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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)6日目:大富館(城びと未登録 岐阜県土岐市) (2023/04/23 訪問)

荒井城(城びと未登録 長野県松本市)から転戦。石碑前(35.365685、137.190830)路駐しました。

築上年代は定かではないようですが、源頼光の子頼国が大富に住み、後に美濃守護職となる土岐氏の源流となったようです。
南北朝時代に土岐頼貞が美濃守護職に任ぜら、以降約200年に渡って土岐氏が美濃の守護職を継承したそうです。

遺構はありません。小公園の一角に石碑がたっているだけです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=高山城を目指します。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)6日目:荒井城(城びと未登録 長野県松本市) (2023/04/23 訪問)

渚城(城びと未登録 長野県松本市)から転戦。説明板付近(36.230916、137.950399)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、 1489年(延徳元年)に小笠原氏一族の島立右近太夫貞永が修築して居城としたそうです。
島立右近は永正年間(1504年〜1521年)に小笠原氏の命によって深志城を築いて移りましたが、1523年(大永3年)に右近の孫の島立貞知のとき再びこの荒井城へ移ったそうです。
1550年(天文19年)武田氏の侵攻によって攻め落とされました。

宅地化などによって遺構は失われたようで、現在は土塁と思われる土盛りの上に社が祀られ、そこに説明板が設置されているだけです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=大富館(城びと未登録 岐阜県土岐市)に向かう前に、一旦ホテルに戻り朝食をとりました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)6日目:渚城(城びと未登録 長野県松本市) (2023/04/23 訪問)

宿泊先ホテルの朝食前に歩いて、常徳寺説明板付近(36.231237、137.957452)に着きました。

応永年間(1394年~1428年)に小笠原長秀によって築かれました。
長秀は、信濃守護に補されたが国人に対して守護の権力強化を図ったため、国人達の反発を買い、1400年(応永7年)の大塔合戦へと発展、この合戦に大敗した結果、長秀は守護職を解かれ、1405年(応永12年)に家督を弟政康に譲ります。長秀は、合戦の敗北後に渚城(居館)を築いたと伝えられています。

渚城は、現在の常徳寺・内城公民館等の敷地を中心として、約百間四方の規模があったと推定されているそうです。
城の遺構などは何も残っていませんが、常徳寺の山門脇に城跡碑が立てられています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=荒井城(城びと未登録 長野県松本市)を目指します。

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じゅんじん

碑がありました (2023/05/05 訪問)

水道施設脇です。

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じゅんじん

中学校 (2023/05/05 訪問)

運動場下に説明板がありました。その後三増古戦場に行きました。信玄旗立松はよい眺めでした。

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美夢

【かるた】盛岡城の読み札

虎を飼う 南部家居城 盛岡城

盛岡城 菊と牡丹の 虎二匹

文豪の 碑めぐり学ぶ 盛岡城


読み札のみの投稿です
一句目&二句目
盛岡城では乱菊丸と牡丹丸という虎を二匹飼っていました
甲斐の虎は人ですが、盛岡城の虎はリアルなタイガー
この特徴を詠んでみたいと思いました


三句目
宮沢賢治、石川啄木、新渡戸稲造
文人達の石碑があり、歴史だけでなく
文学も学ぶ事が出来るという側面を詠んでみました

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にのまる

おめでとうございます🎊

赤い城さん、神奈川県制覇おめでとうございます🍾

神奈川県ではないですが、おすすめくださっている久米城にはぜひ行ってみたいです。昨日今日の暑さだとそろそろ山城オフシーズンかなぁとも思いますが…。

お祝いに殿潤をどうぞ😄

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カズサン

悠久の歴史が重層する長者屋敷遺跡 (2023/05/16 訪問)

 久野城の帰りに自宅へ経路途中にある、長者屋敷遺跡に寄ってみました。
 駐車場は長者屋敷遺跡の入り口に駐車可能です、3~4台は可能。

 長者屋敷遺跡は案内解説板によると、奈良時代初め頃(約1300年前)の官衙のような遺跡である事が、昭和44年の発掘調査で判明、方形構造で東西約100m、南北約80m、土塁が廻り内に堀が廻っている、南の虎口側には二重土塁は構える。
 長者屋敷遺跡周辺には銚子塚古墳、小銚子塚古墳が約200程北西に在り(約1600年前)、更に米塚古墳群が約800m北に在り(約1500年前)、また米塚古墳群の周辺の南と東に寺谷遺跡旧石器時代(1万5千年前、縄文時代に掛かる)、道東遺跡旧石器時代(2万8千年前)と歴史遺跡重層しています。
 天竜川の東側の河岸段丘磐田台地は天竜川とのつながりがあったのでしょうか?現在は一面茶畑に成っています、地質は砂利土です。
 
 案内解説板が3面あり写真掲載します、5月に半ばですが草は伸び人踏道は歩けますがやや茂って来ました。2年振りのちょい寄り探訪です。
 

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ぴーかる

日下津城 (2023/04/08 訪問)

【日下津城】
<駐車場他>登城口<34.605434, 132.729271>に1台程度停めれそうですが、転回が厳しそう。<34.606033, 132.733414>に車1台入れそうな箇所があるのでそこに停めました。
<交通手段>車

<見所>竪堀群・堀切・主郭石段・土橋
<感想>第2弾安芸高田・北広島の山城攻めの旅2城目。初投稿いただきます。日下津城は南北朝時代の1350年に毛利親衡によって築城されたとされます。当時は坂城という名称だったようで、その後毛利親衡の次男匡時(まさとき)が坂氏を名乗りこの地に土着しました。坂氏は親大内派だったようで1522年大内氏から離脱した毛利元就によって落城させられます。1524年坂氏は毛利元就が宗家を継いだことに不満を持ち毛利元就の異母弟の相合元綱を擁して家督相続に介入しますが逆に元就によって誅殺させられます。その後は日下津城は元就の執権志道氏の管轄になったようで、坂氏はのちに帰参して毛利家家臣として別家を立てます。
 初投稿なので詳細に。登城口は上記ポイントから奥に進み、山全体に獣柵があるので墓地への入口ゲート「開けたら閉める」の赤い札がある場所が開閉が楽なのでそこから入ります。左手に進み、後世?の石垣のある段を突っ切って山に入ると案内版があります。本丸へのルートと物見の段へ至るルートと2通りありますのでお好きな方を進んで選ばなかった方から下山すると1周できます。
 私は物見の段のルートから1周しましたが逆回りみたいになるので説明は本丸ルートから。本丸ルートは道が無いので沢を左手、右手を城跡の山を指針に緩やかに右回りに登って行くと畝状竪堀群が見えてきます。尾根上の道のある所まで登って右手が大手虎口、左手南側が堡塁・曲輪があり、先に土橋があります。土橋の先の谷には後世のものかは分かりませんが土留めの石垣があります。大手虎口に戻り、右手の谷側の3条ある連続竪堀群を進み井戸跡の帯曲輪、上の段が案内板「曲輪2」になります。主郭へは西方向へ回り込んで西下段の曲輪から入ります。主郭へ登る石段遺構があります。主郭は山頂部を水平に切り取ったようなまんまの地形で周囲の切岸が急峻で高いので迫力があります。主郭から西方向に4段舌状連郭があり、最西に箱堀の堀切があって物見の段の曲輪があります。この辺りの地形も見応えがあります。物見曲輪の北側は帯曲輪のようになっていますが、土居があるので私は埋まってしまった横堀ではないかと判断しました。物見曲輪の西側は竪堀と堀切になっています。下山ルートにも2条竪堀があります。
 山は植林整備されて迫力ある遺構が明瞭に残されており見応えがあります。未投稿だったのが不思議、1番槍で得をしました。

<満足度>◆◆◆

<グルメ>日下津城近くの「ラーメン長州」のとんかつラーメンをお勧め。とんかつONラーメンってミスマッチなような感じがしますが、中国地方では割合メジャーだとか。とんかつがカリッカリに揚げているので半分までとんかつとして、残り半分はスープが染みて衣旨し。メニューに無いですが、チャーハンのセットに出来ます。私、今回2回目リピーター。

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織田晃司

模擬天守 (2023/05/03 訪問)

久々の模擬天守です。

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朝田 辰兵衛

赤い城さんのクイズ,「歴史的なできごと」と言ったら… (2023/03/11 訪問)

赤い城さんのクイズ,この一言が大ヒントだと直感しました。ペリーが来航したアソコでしょうか…?
解答します。「浦賀城」ではないでしょうか…?

私のお祝い画像は,「砂越城」です。
山形県酒田市と鶴岡市は,水堀のある城が比較的多い気がします。砂越城はその中でも「はね橋」を作ってしまったという…。
ユニークな取り組みだなと感じました。
ちなみに,となり同士の山形県酒田市と鶴岡市は仲があまりよろしくないそうです。
越後の三条市と燕市のような…。

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赤い城

神奈川県の城クイズ

朝田さん、お祝いありがとうございます。
大島は一度行ったことはあるのですが城には行けてないのです。
関東にいる間にもう一回行かねばですね。
計画してみます。

朝田さんの写真、やはり分かりません。
確かに珍しいものであることはわかりますが。

で、神奈川県の城クイズです。
写真は城跡からの眺望です。
城よりも他の歴史的な出来事が有名かな?
神奈川県には茶色、V字は少ないですのでこれで許して下さい。
(この城にも実はV字はあるのですが)
行ったこと無くても瞬殺でいけると思います。

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馬籠城 (2023/05/18 訪問)

 小牧長久手の戦いにおいて羽柴秀吉に味方した木曽義昌の配下であった島崎将監重通が守っていたとされる城址(城びと未登録)です。遺構はないと思われますが、案内板がありました。徳川家康方の飯田の菅沼定利、高遠の保科正直、諏訪の諏訪頼忠らの軍勢が現在の馬籠宿の北に陣を張り、それを知った島崎重通は大軍に恐れをなし馬籠城を放棄して妻籠城に逃げたと伝わっています。馬籠宿の北側には「陣場上展望広場」があり徳川勢が陣を張った場所と伝わっています。
 その後、木曽氏は千葉県に移りますが、島崎氏は残り明治に至るまで本陣、庄屋、問屋を務めました。文豪島崎藤村は、この島崎氏の子孫です。江戸時代、中山道の43番目の宿場町として栄えた馬籠宿はその雰囲気を残しており島崎藤村関連の施設があります。藤村の作品である「夜明け前」の舞台にもなりました。有名な詩に「初恋」がありますが、そのモデルには多くの候補者がいるようですが、そのひとりである大脇ゆふさんの実家は昭和になり復元され大黒屋茶房となっています。小説「夜明け前」にも登場するらしい栗おこわが名物で、栗こわめし(Aセット)をいただきました。

 JR中津川駅から馬籠行のバスが出ています。乗車時間は25分くらいです。外国の方にも人気の観光地で、行きのバスは欧州系の外国の方が多く乗車されており超満員でした。

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モト

櫓が残っていればなぁ (2023/04/26 訪問)

初めての九州上陸に伴い初の城跡訪問は柳川城へ行きました。
古い写真などを見ると立派な櫓が残っていたようで、この目で見たかったと思う次第です。
夜に寄ったので暗い中での登城でしたが、雰囲気のある案内板などを見る事ができました。

実は今回は出張で九州へ行ったのですが、どうしても城跡に行きたいという要望を上司が叶えてくれました事で出来た登城でございました、
感謝です。

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イオ

【かるた】江戸城の読み札と絵札

江戸城は 名実ともに 日本一

江戸城は徳川将軍家の居城というだけでなく、外郭の総延長14km、寛永期天守は高さ59mを数える名実ともに日本一の城ですよね。

江戸城の 面影残す 首都東京

都心のど真ん中に桜田濠がそのままの姿で横たわっていたり、各見附跡に石垣が遺っていたり、外堀が線路や高速道路に活用されていたり、東京の街を歩いてみると、あちこちに江戸城の面影が感じられました。

江戸城に 天守を建てず まちづくり

明暦の大火で焼け落ちた天守を再建するよりも、両国橋を掛け、火除け地を設けて火災に強いまちづくりを進めることを優先した保科正之の決断。それによって江戸の町はさらなる発展を遂げ、現在の東京の繁栄へと繋がっていく…。城好きとしては天守が見られないのは残念ですが、あの天守台は保科正之の決断の象徴なんですよね。
 

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todo94

奥山荘城館遺跡 (2023/04/15 訪問)

江上館のごく近く、江上館と同じく奥山荘城館遺跡として国史跡に指定されています。三浦和田氏の和田義茂は、和田義盛の弟。鎌倉殿の13人で和田義盛は強く記憶に残っています。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)5日目:旭山城 (2023/04/22 訪問)

吉窪城から転戦。遊歩道入口付近(36.650432、138.160651)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、史料の初見は1555年(天文24年)で、武田信玄が善光寺の別当栗田鶴寿を味方に引き入れると、上杉謙信が葛山城を拠点とし、信玄は旭山城に兵3,000と弓800張、鉄砲300挺を送り込んで対応しました。このときは長期戦となり、今川義元の仲介により和睦、その条件として旭山城の破却が盛り込まれました。
1557年(弘治3年)武田信玄は葛山城を急襲して攻め落とすと、今度は上杉謙信が旭山城を修築して拠点とし武田氏と対峙しました。
1561年(永禄4年)川中島合戦の後、上杉方の守将小柴見宮内を討った武田氏が旭山城を占拠しました。その後は海津城や長沼城が重要拠点となっていきました。

工事中ですが、登城はできます。
自分は、レンタカーの返却時間が迫っており、泣く泣く登城口で撤退です。悔しい。
攻城時間は5分くらいでした。本日の城巡りはここがラストで宿泊先のホテルに向かう為、長野駅に戻りレンタカーを返却して、松本駅に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)5日目:吉窪城 (2023/04/22 訪問)

福平城から転戦。「1号古墳」先駐車スペース(36.626474、138.122385)に駐車しました。

小田切氏の始祖は佐久郡臼田小田切郷の氏人で、鎌倉時代に地頭となり小市に移り小市今里等に居館を構え、背面に小市城(吉窪城)を築き戦乱に備えたそうです。
戦国時代、小田切駿河守幸長は、村上義清に属しその後、村上氏と共に上杉方に加わりました。
1557年(弘治3年)葛山城を守った頃は、春日・朝日・長嶺・久保寺・平林・布施・横山等組下七騎衆を率いた武将でしたが、武田方の火攻めにあい、越後勢の援軍到着寸前に落城し、幸長は戦死しました。
1561年(永禄4年)川中島合戦後、武田方の治世になってから、幸長の一子民部少輔は一時武田方より400貫の知行を受けたこともあり、末裔は高井郡に移ったと伝わっているそうです。

吉窪城山頂上に本丸があり、石壇の上に七社が祀られています。
本丸の南と西に石垣の崩れた土塁が残り、抜穴跡の窪みがあります。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=旭山城に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)5日目:福平城 (2023/04/22 訪問)

千見城から転戦。福平城標識(36.689404、138.063750)から狭い道を登ってゆくと今木八幡神社境内に着き、そこに駐車しました。

享禄年間(1528年~1532年)に構築され、文禄年間(1592年~1596年)までこの地を治めていた溝口伯耆守の居城と云われ、溝口城とも呼ばれています。
一説には治承年間(1180年頃)、今井四郎兼平が築いたとの伝説もあるようです。

今木八幡神社裏に土塁が残り、境内西側に空堀が残っています。古びて怖いです。
福平城標識場所から今木八幡神社境内までの道は本当に狭いです。神社に近づくと未舗装になりますので運転には注意が必要です。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=吉窪城に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)5日目:千見城 (2023/04/22 訪問)

仁科城から転戦。登り口説明板付近(36.603968、137.910899)に路駐し、時間がないので登り口説明板を見て撤退しました。

天文年間(1532年~1555年)村上義清の命により、小川の大日方氏によって築かれたと云われています。
戦国時代に上杉方と武田方、また上杉方と小笠原方の間で、幾度も争奪戦があったそうですが、1590年(天正18年)豊臣秀吉の命により、信濃に派遣された石川康正の支配下となったようです。
時間の都合で攻城せず入口で撤退です。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=福平城に向かいました。

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