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ぴーかる

豊田城 (2023/12/17 訪問)

【豊田城】
<駐車場他>駐車場はなし。<34.606285, 135.848891>の倉庫前に停めました。
<交通手段>車

<見所>横堀・空堀・堀切
<感想>現地説明板によると豊田城の築城年は定かではありませんが、興福寺大乗院方の衆徒である豊田氏が築城し居城としました。豊田氏は越智氏、筒井氏の有力豪族に属していましたが1570年には松永久秀の傘下になっています。
 豊田城跡へは県道51号線から石神神宮への方向版のある農道に入ります。まっすぐ直線に進むと藪に埋もれた登城口と城跡説明板があります。登城口に豊田城0.5㎞とありますが実際は300m程で南郭に入り、登山道もありますので比較的登りやすいです。
 主郭・副郭を含む主要部と南郭は曲輪を横堀で囲んだ構造になっており、堀が深くて見応えあります。現地縄張り図では簡単に描かれすぎていて単純な感じになっていますが、堀、堀切が複雑に入り込んで、南郭~主要部、東郭からその東の尾根曲輪を含んだ全体が城跡部分になっていて城跡全体ではそこそこ大きい。南郭内部は藪化、南郭から主郭方向への道が藪化してしまっていて、藪が身長より上に茂っています。南郭虎口から左手北東方向に主郭土塁が見えますので目測で藪を突き抜けるとなんとかなります。
 主要部は広い副郭の削平地の北西部3分の1程の広さで1段高くした主郭があります。主郭全体と副郭北側は藪化して落ちたら危険なので奥に進みませんでした。主要部南側西側下は深い横堀になっており西に竪堀となって落ちています。西側下段は半分腰曲輪、半分が掘になっています。北側はその北側尾根と分断する堀切になっていて東側の堀と合流して北東方向に竪堀となって落ちています。
 東郭の更に東方向の尾根方向は尾根曲輪が続いていてピークの所に大堀切があります。水場は見つけられなかったので水場から続く堀がこれにあたるかと思われます。
 城跡は藪化・倒木が多いものの、入り組んだ深い堀に圧倒されます。いい城跡でした。

<満足度>◆◆◆

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シェル

迫力満点の土塁と空堀 (2023/10/21 訪問)

 JR常磐線 龍ヶ崎市駅(旧佐貫駅)から国道6号を進み、徒歩40分ほどで到着しました。
 隣の牛久駅からコミュニティバスが運行されており、大手門跡の石碑前の「城中北」のバス停で下車し、そこから馬出跡(説明板)までは徒歩10分ほど。
 北の馬出跡から登城。馬出跡の所に説明板があります。そこから南へ進むと、すぐ深い空堀を見ることができます!!
 空堀、土塁はかなりの規模で、土橋や虎口などの遺構もかなり残っています。
 中でもⅡ郭、Ⅰ郭の土塁と深い空堀は、かなり迫力があり、見ごたえたっぷりでした!!
 また竹藪も適度に伐採されていて、そこまで藪になっておらず、遺構はとても見やすかったです。
 東林寺城を経由後の帰りに北にある牛久城の大手門跡も見学しました。こちらには、大手門跡の石碑と説明板があります。

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しんちゃん

不思議な生態系が保たれている山上の猫の楽園 (2023/12/31 訪問)

仁保城は昔は広島湾に浮かぶ島に築かれた山城であり、広島湾北部を制圧する拠点であったと見られています。明応4年(1495)に白井光胤が武田元信から仁保島近海における海上諸公事の徴収権を安堵されており、すでに軍事的な拠点が築かれていた可能性はあるようです。やがて広島湾周辺の権益を求めて争いが勃発し、仁保城は大内氏の支配下に入り厳島の合戦前、天文23年に毛利氏の支配下に置かれました。
現在はテレビ塔が置かれている関係で山上まで車道が通り多くの人が訪れているようです。本丸跡には展望台が置かれ周囲の眺望は良好です。本丸の南のもう一つの頂部にはテレビ塔が築かれ、ここが二の丸跡のようです。階段に複数の猫がいました。この周辺やたらと野良ネコが多かったですね。猫の邪魔をしたくないのでテレビ塔までは登っていません。
二の丸周辺で猫にエサをあげている人達がいました。ここを訪れている人たちの何割かは猫にエサをやりに来ている人たちのようです。他にもお気に入りの猫にエサを挙げている人が何人かいました。十匹くらい猫を見た気がします。おそらくもっと多いですね。
周囲にエサ場などなさそうなので彼らは訪れる人の持ってくる食料で生き繋いでているのだと思います。カラスもいたと思います。子猫や弱っている猫を狙っているのでしょうか。不思議なバランスでこの山上の猫の楽園は保たれているような気がします。
通りすがりの城びとは深入りはせず、その場を去るのでありました。

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しんちゃん

加古川評定と賤ヶ岳の七本槍 (2023/12/30 訪問)

加古川城の歴史は古く、寿永3年(1184)糟谷有季が印南郡南条郷を与えられ、その時に加古川城を築いたと考えられています。鎌倉時代には播磨の守護所であったとされ糟谷氏は守護代の職にあったのではないかと考えられています。同族と思われる糟谷氏は六波羅検断職にありましたが六波羅探題の滅亡に際して一族共に近江・蓮華寺で自害してしまいます。播磨の糟谷氏は行き残ったものが赤松氏に仕えたとされています。
天正5年(1577)羽柴秀吉が毛利討伐の議を「糟谷の館」で開いたとされ、これが加古川城とされています。12代当主の糟谷武則は秀吉に味方し加古川城は三木城攻めの重要な拠点になったようです。武則は後に賤ヶ岳の戦いで武功を挙げ七本槍の一人とされ加古川城主として3万5000石を与えられています。
城跡は現在称名寺の境内になっており、お城の櫓のようなイケてるお堂が建っています。門前の溝がお堀に見えて仕方がないです。

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朝田 辰兵衛

2023年のラストは,ココの🗻 (2023/12/18 訪問)

2023年のラストは,小磯城から富士山を眺望。攻城するにあたり,にのまるさんの投稿を参考にしました。旧島崎藤村邸,旧吉田茂邸をコースに組み入れました。しかしながら,月曜日は休館日。外から眺めるだけにとどまりました…<泣>。

そうそう,赤い城さん,先日は多摩川南部情報ありがとうございました。小沢城はGW前半に予定しています。「おざわじょう」も「こさわじょう」も…<笑>。この2つは,少々雨が降っても決行予定です。
赤い城さんの投稿で,神奈川県でワクワク感が膨らんでいる城があります。「七沢城」です。山ビルを恐れて(赤い城さん以外)リハ病院前だけで終わっていますね…。鎌刃城だって山ビル出ますから,やたら警戒しすぎているんじゃないかなって思います。七沢城も,天候に左右される城ですが,赤い城さんとは違うルートを計画しています。
神奈川県は,たぶん三浦半島残しになるかと思います。
東京都のアレは,神奈川県を攻めている中,小田原あたりで天候を伺い,チャンス思いきや「熱海港」から海路で向かおうかと…。
「じゃあラストはどこだ?」ってなりますが,ハ●ポタ城かそれ以外かで悩んでいます。

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しんちゃん

鎌倉宮 ワイルドな皇子(ヒーロー)・護良親王ゆかりの地 (2019/01/06 訪問)

護良親王は後醍醐天皇の第三皇子として生まれました。(第一皇子の説もあり)幼いころに仏門に入り、持ち前のカリスマ性もあって20歳で天台座主の地位に付いたとされています。親王の別名・大塔宮の由来はここから来ています。
建武の新政では父・後醍醐天皇を盟友・楠正成と共に助け大いに活躍しました。正成は千早城、親王は吉野山(吉野城)での戦いが有名で、親王は忠臣・村上義光の犠牲で辛くも生き延び高野山に向かいます。足利尊氏、新田義貞の活躍で鎌倉幕府は滅びますがそれまで天皇側が持ちこたえることが出来たのは親王と正成の奮闘によるものが大きいと思います。
護良親王は討幕後に征夷代将軍に就任しますが足利尊氏と対立を深め、やがては父である後醍醐天皇との仲もギクシャクしてしまいます。
天皇の后の入れ知恵とする説もありますが(昔の日本人は悪女説が好き)親王は征夷代将軍の任を解かれ身柄を拘束され、あろうことか鎌倉の足利直義の監視下に置かれます。私見ですがこれでは親王があまりにも気の毒ですね。
北条高時の子・足利時行らによる中先代の乱が起き、彼らに護良親王が奉じられるのを怖れた足利氏によって親王は殺害されてしまいます。結果的に親王の死によって後醍醐天皇の勢力は大きくそがれることになってしまいました。ダメパパすぎますね。(いっちゃいましたね)
親王が幽閉された東光寺跡は鎌倉宮となり親王を祀ります。
鎌倉には護良親王ゆかりの場所がいくつもありますが
護良親王幽閉所(再現土牢)(鎌倉宮)
護良親王処刑の地(鎌倉宮)
護良親王御首塚(鎌倉宮)
護良親王墓(胴塚)‥現在立ち入り不可
こんなのばっかりなんですね。

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イタさん

畑内に大きな土塁 (2024/01/16 訪問)

案内板に、粕川と鏑木川に挟まれた地形で秀郷流藤原氏の流れをくむ赤堀氏の居城で、南北350メートル、東西170メートルの規模をもつ。本丸は80メートル四方あり、南北に虎口を設ける。虎口は喰違いとなっている。周囲は高さ4メートル程の土塁があったとされ、北から東にかけてよく残る・・・と載る。

道路から狭い道を入れば奥に畑が見え、その先に高い土塁が見える。畑と民家の境には堀跡と思える窪みが見られる。北の喰違虎口先は土橋だったのか、左右の堀は浅くなっている。更に先は畑と民家になっている。土塁は北から東だけでなく西にも一辺分の土塁が見えるが、北虎口の土塁とは繋がらず、主郭の外、粕川沿いのものらしい。

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イタさん

雪景色の堀など (2024/01/16 訪問)

 桐生市のHPに、山上城は藤原秀郷の流れをくむ、山上五郎高綱によって築城され、子孫も代々この地域を領し、関東管領・上杉氏の頃は東上州で重きをなしたと伝えられる。しかし、北条・武田・上杉などの群雄割拠時代のなかで、16世紀終末ころに廃城になる。
 城の構造は、並郭構造で北から笹郭・北郭・本丸・二の丸・三の丸・南郭と南に並ぶ。南郭には物見台の跡が残っている。南北650メートル、東西220メートルと細長く、平坦な郭構造ではなく、丘城ともいわれています。周囲は自然の要害である蕨沢川と谷によって守られていた・・・と載っている。

櫓風建屋にも駐車場があるが、先に常光寺手前に広い駐車場がある。思いがけない雪となり、雪と寒さで端まで見学ができなかった。曲輪内の土塁は確認出来ないが、曲輪を隔てる空堀・土塁はよく残る。南の公園(三の丸)・二の丸・本丸には遊具が設けられているが、多くは壊れた物が多い。晴れの日と違い墨絵のような景色も美しい。

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小城小次郎

駐車場完備 (2023/04/23 訪問)

飯久保城の1kmほど西にあって、飯久保城とワンセットで飯久保の田園地帯を守るような立地になっている。登城口には駐車場もあってハイキングコースになっていて、むしろ飯久保城よりも歩きやすいかも(遺構は薄いけど)。

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todo94

まずは下館 (2023/12/10 訪問)

筑西市下館に泊をとっての朝駆けです。藤原秀郷が平将門の乱平定に向けて築城した下館、中館、上館の3点セット。この後、中館の伊佐城、上館の久下田城もめぐりました。城山八幡神社に城址碑と説明板があります。神社前の道路の表示も見えやすくてgoodです。

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さえこ

お墓参り (1980/03/23 訪問)

姫路の奥のお墓参り帰りに、姫路城は寄った

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キンヤ

大野城の出城とされる西ノ城 (2024/01/07 訪問)

東ノ城に続きまして、西ノ城を投稿させて頂きます。
西ノ城は大野城の出城ともされ、別名 藤白城と呼ばれます。

東ノ城から向かうと岩盤を利用したような片堀切・土橋状を通ります。

山頂の主郭から南西に曲輪が連なっていますが木で見辛いです。

北側に堀切があり、土橋が付いてますが、後世の改変の可能性があるかもしれません。

南西側にクランクした横堀があり、西ノ城での見所でした。その更に南下に堀切があります。

東ノ城よりインパクトは弱いですが、東ノ城にはないクランクした横堀が見られ興味深いです。

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キンヤ

畝状竪堀が見所の紀伊守護本拠の山城 (2024/01/07 訪問)

南北朝時代に紀伊守護山名氏が築城したとされ、南北朝合一後は紀伊守護畠山氏の本拠になったとされます。
1460〜1466年頃に畠山政長が守護本拠を広城へ移したと伝えられますが、その後も畠山氏が1568年まで使用したともされます。

東ノ城と西ノ城から成る一城別郭の大規模な山城で、東西に長い尾根上に築かれています。

まずは東ノ城を投稿させて頂きます。

東側の本城は、3段の曲輪で整備されており、1番上の主郭に城址碑が建てられています。
ここは発掘調査がされており、礎石・石列等が検出され、出土遺物は土師器の皿等が出土したそうです。
北西下に堀切があります。

その西側下の曲輪群は、中ノ曲輪とも呼ばれ、東側と中央の二つの堀切で区切られています。
堀切の間の曲輪の北側には土塁があり、南下の厩の段では石積が見られました。

中ノ曲輪の中央の堀切は大野城の中で最も大きく、南下へ竪堀が長く続き圧巻です。
その竪堀から西へ向けた中ノ曲輪の南斜面で、大小8条程の竪堀が連続しています。
和歌山県北部では珍しい畝状竪堀群で1番の見所と思います。
この南斜面で石積を4箇所で見つけることができました。
中には自然や後世のように見える箇所もありますが、事前リサーチより多くの石積があり驚きました。
中ノ曲輪は、本城よりも堅固な造りで、思っていた以上に見応えありました。

最後に本城の東側下の曲輪に行き、竪堀が1条、尾根に長い土塁がありました。

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しんちゃん

年末滑り込み訪問 (2023/12/31 訪問)

広島城は九か国112万石の大名となった毛利輝元によって天正17年に普請がなされました。中州に城を築く工事は大変な苦労を伴うものだったらしく川を堰き止め、島を普請するところから始めなければならなかったようです。
関ヶ原の合戦の後、福島正則が入り城下の整備に尽力しますが幕府から石垣の無断修理を咎められ(いいがかりに近い)信濃国高井郡および越後国魚沼郡4万5000石に減封されたうえ正則の死後、遺体を勝手に火葬にしたとして改易されてしまいます。(酷すぎる)

大晦日の夕暮れ滑り込みに近いかたちで訪問してきました。天守が閉まっているのは知っていますが山口に行く前に寄っておきたかったのです。大晦日で護国神社の前は屋台の準備で忙しそう。屋台のオッサンの顔が恐いです。さすがは本場ですね(何の?)
二の丸周辺を散策し表御門を拝見。この日はこれで退散しました。この後、大晦日の夜と元日はすごい人だかりになるのでしょうね。

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波多野義景 (2024/01/18 訪問)

 秦野駅からバスに乗り東農協前バス停下車、徒歩約5分で城址碑のある場所へ行くことができます。

神奈川中世城郭図鑑には発掘調査から城址碑の建っている台地を城跡と見なすことは困難になっていると書いてありました。

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小城小次郎

在地勢力狩野氏とともに (2023/04/23 訪問)

一向一揆に追われて加賀を逃れた狩野氏が越中で構えた拠点らしい。神保氏や上杉氏に仕えた狩野氏はいつの頃にか飯久保を離れ、飯久保城もそのまま歴史の闇に消えた。今は地元の方が草刈りや遊歩道整備を行ってくれている。

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松田康隆 (2024/01/18 訪問)

 説明板まで行きましたが、時間もなくそこで退却しました。

皆様の投稿を拝見していると富士山が見えたのですね。まったく気づきませんでした。

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松田城の支城 (2024/01/18 訪問)

 松田氏が松田城の支城として築城したとされていますが、よくわかっていないようです。以前は全山耕地化されていたとのことで、どこが遺構なのかわかりません。そう考えると遺構か否かわかりませんが、2本の見事な竪堀状の地形があります。

 大雄山駅からバスに乗り柄沢バス停下車。バス停から徒歩10分くらいで行くことができます。

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しんちゃん

高山右近ゆかりの城 (2023/12/30 訪問)

豊臣秀吉が織田信長の後継として天下を手中に収めつつあった天正13年(1585)の国替えによって明石与四郎則実に代わって高山右近重友に明石郡が与えられました。重友は明石城(枝吉城)に入城し船上城の築城に取り掛かります。
重友は敬虔なキリシタンだったので秀吉により明石郡を追放され、加賀の前田家に茶道指南役として招かれ、金沢城の修築や富山城・高岡城の築城にも尽力したとのことです。その後、慶長19(1614)キリシタン追放の際マニラに追放され翌年63歳で死去したとのことです。
関ヶ原の合戦後に池田輝政が播磨に入り、輝政の八男で家老職の池田左近利政に船上城があずけられ、慶長13年(1608)からは輝政の甥で筆頭家老の池田出羽守由之に明石4万石とともに預けられました。元和元年(1615)大阪城が落城し支城としての役目を終え、その後の一国一城令で廃城となったようです。
船上城は周囲を宅地に囲まれた畑地らしき場所にありますが、本丸の跡に小さな社が祭られていて住宅の間の細い隙間から道がつづいています。

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しんちゃん

鎌倉地味な所めぐり (2019/01/06 訪問)

鎌倉の鶴岡八幡宮の周辺には「鎌倉殿の十三人」登場人物ゆかりの地がいくつもありますが、基本的に大き目の顕彰碑みたいな石碑が建っているだけで、はっきり言って超地味です。
「武士の鑑」とまで言われた畠山重忠は元久2年(1205)菅谷館を出て130騎ほどで鎌倉に向かう途中で北条義時率いる大軍と戦闘になり討死します。義時はその後重忠追討を命じた父・時政を糾弾します。
若宮大路幕府は嘉禎2年(1236)~元弘3年(1333)に将軍の御所が置かれたところです。
宇都宮辻子幕府は宇都宮小路に置かれた将軍の御所で嘉禄元年(1225)~嘉禎2年(1236)の間使用されました。
鎌倉幕府の御所の履歴は 大蔵幕府⇒宇都宮辻子幕府⇒若宮大路幕府となるようです。
上杉朝宗は足利氏満・満兼に仕え、出家後は禅助と号しました。人々は「犬懸の管領」と言ったそうです。その子の氏憲は足利持氏の執事となり出家して禅秀と号しました。しかし持氏と不仲になり持氏の叔父・満隆と謀って兵を挙げますが敗れて、鶴岡別当坊にて自害したとあります。
畠山重忠邸跡‥神奈川県鎌倉市雪ノ下3丁目2-9
北条執権邸旧跡‥鎌倉市小町3
若宮大路幕府旧跡‥鎌倉市雪ノ下1-11
宇都宮辻子幕府旧跡‥鎌倉市小町2丁目
日蓮上人辻説法の跡‥鎌倉市小町2丁目22−13−7
文覚上人屋敷跡‥神奈川県鎌倉市雪ノ下4
上杉朝宗および氏憲邸跡‥鎌倉市浄明寺1丁目10−3

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