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しんちゃん

いろいろと趣向をこらしてある堀内氏の山城(平山城) (2023/03/19 訪問)

天正16年(1588)に堀内氏が北山攻めの際に築いたと伝わります。
新宮城城主で熊野水軍の首領 堀内氏善(うじよし)が関ヶ原の戦で西軍に属して
桑山一晴に居城を追われ再びこの京城に逃げ込みました。
このたびは二度目の訪問になります。東の墓地側から侵入しました。
なぜここを選んだかというと、このあたりに畝状の竪堀がいくつかあるそうだからです。
年月がたってだいぶ浅くなってしまってはいますが、確かに畝状の竪堀がありました。
このまま居館跡を西に進み詰めの城跡へ向かいます。
居館跡(郭)との間には結構大きな堀切があります。
次回訪問時には堀切周辺の石垣も漏らさずチェックしておきたいと思います。(また来るんかい)

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ぴーかる

八神城 (2023/05/03 訪問)

【八神城】
<駐車場他>駐車場はなし。<35.268497, 136.692834>ポイントは路側帯の幅が広いです。
<交通手段>車
<見所>移築門

<感想>日帰り木曾三川ちょこ城南下の旅2城目。現地説明板を要約すると、八神城は鎌倉時代に尾張国長岡庄石田郷の司職である毛利氏が居城をここに移ったのが始まりとされます。土岐氏、織田氏、豊臣氏に仕え江戸時代には尾張徳川氏に仕え明治まで存続します。城も一国一城令の対象外となったようで現存移築門が2か所残されています。
 城跡には説明板と江戸時代に植えられたイチョウの巨木があります。樹齢300年以上だそうです。城跡の北東200m程の場所に八神の渡し跡があります。この渡しは江戸時代初期には名古屋藩家老となった毛利氏が名古屋城登城時専用として利用し、江戸中期には一般に開放して木曽川を渡る街道の一つとなりました。移築門は南に少し行った眞福寺山門に一の門、長良川を越えて西側に長屋門が民家にあります。現存建造物が2つも残っているのでなかなか良いです。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

石垣と熊野川が美しい紀州徳川家付家老の城郭 (2023/03/19 訪問)

新宮城は熊野川流域の丘地に築かれている総石垣の城です。
国土地理院の地形図をみると丘地の稜線を利用して郭を配しているようです。
熊野川を北の守りとし、本丸を最高地に北に出丸を配し、西に徳の丸、松の丸へと続きます。
北に船着き場らしきものもあったようですが、確認していません。
出丸に向かう道は3月の時点では通行止めになっていますが、それ以外は各郭間を自由に行き来することが出来ます。
主だった郭部分は総合でもそれほど広くないのですが、
きれいに積まれた石垣をながめながら散策させていただきました。
こうしてみると山城や平山城だけでなく総石垣の城も地形を上手に利用して城を築いています。
近くにある続百名城の赤木城もそうでしたね。

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水田に守られた本丸 (2023/06/11 訪問)

田植え後の船上城本丸の微高地は、全周、水田で囲まれています。更に、その北側〜北東側は、かつても堀であった古城川が守り、それ以外の方面は、田んぼ脇まで住宅が立ち並んで容易に人を寄せ付けません。
北西隅に田んぼに降りる通路が二ヶ所あり、畦道に行けます。靴の幅より少し広い畦道が微高地とを結びます。
城下に船着き場があったと。かつてより海岸は沖側に後退しているのでしょうが、今でも海岸まで歩いてそれほどかからなかったです。

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WEST

脇本城探訪 (2023/06/08 訪問)

秋田県お城探訪の二日目、脇本城を訪問しました。
秋田駅からJR男鹿線に乗り、最寄り駅の脇本駅(ICカード使用可)で降りました。乗車時間は約40分。
脇本駅からは事前情報通り約30分歩くと案内所に到着しました。案内所にはパンフレットが用意してある他、簡単な説明図がありますので助かります。
城跡は草刈り等の整備も行き届き、かつ6月の訪問のためか緑溢れる綺麗な草原地となっており美しかったです。
見どころは、曲輪、空堀、土塁等の跡でしょう。行き届いた整備のおかげで、城跡を散策しながら、それらを実感できました。
帰りの列車時刻の都合で約1時間強の訪問でしたが、楽しい訪問だったと思います。
ところで、列車で訪問する場合、JR男鹿線の本数が限定されるため時刻表を確認して登城計画を立てたほうが良いと思います。

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イオ

住宅地の中の石垣 (2023/04/09 訪問)

関ケ原の戦いの功により若狭国を与えられた京極高次が後瀬山城に替わる居城として築いた城で、江戸前期に入封した酒井忠勝が三重三階の天守を擁する現在見られる姿に改修し、酒井氏14代の居城として明治を迎えました。廃城令の後、本丸跡には酒井忠勝を祀った小浜神社が創建され、現在に至っています。

北川、南川、江古川を堀代わりとし、西側は小浜湾に面した水城で、本丸の周囲に二の丸、三の丸、北の丸、西の丸を配した輪郭式城郭でしたが、河川拡張により城域は大幅に削られ、内堀も埋め立てられて住宅地になっています。それでも、登城時は南川に架かる大手橋が通行止めになっていたため東側に大回りせざるを得ず、今なお攻めるに難い城であることを実感させられました。

さて、小浜神社の駐車場(2台分)に車を駐めて登城開始。小浜神社の境内にはいくつかの説明板や案内板が設けられていますが、「ごあんない」と題した説明板の雲浜古城図は縄張図に現状が併記されていて参考になりました。その他、築城時に人柱となった娘を供養するために祀られた組屋地蔵尊、嘉門の井戸の前には城下から移設された八百比丘尼ゆかりの橋の石(古呂美石)、酒井忠勝に仕えた白狐伝説がある八助稲荷大明神、酒井氏邸宅を移築した酒井会館など、本丸跡に酒井忠勝を祀る神社だけあって、境内にはゆかりの史跡が数多く見られます。また、拝殿では小浜神社発行のパンフレット「小浜城と小浜城下町」が頒布されており(賽銭箱に100円を入れる)、小浜城や城下町、ゆかりの人物、小浜神社についてよくまとまっていて、おすすめです。

境内をひとめぐりすると、いよいよ天守台へ。住宅地に囲まれた城ということで、さほど期待はしていなかったんですが、天守台は思っていたより高さがあり、眺望も開けていました。天守台からは東と北に石垣が続き、麓には北側の小天守に登る石段もありますが、崩落または転落の恐れがあるからか、立入禁止になっていました(残念…)。

境内を出て、今度は外周を一周します。雲浜古城図によれば、境内南東隅の石垣は大手枡形、北東隅は搦手枡形の石垣のようです。搦手を守るのは翳櫓、北西隅には乾櫓、西辺には西櫓の石垣が続き、小天守から天守台へと繋がっています。本丸を囲む内堀は埋め立てられ、間近まで住宅が建ち並んでいますが、石垣直下に敷かれた防草シートの上を歩いて一周することができます。ただ、住宅のすぐ裏手なので、通行にも写真撮影にも非常に気を遣いますが…。周囲の石垣の高さもなかなかのものながら、直下から見上げる天守台の高さは一際で、ファインダーに収まりきらないほどでした。

住宅地の中に天守台と石垣が少しあるくらいかと思いきや、東辺を除いては本丸の石垣はしっかり遺っており、直下から見上げることもできて、大いに見応えがありました。若狭高校の移築門を見落としたこと、城下にも見どころがありそうなので、いつかまた訪れたいものです。
 

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todo94

スタンプとセット (2023/04/30 訪問)

芥川山城の続100名城スタンプ置き場となっているしろあと歴史館は高槻城内といってよい場所に立地しているので、スタンプゲットとともに訪れることになってしまいます。二の丸に当たる芸術文化劇場の堀や石垣、説明板もしっかりと拝見させていただきました。そして高槻城に来ると必ず立ち寄るのがカトリック高槻教会。ここの高山右近像は小学6年生の時の愛読書、学研の図鑑に掲載されていたのでお気に入りなのです。

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しんちゃん

南北朝鵜殿氏奮闘の城。小粒でもあなどるなかれ。 (2023/03/19 訪問)

麓に立派な遊具を備えた公園のある丘の上に鵜殿城は築かれています。
坂をえっちらおっちら上っているうちに簡単に主郭にたどり着きます。
というか主郭しかありません。シンプルすぎる…
でも周囲には土塁がしっかりとめぐらされているし、堀切もあります。
かつて南朝側だった鵜殿氏が北朝側に鞍替えしたさい周囲の南朝側の武将たちが
一気に押し寄せてきたそうですが、鵜殿氏はこの城にこもって4日4晩持ちこたえて
ついには南朝の軍勢を追い返したそうです。
この城でですか… 鵜殿氏すげー。
その鵜殿氏も大阪の陣で大坂方として参戦し、ついには帰ってこなかったそうです。
戦の世の悲哀ですね。

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しんちゃん

築上名人藤堂高虎の最初期の総石垣の城。良く見ると積み方がテキトー… (2023/03/19 訪問)

天正17年(1589)藤堂高虎によって一揆を封じ込めるために築かれた城と伝わります。
総石垣造りの城で藤堂高虎にとっては最初期の城だと思うのですが
良く見ると石の積み方がテキトーなんですよ。
なんか荒削りなかんじで、隅部は本来算木積なんだけど、ただ積んであるだけだったりするし
山奥でとくに誰に見られるわけでもないし…といったわけではないのかもしれないけど
崩れなきゃいいや(実際は崩れたのかもしれないが)といった積み方です。
そのくせ少し遠目にはえらく立派に見えるんですよ。
このあたりの一揆衆を威圧するにはこれで十分だったということですね。
この経験が後の伊賀上野や津城に生かされてくると思えば感慨もひとしおでしょうか。
地元では桜の名所です。石垣の城に桜。花見には最高でしょうな。

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しんちゃん

堀の中に住んでいるから堀内氏。そのまんまじゃない。 (2023/03/19 訪問)

金龍寺と周辺は戦国時代から近世初頭にかけて奥熊野地方を支配した堀内氏の屋敷跡であった。(現地案内板)
周囲五町(約550m)、四方に堀があったと記されている。
そのまんま堀内氏ということですね。
西方と北方に一部、小川が残っているそうです。
お寺が屋敷跡だと、けっこうイメージがつかみやすいかも。
山門なんか屋敷門そのまんまですからね。

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しんちゃん

地味だけどなかなかジワる松平発祥の城。 (2014/03/15 訪問)

松平氏始祖の親氏の築城と伝わる、まさに松平氏始まりの城です。
縄張りはそれほど複雑ではなく、2の郭から主郭へ、2の郭から西へむかう道をゆけば3の郭にたどり着きます。
ふもとから4の郭に向かっていくと櫓台跡と思われる遺構が残っています。
それほど大規模ではありませんが築城当時からすれば必要十分な設備を備えていたと言えるでしょう。
城の説明がある石碑には市指定史跡とありますが今では立派な国の史跡です。
松平氏発祥の城というわけですから、当然といえば当然でしょうか。
一見地味ですが、なかなかじわじわ来る城です。

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しんちゃん

槍半蔵。渡辺守綱由緒の城。 (2014/03/15 訪問)

守綱神社の北側にある公園が城跡で西側にある川辺に対して台地状になっており
西側には土塁が残っているようです。
公園内にはいくつか建物の基礎部分のようなものが残っており
いつの時代ものかわかりませんが槍半蔵こと渡辺守綱が入城したあとに築かれたものかもしれません。
あの槍半蔵の子孫が尾張藩付家老として明治まで代々この地を治めていたのですね。
写真は2014年に最初に訪問した時のものですが、数年前にもまたここを訪れており
写真がでてきたらいくつか追加してみようと思います。

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しんちゃん

長沢松平氏のちょっと良さげな城 (2014/03/15 訪問)

古瀬間城は現在、浄願寺の背後の丘 古瀬間城址公園として整備されています。
主郭の北側に腰郭を配し、城の周囲にも帯状の郭を配しています。
主郭には展望台があり眺望もなかなかのものです。
成願寺から城跡に至る道の途中には松平宗忠公の墓があります。
この宗忠さん松平家三代、信光より別れた長沢松平家の方で古瀬間城を
築城された方でもあります。
現在は豊田市が公園として管理しており、見張櫓(展望所)もその際に
建造されたものらしいです。

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にのまる

走った。疲れた。でも行ってよかった。 (2023/04/22 訪問)

月山富田城を約3時間でひとまわりして麓の安来市歴史資料館へ。
スタンプを押して時計を見ると11:40。
米子城まで200円で連れて行ってくれる神バス✨イエローバスの発車時刻は12:20。

40 分あれば楽勝で新宮党館まで行って戻ってこられるわ~♬と、資料館の職員さんに「行ってきます('ω')ノ」をしたら「ちょっと厳しいんじゃないの?」と……。
慌ててGoogleさんに所要時間を聞くと、16 分かかる(約1.4 ㎞)との返答。

初めて行く場所。すんなり到着できるかどうかもわからない。
なぜ楽勝だと思ったんだろう……💦

しかし、悩んでいても無駄に時間が過ぎるだけ。
職員さんに目印などを聞いて「着いても着かなくても12:00には引き返す」という約束(?)をして出発!

早歩き~走る~早歩き~走る~

遠征のたびに一度はこれやってるなと思いつつ、しかしこれができるのは幸せなことなんだという気持ちもあり、ゴールを目指します。
ただ近くにある尼子家代々奥都城、毛利元秋墓、山中鹿介幸盛屋敷跡(生誕地)、塩冶掃部介墓所、堀尾忠氏墓所を悉くスルーするのがかなり残念でした。

11:53に現地到着。
新宮党は、主君である尼子晴久によって滅ぼされた尼子国久の一族衆(説明板より)。太夫神社、国久・誠久・敬久の墓、そして館跡を見学しました。発掘調査で礎石建物跡や溝跡などのほか、中国産の陶磁器や将棋の駒なども見つかっているそうです。ここで楽しく賑やかに暮らした日々もあったんだろうな……。
土塁に囲まれた方形の館跡は丁寧にお手入れされ、地元の方にとって“尼子ロマンの里”は大切な史跡なのだなということを感じました。走ってよかった……。

12:00になったので後ろ髪を引かれつつ資料館(バス停)に戻ります。
12:12に資料館に着いて、職員さんに、ただいま(‘ω’)ノのご報告。
バスの発車時刻まで8分あったので、展示をもう一度見て、おみやげの幟旗と安来山城ガイドマップを購入しました。

とてもあたたかい職員さん方に見送っていただきながら、イエローバスで次の目的地、米子城へ向かいました。


ぴーかるさん大阪府コンプのとっておきの1城ってどこだろう?
山城は既に制覇されていると仰っていたから市街地?
まさかの大阪城……なわけないしな🤔

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しんちゃん

やはり榊原康政。大河の康政回で紹介してほしいけど。 (2014/03/15 訪問)

上野上村城は2014年に訪問しています。
城内に榊原康政誕生の地の石碑が二つも立っています。
かつて康正はここの城主、酒井将監忠尚に仕えていて
その後、徳川家康に小姓として仕えたようです。
城跡には高所に社が鎮座しています。周囲に土塁も残っているようですね。
古いデータは結構消滅したり破損したりしてしまったものも
幾分かあるので、またデータ撮りにかつて廻った城跡を回ってみる必要があるのかもしれません。

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bono

柿田川を観に行ったついでに

ほぼ公園として整備されていて、遺構のようなものは確認できなかったのですが、帰って他の方の投稿を観たら少しあった?ようで、またリベンジしたいです。

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しんちゃん

南北朝の遺跡。小ぶりな城だが居館とセットで訪問。 (2023/03/21 訪問)

五ケ所城はこの地方の豪族、愛洲氏の城です。
愛洲氏は南北朝のころは南朝側として戦いました。
天正4年(1576)この地方に勢力を伸ばしてきた織田信長の次男
織田(北畠)信雄に攻められ愛洲氏は滅亡します。
戦国の悲哀をかんじさせるエピソードですが、
城跡は城跡周辺が愛洲の里公園となっており
主郭の北西に見張り台が突き出ており、周囲を堀で囲みます。
どうやら主郭のまわりには一部石垣のようなものが残っているようです。
南側にはいくつか大小の郭を配し、小規模ながらも城郭としての形態をとどめています。
さらに南側にいくと居館跡があり、南側に今でも一部堀跡が残ります。
さらに南に道沿いに進み、道標に従っていくと塔頭が並んでいる、小高い場所に到達します。
これがまたいっぱいあるんですね。二十数基はあるようです。
いまでも地元の方が初盆に霊の供養に先立ち念仏をされているようです。

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しんちゃん

斎宮跡のすぐ近くにある地味な城跡。(失礼) (2023/03/21 訪問)

斎宮城はかつての斎宮のすぐ近く式内社竹神社の境内とその周辺地と考えられます。
案内板によりますと
室町時代斎宮の住人野呂三郎がここに城砦を築き勝手に徳政を敷き狼藉を働いた。
国司北畠材親(きちか)は之を討伐した
…とあります。
徳政を敷き狼藉を働いた…とはなんぞや?
悪政の間違いではないでしょうか。徳政を敷いて成敗されたらたまったもんじゃありませんわ。
ここまで来たら斎宮の史跡を回らない手はありません。
斎宮歴史博物館にはなかなか興味深い展示がありますよ。

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ぴーかる

加賀野井城 (2023/05/03 訪問)

【加賀野井城】
<駐車場他>駐車場はなし。<35.292498, 136.717188>ポイントが少し道が広い。
<交通手段>車

<感想>日帰り木曾三川ちょこ城南下の旅1城目。現地説明板によると加賀野井城は築城年代は定かではないが天正年間(1573~1591年)には加賀野井弥八郎秀望(加賀井重望)が城主となっていました。加賀井氏ははじめ織田信長に仕え、その後は織田信雄の麾下となりそのまま加賀野井郷の知行をあてがわれていました。小牧長久手の戦いにおいて信雄側だったので秀吉軍の攻撃を受けて落城します。この後城は廃城となったようです。加賀井重望の方は城を脱出して関東へ逃れたようですが秀吉に使番として召し出され8千石の知行をあてがわれています。関ヶ原の戦いでは加賀井重望は東軍として西上途中の三河での宴席で水野忠重を殺害し西軍方の大垣城へ逃げ込む。逃げ込んだ大垣城落城の際に子の水野勝成に処刑されます。
 城跡の遺構は消滅し説明板が残されているのみです。木曽川がすぐそばにあり、城は木曽川の中程にあったのではないかとされています。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

かつては織田信雄の城。総石垣の広大な本丸は花見の会場に。 (2023/03/21 訪問)

田丸城はもともとは北畠氏の庶流、田丸直昌の城だったのですが、
織田信長に従うこととなり、織田信雄に城をあけ渡し、その傘下に入りました。
その後、信雄は松ヶ島城に移り、また時が流れて
天正12年(1584)新たに松ヶ島城の城主となった蒲生氏郷の支配下にはいります。
その後またいろいろあって、江戸時代には紀州徳川家の所領となり
田丸領6万石には紀州徳川家家老、久野氏が城代を置いて明治時代に至ります。
久野氏というと静岡県袋井市の久野城の主ですね。
久野宗茂の時代、駿府藩主徳川頼宣が紀州に転封になったときに
いっしょにくっついてきたんですね。
城跡は玉城中学校の背後の丘地に築かれています。
城全体が見事な石垣で囲われ、丘地の中央の最高所が本丸で十分な広さを持っています。
北には北之丸、本丸に引けを取らない広さです。
南は二之丸。今は中学校になっているエリアもかつては郭を形成していたようです。
天守は中がくりぬかれた独特の構造をしています。
石垣の周囲に柱を建て、天守を建造し石垣の内部も有効に活用していたのではないでしょうか。
この時は桜のつぼみはまだ固かったのですが、花見の会場にもなるようで
本丸の広さを十分に発揮できそうです。これは地元の方の特権ですね。

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