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しんちゃん

長崎平和記念公園 (2020/01/01 訪問)

2020年の正月、軍艦島クルーズに行ってきてから長崎平和記念公園に行ってきました。
わたしはそこまで積極的な平和主義者ではないのですが、やはり日本人として一度は
訪ねておかねば‥という気持ちはあったわけです。近くに原爆投下中心地があり
平和の泉など、様々な展示があり、世界各国から送られたモニュメントが飾られています。
中心にあるのは平和記念像で、北村西望氏が製作。高く掲げた右手は原爆の投下された
空を指しています。水平に伸ばした左手は平和を指しています。こち亀では原爆の投下された
地上を指していると出ていました。長崎原爆資料館にもよりましたが、心象的に強く訴える映像を
見て正月から気分が悪くなりました。いい歳になると、こういうのは疲れますね。

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ヒカミ

別所城址 案内板もなくウロウロ (2023/09/17 訪問)

荒れ放題、手入れしてくれたらいいのに!

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トク

「水郷柳川」日帰り散歩①(柳川城) (2023/09/16 訪問)

柳川を日帰りで訪れ散策してきました。
福岡の中心地天神から西鉄特急に乗り50分、柳川駅でバスに乗り換え10分、柳川高校前で下車すると柳川城跡です(写真①②)。ちょうど乗った電車が柳川観光をモチーフにした特急「水都」で電車内に立花家の刀なども飾られた電車でした(写真⑨⑩)。

ここは私の好きな立花宗茂の居城です。最初に築城したのは1560年頃の蒲池(かまち)氏と伝えられています。しかし肥前の龍造寺氏から攻められ滅ぼされたようです。そして龍造寺氏も滅亡後、秀吉の九州征伐での恩賞として宗茂にこの地が与えられ、立花城よりここに移り住みました。しかし関ケ原で西軍についたため、敗れ帰還するも、家康の命で城を受け取りに来た加藤清正・黒田官兵衛に降伏して城を明け渡し改易となります。

かつて明治時代に火災で焼失するまでは5重5階の層塔型の天守がここに建っていました。焼失前の写真や地元の方が作った模型がありました。現在は柳川高校の敷地になっていて、石碑と説明板があるのみで、かつてここに城があった事を伝えています(写真①②③)。説明を読んでいたら何人もの野球部の生徒から挨拶されました😯オス!

柳川の今ある堀割は関ケ原後に入った田中吉政によるものです(写真⑥⑦)。写真④の天守もこの時に田中吉政が築城したものです。しかし吉政の子の忠政に嫡子なく田中家は2代で断絶、ここで何とまた立花宗茂が秀忠の御伽衆や家光に戦経験の語り部を務めた幕府での功績が認められて復帰し、幕末まで立花家が代々柳川藩主となりました。関ケ原の敗軍の将で旧領に復帰したのは立花宗茂ただ一人だけです。

またもう一方で考えてみると、田中吉政という人物は、近江八幡城→岡崎城→柳川城と、いずれも経済発展を遂げたすばらしい城下町を作ったので、その手腕には感心します。石田三成を丁重に扱ったその紳士的態度にも感心です。吉政はここ柳川で没し、眞勝寺に菩提が弔われています(写真⑧)。

次は立花家資料館に続きます。

【余談】松田聖子
松田聖子は柳川からほど近い久留米の出身で、本名は蒲池法子(かまちのりこ)です。柳川の蒲池氏と関係があるかはわかりません。ただそれだけです・・・🤔?
 

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トベシュン

長野百名城巡り (2023/09/10 訪問)

長野百名城巡り 高遠城址、松本城、松代城址、上田城址、小諸城址の五城を巡ってきました。

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トベシュン

長野百名城巡り (2023/09/10 訪問)

長野百名城巡り 高遠城址、松本城、松代城址、上田城址、小諸城址の五城を巡ってきました。

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トベシュン

長野百名城巡り (2023/09/10 訪問)

長野百名城巡り 高遠城址、松本城、松代城址、上田城址、小諸城址の五城を巡ってきました。

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トベシュン

長野百名城巡り (2023/09/09 訪問)

長野百名城巡り 高遠城址、松本城、松代城址、上田城址、小諸城址の五城を巡ってきました。

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トベシュン

長野百名城巡り (2023/09/09 訪問)

長野百名城巡り 高遠城址、松本城、松代城址、上田城址、小諸城址の五城を巡ってきました。

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tomo

駿府城 (2023/09/10 訪問)

青春18切符で行ってきました。

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真田與市 (2023/09/16 訪問)

 真田氏発祥の地として伝わっています。天徳寺周辺が城址です。与一堂の脇に説明板がありました。

 鶴巻温泉駅より徒歩約20分で行くことができます。

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無量寺 (2023/09/16 訪問)

 無量寺の石碑と説明板がありました。岡崎四郎義實公の墓へ行く途中、周囲を少しだけですが散策しました。遺構らしく思える場所もありましたが、よくわかりません。

伊勢原駅からバスで城所入口下車。坂を進むと畑の中に野陣台の説明板があり、さらに進むと無量寺に行くことができます。

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丸山城址公園 (2023/09/16 訪問)

 公園として整備されています。土塁等を見ることができます。

 伊勢原駅よりバスに乗り粟窪入口で下車。バス停の目の前に丸山城址公園があります。

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扇谷上杉氏 (2023/09/16 訪問)

 産業能率大学正門前に説明板があることを知り撮影してきました。今回は発掘現場等へは行っていません。周辺には他にも興味深い史跡があり時間をとってゆっくり散策したいものです。

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AOI七沢リハビリテーション病院 (2023/09/17 訪問)

 AOI七沢リハビリテーション病院前の石碑と説明板を撮影してきました。見城台などへも行きたかったのですが、皆様の投稿を見ると夏はヤマビルが出没するとのことで断念しました。

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しんちゃん

正月から軍艦島  (2020/01/01 訪問)

軍艦島クルーズの続きです。軍艦島の周りを周遊するだけですが、軍艦島と名付けられるだけ
あって、どの角度から見ても軍艦そっくりです。真上から見ると扁平でツチノコみたいな形状を
しているのですが、海上に浮かぶ姿を見ればまさに軍艦そのもの。こちらが動いている
だけなのに巨大な軍艦が海上を突き進んでいるようにも見えました。
艦尾の69号棟は端島病院で、艦後方の大きなビルは鉱員社宅や保育園(65号棟)。中央には16~30棟が
配置され鉱員の住宅になっています。中央の高地にそびえるビルは3号棟で幹部用の住宅だったそうで、
隣に坑長の自宅があったようです。小中学校跡は左舷左側にありますが、今ではだいぶ風化が
進んでいるようです。艦橋に当たる部分は岩塊の上に貯水タンクが乗っており、灯台も立って
いるようです。かつては第二竪坑へ向かうエレベータを動かすための竪坑櫓と呼ばれる鉄塔が建っており、
ますます見た目が軍艦のようだったみたいです。

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しんちゃん

軍艦島クルーズ 出立編 (2020/01/01 訪問)

ちょっと昔。2020年元旦に軍艦島クルーズを予約して行ってきました。
海上に浮かぶ城‥などとこじつけるつもりは有りません。純粋に軍艦島に行って
見たかったのです。夏季の台風の影響で上陸は出来ず、近くを周遊するだけでしたが
それでも近場で見る軍艦島は素晴らしかったです。正確には端島といい、2015年に
「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一つとしてユネスコの
世界文化遺産に登録されています。もともと南北320m、東西120mの小さな瀬や岩礁を
明治30年(1897)~昭和6年(1931)までの6回の埋め立て工事で南北480m、東西160m
まで拡張し面積は3倍になりました。埋め立て前の岩盤が島の中央に残り、その一種異様な姿を
よりいっそう際立たせています。朝早く長崎港を出発すると、海上自衛隊の護衛艦が見えてきます。
複数いるとよりいっそう迫力が増します。さすが長崎ですね。会場にはマリア様の像が建っています。
航海の無事を祈りつつ(そんな神妙な柄でもないか‥)船はさきに進みます。
しばらく行くと見えてきました。アレです。

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キンヤ

新宮堀内氏の屋敷跡 (2023/08/27 訪問)

紀伊の戦国末期における東の旗頭とも言われる堀内氏の屋敷です(西の旗頭は湯川氏とも)。

堀内氏善の代には、熊野で勢力を持っていた七上綱と呼ばれた土豪を屈服させ、羽柴秀吉の紀州征伐の際には従い仕えて熊野統治を認められ、文禄・慶長の役では熊野水軍を率いて参陣したとされます。
しかし、関ヶ原の戦いでは西軍に付き敗れ、改易されたといわれます。

現在の全龍寺一帯が屋敷跡です。
全龍寺の東側の山門脇に説明板と石碑があります。
かつて屋敷の四方は水堀で囲まれていましたが、今は寺の裏手の西側・北西側に流れる水路が堀の名残りとされます。
市街化されていますが、堀跡を確認できて良かったです。

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にのまる

④ 移築櫓 (2023/06/30 訪問)

最後に向かったのが七日町の阿弥陀寺です。
七日町通りを歩くのは3度目で、すぐ近くの絵ろうそくのお店は行くたびに寄っていたのですが、阿弥陀寺は初めてです。
阿弥陀寺にあるのは
・会津若松城から移築された御三階櫓
・会津東軍墓地
・新選組斎藤一の墓
・黒河内伝五郎の墓
などです。
今回は城友さんに抑えどころを教えてもらってから来たのですが、いちばん心拍数が上がったのはこの御三階櫓です。現存建物が放つオーラとパワーは降りしきる雨にもまったく負けていません。不釣り合いなほど立派な一階の唐破風は本丸御殿の玄関の一部を配したとのこと。葵の御紋が堂々と輝いて見えます。
東軍墓地にも葵の御紋。幕府軍兵士の御遺体1281体が埋葬されているそうです。

戊辰戦争のその後の会津には斗南への移住、開拓という苦難が待ち受けています。
・『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』(石光真人編著 中公新書)
・『斗南藩-「朝敵」会津藩士たちの苦難と再起』(星亮一著 中公新書)
・『会津藩落城・流転-会津から斗南に移った二少女の体験記に寄せてー』(葛西富夫 津軽書房)
は出会えてよかった三冊です。

今回行けなかったところ、もう一度行きたいところ、新たに行きたくなったところ(小田山)もあり、会津には通い続けたいと思いました。
雨のため、またすっかり夕方になってしまったため向羽黒山城や神指城には行けませんでしたが、この数日後に熊出没のため向羽黒山城は全面封鎖となり、😱😱😱となりました。

じゅんじんさん、現存天守と現存三重櫓コンプリートおめでとうございます🎊
弘前は遠いですよねー!

<おわり>

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にのまる

③ 本丸東高石垣・天寧寺口門土塁 (2023/06/30 訪問)

本丸から廊下橋を渡ったあたりまでは行ったことがあるのですがそこで引き返してしまっていたので、今回はじっくり見学しました。二の丸広場(以前はテニスコートでした)から見る高石垣は独り占めするのが申しわけないほどの良き眺めでした。
二の丸広場から土塁と虎口石垣につられて歩いていくと南口駐車場に出て、こんなルートがあったんだ!とびっくりでした。

そこから少し離れていますが【天寧寺土塁】に行きました。
県道側から見ると建物と駐車場の奥。側面にまわると建築中のお家の奥でしたが、裏の道路(会津中街道?)からはしっかりと見ることができました。説明板は両側にあります。
感動的な残り方ですが、「お城=天守」と思っていた頃に見ていたらまちなかに突然現れた土盛りに「????」しか浮かばなかっただろうなぁ。

<つづく>

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にのまる

② 北出丸大手門~椿坂~太鼓門を通って城内へ。 (2023/06/30 訪問)

太鼓門の鏡石にある矢穴を見ると、初めて来た時のことを思い出します。
「お城=天守」と思っていただけではなく「天守閣=天守最上階」とも思っていた頃のことで(お仲間もきっといらっしゃる……かしら!?)、石垣の矢穴も誰かがいたずらで彫ったのではないかと思っていました。“何なの!?いちばん目立つところにこんなの彫って!!”っていう感じで^^;
無知なエピソードを白状すればきりがないのですが、「趣味はお城めぐりです。」と言えるようになったきっかけをくれた会津若松城。
雨に打たれながらしみじみと歩き、4月にリニューアルされたばかりの天守内を見学。再建天守シリーズ城カードをゲットして、南走長屋(会津戦争・白虎隊)、武器庫、鉄砲狭間、干飯櫓(デジタルアート)を見学し、土塁の上を歩いて月見櫓へ。荒城の月碑まで行って、大広間越しに美しい天守を存分に堪能しました。

<つづく>

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