宮地城は応永年間(1394~1427)に京極氏の代官・三木正頼の城であったと伝わり、戦国期にも三木氏が滅亡するまで三木氏の城であったようです。宮地神社の裏にある山の頂部に築かれ、尾根沿いに道が続いています。比高は130mほどですが、傾斜は緩やかで楽に登ることが出来ます。外堀に続いて郭があり、内堀を経て山頂部の主郭に到着します。
主郭には御嶽神社が祭られ、堀切と郭以外には目立った遺構は無いようです。
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2024/10/18 18:22
三木氏の山城 (2024/10/12 訪問)
宮地城は応永年間(1394~1427)に京極氏の代官・三木正頼の城であったと伝わり、戦国期にも三木氏が滅亡するまで三木氏の城であったようです。宮地神社の裏にある山の頂部に築かれ、尾根沿いに道が続いています。比高は130mほどですが、傾斜は緩やかで楽に登ることが出来ます。外堀に続いて郭があり、内堀を経て山頂部の主郭に到着します。
主郭には御嶽神社が祭られ、堀切と郭以外には目立った遺構は無いようです。
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2023/05/23 06:37
(長野県&岐阜県方面城巡り)7日目:宮地城 (2023/04/24 訪問)
大洞城からの転戦です。登城口付近の空スペース(35.767350、137.292254)に駐車しました。
築城年代は定かではないようですが、応永年間(1394年〜1428年)に三木正頼によって築かれたようです。
三木氏は1411年(応永18年)姉小路尹綱の乱を鎮圧した功によって、京極高員(高数)が足利幕府より飛騨国竹原郷を得ると、三木正頼が京極氏の代官として竹原郷に入部したことにはじまるようです。
三木氏は二代三木久頼の代に竹原郷を横領し、その後も勢力を拡大して三木自綱の時代には松倉城と桜洞城をそれぞれ夏と冬の居城として飛騨に君臨しました。
宮地城は三木氏が居城を移した後も一族が城主をつとめ、天正年間(1573年〜1592年)頃には三木良頼の弟三木頼一が城主でした。
大洞城から向かう途中、工事による通行止めや片側通行等で到着時間が遅れました。
外堀跡を過ぎ、内堀跡のある主郭に辿り着きます。現在、主郭には御嶽神社が奉られています。
攻城時間は30分くらいでした。
次の攻城先=下呂森城(城びと未登録 岐阜県下呂市)を経由して萩原諏訪城に向かう予定でしたが、到着時間の遅れにより、直接、萩原諏訪城に向かいます。
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2022/05/19 17:21
三木氏発祥の城 (2022/05/19 訪問)
京極氏の代官として来た三木氏の城で、戦国時代飛騨の覇者なる三木氏発祥の城といわれています。
宮地稲荷神社から登城できます。神社から15分くらい歩くと外堀の標識のある場所に着きます。道は整備され勾配も比較的緩やかで歩きやすい登城路です。内堀跡を経て主郭に行くことができます。主郭の東側に藪となっている曲輪があります。藪漕ぎをして降りて行くと堀切を見ることができます。その後は細い尾根道となります。「とんかつおやじのブログ」さんによるとさらに堀切があるとのことでしたが、失念していて行きませんでした。
JR下呂駅からバスで宮地橋バス停下車にて3分くらいで宮地稲荷神社に行くことができます。ただバスの本数がかなり少ないので要注意です。
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2019/02/06 01:01
2018.12.30登城 (2018/12/30 訪問)
下呂森城から国道41号で南下し、国道257号に入り、竹原小学校付近から、集落に入ったところにある宮地神社の裏山にある御嶽神社が宮地城址となります。
宮地神社に駐車スペースがあり、車を停めることができます。
宮地神社の社殿の裏を下りていくと御嶽神社の案内板があり、宮地城の登城口となります。
尾根伝いの道をかなり奥まで進んで行くと、2箇所の堀切(外堀と内堀の案内板あり)が確認できます。
主郭には御嶽神社があり、城址の標柱が設置されています。
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分類・構造 | 山城 |
---|---|
築城主 | 三木正頼 |
築城年 | 応永年間(1394〜1428) |
主な城主 | 三木氏 |
遺構 | 曲輪、土塁、切岸、堀切、竪堀 |
指定文化財 | 市史跡(宮地城跡) |
再建造物 | 碑 |
住所 | 岐阜県下呂市宮地 |
問い合わせ先 | 下呂市教育委員会社会教育課 |
問い合わせ先電話番号 | 0576-52-2900 |