みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

日本海に突き出す断崖絶壁上 (2023/04/01 訪問)

「城びと初投稿いただきます」(ぴーかるさん投稿からのぱくり)。
国道178号線沿いに、城山公園の看板が立っています。八合目ほどの城山公園まで車で行けます。さらに頂上のTV基地局まで舗装道路を歩いていきます。本郭上段に民放基地局が、下段にNHKの基地局があります。少し離れた東のピークに二の郭があります。
廻りは日本海の荒波に浸食された断崖絶壁。なのに、NHK基地局脇の急斜面に真新しい太いロープが。
城山公園で、30分ほど待ち、日本海に沈む夕日を見てから下山しました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

新ろくべえ

富山城に行ってきました→城レベル4 (2023/04/02 訪問)

富山城は、1543年に神保長職によって築かれた城です。
(室町時代の遺跡が見つかっており、その頃に富山城はあった可能性も)

《神保時代》
越中は、畠山氏が守護大名でしたが、守護代の椎名氏を東部、
神保氏を西部に置き、統治させました。
しかし神保長職は東部、新川(常願寺川の古名)群の進出をもくろみ、
椎名氏が治める土地にこの富山城を家臣・水越勝重に築かせました。
けれど、1560年に椎名康胤が上杉景虎に支援を要請。
上杉景虎は越中に出陣し、長職が居住していた富山城に火を掛け落城させ、
長職は逃亡。増山城に移り、畠山氏にてを貸してもらいわぼくした。
しかし長職は椎名氏を圧迫し、武田氏とも通謀してしまい、
また景虎に越中を攻められ、敗北。
景虎が越後に戻るとまたもや勝興寺、瑞泉寺とてを組み、
9月5日には神通川で上杉&椎名氏と戦い、撃破し、
上杉氏の家臣や椎名氏の重臣を討ち取る大勝利となった。
その勢いに乗り、なんと次々と椎名氏の居城を撃破。
居城の松倉城まで追い詰めたがまたまた10月に越中の謙信の侵攻により
越中併呑は阻止され、反対に増山城を包囲され畠山氏の仲介で降伏
射水・婦負郡の支配を許され、長職は増山城へ移った。
しかし、長職の子・長住は上杉派の長職に対し
椎名氏が上杉から武田・加賀一向一揆と同盟を結ぶべきと主張し、対立
寺島職定とともに反上杉派となるが、謙信が仲介し沈められた。
長住は出奔し、上杉氏におわれてしまうが、織田家についた。
その後1569年に上杉の主力は撤退。すると、椎名康胤+越中一向一揆の連合軍が、
富山城を奪ってしまう。
1578年に謙信が死去したことを契機に織田家にいた長住は
織田家から兵を与えられ、月岡野の戦いで椎名氏を含めた
越中衆に勝利し富山城に入城するが、上杉に鞍替えした小島職鎮らに奇襲され失脚、幽閉された。

《佐々時代》
そして城主となったのは佐々成政だったが、信長が死去すると秀吉と対立し、
1585年に秀吉10万の兵に富山城を包囲され降伏し富山城は壊された。
越中は前田家に与えられ、利長が守山城に入った。

《前田時代》
月日は流れ1600年、東軍についた利長は加賀藩の太守となり富山城は再建され、
大改修を行い、金沢から移り隠居城としたが、1609年に建物が火災でほぼ全焼し、
高岡城に移ってしまい、富山城は城代として津田氏が入った。
その後、利長の息子・利常の次男・利次が富山に入り、分家として10万石をもらい、
富山藩ができ、富山城を仮の居城として、百塚に新たな城を築こうとしたが、
藩の財政にそんな金はなく、富山城を居城とした
そして、その富山城を幕府から許可され本格的に修理し、
城下町も作り、富山藩13代の礎を作った。

《現代》
1571年の廃藩置県により富山城は廃城となり、
建物はほぼ払い下げられた。
残ったのは、本丸御殿と千歳御門、二の丸二階櫓御門となったが、
本丸御殿は焼失、二の丸二階櫓御門は解体された。
周囲の堀も一部を除いて埋められてしまった。
県庁が城内に出来たが後に現在の場所へと移された。
1954年には、富山大産業博覧会が開催され、記念に模擬天守(富山市郷土博物館)が作られた。
2004年にはその模擬天守が国の登録有形文化財となった。
同年、富山市文化財埋蔵センターが、城郭の範囲が3万ヘクタールだと発表し、
富山県最大の中世の平城だと分かった


【城情報】
・形式       ❙平城
・築城年      ❙1543年(室町時代?)
・廃城年      ❙1871年
・築城者      ❙神保長職?
・最後の城主    ❙前田利同
・廃城理由     ❙廃藩置県のため
・主な城主     ❙神保長職、佐々成政、前田利次など
・遺構       ❙ 水堀、曲輪、石垣、土塁
・主な建築物    ❙模擬天守(富山市郷土博物館)
・説明看板、石碑  ❙説明看板、石碑 両有
・駐車場、トイレ  ❙駐車場 有
・天守       ❙天守はなかったが、模擬天守が建てられている
・保存状態(自身判断)❙整備されており、遺構も残り、良い城。
・城レベル     ❙4(詳しくは新ろくべえのプロフィールへ)
・備考       ❙・鏡石が模擬天守下に集まっている(城には総数で6個もある)
          ❙・模擬天守の最上階に行くと立山連峰が少し見え、
          |さらに城の大きさが分かる
          ❙・石垣が場所によって組かたが違い、見所がある
          |

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

POYO58

【かるた】石垣で 誰もが圧倒 高取城

去年の8月に行きましたが、新緑の中に見えたあの立派な石垣を忘れることはありません。

+ 続きを読む

POYO58

馬出しが見どころ  (2023/03/16 訪問)

遺構★★★⭐︎⭐︎ 土塁、堀切、土橋
駿府城を終えて諏訪原城に行きました。諏訪原城は武田勝頼が築いた城です。勝頼が亡くなった後は家康が改修しましたが、すぐに廃城となりました。
諏訪原城は馬出しがとにかくすごいです。今は7つ残っています。馬出しが良好に残っているのは諏訪原城と篠山城の2つのみだそうです。なのでかなり貴重です。堀は全て結構深くなかなか登れません。
また二の丸にある有名な大きな馬出しがあるのですが、ここにはかつて石垣があった様です。今は草に埋もれて見えません。
スタンプと御城印は諏訪原城のそばの資料館にあります。
攻城時間は1時間ほどです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

前ちゃん

続100名城 (2023/04/03 訪問)

大阪から青春18切符で5時間かけトライ。JR砺波駅2階の観光案内でレンタルサイクルを借り、約1時間かけ増山城へ。和田川ダムのそばとあって、ダムカードもゲット。城内の案内看板に春風亭昇太さんの音声ガイド(QRコード)も聞けるが、全てにないのが不満かな

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

トク

【かるた】大洲城の読み札

城泊可 木造再建 大洲城

2004年に木造で再建された大洲城。一歩中に入ると今でもさわやかな木の香りが漂ってきます。ここではお城に泊る事ができます(お城まるごと貸切で泊まれます)。しかしそのお値段、一体いくらだと思いますか? 何と1泊100万円!😲 お城の方に聞きましたが、それなりの趣向があるとの事です。

さあ我と思わん勇気ある城人諸将! ぜひ宿泊し、どんな趣向があり、いったいどんな料理が出てくるのか、その体験をぜひレポートして送って下されー!(誰もいないだろうな~🤔)
 

+ 続きを読む

よっしろ

46年旅行 (2023/04/02 訪問)

さくら祭り開催中で
混雑していた

+ 続きを読む

赤い城

【かるた】水戸城の読み札

水戸城の お堀を走る 水郡線

フォトがありません!
絵札、電車走るフォト、フォロー願います。

+ 続きを読む

カズサン

桜を求めて城内散策 (2023/03/29 訪問)

 勝間田城を終えて諏訪原城へ、諏訪原城のビジターセンターには勝間田城に行く前と後に立ち寄り情報収集、桜の咲いてる情報を入手する、諏訪原城には染井吉野桜は無く自生の山桜が内堀の西、二の曲輪中仕切土塁横に一本、本曲輪の以前は天守台と言われていた北横に一本、本曲輪東下の内堀北に一本、南に数本、遠く出曲輪数本か?がぐるっと一周して見た概要です。
 
 3時から4時の陽が傾く頃散策で人も少なく、その時は私一人の諏訪原城感覚、大変良い時間を過ごしました、周りはビジターセンター、二の曲輪中馬出、二の曲輪虎口、本曲輪虎口、本曲輪内部、本曲輪東土塁、南土塁、内堀カンカン井戸、二の曲輪に登る、二の曲輪、二の曲輪外堀内土塁、外堀大手馬出土橋北堀底に石積?があるがこれな何かな?初の認識ですが? 南馬出、東内馬出、東馬出、出曲輪を遠望、南馬出内を通り外堀西側土塁、二の曲輪大手馬出、諏訪神社、北に回って、大手南外堀を抜けてビジターセンターへ戻るルートです。1時間山桜を見ながらのんびりしました。
 野イチゴの花が大手南外堀辺りと大手北外堀中に可憐に白く咲いていましたので十番目に一枚投稿掲載します。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

美夢

【かるた】多賀城の読み札

三国を 国府多賀城 統治する

石背国、石城国、陸奥国の三国を改めて統治し
統合したという歴史を詠んでみました

+ 続きを読む

ヒロケン

【かるた】小諸城の読み札 (2023/04/01 訪問)

「上田合戦 秀忠本陣 小諸城」

穴城と呼ばれる小諸城は、三の丸より二の丸が低く、二の丸より本丸が低い構造となっていますが、千曲川の支流を背に後堅固の城となっています。第二次上田合戦では、小諸城の二の丸に江戸幕府二代将軍秀忠公が逗留したとのことです。

自分の小諸城のイメージとしては、雪だるまでしかない。紅葉で有名な城ですが、天守台横に桜の木も植えられており、満開になれば素晴らしいことでしょう(*^▽^*) 今週中には満開になることでしょう(*^▽^*)

+ 続きを読む

朝田 辰兵衛

【かるた】松本城の読み札 (2017/11/17 訪問)

北アルプス 冠雪映え増し 松本城

私が訪れた時は,まだ北アルプスの冠雪状況が今イチでした。やはり北アルプスが冠雪するシーズンには空気も澄んで天守も映えます。そんな季節感も含めて詠んでみました。北アルプスの冠雪と天守のコラボ画像をお持ちの方の画像提供をお待ちしております。
(「みんなの投稿」からもエントリーできるようになったんですね!)
※続け,常連の猛者たちよ!

+ 続きを読む

朝田 辰兵衛

【かるた】府内城の読み札 (2021/06/15 訪問)

LEDの 天守が浮かぶ 府内城

私が訪れた時は,コロナの影響で本丸内は立入禁止。PCR検査場でした。それまではたしか7万球のLEDで約29mの仮想天守が日没後に姿を現していました。天守の図面が残っていないため,あくまでも仮想天守という表現に留めていましたが,かなり立派だと思います。かるたを契機に復活を望むという意味で詠みました。LED天守画像をお持ちの方の画像提供をお待ちしております。
(「みんなの投稿」からもエントリーできるようになったんですね!)
※続け,常連の猛者たちよ!(todo94さんが高知城を詠みそうな予感してました。きっかけとなったようで幸いです)

+ 続きを読む

カズサン

伊勢未踏の城廻Ⅺ 城は暁学園内 (2023/03/21 訪問)

 伊勢未踏の城廻、茂福城を終えて、北西に約5km程の所にある萱生城を目指す。

 情報ガイドは古城盛衰記さんグーグルマップに依ります。

 この城は暁学園高等学校の北裏の隅に在ります、当日彼岸の中日21日で休みでしたが校門は開いていましたので、そのまま周回道路を登って行くと来客用駐車場がありすぐ傍に萱生城関係の標柱など立っております、当日は工事業者の方が入っており校門が開いてい居たのか? 雨も降っておりそそくさと数分の探訪で引き上げました。

 萱生城の低い城塁上の一角には萱生城址/髪のびの井戸案内板、萱生城殉難者供養碑、髪のびの井戸があります、北側は崖で20~30m落ち込み朝明川へ北側の水堀です。ここも信長の伊勢侵攻での攻防戦場跡です。
 
 許可も得ず入り込み申し訳ございません。
 
 この後は伊勢志摩未踏の城廻12城と再登城の4城を終えてすぐ近くに東名阪道四日市東IC経由帰路へ。
 再登城の鳥羽城、田丸城、松坂城、津城はこの後ぼちぼちと投稿させていただきます。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

伊勢未踏の城廻Ⅹ 近鉄線路沿い (2023/03/21 訪問)

 伊勢未踏の城廻四日市陣屋を終えて北に約3~4kmの茂福城を訪ねました。道は狭く要注意です。
 
 情報ガイドは城郭放浪記さん。

 駐車場は有りません、近くに路駐し雨降りでもあり数分の探訪。
 
 近鉄名古屋線沿いで東側、近鉄富田駅と霞ヶ浦駅の中間辺りに小山というか土盛り土塁上に梛の木と墓石、案内板、茂福城の大看板があります、大看板は線路の西側からしか文字は見えません。この場所は城の主郭の北西角に当たると言われる。
 
 案内板によると、平維茂の子孫平貞冬が、越前朝倉よりこの地へ来て城を築き朝倉を名乗った。保々西城の朝倉備前守と同族ある。
 永禄10年(1567年)にいたり最後の城主茂福掃部輔盈豊は織田信長の武将瀧川一益のため長嶋城へ誘いだされ殺された。とあります。
 茂福城と書いてモチブクジョウと読みます。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ランフランコ

#27 亀宝城 (2023/04/01 訪問)

サンガスタジアムのすぐ近くにあります。観戦前に寄りました。桜満開でお濠の周りはとてもいい雰囲気でした。

+ 続きを読む

todo94

【かるた】高知城の読み札 (2015/02/15 訪問)

南海に 本丸完存 高知城

+ 続きを読む

美夢

【かるた】高知城の読み札

むねを張り 「現存なり」と 高知城

朝田さんのお言葉に甘えて、現存天守&本丸御殿をテーマに詠んでみました
望楼の下の大きな入母屋造屋根が胸を張って誇らしげにしているように見えるので
「胸」と「棟」をかけて、あえて平仮名にしてみました

+ 続きを読む

ぎりょう

武田氏築城技術の集大成 (2023/03/31 訪問)

コロナ禍も一息ついた感のある年度末、三年越しの新府城訪問を実行することにした。東北新幹線はやぶさと中央本線あずさを乗り継ぎ甲府駅着午前11時40分、レンタカーで一路韮崎市へ。攻城前に韮崎市民族資料館で新府城の復元模型を見て、「見どころマップ」をゲットし、3km5分で新府公園駐車場に到着した。駐車場(未舗装、20台駐車可能か)は城址の北東に位置している。道を渡ると直ぐ左に堀(湿地)跡と東出構が目に入り、その向こう側には西出構も見えており期せずして搦手方面からの攻城となる。当初は丸馬出と三日月堀、大手桝形虎口が気になり、三の丸側からと考えたが、駐車場から南への移動が県道17号/七里岩ライン(対面二車線)を歩くこととなり歩行スペースが狭く交通量も多いから搦手側からの攻城は正解だったと思う。
東出構から西出構へ堀跡を西に進む。突端で比高129mの七里岩の断崖を覗き込むとその高さに足がすくむ。乾門桝形虎口を抜けて二の丸方面へ。途中で直系25mほどの井戸跡を見ることができる。二の丸は東西55m、南北75mの長方形の曲輪で北、西、南に土塁を築く。南側に馬出の曲輪を設けるが笹薮が生い茂り詳細は確認できなかった。ここで本丸を目指すところだが、攻城後の移動を考え三の丸側を優先する。三ノ丸は北側130m、南側100mの台形の曲輪。中央に土塁が作られ東三の丸と西三の丸に分かれていたというがここも笹薮が茂り踏み込むことができなかった。そしていよいよこの城の目玉ともいえる大手桝形虎口と丸馬出・三日月堀へ。城内側の桝形虎口からは遠く富士山の姿が望める。天正9年(1581)12月24日勝頼は甲府躑躅ヶ崎館から新府へ本拠地を移転したが、折々この場所で富士山を眺めることもあったのだろうか。丸馬出は東西30m、南北15mで外側に低く土塁が廻り、外側の三日月堀との比高差は10mほど。本丸は東西90m、南北150mの曲輪で現在は藤武神社が祀られている。また北側には八ヶ岳を望むことができる。
武田氏の築城技術の集大成といわれる新府城だが、天正10年(1582)3月2日に織田軍の攻撃により高遠城が落ちると、翌3月3日早朝に勝頼は城に火を放ち岩殿城に向けて落ちて行った。在城わずか68日間という。
参考文献「甲信越の名城を歩く山梨編 吉川弘文館」

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

トク

【かるた】松山城の読み札

坊ちゃんも 見上げた天守 松山城

小説の主人公「坊ちゃん」こと夏目漱石。松山城の麓にある旧制中学に教師として赴任し、ここで様々な人間ドラマを繰り広げます。その度に彼はこの松山城を見上げ、人間関係に悩み、そして葛藤を描いていたのではないでしょうか?(吾輩も猫になりたい🤔?)
 

+ 続きを読む

ページ547