桑名城と姫路城には千姫ゆかりの場所があり、この2城を訪れるとどうしても千姫の事が気になってしまいました。話は関ケ原からそれてすいませんが、大坂の陣以降の、桑名・姫路で千姫がどのような人生をたどったのかを追ってみました。
1615年大坂の陣で豊臣秀頼が亡くなってから数ヵ月後、千姫は京から江戸へ帰る途中、この桑名城の蟠龍櫓のある「七里の渡し」(写真①)からこの川を渡る時に、船団を指揮し家臣に命を下すある若き武将に一目ぼれしたという逸話があります。その武将とは本多忠政の子(忠勝の孫)、「本多忠刻(ただとき)」です。千姫が忠刻に恋文を渡す絵も残っているようです(写真②③:ずいぶん積極的です)。
江戸に帰った千姫は父の徳川秀忠にこの話をし結婚を願います。秀忠の姉で忠政に嫁いでいる熊姫(ゆうひめ)はこれを聞いて喜び、家康に許しを請うため、病気見舞いと称して千姫とともに駿府城を訪れます。千姫の事を心配していた家康もこれを聞いて大喜びし、二人の結婚を許しました。そして翌年(家康が亡くなった年)の1616年、この桑名城の本丸で婚礼が行われたとの事です。千姫20才・忠刻19才でした。(写真④:桑名城本丸跡:現護国神社) [注:余談1]
その翌年1617年、父の忠政は播磨姫路へ加増転封となり姫路城へ入ります。この時、忠刻と千姫もともに姫路城へ移りました。嫁入りの時の化粧料(100億円)で、姫路城の西の丸には「化粧櫓」「長局」「百閒廊下」がこの時に築かれたのは有名です。(写真⑤⑥⑦⑧)[注:余談2]
忠刻と千姫の間には、勝姫・幸千代と二人の子が誕生し、二人にはこの時が最も幸せな時間であったろうと思われます。しかしその幸せもそう長くは続きませんでした。
1621年 幸千代はわずか3才で死去。さらに1626年忠刻はまだ30才の若さで死去します。幸せな結婚生活は、たった10年で終わってしまいました。
その後、千姫は江戸に戻り出家「天樹院」と名乗り勝姫と共に暮らします。その勝姫が岡山藩主「池田光政」に嫁ぎ一人になると(写真⑨)、縁切り寺「東慶寺」を援助するなどして70才で死去するまで女性のために尽くしたそうです。そしてまた、この東慶寺の住職は何と豊臣秀頼の側室の子「天秀尼」で千姫は養女としていたそうです。
千姫には最後まで幸せになってほしかったですね~🤔。
以上、千姫物語でした。
【余談1】坂崎直盛
この時の花嫁行列を陰で妨害しようとした哀れな男がいた事も皆さん心の片隅にでも憶えておいて下さい。詳しくは私の過去の「津和野城」の投稿を再度見て思い出していただけたらうれしいです。
【余談2】千姫天満宮・桑名宗社
姫路城から北西の鬼門の方向にある男山に、千姫は神社を建て羽子板を奉納し、朝夕長局から拝礼していたとの事です。今では忠刻・千姫の仲むつまじかった事にあやかって、恋愛成就のパワースポットになっているとか(写真⑩)。また桑名城の西側にある桑名宗社は、千姫が出会いに感謝し神宝を奉納した事から、今では千姫の忠刻との出会いにあやかって、いい出会いを求め訪れる女性のパワースポットになっているそうです。
次は(18人目)に続きます。
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