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城とマスク

山形のお城巡り (2020/07/24 訪問)

2年前に行って来ました。
マスクはラゴーシャン製で絶版のチェーンラメを使用してます。

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城とマスク

長野のお城巡り (2020/09/22 訪問)

松本城の帰りに寄りました。
マスクは世界のHAYASHI製でヴィトンの革を使ったマスクです。

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城とマスク

千葉のお城巡り2 (2021/06/21 訪問)

去年の6月に大多喜城の後に行きました。
マスクはメキシコ製です。

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城とマスク

千葉のお城巡り (2021/06/21 訪問)

去年の6月に行ったお城です。
マスクはメキシコのローリン製虹色メタルジャージ生地

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ぴーかる

箸尾城 (2022/05/08 訪問)

【箸尾城】
<駐車場他>駐車場はなし。近鉄箸尾駅前にコインPあり。
<交通手段>近鉄箸尾駅より徒歩

<感想>日帰り列車で奈良盆地1周ちょこ城巡りの旅ラスト6城目。現地説明板によると箸尾城はほぼ二町(220m)四方にわたる環濠集落の平城であったといわれている。城主の箸尾氏は室町時代の大和国土豪で興福寺一乗院方に属し大和四家の一つといわれた豪族である。
 遺構はほとんど残っていないようで城跡碑、説明板がある場所と北側に回って畑になっている城びとポイント、大福寺を巡りました。

<満足度>◆◇◇

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higekam

石垣三昧! (2022/06/11 訪問)

蜂須賀小六の嫡男家正が開城した後豊臣期、江戸時代を通して蜂須賀家が守りとおした城。
それぞれの時代に手を加えられていて、いろいろな石垣の表情が楽しめた。地元の阿波(緑色片岩)などを多用しているのも独特の味わいを醸し出している。

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赤い城

寿能公園 (2022/06/04 訪問)

東武アーバンパークラインの大宮公園駅から徒歩で10分。
寿能公園が城跡です。
岩槻城の支城として潮田資忠が築いた城で公園に墓碑が立っています。
墓碑が立つところが櫓台跡と云われています。
大宮公園内には土塁や空堀があるようですが今回は未訪。
機会があれば行ってみたいと思います。

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小城小次郎

まるで東国の土の城を見ているかのよう (2022/01/10 訪問)

赤松氏傘下の恒屋氏が本拠としていたお城で羽柴秀吉の播磨攻めで落城したと伝わるお城だが意外に大きくて意外なくらい技巧に富んでいる。主郭に至る曲がりくねった城内通路など、なんだか東国の土の城を見ているかのようだ。

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朝田 辰兵衛

“あさだ”として,“あさだ”は見過ごせない。 (2022/06/10 訪問)

漢字表記は違いますが,“あさだ”の陣屋はスルーできず。伊丹空港からモノレールで1駅。蛍池駅からすぐです。
陣屋と同じ並びの角に「PANDESS」というパン屋さんがありました。食パンを購入しましたが,モチモチでとてもおいしかったです。ドススメです。食べごたえもあり,2食に分けて食べました。

にのまるさん,ありがとうございます。さすが,角牟礼城はすぐに出ましたね。
古渡川柳も記憶していてくださり,感謝申し上げます。誰も気にしていなかったと思ってました…。
「富士山が 山城だったら 登るのに」にくらべたら,全然地味だし。

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にのまる

4/12城目 (2022/05/20 訪問)

姫池通側の小さな入口から登城しました。ちょっとした山道ですが階段が設えられていて安心です。
視界がひらけ現れたのは昭和初期建造のレトロモダンな旧昭和塾堂。道の反対側の養心館も時代を感じる建物です。このあたりは末森城の二の丸にあたるそうです。そのまま坂を登ると豊玉稲荷社、そして本丸跡に建つ城山八幡宮。城址碑のほかに本丸跡、空堀跡の案内が建っていました。
境内の案内図ではわさわさの緑の空堀に囲まれ、城址らしさがにじみ出ています。女坂沿いの空堀を見てみました。深い緑が生い茂っていましたが本丸をぐるりと囲む空堀は健在。町なかでこの規模の空堀を見られるのは驚きでした。
織田信秀終焉の地、インプット完了です。
一の鳥居を潜って広小路線方面に出て、次の目的地、星崎城に向かいました。

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higekam

本丸石垣! (2022/06/10 訪問)

長曾我部と羽柴が激突した城。勝利した羽柴が築いた本丸石垣は実際に見ると荒々しく見事。
一部通行止めのようでぐるりとまわれなかったが、四方を見ることが出来、満足。
帰路で土づくりの小倉丸も見たが土塁がなかなかのもの。蔭滝を鎖で下るといういつもとは違う楽しみもあった。

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零汰

よく掘りましたね2:大村城 鹿児島県薩摩川内市 (2020/01/13 訪問)

今回の良く掘った城跡は鹿児島県薩摩川内市にある大村城です。ここも遺構がワイルドで削りっぱなしの雑な城跡です。

大手口から10mも歩くと巾と高さのある堀切道に圧倒されます。左は2郭、右は高土塁というとりまさに城塁です、高さは10mをゆうに超えています。これが外部からの目隠しの役目を担ってます。よく500年残ったものですね。曲輪を遮断するように4.5本程度高さが10mを超える程の堀切が入っています。が、城内は倒竹で思うように進めません、堀切は竹を片付けながら降りてはよじ登るを繰り返しました。南側には横堀が長い距離に渡ってありますが倒竹で綺麗な写真は撮る事が出来ませんでした。滞在時間2時間15分:距離1.8km:累計高低差202m。ですが体感距離は5km程度あったように感じる程です。

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higekam

1350年前に築かれたとは思えないほど (2022/06/11 訪問)

大野城、鬼の城と同類の城は見てきたがこの城門は凄い。
中国の侵略を迎え撃ち、あるいは畿内上陸の背後をつく一大拠点?
この石垣技術が初期の山城から採用されていたら日本の城はどうなっていただろう。

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higekam

城域はおおむね整備されているが (2022/06/11 訪問)

各曲輪名が案内板、案内パンフレットで統一されていないため最初は戸惑った。
結局自分なりに解釈したものの再度訪問して縄張の再確認、まだ見ぬ石垣を探してみたい。
それにしても北二の丸の高石垣の一段上にある石垣も早く整備して見せて頂きたい。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4目:岩野嶽道祖城 (2022/06/08 訪問)

田中城からの転戦です。登り口付近の路肩(32.912129、130.698996)に路駐しました。登り口の石段から主郭まで100mくらいです。

南北朝時代の天授年間(1375~81年)小野良旨によって築かれたようです。
その後、宗氏が道祖城主として入城しました。
宗氏は託麻郡本山城を預かっていましたが、1455年(康正元年)益城郡の大戦で一族70人が戦死するような奮戦をしたため、時の守護・菊池 為邦が感状とともに山本郡岩野荘151町を授け、道祖城に移らせたそうです。
現在残る道祖城はこのころのものと考えられるようです。
1531年(享禄4年)宗久隆退去という記事をもって道祖城の歴史の幕は下ろされるが、この時期は菊池氏の守護職廃絶の前後であり、道祖城も菊池氏とその運命を共にしたとも考えられるようです。

擁壁に石段の設けられた登り口があり、堀道を登ると、左側に竪堀があります。
さらに竹林の中を登ると横堀・土塁があり虎口を登ると、城山頂上に主郭があり、土塁上に祠があります。
攻城時間は15分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かいました。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:田中城 (2022/06/08 訪問)

大津山城からの転戦です。田中城見学用駐車場(33.080041、130.595890)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、古代豪族和邇氏の末裔といわれる和仁氏累代の居城です。
1587年(天正15年)佐々成政の検地に対して隈部城の隈部親永が反発して国人一揆が発生すると、和仁氏と坂本城主辺春親行などが田中城に籠城して成政に抵抗しました。
佐々成政は国人一揆を押さえ込もうとしたが、逆に隈本城に攻め込まれたため撤退し、豊臣秀吉に援軍を求めました。
秀吉は小早川・立花・鍋島などの諸将に命じて田中城を攻撃させ、安国寺恵瓊の謀略によって辺春氏が寝返り落城しました。

小さな独立した丘全体が城域。空堀、捨て曲輪、出丸などが立派に残っています。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=岩野嶽道祖城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:大津山城 (2022/06/08 訪問)

女山神籠石からの転戦です。大津山公園駐車場(33.069161、130.550184)に駐車しました。

1396年(応永3年)に大津山資基によって築かれたと伝えられ、その後代々大津山氏の居城であったと云われています。
豊後の大友義鑑は肥後の菊池義武を鎮圧すると、1555年(天文23年)に小原城主の小原鑑元を城代として置きますが、1556年(弘治2年)謀反の疑いで鑑元は討たれ、再び大津山氏が城主となりました。
薩摩の島津氏の勢力が北上すると、小代氏とともに大津山氏も島津氏に降りますが、1587年(天正15年)の豊臣秀吉の九州征伐では開城して出迎え所領を安堵されました。
しかし、その後、肥後に入封した佐々成政によって所領を奪われ、一揆を起こしたが滅亡しました。
佐々成政に代わって加藤清正が北肥後に入封すると、加藤直政、加藤正次が城代として小代城より入りますが、1600年(慶長5年)鷹ノ原城を築いて移り廃城となりました。

大津山公園駐車場から遊歩道を登って行きました。遊歩道を少し甘く見ていました。段木あれど急こう配箇所が多く、汗びっしょりになりました。。
見所は巨大な竪堀と堀切です。主郭の先に堀切に架かる資基橋➡家稜橋➡新蔵橋➡鑑元橋が続きます。
鑑元橋に行く途中に大きなハチに遭遇してしまい、怖くて引き返した為、鑑元橋は見ていません。ビビりです。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=田中城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:女山神籠石 (2022/06/08 訪問)

蒲池城からの転戦です。女山神籠石入口付近(33.162689、130.519584)に路駐し、女山神籠石を確認した後、九州オルレみやま駐車場(33.163305、130.510459)に向かい、水門を確認しました。

遺構は南山腹部分に伸びる列石と土塁、そして西山麓に残る水門です。
水門は以下の4つがありますが、時間の都合で2つ(①横尾谷水門、②長谷水門)のみ見学しました。
①横尾谷水門(33.165450、130.512737)
②長谷水門(33.164320、130.512730)
③源吾谷水門(33.163300、130.512388):消滅
④産女谷水門(33.160896、130.512598)

詳細は不明です。663年(天智2年)に唐・新羅軍と対峙した日本と百済の連合軍は白村江の戦いにおいて大敗しました。
その後、大陸からの侵攻を恐れ西日本各地に築かれた古代朝鮮式山城の一つと考えられています。

九州オルレみやま駐車場の先に八楽会教団の立派な模擬天守がありました。
山麓の水門は入口に道標が出ています。
攻城時間は移動時間を含めて50分くらいでした。次の攻城先=大津山城に向かいます。

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イオ

高野山(和歌山県伊都郡高野町高野山) (2022/05/24 訪問)

高野山は平安初期に弘法大師空海が開創した真言密教の聖地で、標高1000m超の峰々に囲まれた東西5km、南北1kmの盆地に総本山金剛峯寺を中心とする数多の寺院が建ち並んでいます。高野山は戦国期には寺領17万石、3万の僧兵を擁し、根来寺や粉河寺と並ぶ紀北地方の一大宗教勢力であり、高野山自体は城郭ではないものの、周辺に小規模な城をいくつも配して防衛していたと考えられます。織豊期には織田信長の侵攻を受け(本能寺の変で頓挫)、羽柴秀吉の紀州攻めでは根来寺や粉河寺は焼亡しましたが、高野山は木食応其の仲介により武装解除して降伏し、その後は秀吉や徳川幕府の庇護を受け、江戸期を通じて寺領2万1000石が維持されました。

この日は高野山での仕事が思いのほか早く済んだこともあり、高野山霊宝館の企画展「鎌倉時代の高野山」を見学しました。一番のお目当ては一昨年に約80年ぶりに再発見された「承久記絵巻」で、承久の乱を描いた現存唯一の絵巻物であり、「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時の肖像を伝える絵画はこれだけなんだとか。江戸前期の作とのことで、本人に似ているかどうかは疑問ながら、精緻な筆致で色彩も鮮やかに描かれており、なかなか見応えがありました。その他、高野山だけに仏像が多く展示されていますが、仏像に全く疎い私でも快慶作の四天王立像(重文)には流れるような動きと迫力を感じました。

撮影禁止のため霊宝館内の写真はありませんが、まだ少し時間があったので、壇上伽藍から金剛峯寺までぶらりとひとめぐり。壇上伽藍は開創当初からの高野山の中心地で、開創1200年記念事業で再建された中門、高野山の総本堂たる金堂、日本最初の多宝塔とされる巨大な根本大塔、根本大塔と二基一対として建立された西塔、国宝の不動堂、空海が高野山の地主神として丹生明神と高野明神を祀った御社などが建ち並び、高野山町石道の起点として一町の町石が建てられ、空海が唐から帰国する際に真言密教布教の地を求めて投げた三鈷杵が架かっていたと伝わる三鈷の松(そのためこの松葉は三鈷杵のように三又に分かれています)や、落雷で焼失した大塔の再建を任じられた平清盛が空海と対面したと伝わる対面桜、西行手植えの西行桜など様々な伝承にちなんだ史跡が見られます。

蛇腹路を抜けて金剛峯寺へ向かう道中の石垣の上に建てられている鐘楼は福島正則が父母の菩提のために建立したもので、現在も午前6時から偶数時に撞かれることから六時の鐘と呼ばれています。金剛峯寺は秀吉が大政所の菩提のために建立した青巌寺を前身とし、主殿の柳の間は豊臣秀次が自刃した部屋として知られます(この日は外観だけで主殿には入っていませんが)。

他にも徳川家霊台や金剛三昧院、奥之院にも行きたいところですが、寄り道し過ぎるわけにもいかず、この日はここまで。近場ではあるので、休みの日にでもまたじっくりと訪れたいと思います。
 

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:蒲池城 (2022/06/08 訪問)

生津城からの転戦です。石碑付近(33.186560、130.405008)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、天慶年間(938年〜947年)藤原純友の一族によって築かれました。
その後の蒲池氏の代々の居城となり、蒲池治久の時に支城として、柳河城が築かれ、後に本城が移されました。
蒲池氏は1581年(天正9年)蒲池鎮漣の時、龍造寺隆信に猿楽の催しに誘われ佐嘉に赴いた所を謀殺されると、龍造寺氏によって滅ぼされました。

遺構はなく、 国道385号線から崇久寺の西側の道路に入った所に石碑があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=女山神籠石に向かいます。

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