富山城に行ってきました→城レベル4
(2023/04/02 訪問)
富山城は、1543年に神保長職によって築かれた城です。
(室町時代の遺跡が見つかっており、その頃に富山城はあった可能性も)
《神保時代》
越中は、畠山氏が守護大名でしたが、守護代の椎名氏を東部、
神保氏を西部に置き、統治させました。
しかし神保長職は東部、新川(常願寺川の古名)群の進出をもくろみ、
椎名氏が治める土地にこの富山城を家臣・水越勝重に築かせました。
けれど、1560年に椎名康胤が上杉景虎に支援を要請。
上杉景虎は越中に出陣し、長職が居住していた富山城に火を掛け落城させ、
長職は逃亡。増山城に移り、畠山氏にてを貸してもらいわぼくした。
しかし長職は椎名氏を圧迫し、武田氏とも通謀してしまい、
また景虎に越中を攻められ、敗北。
景虎が越後に戻るとまたもや勝興寺、瑞泉寺とてを組み、
9月5日には神通川で上杉&椎名氏と戦い、撃破し、
上杉氏の家臣や椎名氏の重臣を討ち取る大勝利となった。
その勢いに乗り、なんと次々と椎名氏の居城を撃破。
居城の松倉城まで追い詰めたがまたまた10月に越中の謙信の侵攻により
越中併呑は阻止され、反対に増山城を包囲され畠山氏の仲介で降伏
射水・婦負郡の支配を許され、長職は増山城へ移った。
しかし、長職の子・長住は上杉派の長職に対し
椎名氏が上杉から武田・加賀一向一揆と同盟を結ぶべきと主張し、対立
寺島職定とともに反上杉派となるが、謙信が仲介し沈められた。
長住は出奔し、上杉氏におわれてしまうが、織田家についた。
その後1569年に上杉の主力は撤退。すると、椎名康胤+越中一向一揆の連合軍が、
富山城を奪ってしまう。
1578年に謙信が死去したことを契機に織田家にいた長住は
織田家から兵を与えられ、月岡野の戦いで椎名氏を含めた
越中衆に勝利し富山城に入城するが、上杉に鞍替えした小島職鎮らに奇襲され失脚、幽閉された。
《佐々時代》
そして城主となったのは佐々成政だったが、信長が死去すると秀吉と対立し、
1585年に秀吉10万の兵に富山城を包囲され降伏し富山城は壊された。
越中は前田家に与えられ、利長が守山城に入った。
《前田時代》
月日は流れ1600年、東軍についた利長は加賀藩の太守となり富山城は再建され、
大改修を行い、金沢から移り隠居城としたが、1609年に建物が火災でほぼ全焼し、
高岡城に移ってしまい、富山城は城代として津田氏が入った。
その後、利長の息子・利常の次男・利次が富山に入り、分家として10万石をもらい、
富山藩ができ、富山城を仮の居城として、百塚に新たな城を築こうとしたが、
藩の財政にそんな金はなく、富山城を居城とした
そして、その富山城を幕府から許可され本格的に修理し、
城下町も作り、富山藩13代の礎を作った。
《現代》
1571年の廃藩置県により富山城は廃城となり、
建物はほぼ払い下げられた。
残ったのは、本丸御殿と千歳御門、二の丸二階櫓御門となったが、
本丸御殿は焼失、二の丸二階櫓御門は解体された。
周囲の堀も一部を除いて埋められてしまった。
県庁が城内に出来たが後に現在の場所へと移された。
1954年には、富山大産業博覧会が開催され、記念に模擬天守(富山市郷土博物館)が作られた。
2004年にはその模擬天守が国の登録有形文化財となった。
同年、富山市文化財埋蔵センターが、城郭の範囲が3万ヘクタールだと発表し、
富山県最大の中世の平城だと分かった
【城情報】
・形式 ❙平城
・築城年 ❙1543年(室町時代?)
・廃城年 ❙1871年
・築城者 ❙神保長職?
・最後の城主 ❙前田利同
・廃城理由 ❙廃藩置県のため
・主な城主 ❙神保長職、佐々成政、前田利次など
・遺構 ❙ 水堀、曲輪、石垣、土塁
・主な建築物 ❙模擬天守(富山市郷土博物館)
・説明看板、石碑 ❙説明看板、石碑 両有
・駐車場、トイレ ❙駐車場 有
・天守 ❙天守はなかったが、模擬天守が建てられている
・保存状態(自身判断)❙整備されており、遺構も残り、良い城。
・城レベル ❙4(詳しくは新ろくべえのプロフィールへ)
・備考 ❙・鏡石が模擬天守下に集まっている(城には総数で6個もある)
❙・模擬天守の最上階に行くと立山連峰が少し見え、
|さらに城の大きさが分かる
❙・石垣が場所によって組かたが違い、見所がある
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