どたじょう

土田城

岐阜県可児市


旧国名 : 美濃

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東の出丸
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しんちゃん

東の出丸も訪問 (2024/06/16 訪問)

少し遠回りになりますが、東西の尾根の間を登っていって西の主郭を目指します。登り口には案内板が有るはずなので、良く見ていただければわかります。少し、急な箇所もありますが、それほど苦労せずに尾根まで到達できると思います。
中出丸、岩場を経て主郭に到達します。眺望はなかなかですが、足元は急な崖になっています。危ないので元来た道を戻って行きますが、せっかくなので東の出丸まで訪問します。こちらの方は遺構はそれほど残ってはいないようです。いくつか危険な箇所が有るので、安全な道を選んで通れば、問題なく戻って来れると思います。

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しんちゃん

川沿いに南東に600mほど進んで登り道を見つける (2024/06/16 訪問)

土田城は城址碑のある西の断崖からは現在登ることは出来ません。また降るのも危険ですね。私も下側から見ましたがかなり危ないです。
城郭放浪記さんの記事を参考にすると、川沿いに南東に進んでいくと谷沿いに南に昇っていく登城道が有るようです。東西の尾根の中間まで上がれば、西側が主郭。東が出丸になります。
大丈夫です!私も納得がいかない場合は同じ城に3回でも、4回でもトライします。何度でもトライしましょう、何度でも、何度でも‥
まずは西の主郭に向かいます。最初に郭があって、うっすらと土塁が残っているようです。そこから西に尾根沿いにしばらく進みます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)6日目:土田城 (2023/04/23 訪問)

室原城からの転戦で、大脇公民館城碑案内板前(35.418666、137.007575)に到着。車は大脇公民館の無料駐車場に駐車しました。

諸説ありますが、土田城は織田信長の生母である土田御前が生まれ育った城と云われています。
築城年代は定かではないが文明年間(1469年〜1487年)に土田氏によって築かれたと云われています。 土田氏は近江佐々木源氏の末裔を称して明智氏に従っていました。
土田泰久の次男である土田甚助が生駒家広の養子となり生駒親重を名乗っていましたが、土田源太夫が明智城で討死すると土田家嫡流が断絶したため、親重が小折城とこの城の城主を兼ねました。
生駒氏はその後、美濃へ勢力を伸ばした織田信長に仕えると、1574年(天正2年)にはこの地を去り廃城となりました。

公民館奥の登城口の本郭直行ルートは利用禁止のようです。
その為、ひたすら遊歩道を歩き山に登る案内を捜しましたが、見つかりません。(他の登城口があるのかもわかりません)
途中、金子山出丸への案内がありましたが、不安の為、登るのをやめました。案内表示がほしいです。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=猿啄城に向かいます。

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土田御前 (2021/04/30 訪問)

 土田氏が築いた城で、織田信長の生母土田御前は一族と言われています。
大脇公民館前に石碑と案内板があり奥へ進んで行くと登城口があります。「危険な箇所が多くあります。登られる方は、各自の責任で、、、」と書かれた看板があるところから登城しました。崖っぷちの道で岩場もあり、それなりの精神力と労力は必要ですが、道は概ねわかります。迷ったときには木に巻いてあるテープが教えてくれます。遺構は浅くなった堀切を見ることができます。帰りは金子山出丸方面から降りて来ました。
近くに信長(吉法師)を抱いた土田御前の像があります。親子ともマスクをしていました。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 土田氏
築城年 文明年間(1469〜1487)
主な城主 土田氏、生駒道寿、生駒恋助
廃城年 天正2年(1574)
遺構 曲輪、横堀(空堀)、石垣
再建造物 石碑、説明板
住所 岐阜県可児市土田