相合元網を担いで毛利元就との家督争いに挑んで敗れた坂(さか)広秀ら坂氏の居城。登城口の看板が撤去され登城路も不明瞭だが確実に城には辿り着けるしメリハリの効いた遺構も存分に楽しめる、不思議な魅力に溢れたお城。
+ 続きを読む
✕
人が「いいね」しています。
2024/06/02 14:10
2023/05/18 21:32
日下津城 (2023/04/08 訪問)
【日下津城】
<駐車場他>登城口<34.605434, 132.729271>に1台程度停めれそうですが、転回が厳しそう。<34.606033, 132.733414>に車1台入れそうな箇所があるのでそこに停めました。
<交通手段>車
<見所>竪堀群・堀切・主郭石段・土橋
<感想>第2弾安芸高田・北広島の山城攻めの旅2城目。初投稿いただきます。日下津城は南北朝時代の1350年に毛利親衡によって築城されたとされます。当時は坂城という名称だったようで、その後毛利親衡の次男匡時(まさとき)が坂氏を名乗りこの地に土着しました。坂氏は親大内派だったようで1522年大内氏から離脱した毛利元就によって落城させられます。1524年坂氏は毛利元就が宗家を継いだことに不満を持ち毛利元就の異母弟の相合元綱を擁して家督相続に介入しますが逆に元就によって誅殺させられます。その後は日下津城は元就の執権志道氏の管轄になったようで、坂氏はのちに帰参して毛利家家臣として別家を立てます。
初投稿なので詳細に。登城口は上記ポイントから奥に進み、山全体に獣柵があるので墓地への入口ゲート「開けたら閉める」の赤い札がある場所が開閉が楽なのでそこから入ります。左手に進み、後世?の石垣のある段を突っ切って山に入ると案内版があります。本丸へのルートと物見の段へ至るルートと2通りありますのでお好きな方を進んで選ばなかった方から下山すると1周できます。
私は物見の段のルートから1周しましたが逆回りみたいになるので説明は本丸ルートから。本丸ルートは道が無いので沢を左手、右手を城跡の山を指針に緩やかに右回りに登って行くと畝状竪堀群が見えてきます。尾根上の道のある所まで登って右手が大手虎口、左手南側が堡塁・曲輪があり、先に土橋があります。土橋の先の谷には後世のものかは分かりませんが土留めの石垣があります。大手虎口に戻り、右手の谷側の3条ある連続竪堀群を進み井戸跡の帯曲輪、上の段が案内板「曲輪2」になります。主郭へは西方向へ回り込んで西下段の曲輪から入ります。主郭へ登る石段遺構があります。主郭は山頂部を水平に切り取ったようなまんまの地形で周囲の切岸が急峻で高いので迫力があります。主郭から西方向に4段舌状連郭があり、最西に箱堀の堀切があって物見の段の曲輪があります。この辺りの地形も見応えがあります。物見曲輪の北側は帯曲輪のようになっていますが、土居があるので私は埋まってしまった横堀ではないかと判断しました。物見曲輪の西側は竪堀と堀切になっています。下山ルートにも2条竪堀があります。
山は植林整備されて迫力ある遺構が明瞭に残されており見応えがあります。未投稿だったのが不思議、1番槍で得をしました。
<満足度>◆◆◆
<グルメ>日下津城近くの「ラーメン長州」のとんかつラーメンをお勧め。とんかつONラーメンってミスマッチなような感じがしますが、中国地方では割合メジャーだとか。とんかつがカリッカリに揚げているので半分までとんかつとして、残り半分はスープが染みて衣旨し。メニューに無いですが、チャーハンのセットに出来ます。私、今回2回目リピーター。
+ 続きを読む
♥ いいね
20人が「いいね」しています。
分類・構造 | 連郭式山城 |
---|---|
築城主 | 毛利親衡 |
築城年 | 正平5年〔南朝〕/観応元年〔北朝〕(1350) |
主な城主 | 坂氏(毛利氏) |
遺構 | 曲輪、土塁、堀切、井戸 |
指定文化財 | 市史跡(日下津城跡) |
再建造物 | 石碑、説明板 |
住所 | 広島県安芸高田市向原町坂 |
問い合わせ先 | 安芸高田市教育委員会生涯学習課 |
問い合わせ先電話番号 | 0826-42-0054 |