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ぴーかる

生駒屋敷跡 (2023/07/22 訪問)

【小折城】
<駐車場他>久昌寺公園駐車場10台程度に駐車しました。
<交通手段>車

<感想>2週連続日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第2弾5城目。現地説明板によると生駒氏は大和国の藤原忠仁の子孫で生駒山麓谷口村に居住していましたが、応仁の乱の時に難を逃れてここの小折村に移り住みます。生駒氏は灰と油を商う馬借で財をなし三代目の生駒家宗の娘、吉乃の方は織田信長の側室となり信忠・信雄・五徳姫の2男1女を産みます。この頃に小折城が築城されたようです。その後生駒氏は豊臣秀吉に仕え、関ヶ原後は徳川家に仕えて尾張藩主徳川義直の守役として仕えます。一国一城令の時に小折城は廃城になりますが規模を縮小して生駒氏屋敷として明治まで存続します。一説には生駒家宗と蜂須賀正勝は同郷で秀吉は吉乃の方の推挙で信長に仕えたとされます。
 先に生駒家典医であった廣間家に現存移築された中門を見に行きました。下部が六角形のなまこ壁になっていて、かなり可愛い長屋門です。その後久昌寺公園の生駒家石造群⇒保育園南の一角に設けられた屋敷跡碑に行きました。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

天下への 望み開けし 景色かな (2021/12/26 訪問)

岐阜城は稲葉山城の二つ名と合わせて、城好きで、その名を知らない者は
ほぼいないと思います。(できれば日本で、と言いたいが)
今回 岐阜城登城にあたって、めい想の小径のルートを使いました。
大手ではなく、いわば裏道で関ヶ原の合戦の前哨戦で福島正則が岐阜城の織田秀信を
攻めるときに使った道です。彼らは元々、織田信長の陪臣であったから岐阜城の
弱点はよくご存じだったわけですね。難攻不落とうたわれた岐阜城はわずか一日で落ちます。
戦力を分散していたのが裏目に出たわけですが、相手のメンツが悪すぎました。

岐阜城は天守台が城域の最高部にあり、明治42年までは原型をとどめていたのですが
天守閣復興のために改修され、入り口の両側に原型を残すのみになっています。
麓の居館跡を含め、岐阜城の石垣はチャートと呼ばれるプランクトンの殻が堆積してできた岩を使用しています。
ブラタモリでやっていたので、ご存じの方も多いと思います。

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しんちゃん

中世では西美濃三人衆安藤氏の城、近世以降は戸田氏の陣屋。 (2021/12/26 訪問)

北方城跡には江戸時代に陣屋がおかれました。
陣屋の主は加納藩主戸田光重の三男光直です。
大井神社の門前を北限とし、小川と天王川に挟まれた神社から南にのびる
締め切りの道路の東西両側に分かれる、とあります。
その内容は添付の縄張りを参照にいただきたく。
今では宅地化が進んでいますが、基本的な配置は変わっていません。
縄張りで城址と示されている箇所に城址碑と案内板があります。

中世では美濃国二代守護、土岐頼遠の四男、頼興が本巣郡北方に住み
北方五郎と称し、城を築いたのが始まりとされています。
その後伊賀伊賀守定重の長男、安藤伊賀守守就が大野郡より移り住みます。
守就は西美濃三人衆の一人で斉藤竜興を見限り、織田信長に仕えますが
謀反を疑われ所領を没収されます。その後武儀郡谷口村に隠棲しますが
本能寺の変で信長が斃れると、北方に帰ってきます。
しかし稲葉一鉄に攻められ敗死、外山の龍峯寺に葬られます。
これらの戦いを北方合戦と言います。

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ヒロケン

心霊スポット (2023/08/14 訪問)

紫波洲崎城は、宮崎の景勝地、日南海岸の青島と鬼の洗濯岩とのちょうど中間地点の標高40m程の丘陵に築かれています。本丸の左右に曲輪を配し、空堀で区切った縄張りの城です。

伊東氏・島津氏攻防の城で、争奪戦が繰り広げられましたが、豊臣秀吉公の九州平定後は、伊東氏の持ち城となりましたが、その後、一国一城令により廃城となったとのことです。

8月14日早朝5時前に紫波洲崎城を朝駆けしようと、ホテルの部屋を出てロビーに向かったところ、フロントの係の方が準備をされていたので、「おはようございます」窓から見える「あの城山に行きたのですが、登り口を教えてもらえませんか」と尋ねたところ、怪訝そうな顔をされ、「この先を道なりに真っすぐ行って、キャンプ場を左に曲がると登り口がありますよ」と…「ありがとうございます」と返事をし、出かけようと振り返ったときに「あまりいい噂を聞きませんよ」と「なんでも、あそこに行って除霊を受けた方がいるとか」「景色は良いみたいですが、お勧めはできません」「この辺りでは有名な心霊スポットです」とキッパリ。
正直、城巡りをやっていると、いわく付のお城は幾つもあり、いちいちビビっていては城巡りはできないとの思いがあり、ホテルを出ましたが、そういえば城びとのマップを紫波洲崎城に合わせアップしていき、人型を展望台に合わせると左足だけにょきって写っている。

結局、登リ口付近をうろうろしましたが胸騒ぎがして結局、ホテルに帰ってきてしまいました。全然平気だよって方は、行かれてみては如何でしょうか。勿論、城びとの「行った」には「ぽちっ」としていません。

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初芽

清水宗治公を偲びつつ蓮を眺める (2023/08/26 訪問)

滞在時間:1時間

一面蓮の葉がとても綺麗でした。
開花の時期はもっと綺麗なんだろうなあ。
資料館で水攻めの資料や映像を拝見して
豊臣軍と毛利軍の駆け引きと
清水宗治公の想いを感じました。 

首塚や自刃の地、ごうやぶも拝み、
石井山や日差山を見て「あそこに秀吉公(隆景公)が
布陣していたんだなあ」と当時の状況を妄想。
水攻の図を見て、沈んでいく城や散っていった宗治公を
秀吉公達はどのように見てたのかな。

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初芽

これが版築土塁か! (2023/08/26 訪問)

滞在時間:1時間

ずっと近くで見つめてしまった版築土塁さん。
見た目の色からサラサラしてるのかな?と思ってたら
結構固そうで、そりゃ壁だもんなと1人で納得していました。
人の足で踏んで固めたと知ってびっくり。

行き帰りの道は運転ドキドキしましたが、
景色も最高で来た甲斐がありました。

後の予定があったため今回は西門コース。
次回は屏風折れの石垣や礎石群をぐるっと見て回りたいなあ。

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小城小次郎

400年、形原を見守り続けるお妙さん (2023/01/28 訪問)

古図で見ると今の姿からは想像もできない大きなお城だがよくよく見れば航空写真からかつての城域が浮かび上がってくる。若殿の命を身を挺して守ったとされる乳母を祀る「お妙塚」は今も形原の街並みを見守っている。

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初芽

カラスと桃と不等辺五角形! (2023/08/26 訪問)

滞在時間:2時間弱

初烏城〜
近づいていくたびに迫力があって、
とにかくかっこいい!
城内で天守閣近くでカラスが飛んでて
護っているのかなとも思ってみたり。
よく城郭検定で間違える不明門、月見櫓も
しっかり目に焼き付けてきました←
宇喜田時代、小早川時代の石垣も見られて良かった…と
帰宅して鏡石を見るのを忘れてたことを思い出す😱
また今度!

後楽園も広くて美しかった〜!
水車の音がすごく涼しくて癒されました。

城の麓の旭川を桃のボートがどんぶらこしてて
なんか桃太郎みたいで面白かったです。
ボートから眺める城はまた違ったように見えるのかな?
いつか乗ってみたい🍑

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チェブ

高? (2023/08/15 訪問)

以前、投稿した「太田道灌城」から江戸川区の「長島高城」に転戦しました。

清光寺に説明板がありました。

「長島高城」は長島氏が築城したそうです。
ん?長島高の『高』って何でしょう?
高い場所でもないし、江戸川区は海抜0m地帯です。

逆に『高島長城』はあるか調べたら「高島城」と「万里の長城」がヒットしました。
、、、夏の終わりに暑さで思考力が、更に低くなってしまったようです。

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しんちゃん

軽海合戦。 (2021/12/26 訪問)

軽海西城は本巣市軽海の円長坊の寺域内にあります。
円長坊はかつて庵室でしたが宝暦年間に寺になったと有ります。
境内西側に土塁が残っています。
軽海西城は南の十七条城とともに西方を根尾川・揖斐川に接してます。
かつては稲葉氏数代の居城で、築城は応仁以前ではないかとされています。
織田信長が斎藤竜興を攻めた際に軽海西城の南、十九条城に従兄弟の織田信益
を配します。竜興は折からの洪水で信長の救援は無いと判断、
十九条城の信益を攻めます。信長は墨俣にいた池田恒興・佐久間信盛・柴田勝家
を救援に向かわせますが、織田信益は軽海表深田で稲葉又衛門と牧村牛助に
討ち取られてしまいます。その後、駆け付けた池田恒興によって
稲葉又衛門は首を取られます。これらの戦いは軽海合戦として名が残ります。

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しんちゃん

長屋半月ってちょっとカッコいい。生存説があるのは愛されたから? (2021/12/26 訪問)

相羽城は八幡神社境内が跡地です。社中心が幾分周囲より高いです。
いかにも城跡といった感じの土盛りがされています。
築城者は饗庭と称した、土岐次郎光時ではないかとされ
承久の乱の宇治川の合戦で戦死、
築城はそれ以前と考えられています。
時がたって一時、城は廃されましたが天文の初期
長屋景興が不破郡垂井より移って、城を修復し、美濃守護
土岐頼芸に属して二万石を領したと伝わります。
長屋景興は常に半月の大指物を用いて軍功をあげ、長屋半月と称された
豪傑でした。
景興は斎藤氏との戦いで討ち死にしたとも、生き延びたとも
言い伝えがあります。
かつての城の堀の役目を果たした東北方の池からは柱や梁などの
木材が出土しています。

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しんちゃん

小藩の抱える黒歴史。陣屋跡の碑は黙して語らず。 (2021/12/26 訪問)

高富陣屋は高富藩の藩庁が置かれたところです。
徳川綱吉の母、桂昌院の異母兄、本庄道章が初代藩主を務めました。
一万石あれば、それなりに格式の高い生活ができるので
桂昌院様様と思いきや、
京の公家衆との付き合いも多く、小藩に見合わない出費が続いたため
8代・道昌のころから財政が行き詰まりはじめ、9代・道貫はあの手この手を使って
増収を図りましたがうまくいかず、10代・道美のころになると財政は完全に破綻
幕末の慶応4年(1868)には20万7400両の借金をかかえ、藩内で打ち壊し、百姓一揆が
おきるという惨状でしたが、取り潰しを受けることなく明治維新を迎え
高富県は岐阜県に編入されました。
そんな黒歴史をかかえる高富陣屋ですが、今では美里会館の駐車場に陣屋跡の碑を
残すのみです。

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カズサン

真夏の諏訪原城・大手馬出編 (2023/08/21 訪問)

 諏訪原城築城450年記念イベントの一つ中馬出に高所見学用の仮設展望スタンドが架設され眺望見学の跡、草の刈られてる順路を廻り1時間、中馬出編、北馬出・復元薬医門編、二の曲輪編、本曲輪編の続き大手馬出編です。
 二の曲輪南側から大手馬出土橋を渡り、外堀南北を観察眺め、南側の内堀奥には南馬出が良く見える、大手馬出は馬出の中では広く大きい、諏訪神社が鎮座、令和4年設置の諏訪原城イラスト解説板が大きく控えてる、鳥居の脇には重厚な城名石碑が控えてる、外堀、三日月堀、土塁法面の草は刈られてないが樹木が覆い茂り草の成長が遅いのか夫々確認する事は出来る。

 帰り際に一名の登城者に遭遇、駐車場には車が3台、ビジターセンターが月曜日で開いてない、開いてる時に訪れたい。野外のパンフレット置き場にはパンフレットが1枚だけでしたが、休館日では致し方無い。
 長々と投稿ご覧いただきありがとうございます。
 

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カズサン

真夏の諏訪原城・本曲輪編 (2023/08/21 訪問)

 諏訪原城築城450年記念イベントの一つで中馬出に仮設展望スタンドが架設され眺望の後、二の曲輪編に続き本曲輪編へ
 二の曲輪北側より本曲輪内堀土橋を渡って、南北の内堀を観察、本曲輪の虎口跡は、広い土塁上に在る、本曲輪の周囲には土塁が廻り樹木が覆っていて薄暗く、蝉しぐれは一層激しい、草の刈られて順路を散策、東側の眺望は大井川・島田を眺められて素晴らしい、しかし富士山は夏のこの時期雲の隠れて見えない。
 東崖下の内堀、土塁は夏草に覆われて確認しずらいが南東角からは草の茂りが少なく内堀、土塁を確認できる、内部は草に覆われている、相当以前は本曲輪中心の小高い所に天守台跡と小さな横看板が有ったがすでに無くなっている、天守台の跡は確認できなかったのかな? 土塁散策路を廻って西側の内堀底に在るカンカン井戸へ、樹木に覆われて薄暗いが蝉の声は激しい、より一層夏を感じる。
 
 大手馬出編に続く。
 

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カズサン

真夏の諏訪原城・二の曲輪編 (2023/08/21 訪問)

 諏訪原城築城450年イベントの一つで中馬出・三日月堀の景観を高所からの見晴らしとして仮設展望スタンドが架設されて、フライング眺望の後、中馬出、三日月堀を眺め観察し、イベント期間中なのか中馬出・三日月堀は奇麗に草刈されて居る。
 散策順路に従い北馬出、復元薬医門を観察見学し、二の曲輪へ中馬出の土橋を渡って、南北の外堀を俯瞰、夏草が覆い茂っている、二の曲輪虎口門跡に発掘調査と門跡の解説板がある、順路は草刈されて居るが二の丸内部は相当前の茶畑は整備されて居りますがシダ類、萱などが生い茂ってる、蝉しぐれと夏空の暑さが頭上に降りてくる感覚、本曲輪を一巡しカンカン井戸から二の曲輪への坂道を登って二の曲輪の南側、北側を眺めて二の曲輪の広い土塁上に虎口坂を上る、大手馬出土橋へ。

 本曲輪編、大手馬出編に別々投稿で続きます。
 

 

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刑部

御殿ができて初めて! (2023/08/10 訪問)

久しぶりに来たので暑い中城址をウロウロ、残念ながら天守は入れませんでも御殿が出来て初めて来たのでこちらで満喫。名古屋城はイベントで美味しいものが楽しめました!

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刑部

35年ぶり3度目の訪問 (2023/08/10 訪問)

最寄りの駅を降りてまずは歩いて5分程で行ける木ノ下城址へ寄ってから城下町を歩き犬山城、平日で比較的空いてました。後ろ堅固の城・天守からの眺めも最高!帰りながら城下町の食べ歩き、最近は城下町にハマってます。

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ヒロケン

伊東氏・島津氏攻防の城 (2023/08/13 訪問)

飫肥城は、標高約50m程のシラス台地上に築かれた群郭式平山城で、北東に流れる山川と西南に流れる酒谷川を天然の水堀とし、本丸の北側に松の丸・西の丸・北の城・中の城という曲輪群を配し、南側には松尾の丸、東側には中の丸を配しており、各曲輪は周囲を空堀で分断されていたため攻城戦に於いては、それぞれの曲輪が独立して戦うことが出来、一つの曲輪が奪われても城兵は別の曲輪に移動し戦うことが出来るようになっていました。この様な城の構成は、南九州の中世山城の特徴であり、伊東氏と島津氏が約25年に渡り争った、実戦的な縄張りとなっています。
1587年の豊臣秀吉公九州平定後は、伊東祐兵公が飫肥城主となり、旧本丸周辺の石垣や町割りなどを整備した以降、280年間飫肥藩5万1千石の居城となっています。

飫肥城には、日本100名城スタンプ目的で訪問し、城としての遺構は、あまり期待していませんでしたが、行ってびっくり(@_@)、想像していた「創り物」とは違い、復元された大手門・長壁・石垣が何とも良い雰囲気を醸し出しており、また、旧本丸の杉木立の中に立つと何とも心地よい(*^▽^*)100名城のスタンプも91個目が何年振りかでゲットでき、満足した時間を過ごせました。

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しんちゃん

石尾根は どこまで続く 引田城 (2023/08/13 訪問)

引田城は標高82mの城山一帯に築かれています。
かなりの広さがあり、特に夏場は水分の備えをしっかり
していかないと体がもちません。
登城道を登っていくと石(岩)の尾根道につきあたり
それをひたすら登っていくと伝・本丸の石垣に突き当たります。
石垣から北側一帯が本丸と伝えられ引田城の重要部のようです。
東に進むと天守台を経て、見晴らしの良い郭に突き当たります。
ここから北上して行くと化粧池と呼ばれる石垣を備えた池跡に
たどり着きます。そのまま灯台に行けますが一度
本丸に戻り、尾根伝いに北上、北二の丸の石垣を目指します。
北二の丸の上段の石垣は崩落の恐れがあるとしてシートで覆われていますが
本命の石垣はしっかり見ることが出来ました。
熱さも疲れもふっとぶ迫力ですが、喉の渇きだけはどうしようも無いです。
城址の広さを見誤り、水の手が切れかかってきました。
それでも東の丸を経由して、なんとか灯台まで到達。下山します。
東の丸の石垣がどこにあるか解らなかったのですが、
北二の丸の石垣でだいぶ満足できたので良しとしました。

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calcifer

夏のライトアップイベント中 (2023/08/25 訪問)

2022年11月に令和の大改修が完了して、2回目の訪問。
8月1日〜31日まで夜21時30分まで営業中で、通常のライトアップとは
別に天守前や隣の後楽園庭園が色鮮やかにライトアップされています。

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