石高2万石以下なので城ではなく陣屋。
総石垣の威容は他の城に引け劣らない。
現在書院の移築復原が行われています。
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2023/05/21 12:45
そんなの関係ねぇ そんなの関係ねぇ オッパッピー (2023/05/04 訪問)
石高2万石以下なので城ではなく陣屋。
総石垣の威容は他の城に引け劣らない。
現在書院の移築復原が行われています。
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2023/05/21 07:28
【かるた】吉野ケ里の読み札
弥生時代 タイムスリップ 吉野ケ里
勾玉を 作る体験 吉野ケ里
吉野ケ里 四季の移ろい 花暦
いつもでしたら追加は編集ボタンからするのですが
前回お写真をいただいたトク様への
来訪の御報告も兼ねて
改めて投稿させていただきました
ランチに赤米も美味しく頂きました
一句目
吉野ケ里歴史公園は敷地がとても広く
内郭の物見やぐらから回りを見ても
広大に敷地が広がっているのが印象的で
衣装を着られたボランティアスタッフの方々のおかげもあって
タイムスリップした気分になれました
二句目
体験コーナーでは、いくつか出来る体験があり
勾玉づくり、石包丁づくりはその定番でした
自分も不格好な勾玉を作りました
三句目
吉野ケ里歴史公園に着いた瞬間、花の多さにまず驚きました
園外には洋花やハーブが多いですが
園内には弥生時代からの植物を沢山保護し、自生&管理しています
通常の園内マップとは別に、お花のマップもありますので
弥生人も見たお花を探すのも楽しいですね
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2023/05/21 06:01
戦いの城 小倉城 (2023/05/20 訪問)
遺構の整備が進められて、実戦的な城郭が見所満載の城でした。来てよかったです。
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2023/05/21 04:24
(長野県&岐阜県方面城巡り)6日目:楽田城 (2023/04/23 訪問)
羽黒城からの転戦です。石碑付近(35.328250、136.950542)に路駐しました。
築城年代は定かではないようですが、1504年(永正元年)頃に織田久長によって築かれたと云われています。 大赤見城主の織田久長が楽田城を築いて居城を移したそうです。
1562年(永禄5年)犬山城主織田下野守信清によって攻め落とされ、犬山城の支城となったが、1562年(永禄5年)信清は織田信長に追われ、楽田城には信長の家臣坂井政尚が守将として入城しました。
1570年(元亀元年)坂井政尚が近江国堅田で討死すると、奥城主梶川高盛が城主となりました。
小牧長久手合戦では秀吉の部将堀秀政が在陣し、さらに秀吉も犬山城から楽田城へ移ったそうです。
楽田小学校北西側の校門付近に石碑と案内板があります。
本日、投票日で楽田小学校は投票会場になっており、すぐ撤退です。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=下奈良城を目指します。
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2023/05/21 04:20
(長野県&岐阜県方面城巡り)6日目:羽黒城 (2023/04/23 訪問)
伊木山城からの転戦です。興禅寺駐車場(35.352936、136.949681)に駐車場しました。
築城年代は定かではないようですが、建仁年間(1201年〜1204年)に梶原景親によって築かれたと云われています。 梶原景親は源頼朝に仕えた鎌倉幕府の重臣梶原景時の二男景高の子です。
梶原氏は1200年(正治2年)鎌倉を追われ上洛するさなか、駿河国清見関での戦いに敗れて一族の多くが討死しました。
そのうち景高の子豊丸が、乳母に連れられて羽黒へ落ちのび、長じて景親と名乗り現在の興禅寺に館を構えたそうです。
梶原氏は羽黒一帯に勢力を持ち、信長に仕えた梶原義景の頃には羽黒3,000石を領していました。
1582年(天正10年)梶原義景は、本能寺の変で織田信長に殉じて梶原氏は滅亡したそうです。
1584年(天正12年)小牧長久手合戦において羽柴秀吉方の砦として修築され、山内一豊、堀尾茂助が守将となったそうです。
羽黒城は梶原氏の菩提寺である興禅寺の東側一帯に築かれていたそうです。
南端に土塁のような高台があり、その上に石碑が建っています。
北側は堀跡のような窪地があり、北側の道路に面して土塁のようなものが残っています。
興禅寺には梶原氏所縁の案内板があります。お寺の北東側にも土塁があります。
伊木山城から羽黒城に向かう途中の橋の上から犬山城が見えましたので、車の中から写真を撮りました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=楽田城を目指します。
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2023/05/21 04:13
(長野県&岐阜県方面城巡り)6日目:伊木山城 (2023/04/23 訪問)
猿啄城からの転戦です。伊木の森公園駐車場入口(35.386077、136.922188)から進入し、駐車しました。
そこから、遊歩道入口(35.385959、136.921718)に向かいました。
築城時期や伊木家の経歴については諸説あるようですが、一般に信じられている来歴は以下の通りのようです。
1561年(永禄4年)この地を攻めた織田信長によって、武功を挙げた香川長兵衛忠次が、この地の名にちなんで伊木の苗字を授けられ、伊木忠次と改名したそうです。
そして、この伊木山に伊木山城を築き居城としました。後に信長の家臣である池田恒興に転仕しました。
恒興の死後も池田輝政に仕え、1590年(天正18年)に輝政の三河吉田への転封にともない、田原城に移ったため廃城となりました。
現在城址周辺は「いこいの森伊木の森」として整備されています。
心臓破りの道から山頂に向かいましたが、さほど急坂ではありません。
山頂には無線塔が建っています。山頂からの眺望は殆どありません。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=羽黒城に向かいます。
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2023/05/21 04:06
(長野県&岐阜県方面城巡り)6日目:猿啄城 (2023/04/23 訪問)
土田城からの転戦です。猿啄城展望台入口(35.425729、136.966118)から、先に進めば駐車場に到着します。
築城時期は不明ですが、応永年間(1400年頃)、西村豊前守善政が築城したようです。
1441年(嘉吉元年)西村豊前守善政が祖母の法要の為城を留守にした際に、田志見の城主修理大夫頼吉が城を略奪します。
1530年(享禄3年)田原左衛門が城主となります。
1547年(天文16年)多治見修理が城を略奪します。
1565年(永禄8年)織田信長が丹羽長秀を総大将として東美濃攻略を開始。丹羽長秀の先鋒であった河尻秀隆が猿啄城を攻略し、落城します。
城主多治見修理は斎藤氏に属する堂洞城の岸信周の下へ落ち延びました(堂洞合戦)。河尻秀隆が猿啄城城主となり、城名を「勝山城」と改称しました。
1575年(天正2年)河尻秀隆が岩村城に移り、廃城となりました。
駐車場から山頂まで登り25分くらい(下りは17分くらい)ですが、登城道はかなりきついです。手すりなどはありませんので、下りは足元に注意してください。
山頂には櫓を模した展望台がありますが、上には登れません。眺めは絶景です。
日曜でしたので登山客が結構いました。家族連れも多く見ました。たくましい子供です。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=伊木山城に向かいます。
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2023/05/20 22:30
2023/05/20 22:23
難攻不落 (2023/04/05 訪問)
谷戸城から徒歩 15分くらい。
みなさま方のご投稿を読んで覚悟していたのですが、現地に着いて絶句。
何なんだ、あの橋は!怖すぎる😱
井川城(松本市)の渡し板の比じゃないぞ。
バランスとりながらそろりそろりと歩いてみようか、それともダダダーッと走ろうか。
途中でクラクラッときたらどうしよう。
落っこちたらどうしよう。
人生山あり谷あり、そして橋あり。
勇気があるか試されているみたいだ。
じっと橋を見つめ、考えること15分。
水堀(天然の堀)に架けられた1本の木橋。
もし渡れたとしても平場はなくて折れ曲がった上り坂。
ん?......これは敵陣に攻め込む手前で足止めされているのと同じ状態ではないか!
勢いを削がれ枡形で狙い撃ちされる仕組み、大群で一気に攻めかかっても落とせない理由を実物モデルで示してくれていて、まさに今自分がその陥穽に嵌っているのだと気づいて鳥肌が立ってきました。
敗北です。
一歩も踏み込めずに撤退しました。
“行った”ポチした後ろめたさはありますが、リベンジは多分ないです。
御坂城のほうがまだ行けそうな気がします。
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2023/05/20 22:20
2023/05/20 22:06
2023/05/20 21:52
長沼五郎宗政 (2023/05/20 訪問)
京王相模原線稲城駅より徒歩5分弱で石碑に行くことができます。遺構はないと思われます。
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2023/05/20 21:41
南多摩駅から (2023/05/20 訪問)
JR南多摩駅から徒歩5分くらいで案内板に行くことができます。遺構はないようです。
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2023/05/20 18:12
神奈川の城振り返り
神奈川県、相模の城は主に北条氏の城でした。
また、昨年の大河、鎌倉殿の13人縁の城も多く、遺構そのものよりもイメージを膨らませロマンを感じる城が多かったです。
遺構の残る城も公園化され見やすくなっています。
その中でも足柄城や河村城は国境の城で遺構も残っています。
未登録の高麗山城にはV字の堀切を見ることができます。
丸山城、茅ヶ崎城、中和田城(未登録)は住宅地の中の公園ですが遺構も残ります。
その他岡崎城や深見城などでも空堀を見ることができました。
七沢城はリハビリセンターの周辺には遺構が残りませんが見城は見どころ充分。
神奈川でも山城を味わうことができます。
鎌倉殿関係では衣笠城、梶原景時城、大庭城、三崎城など縁の地も多いので散策してみては如何でしょうか。
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2023/05/20 17:39
2023/05/20 17:29
北条氏の城 (2023/05/04 訪問)
コンパクトながら防御を備えた城。
所々立入禁止箇所がありました。
江川邸(韮山代官所)と韮山反射炉も併せて訪ねるといいでしょう。
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2023/05/20 16:04
2023/05/20 15:16
有効活用してる土塁。 (2023/05/06 訪問)
平安時代、藤原 秀郷さんか、藤原 宗円さんが築いた「宇都宮城」。
私の住む東京の端っこには、秀郷さんが修復した古社があります。秀郷さんに一票入れたいのですが、宗円さんは、宇都宮氏の祖と言われてます。
そんな時代から活躍してる「宇都宮城」です。
宇都宮氏は戦いの時代、防御に適さない為、山城の「多気城」に拠点を移します。
秀吉さんの小田原討伐後、領土安堵され「宇都宮城」に戻りますが7年後、突然改易。お家取り潰しです。
無料の駐車場があるようですが、写真①の復元櫓が見え、興奮し近くのコインパーキングに車を停めました。
個人的に整備された御城が久しぶりだったので、櫓と水堀にテンションが上がりました。
が、土塁にトンネル(?)。
展示室があり、意外とたくさんの人が見学してました。こんな使い方は、、、と、思ったのですが、防災倉庫としても活躍してるそうです。
時代は変わり、災害から守る土塁によみがえった「宇都宮城」でした。
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2023/05/20 14:06
能登地震発生時に七尾城 (2023/05/05 訪問)
5月5日の能登地震が発生した時に、二の丸と三の丸の間にある堀切に居ました。スマホがいきなり地震警報鳴り出す周りの人もパニックに私はかまわず二の丸へ入るそして本丸へは裏から攻めて大きな城址の石碑へ。その間余震は何度か発生不安なので早めに下城しました。40年ぶりの七尾城なのにもう少し見て歩きたかった残念。お城のボランティアガイドの人達は既に撤収してました危険を感じたのかな?とりあえず無事に訪問出来ました!
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