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しんちゃん

勝瑞城 居館じゃないほう (2023/08/13 訪問)

徳島県板野郡藍住町勝瑞にある見性寺境内は勝瑞城跡と呼ばれ
かつては細川氏の守護所と推測され、今では
三好氏が築いた詰めの城という説も出ています。
細川氏の守護所の場所もはっきりとは断言できず
まさに歴史は生きていることを実感します。
天文22年(1553)6月、愛妾小少将との情事におぼれ、すっかり
腑抜けになった細川持隆を家臣の三好実休が見性寺で殺害したと伝わります。
しかし、この小少将の話、どこまで信じて良いのやら。
この小少将、のちに三好実休の継室となり実休の戦死後は篠原自遁の正室となり、
さらには長宗我部元親の側室になり、
細川真之、三好長治、十河存保、長宗我部右近大夫の生母と言われています。
‥ついていけません。九尾の狐か玉藻前ですか?
細川持隆が殺された見性寺も今ここにある見性寺で合っているのでしょうか?
私には勝瑞城も居館の跡のように見えます。戦国期の詰めの城にしてはいささか
心もとなく感じます。

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にのまる

②「戊辰戦争西軍の墓」「太鼓櫓」 (2023/06/24 訪問)

「街歩きマップ」を見ていると、駅の南側(城址の反対側)にも見どころが多くありそうです。
その中で目にとまったのが「戊辰戦争西軍の墓」。これは、長州人として行かずにはいられません。城址へ行く前にもう少し街歩きしてみることにしました。

白壁や瓦屋根など城下町の風情を感じる建物のある街道を歩いていると、奥州白河口公園、旧脇本陣柳屋旅館、萩原朔太郎妻・美津子の生家など、立ち止まってみたくなるところが次々と現れます。
西軍の墓は長寿院にあり、戊辰戦争白河口の戦いで新政府軍(西軍)として戦った長州・土佐・大垣・館林・佐土原藩の戦死者が祀られていました。両軍合わせて1,000名近い死傷者を出したという戦い。故郷を遠く離れた地でいのち尽きた兵士たちを不憫に思う気持ちと、落ち葉ひとつないほどきれいな墓所だったのがおこがましい言い方ですがありがたく、静かに手を合わせてきました。

そろそろ城址方面へと向かいます。
コースはいろいろ考えたのですが、最初に太鼓櫓を見に行くことにしました。したがって三重櫓が目の前ですが、藤門は横目で見つつスルーです。
そのものずばりな「郭内」町に建つ太鼓櫓。素朴な外観ながら設えに温かみを感じるのは昭和初期に茶室として利用されていたからでしょうか。『三度の移築を経て保存されている唯一の城郭遺構』は前日訪問した花巻城の円城寺門と同じ経歴。これから先もずっとこの地にありますように。
内部の公開(1階のみ)はひと月に2日ほどと限られているようで入ることは叶いませんでしたが、パンフレットを見ると200円/hで借りることもできるようです。畳に座布団1枚敷いて、何もせずに1時間ぼーっと過ごしてみたいです。

<つづく>

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しんちゃん

歴史は塗り変わっていく (2023/08/13 訪問)

勝瑞にはかつて阿波の国の守護所が置かれ
時の権力者、細川氏や三好氏が権勢をふるい
室町時代の末期には、ここ勝瑞を中心にして政局に大きな
影響を及ぼしていたといいます。
今では城跡と居館跡があり、見性寺の境内が城跡とされています。
城跡は東西約80m、南北約60mの方形で周囲は幅14mの水壕がめぐり
土塁が一部残っています。今では長宗我部氏と争った
中富川の戦いの際に築かれた詰めの城の可能性もあると
されています。そこから南西の方角に
広大な居館跡が発掘・整備されています。
1997~2000までに行われた発掘調査で壕幅約12mに囲まれた
東西約120m、南北約150mという長方形の館跡で、三好実休の居館跡と
推定されています。2004~2005年の発掘調査では居館から南方向に
東西40m以上、南北30mの池跡が発見されています。
それまでの発掘でも大規模な礎石建物跡、枯山水庭園が見つかり
広大で優雅な居館跡であったことをうかがわせます。


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朝田 辰兵衛

花隈公園にチョイ寄り。 (2023/06/13 訪問)

6月遠征最終日。往路は福岡空港に飛びましたが,復路は伊丹空港から。神戸三宮駅発のリムジンバスに乗る前に,チョイ寄りしました。天気は良かったのですが,暑かったです。キャリーバッグ持ちながらは,(こんなにアップダウンがあるとは予想してなかったので)エネルギーをかなり消耗しました。

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旭神社 (2023/08/26 訪問)

 旭神社に石碑があります。
古河藩陣屋跡の石碑より徒歩にて登城しました。15分くらいです。

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平野小学校 (2023/08/26 訪問)

 大阪メトロ谷町線平野駅から徒歩にて登城しました。大阪市立平野小学校の校門前に石碑があります。うっかり大念佛寺に移築されている陣屋門を見逃してしまいました。

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花塚山古墳 (2023/08/26 訪問)

 大阪メトロ谷町線出戸駅から登城しました。遺構はないということなので、多くの方が撮影している花塚山古墳の石碑を撮影し、城域だったとされる市営瓜破東住宅から瓜破東小学校周辺を散策して退却しました。

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津堂城山古墳 (2023/08/26 訪問)

 津堂城山古墳が跡地です。城址というより古墳の雰囲気を強く感じます。古墳をそのまま利用したのでしょうね。
もよりのバス停は大正橋南詰(津堂城山古墳前)です。

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厳嶋神社 (2023/08/26 訪問)

 古墳を利用した城で厳島神社が跡地とのことです。前方後円墳の後円にあたる部分が厳嶋神社のようです。堀が残っています。境内にある厳嶋神社縁起には一津屋城の記載がありますが、それによると松原第七中学校あたりの本城があり、その出城であったと書かれていました。

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来迎寺 (2023/08/26 訪問)

 来迎寺に石碑と説明板があります。
河内松原駅よりバスに乗り岡バス停下車、徒歩2~3分です。

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にのまる

① 外堀から攻める。 (2023/06/24 訪問)

白河小峰城へは震災後に二度訪れましたが、いずれの時も石垣修復中で見学できるところは限られていました。
今回は、知人にいただいた手描きマップを手に、11年ぶりに一般開放となったエリアのほか、蛇尾の石垣まで行ってみるのが目的です。

新白河で新幹線を降り、乗り換え時間5分のダッシュにも成功して白河駅に着いたのが10時少し前。白河駅は大正時代につくられたレトロな駅舎で駅カフェも併設。新しくて真っ白な「しらかわ観光ステーション」もとても素敵です。

まず向かったのは城址と反対側のイベント広場。
駅のホーム越しに三重櫓が見え、この眺めだけでも来てよかったなぁと気持ちが満たされます。
広場の奥には道場門遺構(外堀石垣)があります。小径や門の礎石も復元整備され見ごたえ充分。芝生の手入れをされていた方に「(機械の音が)うるさくてすみません」と言われたので「そんなことないです、遠くから来たのでめっちゃ感動しています!」と思わず熱く喋ってしまいました。(引かれてしまったかもしれない^^;)

一旦線路を渡り、「立教館」跡へ。説明板を読むとかなり規模の大きな藩校だったようです。石碑の後ろに炮術・弓術の的場跡の土塁がわずかに残されています。

このまま城址へ向かおうかと思ったのですが、旧奥州街道に鉤型が残っているというので、先に見に行くことにしました。何の変哲もない交差点のようでも、城下の町割りがそのまま現代に引き継がれて生活道路となっていると思うと、ただのカーブがものすごく貴重な遺産に見えてきて感動すら覚えます。

<つづく>

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しんちゃん

鳥坂城(とっさかじょう) 徳島県名西郡石井町石井 (2023/08/13 訪問)

鳥坂城は標高75mの茶臼山に築かれており、下からは遊歩道が
続いています。
近くにある阿波国分尼寺の駐車場が利用でき、そこから
徒歩で5分ほどで登城道にたどり着きます。
主郭周辺はヤブ化が進んでいますので
そこから直接、山頂の郭にたどり着きました。
主郭周辺には幾重にも帯郭が円錐状に続いていて
ヤブ化した状況でも、それが確認することができます。
北側帯郭の下層部の先に畝状竪堀があるようですが、未確認です。
周辺にある石積は後世のものと思われますが、
戦国期に砦として再利用されたのかは不明です。

伝承としては文治2年(1186)に佐々木経高によって築かれたと有ります。
阿波・淡路・土佐の守護になった佐々木氏が阿波国の拠点として築いたが
承久の乱の後は、小笠原長清が阿波の守護になり、長清は佐々木氏の籠る
鳥坂城を攻めて、佐々木氏を排除したとあります。

阿波国分尼寺跡
徳島県名西郡石井町
34°04'04.9"N 134°27'55.9"E
34.068020, 134.465531

鳥坂城跡 登城口
徳島県名西郡石井町石井尼寺268−4
34°04'08.2"N 134°27'48.1"E
34.068949, 134.463357

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しんちゃん

海岸に降りてみよう! (2023/08/12 訪問)

国の史跡、舞子台場は文久3年(1863)徳川家茂の大阪湾の
海上防衛視察の際に、砲台拡充の幕命を受けた
明石城主、松平慶憲によって築造されたそうです。
当時の最新技術を使って作られているようで、
対岸の松帆台場と相まって、有事の際にはそれなりの
効果をあげたものと推測します。
史跡は一部、公開がされており、明石海峡大橋が良く見えます。
ちょっと東に回って海岸に降りてみると
台場の石積が良く見えます。アーチ状を描きながら各所に
折れ曲がりのある形状は敵兵の上陸に備えたものでしょうか。
それらの独自の形状も下から見ると良くわかります。

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十郎

雰囲気のある石垣の城 (2023/05/01 訪問)

唐津城の寺沢広高が改修して石垣のある近世城郭に。
白山山頂だったからか保存状態が良く、三の丸櫓台石垣や本丸下の曲輪の石垣、本丸虎口など見どころ満載の石垣の城でした。

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十郎

城の起源か、環濠集落 (2023/05/04 訪問)

弥生時代に形成された集落を壕(堀)で囲む環濠集落。
集落内でも堀や土塁で仕切られたり、物見櫓や逆茂木があったり。
攻められない、守りの考え方。初期の城なんでしょうねー

広かったー

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しんちゃん

ああ とりーで (2033/08/13 訪問)

撫養城の櫓台跡にたつトリーデなるとは
かつては鳥居記念館と呼ばれていましたが、2016年に
地域の交流施設としてリニューアルオープンしました。
以前訪問した時は、閉まっていたので、今回
入館できたのはラッキーでしたね。
なかなか大きな建物ですが、内部は使われていない
空間が多く、現状展望台としての役割が大きいですね。
眺望はなかなかのもので、淡路から阿波一帯が良く
見渡せます。地の利に優れているため、時の権力者が
真っ先に手に入れたがったのは当然と言えるでしょう。

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しんちゃん

トリーデ 入れるじゃん (2023/08/13 訪問)

撫養城は阿波と淡路の押えともいえる標高62mの
妙見山に築かれています。
古くから足利将軍家ゆかりの地で城塞が築かれていたようで、
城郭体系によると、「多聞院日記」永正3年の頁に
「三好之長の執事に撫養掃部助」という人物がおり、この人物が
撫養城主、小笠原源氏である撫養殿のことを指すようです。
この地域の支配者も三好氏、長宗我部氏、豊臣家臣蜂須賀氏と
移り変わり、蜂須賀氏の時代に阿波九城として益田内膳正忠が兵300を預かり
守将を務めました。
かつての鳥居記念館が「トリーデなると」としてかつての櫓台に立ち
妙見神社が本丸跡とされ、石垣と土塁が残っています。
神社裏側の石垣が遺稿らしく和泉砂岩を加工した切石を組み合わせているようです。
城主が気持ちよさそうに寝ているので参拝は遠くから行います。
まったく動じる気配がない‥。
現状は城址公園として地域の方々によって整備されているようです。

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しんちゃん

残された土塁だけでもかつての規模を推測できる。 (2023/08/13 訪問)

養宜館は淡路国守護細川氏の居館があったとされています。
暦応3年(1340)細川初代師氏が淡路に入り、
永正16年(1519)7代尚春が阿波で三好氏に謀殺されるまで
機能していたということです。
館の規模は南北250m、東西120mとのことで
四方に土塁と堀を巡らした、長方形の形状をしていたそうです。
明治維新後、ジワジワと遺構の破壊が進みましたが、
周囲に残っている土塁だけでも、なかなかの規模のようです。

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しんちゃん

炬口台場  洲本市炬口 (2023/08/12 訪問)

炬口台場は淡路島の洲本市炬口にある
徳島藩家老職、洲本城代稲田氏により築かれた台場です。
稲田氏は徳島藩主と折り合い悪かったようで、しかも
稲田家中での分裂もあり、淡路が兵庫県に
属しているのは幕末からの因縁が関係しているようです。
周囲は宅地化が進み遺構に迫ってきています。
台場周辺には石垣や土盛りが残っているようです。

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しんちゃん

穴太積のかつての遺構は失われ。残念としか言いようがない。 (2023/08/12 訪問)

叶堂城は南あわじ市松帆の三原川沿いにある、松帆山感応寺が
所在地になっています。
慶長6年(1601)豊臣家直轄の代官石川紀伊守が感応寺を北の松原に移転させ
その跡地に築城を開始しました。
三原川に面した石垣は加藤嘉昭の居城であった志知城の石垣を再利用したものと
されています。資料によると慶長元年(1596)の大地震によって大日川の船の通行が
困難になり志知城に代わる水軍基地として建設されたとあります。
その後、紀伊守は関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れ、廃城となった叶堂城に
感応堂が戻されました。
昭和50年代 三原川の拡幅計画により、感応寺の移転計画が持ち上がりました。
史跡保存と工事との軋轢の中、石垣の移築保存の声もあがりましたが
調査と並行しながら感応寺は川沿いの上流400mへ移築され
石垣は一部の復元にとどまり、記念碑がたてられました。
昭和55年度の調査は4箇所のトレンチを設け行われましたが、現存遺構は石垣のみとの
結論に至りました。昭和58年度の調査では、かつての堀を埋めて
石垣が築かれていることも判明、縄文時代の土器なども出土しています。
近世から近代に手を加えられた箇所も多かったようですが、
川沿いの石積は戦国期の物だったようです。
石の風化が激しく、昭和の移転後も再利用はされなかったのですが
残念としか言いようがありません。

次は移築前の場所も訪れてみたいです。なにか痕跡があるかもしれません。

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