神指城は阿賀野川の東側に位置しています。会津に移封になった上杉景勝が慶長5年に直江兼続に工事を命じ、兼続が普請奉行を務めました。上杉領内から人工を集め、その数8~12万人とも言われかなり大規模な工事だったようです。徳川家康の会津攻めにより工事は中断となり結局は完成には至らず景勝が米沢に移封となった後は放棄されたようです。
城域の北東端に国天然記念物の高瀬の大木があり、その周囲に土塁が良好に残っていました。南西が二の丸跡で水田が広がっています。
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2024/01/11 21:20
未完の城。 (2019/08/12 訪問)
神指城は阿賀野川の東側に位置しています。会津に移封になった上杉景勝が慶長5年に直江兼続に工事を命じ、兼続が普請奉行を務めました。上杉領内から人工を集め、その数8~12万人とも言われかなり大規模な工事だったようです。徳川家康の会津攻めにより工事は中断となり結局は完成には至らず景勝が米沢に移封となった後は放棄されたようです。
城域の北東端に国天然記念物の高瀬の大木があり、その周囲に土塁が良好に残っていました。南西が二の丸跡で水田が広がっています。
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2024/01/11 20:14
南奥羽支配の拠点の一つ。 (2019/08/11 訪問)
三春城は永正元年(1504)に田村義顕がこの地に本拠を移したとされ、その後三代続きますが天正14年(1586)に清顕が急死すると娘婿の伊達政宗の後見で清顕の甥、宗顕が城主になりました。田村氏は豊臣秀吉の小田原征伐に参加しなかったため改易となり、桃山時代から江戸時代の動乱期に城主は次々と変わりますが寛永5年(1628)加藤嘉昭の娘の子である松下長綱が三万石で入り近世城郭として整備がなされたとのことです。
現在は平山城の形態をしていて最高所一帯に本丸と奥跡(御座の間)が配され、北西に二の丸跡、南東に三の丸跡があり南側一帯に重臣屋敷が配されていたようです。
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2024/01/11 19:10
常在戦場。 (2023/12/06 訪問)
右手に「大胡城」の石碑があり、車がすれ違いできない位のトンネルを抜けると、いきなり二ノ丸に到着しました。
ちょっと、暗めな四角いトンネルです。まさか、こんなに広い「大胡城」に着くとは思いませんでした。
大胡氏が築いた「大胡城」。
横瀬家に奪われ増田氏。
上杉家に奪われ北条氏。
武田家が侵攻し大胡氏。
武田家が滅亡すると織田家の滝川氏。
本能寺の変が起こり北条家。
北条家討伐され徳川家の、牧野 康成さんが城主を勤めました。
二ノ丸には何台か車が駐車してました。
郭は、高い土塁が守っています。
虎口から幅広い土橋を渡ると、両側に深い空堀。水の手門近くには石積みもあります。
これだけ、取った取られたを繰返した「大胡城」ですから改修も、深~く 高~く 広~くしたに違いありません。
牧野氏の家訓でもある『常在戦場』。
常に戦場にいるような心持ちでいると、「大胡城」のようなお城が出来上がるのでしょう。
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2024/01/11 16:13
安祥城探訪 (2024/01/05 訪問)
安祥城を訪問しました。ここは安城松平家の居所であり、あの徳川家康とゆかりのあるお城となります。
城址を含めて歴史博物館、埋蔵文化センターとが一体に整備されており、安城市の歴史を含めて知ることができます。
駐車場も広く、自動車でのアクセスもし易いです。
昨年は大河ドラマの放送の影響か、企画展の開催やパンフレットの整備などが充実していました。訪問する側ではありがたい取り組みですね。
現在は、本丸跡には大乗寺、二の丸跡は八幡社となっています。散策途中に安城城の縄張りの案内図がありましたが、原図:千田嘉博先生との記載がありました。
岡崎城のある岡崎市とは隣接しており、是非訪問してみてください。
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2024/01/11 16:06
刈谷城探訪 (2024/01/05 訪問)
刈谷城を訪問しました。刈谷城は別名亀城と呼ばれており、徳川家康の生母である於大の方がいらした水野家のお城です。現在は亀城公園となっています。駐車場も広く、自動車での訪問をお勧めします。
近くに刈谷市歴史博物館があり、刈谷城の立地、縄張等がジオラマ等で分かります。登城の前に立ち寄ってみるのも良いと思います。
刈谷城は明治時代にほとんどの建造物が解体されましたが、現在は公園として整備され、本丸跡、帯曲輪跡、水堀の一部を見ることができます。
また、ここでは刈谷城ARを実施しており、4箇所のスポットにて往時の姿をCGで再現してくれます。スマホにて確認してみましょう。
なお、刈谷城は隅櫓や石垣、城門他を復元計画がありますが、残念ながら現在は停滞しているようです。
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2024/01/11 15:59
名古屋城探訪 (2024/01/04 訪問)
新年、名古屋城を訪問しました。6年振りの訪問です。
今回の訪問では、タイミングが良く重要文化財の西南隅櫓が内部見学できました。今年は1月上旬のみの期間限定のようです。
西南隅櫓は、現存する3基の隅櫓の一つとなります。二層三階の櫓で内堀越しからみるとなかなか立派なものです。
三階は荷重制限にて上がるのは人数限定となり、少々並び待ちましたが内部見学ができて良かったと思います。
ところで、城内から望む天守閣は威厳と風格がありますね。何度訪問しても良いお城かと思います。
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2024/01/11 08:06
陣跡めぐり(伝堀秀政陣) (2023/11/04 訪問)
(続き)
伝滝川一益陣から下った先に堀切があり、その先が伝堀秀政陣です。櫓台状の円墳をはさんでまた堀切。さらに円墳をはさんで今度は横堀と竪堀が設けられています。横堀を見下ろす位置には礎石建物があったようで、高床建物の一部がベンチとして復元されています。礎石建物跡から堀切をはさんで伝堀秀政陣の主郭があり、円墳を改修した主郭には石碑が立てられていました。主郭の西側には帯曲輪、小郭、犬走りが取り巻いています。
伝堀秀政陣は円墳を活用して幾重にも堀を設けた陣跡で、一気に城郭らしくなってきました(続く)。
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2024/01/11 07:17
空堀土塁を見落とした (2023/12/09 訪問)
館跡ということで油断していました。空堀、土塁があったとは。皆さんの投稿をチェックしておけばこんなことにはならなかったのに。いつか再訪したいと思います。「妙」の字が付く寺はたいてい日蓮宗で、妙徳寺には、日蓮の銅像がありました。
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2024/01/10 22:36
各郭を隔てる巨大な堀切に幾つもの橋が架かっている。 (2019/11/03 訪問)
小山城は藤原秀郷の子孫である小山政光によって平安時代末期に築かれたとされています。かつては鷲城の支城でしたが、小山氏が足利氏満と対立して敗れ、嫡子若犬丸も会津で自害し小山氏が滅ぶと同門の結城氏が小山氏を継ぎ戦国期には小山城を本城としたようです。
小山城は思川の東にある台地上に築かれ、駐車場となった中久保郭から橋を介して城域に入り込みます。現在表示されている郭名は城郭体系に記載のあるものとは異なっており 本丸(大系)⇒中田曲輪・馬出(現在) 二の丸(大系)⇒本丸・二の丸(現在)と変わっています。特にかつて本丸とされていた部分が馬出に修正されている部分は興味深いものであり、時代が進んで研究が進んだ成果だと思います。各郭を隔てる堀切は橋を架けなければ渡れないほど大きく深い物であり公園化してはいるものの小山氏の本城のスケールを感じ取ることが出来ます。
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2024/01/10 22:17
国宝・勝興寺の故地だという (2023/04/22 訪問)
越中一向一揆の一大拠点であったが焼き討ちされて移転したという。古図には堀跡も記載されるが圃場整備によって遺構は消滅した。ちなみに移転した寺とは古国府城の跡に建ち国宝の本堂を擁する大伽藍・勝興寺なのだそうだ。
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2024/01/10 21:49
結城合戦の舞台となった結城氏の本城。 (2019/11/03 訪問)
結城城は治承年間(1177~1180)に結城家初代・結城朝光が築いたとされていますが確証はないようです。北西から南東に至るまで田川に囲まれた低丘陵地に築かれていて実城(主郭)は城址公園になっていて東側は切岸になっています。西館との境目あたりに聰敏神社が鎮座し水野家初代水野勝成公を祭神として祀っています。実城の南に中館・東館が配され、結城家御廟のある慈眼院周辺が東館になるようです。実城から南西1kmほどの場所に結城家初代・朝光の墓所のある稱名寺(称名寺)があります。
結城城は結城秀康の越前への移封後に一時廃城となりましたが、元禄13年(1700)水野勝長が一万八千石で入り明治維新まで水野氏の居城となりました。
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2024/01/10 21:09
三度に渡る激戦の地。 (2019/11/03 訪問)
皆川城築城に関する伝承はいくつかあり、古くは長沼淡路守宗政の孫・宗員が築いたとされています。宗員は皆川荘に居を構え皆川氏を名乗り、その子孫は元亨3年(1323)に断絶したか、この地を放棄したと考えられています。
もう一つは応永23年(1416)~永享12年(1440)ごろに築かれたとされ、長沼惣領家の秀宗かその父・憲秀によるものと思われています。主郭を中心に周囲に幾重にも郭が連なり西には二郭が配され南西に竪堀が走ります。とにかく郭の多い城で主郭にある展望台からは周囲や郭を見渡すことができます。激戦の記録が幾つも残る城で、大永3年(1523)の宇都宮忠綱との合戦(川原田合戦)では城主宗成が流れ矢で死亡し弟の平川城主・成明も討死しています。天正12年(1584)には北条氏政・氏直父子の一万八千の大軍が来襲し(草倉合戦)三カ月にも及ぶ戦いの末和議を結んで休戦しますが皆川氏は北条氏に従うことになります。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際に上杉景勝・浅野長政ら一万五千余騎に攻められ降伏・落城したとされています。
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2024/01/10 20:14
なんだか評判のよくない国の史跡。 (2019/11/03 訪問)
写真が古くてゴメンなんだけど中久喜城の投稿です。城址はJR水戸線によって分断されており本丸は線路の南に位置し土塁らしきものが残るのですが主要部は畑地になっていて、その他は藪になっています。国の史跡なのに藪なんですね。
城址碑は線路の北側にあり、北西部は西城と呼ばれていたようです。かつては泥田、湿地に囲まれた要害の地であり小山政光が先祖藤原秀郷の由緒のある当地に築いたとされています。天正18年(1590)には結城秀康に家督を譲って隠居した結城晴朝が越前に移るまで居城としたとされています。
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2024/01/10 20:13
姫路城4(最後) (2023/11/03 訪問)
備前門を通った後は太鼓櫓へ向かいました。残念ながら太鼓櫓をちゃんと写真に撮れていませんでした泣。ちなみに太鼓櫓はなんと、池田輝政以前の建物と伝えられていて結構貴重なものですよ。江戸時代以前の建物が残っているのは興味深かったです。
太鼓櫓と繋がっているりの門を通って二の丸へ出ると扇の勾配と呼ばれる武者返しのような石垣を見ることができます。藤堂高虎のような直線のような石垣ではなく、上へ行くほど急になっていく勾配の石垣です。
この時点でちょうど16時を過ぎ、営業が終了間近だったので、急いでスタンプを押して夕陽に染まった姫路城天守閣を写真に取りながらホテルへと向かいました。
夜は姫路の大通りにあるガブリチキンで夕食を食べました🎵お酒はまだ未成年なので飲めませんが、久しぶりに贅沢なご馳走をしました。ちなみにガブリチキンは名古屋発祥なのになんで姫路で行ってんだか…
夕食後は宿に戻る前に少し散歩がてら姫路駅に行ってみました。兵庫の都市といえば神戸ですが、姫路もなかなか栄えている場所でした。新幹線が通っているのとJRの終点の駅でもあるため、駅周辺は人が多かったですね。どうやら家から姫路までは電車の本数も少なく行けそうな気がしました。姫路駅の踊り場に出てみるとライトアップした姫路城が見えましたよ。写真では全然綺麗じゃないですけど肉眼では綺麗に見えました。
ここでとりあえず兵庫旅行の1日目が終了しました。竹田城、篠山城、姫路城と1日に3箇所の名城に行くという充実した1日を送りました。
2日目は明石城に行きました。では次の投稿では明石城について紹介します。長々とありがとうございました。
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2024/01/10 19:52
2024/01/10 19:33
現代人(おいら)には二宮尊徳スピリッツが足りていないかも。報徳・献身・節約・忠節‥ (2019/11/03 訪問)
桜町陣屋は元禄12年(1699)に大久保家の分家で旗本の宇津家が桜町三ヶ村を治めるために設けた陣屋で国の史跡に指定されています。二宮尊徳さんが文政6年(1823)に小田原藩主大久保忠真の命で赴任し26年(36年とも)過ごしたとされています。
陣屋建物が現存し、周囲には土塁や壕が残り虎口は折れ曲がって侵入者の直進を阻んでいます。陣屋の東側には二宮尊徳氏に関わる遺構や建造物が残ります。北から桜町二宮神社・二宮尊徳資料館そして二宮尊徳本人とゆかりあるの人物たちの墓地がある蓮城院が有りました。
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2024/01/10 10:50
2024初登城と初詣(2/2)-飯田丸五階櫓とくまモン (2024/01/08 訪問)
2024初登城と初詣(熊本城)の続きです。
次に、熊本市民に勇気を与えてくれた奇跡の一本足、飯田丸五階櫓を訪れてきました。あれからもうすぐ8年目を迎えます。その奇跡の石垣は、ほぼ元通りにまで復旧していました(写真①)。約1年前は、まだクレーンで石垣を積む作業が行われていましたが、今は終了しクレーンや足場も撤去され、石垣は元通りに修復を終えたようです。しかし、石垣の石の隙間に何やら謎の鉄の杭のような物が埋め込まれていました。補強のためでしょうか? 近くで見る事ができないので何か解らずに気になりました(拡大写真②) 写真を倒壊直後から1年前と現在まで(写真④→③→①)の順に見て頂くと今までの復旧の過程が解ると思います。復旧作業は順調なようです。次はいよいよ上の五階櫓部分の復元工事ですね。どうやって復元するのか、楽しみに見て行きたいと思います。
帰りに、またくまモンに会うために「くまモンスクエア」に寄ってきました。出勤時間に遅れて着いたら、すでに場内は満員大盛況!(写真⑤~⑨)。相変わらず元気なやつです。私もつられて「今年もがんばるモン!」と、またものまねをしながら帰りました(やっぱり似てないかな🤔?)。
【余談】くまモンの動くLINEスタンプ(写真⑩)が、今なら期間限定無料でGETできますよ! 詳しくは「ラブくまプロジェクト」で検索して下さい😊。
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2024/01/10 08:10
陣跡めぐり(伝多賀貞能陣~伝滝川一益陣) (2023/11/04 訪問)
小谷城の正面に立ち塞がるように聳える虎御前山に織田信長が築いた陣城で、小谷城攻めの本陣として機能しました。
小谷城の展望台から虎御前山城のあまりの近さに驚いて以来、いつか行ってみたいと思っていましたが、ようやく果たすことができました。中腹まで車で行けるようですが、全ての陣跡をめぐるつもりなので、南麓の虎御前山公園の駐車場から歩いて登城開始です。
矢合神社の参道に入ったところに虎御前山の案内板が立てられています。北端の伝柴田勝家陣まではなかなか距離がありそうです。境内の手前で参道から右手にそれると多賀貞能陣地跡の石碑と説明碑が立てられています。矢合神社の境内一帯が陣跡のようですが、改変されていて遺構は見当たりません。矢合神社の裏手から倒壊した案内表示に従って山道を登った先には前方後円墳があり、後円部の上に蜂屋頼隆陣地跡の石碑と説明板が立てられています。蜂屋頼隆陣の北麓には展望台があり、北に小谷城を望み東側の眺望が開けています。ここから見られる田んぼアートは今年が最後だったようです。展望台の先の石段を上って行くと整備された広場に丹羽長秀陣地跡の石碑と説明板が立てられていました。伝丹羽長秀陣からいったん下って伝滝川一益陣へと続く坂道沿いには、33基の古墳からなる信長馬場古墳群が連なっています。いくつかの円墳が見られる伝滝川一益陣には石碑と説明板が立てられていますが、南側は電波塔の敷地として大きく改変されています。
ここまでは陣跡めぐりと言っても、櫓台や曲輪として活用されたと思しき古墳があるくらいでしたが、この先の伝堀秀政陣からは城郭遺構が見られるはずです(続く)。
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2024/01/10 07:15
2024/01/09 22:28
チェブさん,ご心配ありがとうございますm(__)m (2023/11/05 訪問)
石川県と新潟県ではタイムラグがあったのではと思います。また,通信レスポンスの遅延もあり,16:12の表示だと思います。ポチとほぼ同時に揺れました。ちょっとしてもう一度揺れました。これが激しく長かったです。縦にも横にも揺れてローリング状態でした。ローリングは,2004年の新潟県中越地震以来でした。その時の教訓として,「額は飾らない」と決めました。賞状類は,専用のクリアフォルダーにしまってあります。
ご心配おかけしました。
気になるのは,余震の震源地が佐渡にどんどん近づいてきていること。酒田沖の断層が刺激された場合,新潟市中心部は7~8mの津波がハザードマップで予想されております。
さて,平山季重居館ですが,裏手に墓所および平山城址公園があります。
「ここは山城?」
「平山城」
「・・・」
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