(22人目)毛利輝元の続きです。
萩城三の丸にある天樹院を訪れてきました。
毛利輝元はここに眠っています。私は墓の前に立ちまた考えてみました(写真①②③)。
輝元は家康に対して何もできなかった自分を責めながら表向きは恭順の意を取り続け、裏では着々と対徳川への備えをしていました。しかし関ケ原から2年後、何と徳川と島津との間に和議が成立してしまいます。さらにその2年後、萩城が完成し広島から萩へ移ろうとしていた矢先、ここで頼みとしていた黒田官兵衛が亡くなってしまいます(享年59)。野望が消え、後は長政に任せ、福岡城でのんびりと隠居生活だったようです。そしてそれから数年後、加藤清正・池田輝政・島津義久らも次々と亡くなっていきました。よって後ろ盾を失った輝元は、毛利家存続のため、徳川秀忠の代になってもその恭順の意を示す態度を変えざるを得ませんでした。さらに追い打ちをかけるよう一国一城令で泣く泣く岩国城を破却。これらは輝元にとっては相当な屈辱だったと思います。家臣らもそれに不満を感じたのか分裂が絶えず、健康が悪化した輝元は、病を押して大坂の陣の時は徳川方として出陣、その一方で毛利家のとりまとめに尽力していきました。しかしついに1623年に限界を感じ、関ケ原に行った養子の(秀元)が譲った側室の実子(秀就)に完全に家督を譲り、この三の丸にて隠居します。そしてその無念を抱えたまま2年後(関ケ原から25年後)の1625年、ここでその生涯を閉じました(享年73)。そしてその隠居所には代わって天樹院が建てられ菩提が弔われました。
輝元の無念はこの天樹院にある菩提とともに長州藩士へ代々と受け継がれていきまます。また本領安堵の約束を反故にした家康(徳川)への恨みと屈辱は相当なものがあったと思います。
そしてその死から240年後、ついに輝元の無念と屈辱を晴らす好機がやって来ました! その意思を受け継いだ長州藩士たちが、「尊王攘夷」という名のもとに集い、徳川倒幕への烽火(のろし)を、何とこの萩の地から上げたのでした~!(😱~)
【余談1】萩市内観光
萩城下には他にも、幕末の思想家「吉田松陰」の私塾で多くの尊王攘夷の志士たち(桂小五郎(木戸孝允)、伊籐博文、山縣有朋、久坂玄瑞、高杉晋作など)を輩出した、世界遺産「松下村塾(しょうかそんじゅく)」など見所が多数あります(写真④⑤⑥⑦)。100円のループバス(写真⑩)が市内をぐるぐる走っているのでとても便利に観光できまた。
【余談2】オススメの宿
松下村塾の隣にあるホテル「萩本陣」に宿泊しました。ここはとてもオススメです。7種類の温泉露天風呂が実に気持ちよく食事もよかったです。この日の夕食は「ふぐつくし会席」でした(写真⑧⑨)。部屋からは萩市内も一望でき遠く萩城まで望めました。またこのホテルの前のバス停(松陰神社前)からは、津和野行の路線バスや東萩駅や萩バスターミナル行きの100円ループバスも停まりますので翌日の行動にも便利でした(送迎もあります)。
残るはあと4人です。
次は(23人目)に続きます。
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