赤穂浪士のゆかりの城 (2023/09/08 訪問)
本丸門の石垣は整備されていて見応えありますが発掘調査もこれからという感じ
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