洲崎灯台は南房総国立公園内にある灯台で
野島崎灯台の北西に位置し、近くには洲崎神社もあります。
コンクリート造りで大正8年(1919)に建造されています。
大正になると、もう工法は現在とそれほど変わりません。
外観は美しく、眺望にも優れ、コンクリート造りの初期の遺構と
して、国の有形文化財に登録されています。
基本的に見学が可能なようですが、時期によって異なるようです。
ご見学の際には、ご確認願います。
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2023/09/09 11:18
洲崎灯台 千葉県館山市洲崎1043 (2014/02/01 訪問)
洲崎灯台は南房総国立公園内にある灯台で
野島崎灯台の北西に位置し、近くには洲崎神社もあります。
コンクリート造りで大正8年(1919)に建造されています。
大正になると、もう工法は現在とそれほど変わりません。
外観は美しく、眺望にも優れ、コンクリート造りの初期の遺構と
して、国の有形文化財に登録されています。
基本的に見学が可能なようですが、時期によって異なるようです。
ご見学の際には、ご確認願います。
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2023/09/09 11:02
野島崎灯台 南房総区艇公園野島崎 (2014/02/01 訪問)
野島崎灯台は房総半島最南端、南房総区艇公園野島崎にあります。
近くには厳島神社や源頼朝が雨宿りをしたと伝わる
伝説の岩屋があり、海の神である大タコの絵があり、皿の中に賽銭が
入ると願いがかなうと伝えられています。
野島崎の先端には房総半島最南端の碑があり、つまりは関東(板東)で
最南端ということだと思います。
野島崎灯台は仏人技師ヴェルニーの設計で明治二年に竣工したレンガ作りの
者でしたが、大正12年(1923)の関東大震災にて倒壊し、大正14年(1925)に
改築されたとあります。
今でも内部の見学が可能で、展望台まで登れるそうなので、次は
営業時間内に訪れることが出来ればと思います。
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2023/09/09 10:59
2023/09/09 10:56
呟き (2023/09/09 訪問)
千頭駅を代行バスにて下車、徒歩25分。川根大橋から徳谷神社を目指し、5号空堀から鳥居をくぐり三の丸、二の丸、本丸に至ります。城址標柱、案内板、土塁、井戸を確認すると、本丸のある神社裏手に一号から三号空堀、付属曲輪があり、コンパクトながら散策に機能的な城址を堪能出来ました。
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2023/09/09 06:58
復元された高石垣 (2023/08/27 訪問)
観光地でもある屋島にある古代山城です。
山頂に観光駐車場があります(300円)。
まずは八十四番札所でもある屋島寺に参拝し、復元された城門を目指します。
道は整備されており、城門への案内板もいくつか設置されています。
城門に着くとまずは眺望です。
高松市内を見下ろすことが出来ました。
石垣は復元されたものですが高く迫力がありました。
こんな石垣が大和朝廷の時代に築かれていたなんて想像できません!
石垣に感心したあとは屋島山頂にも行きましたが特に何もありませんでした。
源平合戦の舞台にもなった屋島、またじっくり回ってみたいです。
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2023/09/09 01:16
主郭背後の高土塁が見事。 (2023/05/06 訪問)
真里谷城周辺は木更津市立少年自然の家キャンプ場になっています。
鶴舞馬来田(下)戦(県道168号)を北上し、脇道を左に入り、
さらにキャンプ場の方向に車を進めると駐車場にたどり着きます。
時期によって封鎖されているようですが、幸い管理人が
いらしたので、問題なく散策することが出来ました。
城山神社のすぐ近くに駐車場があり、北側に主郭が隣接しています。
主郭は自由広場になっており、西側背後にかなり高い土塁が
そびえ立っています。土塁の上まで遊歩道が続いており、上部は
帯廓のように兵を駐屯できるほどのスペースがあります。
主郭周囲にも郭が配され、南東側の二の丸を見た後は、
林道を南下して三の丸周辺を散策しました。
キャンプ場になっていますが、多くの遺構が残る、すばらしい
山城です。主要部をかいつまんで見るようなかたちになりましたが
十分、山城の遺構を堪能できたと思います。
真里谷城は武田氏の築いた城で、三代信興のころから真里谷氏を名乗ったそうです。
四代信勝は足利成氏の孫の義明を擁立し、義明は里見氏、真里谷氏の援護で
小弓城の原氏を破り、小弓御所と呼ばれるようになり、信勝は房総管領に
任じられ、これが真里谷氏の全盛期とされています。
天文21年(1552ごろ)椎津城にいた真里谷信政は里見氏に城を攻め落とされ
このころから真里谷氏は衰退していったものと思われます。
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2023/09/09 00:13
本多忠勝の改修した堅城。意外と城づくり名人なようです。 (2023/05/06 訪問)
大多喜城は縄張りに本丸・二の丸・三の丸の記載が見られ
堀切などの遺構が残り、本丸跡には模擬天守が建ち、東側は断崖に
なっているようです。その先には二の丸跡と御殿跡があり大多喜高の
敷地になっているため、散策は憚られますが、再建された薬医門と
本丸跡附井戸を見学することが可能です。
やはり高校の敷地内ですので一声かけてからの方が良いでしょう。
さらに東側が三の丸跡になりますが、宅地化が進んでいるようです。
模擬天守は改修工事中で現在見学することはできません。
改修後はエレベーター付きの天守に生まれ変わるとのこと。
大多喜城の前身は根古谷城で徳川家康の関東移封に際して
本多忠勝が10万石で入城し改修したとあります。
周囲を囲む山々を天然の防壁とし、夷隅川を東南の守りとし、
川に沿って25の寺院を複雑に配し、城の守りを強化したとのことです。
戦巧者の本多忠勝らしい実践的な縄張りだったようです。
本丸には三重の天守を備え、全体で九棟の櫓を備え、それらは見張りから
攻撃まで使えるようになっており、25を超える大小様々な井戸を備えた
堂々たる堅城だったようです。二の丸の大井戸は
「本丸跡附井戸」と案内板が建ち「底知らずの井戸」として
数々の伝説を持っているそうです。
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2023/09/08 22:35
鳴くまで待とう (2016/09/01 訪問)
家康の我慢強さのようなものは、その人材活用術にも見てとれる気がします。伊奈忠次(1550-1610)。2度の背信を許され、最後は代官頭として水運を中心に関東一円の土木工事に尽力し、江戸の基盤整備を担った人物。
三河で一向一揆側に付き、追放。さらに家康の長男・信康の自刃に憤り、出奔。と波乱の人生を送りつつも、本能寺の変発生時に堺にいたことから家康の伊賀越えを助け、信頼を得たとされます。“本多正信型”ですかね。
小田原で秀吉から関東移封を伝えられた家康は、直後に忠次を江戸での情報収集に当たらせたといいます。埼玉や茨城には忠次の官名を冠した水利インフラ「備前堀」が残っています(写真の像は茨城県水戸市)。
伊賀越えで功のあった臣下に対する家康の厚遇は分かりやすいですね。それほどのピンチだったということの証左なのかもしれません。
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2023/09/08 22:31
三河三ヶ寺 (2023/09/07 訪問)
本證寺(安城市)、上宮寺(岡崎市)、勝鬘寺(岡崎市)は、三河における本願寺教団の拠点で三河三ヶ寺と呼ばれていました。徳川家康が三河一向一揆と戦ったときの本願寺側の主要拠点となった寺です。本證寺に行ったときに他の寺も行ってみることにしました。
本證寺
城びとに登録されている城郭寺院です。
上宮寺
一説には家康公の家来菅沼定顕が上宮寺から糧米を強制的に徴収しようとしたことが三河一向一揆のきっかけといわれています。その後、再建されていましたが1988年に本堂や庫裏などが全焼しました。1996年に近代的な作りで再建されています。境内には本願寺教団の再興に力を尽くした松月院妙春尼(徳川家康の生母於大の方の妹)の墓があります。
JR西岡崎駅より徒歩約10分行くことができます。
勝鬘寺
三河一向一揆の際には蜂谷半之丞、渡辺半蔵ら一揆勢が立てこもり家康方の大久保党と戦ったとされています。現在の本堂は1734年に再建されたものです。
JR岡崎駅より徒歩10分くらいです。
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2023/09/08 22:20
一番の見どころは坂なんだって‥ (2022/05/06 訪問)
土気城は善勝寺郭は、ひまわりの郷になっていて、二の丸は
テニスコートになっているようです。二の丸と三の丸の間には
土塁と堀が残り三の丸と馬出曲輪の間にも堀と土塁が残ります。
本丸は北東端にあり、その南側をクラン坂が通ります。
昼でも暗いのでクラン坂といって、この城の最大の見どころに
なっているのですが‥‥情報不足で見ていません。
城人を始める前に訪問しているので、口コミを見ていないんですね。
またこのあたりを訪問する際には寄ってみたいです。
土気城は聖武天皇の神亀年間(724~29)、鎮守府将軍大野東人が
蝦夷に対する拠点の一つとして城塞を築いたのが始まりとされ、
室町時代に酒井氏の城となり里見氏に従うようになりますが、
後に、後北条氏に鞍替えします。豊臣秀吉の小田原攻めの際に
浅野長政らを主将とする別働隊に包囲され四カ月の籠城の末に
開城し、廃城となったそうです。
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2023/09/08 22:03
2023/09/08 21:48
日が暮れて… (2023/09/08 訪問)
大分暗くなってしまいましたが、とりあえずたどり着きました。
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2023/09/08 12:55
呟き (2023/07/17 訪問)
大湊駅からバスに乗車、本町バス停にて下車、徒歩5分で城址の代官山公園に到着します。主郭の公園内はキャンプ場と化していてますが土塁は確認できます。反対側に降りると民家板塀に案内板と土塁がありました。
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2023/09/08 08:07
円形の縄張の城 (2023/07/15 訪問)
琵琶湖の良港だった山田港を押さえるために鎌倉期に山田氏が築いた城で、室町期にかけて山田氏の居城でしたが、織田信長の侵攻により山田氏は滅ぼされました。その後、信長の比叡山攻めの拠点になったとも、織田信孝が入ったとも云われますが、詳細は不明です。
城跡は武道館になっていて地表面には遺構は見られませんが、発掘調査により円形の二重の堀が発見されており、珍しい円形の縄張の城だったようです。武道館の門の脇には説明板があり、発掘調査の写真や平面図が載せられています。
円形の縄張の城ということで期待していたんですが、説明板を見てイメージする以外、現地では特に見るべきものはありませんでした。ちょっと拍子抜け…。
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2023/09/08 00:23
2023/09/08 00:15
負けっぷりで有名な小田氏治の居城。 (2023/05/04 訪問)
小田城は史跡公園として整備されています。
巨大な本丸の周囲を高い土塁で囲み、北と東の堀も幅が広いです。
本丸周辺はとにかく全てが大きく、本丸の東に東曲輪
南西の方向に南西馬出曲輪が配されています。
本丸の中もいくつかに区分けされ北西は主要な建造物、その南は
庭園のようで、城内の池は西と東の二つあるようです。
「鎌倉殿の十三人」にも出ていた八田知家が小田氏の祖とされ
軍功によって筑波郡を与えられ、文治元年(1185)常陸守護に
任じられ、小田に居城を築いたとされています。
十五代、小田氏治は結城氏、長尾景虎/上杉、真壁氏、佐竹氏らと
幾度も戦い、敗れるたびに土浦城に逃げ込んでいるのですが
家臣の奮闘や和解などで城を回復しています。しかし佐竹氏に
小田城を奪われ、天正6年(1578)氏治は子の金寿丸を人質にして
佐竹氏の軍門に下ったとのことです。
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2023/09/07 23:15
断崖状の箇所もあり、全容は難しい。 (2023/05/06 訪問)
本納城は蓮福寺周辺に築かれていて、背後の丘陵が本城で
四方に尾根が伸びており、その先も城域に含まれます。
北東の尾根の直下が断崖状になっており、近づくのは危険、
蓮福寺を含め、広い城域を持っているようです。
東の尾根上にも城域が伸びていて、墓地の先にも遺構は残り
本納小学校の先まで続いているようですが、小学校の背後は
断崖絶壁になっているようなので、散策する範囲を定めておく
必要は有りそうです。
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2023/09/07 22:56
呟き (2018/10/06 訪問)
飯田橋駅から徒歩で攻城。 距離的には牛込城が、700メートルといったところですな。 目の前の交差点名も筑土八幡町なのもわかりやすいです。 でも遺構も案内板もありません。 参道の階段を登って満足すべしという感じでした。
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2023/09/07 22:50
呟き (2023/07/18 訪問)
川部駅にて下車、徒歩約30分。最寄りは藤崎駅ですが、電車待ちより徒歩の方が早かったです。国道7号線沿いに土塁と標柱があり、八幡宮からも確認できます。八幡宮入口に案内板があります。
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2023/09/07 22:36
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