JR新疋田駅より徒歩約10分で城址に行くことができます。
主郭と周辺に石垣や堀を見ることができますが、どこまで当時のものかは判断できません。
この付近は昔から交通の要衝で、古代には三関(他は鈴鹿関、不破関)のひとつ愛発関(あらちのせき)があったといわれています。(
正確な場所はわかっていなようです) 恵美押勝の乱では越前に逃げようとした押勝でしたが、愛発関が閉じられていたため引き返し討たれています。
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2022/05/26 17:28
愛発関 (2022/05/26 訪問)
JR新疋田駅より徒歩約10分で城址に行くことができます。
主郭と周辺に石垣や堀を見ることができますが、どこまで当時のものかは判断できません。
この付近は昔から交通の要衝で、古代には三関(他は鈴鹿関、不破関)のひとつ愛発関(あらちのせき)があったといわれています。(
正確な場所はわかっていなようです) 恵美押勝の乱では越前に逃げようとした押勝でしたが、愛発関が閉じられていたため引き返し討たれています。
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2022/05/26 14:49
2022/05/26 14:47
2022/05/26 14:35
大垣城 訪問 (2022/05/15 訪問)
順番は逆になりますが、関ケ原古戦場跡を訪問した後に大垣城を訪問しました。
史実通りの復元ではないとどこかでサイトで見ていたので、さっと見学のみして
続100名城のスタンプと御城印をゲットして次に向かいました。
それにしても、映画 関ケ原で大垣城が平山城として描かれていたのは納得できません。
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2022/05/26 14:21
2022/05/26 14:12
2022/05/26 07:01
村上水軍の城跡 (2022/05/11 訪問)
何度も訪れている因島で長崎城址に建てられているホテルで初めて食事をしました。ホテルはお城があったことを想像できる小高い丘の上に建っていますが、案内板がなければ普通気づかないと思います。ホテル内には長崎城の復元模型があり、また中庭に案内板がありました。ホテルからの眺望は素晴らしく、ここが海賊の城であったことを感じさせてくれるものでした。
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2022/05/25 23:43
城と城下町 (2022/05/03 訪問)
江戸時代の真壁陣屋跡に建つ真壁伝承館に寄って資料や出土品などを見学、パンフレットをいただいてから城址へ向かいました。国の重要伝統的建造物群保存地区である城下町を散策しながら10分くらいです。
外曲輪北虎口から見ていきました。通ってきた道が城外の家臣屋敷へと続く道だったことやⅣの堀が畝堀だったこと、また東虎口周辺の様子などもポイントごとの説明板で理解でき、ありがたかったです。復元土塁の上からも眺められます。
東虎口南の小山は城の守護神である鹿島神社。境内であったために残された現存土塁が一気にかの時代へと連れて行ってくれました。
外枡形の土塁が復元された南虎口で敵兵として突破し討たれるところまで疑似体験し、中城地区へ。発掘調査で出土した庭園には茶室や能舞台などもあったそうです。軍事施設中心部につくられた池泉庭園は肥前名護屋に在陣した真壁氏基が影響を受けた可能性があるとのこと。凸凹を覆うブルーシートに文禄・慶長浪漫を駆り立てられます。
発掘調査の成果に基づき復元された土塁や園路などにより在りし日の姿を学び知ることができ、筑波山を背景に上空を悠然と漂うパラグライダーも取り込んだ春の城址を存分に楽しみました。
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2022/05/25 23:27
2022/05/25 23:07
【城と標柱】石碑と城🏯 in 松代 (2021/06/12 訪問)
みなさんの中にも多いと思いますが、僕は毎回石碑と城の遺構をセットで撮るようにしています。
今まで何枚か撮ってきた中で一番綺麗に撮れたものを今回の城ふぉとに出したいと思います。
それがこの松代城碑と太鼓門のツーショットです。
石碑のツツジもちょうど綺麗に咲いており、良い色合いのとても良い写真を撮ることが出来たと思います!
石碑の臨場感はもちろん、太鼓門はかなり後ろにあるにも関わらず、物凄い存在感があり圧倒されます。
松代城と表記されているのではなく、海津城と表記されているのも味があって私は好きです。
もちろん実際に見るのも素晴らしいですが、写真は写真で見る角度などが変わり、特にツツジが映えているように感じます。改めて写真の良さを感じる一枚になりました!
他にも松代城には良い写真の撮れるスポットが多くあるので是非行ってみてください!
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2022/05/25 22:04
【城と看板】
感謝を込めて看板を掃除してから撮影しました。
地元の方と資料館の方が協力して設置したそうです。
看板を読んで、井戸が大切だと知りました。
看板設置はお城の保全活動の一つだと思います。
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2022/05/25 21:16
妙徳寺 (2022/05/15 訪問)
水戸インターからほど近く。
妙徳寺が館跡になります。
山門脇に石碑が立ち、その前の水路は堀の跡と思われます。
お寺の裏手、第二駐車場の縁に土塁が残り、その先に空堀も残っていました。
妙徳寺には加倉井氏の墓もあります。
江戸氏家臣の波木井実正が築いたとされ、後に加倉井氏を名乗ったそうです。
この前に登った難台山城の疲れもあり、楽して遺構を見ることができる城を選択。
遺構は僅かながらここに残っているのが素敵でした。
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2022/05/25 19:56
愛が試されるとき (2022/05/03 訪問)
誇大広告か、言葉の綾かーー。「名城」が乱立する昨今、ややミスリードな推し文句が流布しやすいのも事実。地元愛、大いに結構。と同時に、それに感化されすぎず、現場で見極める「城愛」もまた肝要かと。
葛折を上ること240m超。唐沢山城(栃木県佐野市)は、山頂に本丸を中心とした主郭部を築き、全山に曲輪を配置した堅城。城主・佐野氏は上杉謙信の侵攻を何度も受けながら、最後まで生き残りました。
まれに謙信が「10回攻めても落ちなかった」という記述を見かけますが、これは明らかに誇張で、実際は複数回攻め落とし、残りの数回は積雪で自ら引いたといいます。降伏・開城・裏切りを繰り返す佐野氏側を許し続けた謙信の、当時としては一風変わった人柄が見え隠れするエピソードかもしれません。
遺構の保存状態は良好。過度な宣伝文句に頼らずとも、城好き・歴史好きを十分満足させることができそうです。中でも見所は本丸南西の高石垣。南局の西側に約40m続いており、高さは8mを超えます。
もちろん、この石垣のために謙信が攻めあぐねた、と早合点しないように。実際に佐野氏が築いたのは豊臣秀吉の小田原攻めに協力した後のこと。おもに西日本で導入された技術を用いたため、土造りが主流だった関東では極めて珍しい遺構となっています。時期的な要素を考慮すると、この石垣は実戦に備えたものというよりは、太閤との近しさを領民や近隣大名に見せるための示威行為に近いものではないでしょうか。実に興味深い。
城跡へのアクセスは、路線バスがないため、タクシーやマイカーなどで(駐車場完備)。脚で攻めるなら東武鉄道田沼駅から徒歩約40分(試しに帰りは駆け下りてみましたが、20分程度)。現在、本丸跡には唐沢山神社本殿があり、城跡とは知らずに訪れる家族連れも多いようです。夏場も安心して行ける山城遺構です。
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2022/05/25 19:34
小六ランド建設予定地? (2022/05/04 訪問)
「宮後城」の築城時期は不明です。もともと安井氏の居城でした。
安井 重継さんの時代に重継さんのお姉さんと、蜂須賀 正利さんが結婚。
2人は「蜂須賀城」に居城しました。小六さんも誕生します。
が、織田 信秀さんと対立し、「蜂須賀城」を奪われました。
で、「宮後城」に移ります。
つまり、小六さんは母方の叔父さんに、助けてもらったんですね。
「宮後城」は広い敷地の道路沿いに、碑が立ってます。
ぐるーっと反対側に説明板がありました。
敷地には入ってはいけない雰囲気です。更地です。
これから、整備するのでしょうか?
蜂須賀 小六 正勝さんの野武士時代の武勇伝とか、墨俣一夜城大作戦の話とかを伝える『小六ランド』が出来たら再来したいと思います。
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2022/05/25 19:24
楡沢山城 長野県塩尻市 (2022/05/07 訪問)
全城跡で最も高所にある山城です。標高1754m。
木曽義仲の隠れ城という別名もあります。
「長野県町村誌」には木曽氏砦の其一とあり単なる
伝承だけではなさそうですね。
木曽義仲をかくまうために造られたものであり、物
見を置いたのでしょうか。
全体的に腰の高さまでの熊笹に覆われていて、地形
はわかりにくいのですが、山頂の平場、50mx5mの
土塁状の地形、窪地、大きな横堀などがあります。
この高所での横堀の意味など疑問点も多く、この地
特有の断層、自然地形を活かしているのかな?
”道の駅木曽ならかわ”に駐車して稲荷社のある山の
麓からそのまま城跡のある尾根まで直登しました。
かなりの急斜面でしたが、なにより山頂付近からの
横移動が背丈ほどの熊笹が密集していて凄かったで
す。熊笹の中に潜り平泳ぎのように、、まさに藪漕
ぎでした。麓から3時間の格闘で到着しました。
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2022/05/25 16:34
2022/05/25 16:24
2022/05/25 16:13
2022/05/25 13:38
山家なれども (2022/05/22 訪問)
何度かの美作城廻りで、10mk南西の岩屋城、10km南東の院庄城まで行っていましたが、山地に入り込む葛下城は、いずれも日没で断念。津山近傍で一つ未登城(城びと登録内で)として残ってました。そして城びとでもこの付近で唯一未投稿で残された城でした。
山深いところでしたが、北〜東麓を流れる吉井川は津山を経て瀬戸内海までの重要航路であり、山麓の湯指の川湊は栄えたと。また、出雲裏街道も城の北麓を走ります。重要拠点で経済力もあったのでしょう、最終的には、毛利による改修を受けて、葛下城は、東西1100m、南北300mと大規模です。岩屋城では家臣の屋敷群は大手に至る開けた谷に並んでますが、葛下城は山麓に平地はなく、山腹を平削してたくさんの家臣屋敷地が確保されています。ちなみに、葛下城主の中村頼宗は、岩屋城を攻略し、岩屋城主になりました。
山続きになる西側の尾根に岩を穿って深い堀切が作られています。他にも見ごたえ箇所たくさんあり。
城域は個人所有(南の谷を入っていく三叉路に葛下城の標識棒があり、裏面に所有者の名前が書いてあります)のためか、写真を掲載した説明板は、川を挟んだ集落の道沿いに立っています。城域は草刈や標識設置がされていますが、手が回りにくくなってそう。それよりも、登城口までであった林道を凄い勢いで延長されてます。下調べでは林道の突き当たりが登城口とあったので、おかしいなと思いつつだいぶ行きすぎました。
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2022/05/25 12:33
天空の城 (2022/04/30 訪問)
大野城は亀山と呼ばれる独立丘陵に本丸を築き、二の丸、三の丸を配した平山城として築かれたとのことです。現在は亀山公園として整備されており、麓から天守のある城跡までは階段が整備されていました。駐車場も無料で準備されており、とても便利でした。遺構としては、山頂の本丸跡に素晴らしい石垣が現存しています。建造物としては、櫓門であった鳩門の門部分が光明寺山門として移築現存しています。また、7代利忠の隠居所が無料休憩所「藩主隠居所」として移築現存していました。本丸跡には模擬天守と城門が建てられており、天守内部は資料が展示されています。町を上げて芝桜の栽培がおこなわれていて、お城とのコラボレーションが絶妙でした。また車で数分のところに朝倉義景公、鳥居景近、高橋景倍のお墓もありました。
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