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しんちゃん

誤射とはいえ命中させたのはすごいぞ。 (2023/08/12 訪問)

松帆台場は安政5年(1858)に江戸幕府14代家茂の命により、
徳島藩によって工事が始まり、文久元年(1861)竣工しました。
明石海峡対岸の舞子台場と黒船を挟み撃ちにするのが目的でしたが
本来の目的に使用される事はなく
文久3年(1863)7月に幕府の3本マストの軍艦朝陽丸(オランダより購入)
を誤って砲撃、柁付近を破壊しています。
砲台指令の長坂三知は切腹していますが、良く考えると
「勿体ない!」当時の幕府で航行中の艦船に砲弾を当てられる人材は
貴重だと思いますよ。そもそも攘夷だ開国だと判断がブレブレだった
幕府に責任があると思います。
うん、三知氏は悪くない!(本当か?)

かつては13門の大砲が真北に砲口を向けていたそうです。
現在は「ゆうなぎ荘」の敷地になっています。

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にのまる

②下調べなしで行っても楽しくお散歩できるやさしいお城でした。 (2023/06/23 訪問)

盛岡城見学のあと、東北本線で花巻に移動しました。
2010年にお買い物をした懐かしのイトーヨーカドーを左に見て、早坂御門跡から坂を登ります。
左手の石段を登ると西御門が見えました。手抜かりのない正門復元を目指したことが伝わってくる本格的な構えです。(そう感じた理由は後でわかりました。)
門を潜ると土塁の配された本丸。菱櫓からの眺めもよく、御台所前御門の枡形がとてもいい感じです。説明板の古図には天主台の文字もあり、天守があったという記録はないようですが格式高い建物が映えそうな雰囲気でした。
御囲穀御蔵前御堀跡、鐘撞堂前御堀を越えると花巻小学校校庭と武徳殿のある二の丸です。東御門付近の土塁、中御門跡など確認し、見学のメインはこのあたりまでかなと思ったのですが、せっかくなので少し離れたところの馬場口御門、円城寺門まで行ってみることにしました。
焔硝蔵前の虎口の雰囲気の残る門跡。ここが東御門で、通りに出ると臼堀跡、その先に馬場口御門がありました。
下調べなしで来たにも関わらずここまでスイスイとチェックポイントを見逃さずにまわれたのは遺構のないところにも立ててくださっている標柱のおかげです。ありがたいです。
円城寺門は馬場口御門から少し進んだ鳥谷崎神社社務所前にありました。
神社にお寺の門があるのは不思議な感じもしましたが、円城寺門は花巻城の搦手門で、元々この近くに円城寺というお寺があり、その近くの坂に建てられたのでそう呼ばれたそうです。明治4年の城郭取り壊しの際に個人に払い下げられてその方のお宅の門となり、約60年後に別の人の手に渡って鳥谷崎神社の境内に移築、戦中戦後の荒廃でほぼ柱だけの状態になってしまったものが復元され、現在の位置に据えられたということでした。(現地説明板より。)
ぽかんと口を開けたかわいらしいコアラのような門にそんな歴史があったなんて。お城の歴史はどのような形であっても大切に思う人がいたからこそ未来へと受け継がれていくのだと思った次第です。
そして門の内側にまわってみた時に、あっ、これだ!とピンときました。最初に見た本丸の西御門によく似ています。西御門は復元の際にこの円城寺門を参考にしたのではないかなぁ。
ここまで来たら円城寺門跡(元々あった場所)まで行ってみます。見晴らしのよい崖の上で、円城寺坂も健在。門の向きも古図に描かれていたので、コアラさんを脳内で元の場所に戻してみました。
崖の下の広場には古図通りの観音堂もありそうです。これは町なか探検をしたら楽しそうじゃないですか?
ということでそのまま歩いてみることにしました。
重ね地図(これが本当にありがたかったです!)にある上御堀に沿って市役所方面に向かいます。右手に崖のある何でもないけれど高低差のある道路が堀跡の空気を漂わせています。間もなく時鐘が見えてきて市役所入口付近に到着。梯郭式縄張の南の隅にあたるこの場所に大手門の碑がありました。周辺の道路もあまり大きくは改変されていないようです。
時鐘は盛岡城の鐘として鋳造されたものが“小さかった”ために花巻城に移されたのだそうです。
濁り堀跡、城内藩学揆奮場跡等の標柱を確認しながら花巻小学校まで戻ってきました。中御門は古図にも櫓門が描かれていますが、今でも狭い道路に枡形の面影があって感動!スピードを落とした車が曲がって入ってくる様子は結構好きな光景です。
御役屋跡、鍵御堀跡、長屋前御門跡と確認しながら戻っていると「花巻城跡(鳥谷ケ崎城跡)」の石碑がありました。
スタート地点の早坂御門に戻って見学終了、花巻駅に戻りました。駅は町の玄関口というイメージがあるのですが、ここは町の後ろに駅がある、という印象でした。
約2時間の花巻散歩は小さな町に城の痕跡をさがす、ちょっと大人の城散歩でした。(本人はちょっとどころではなくだいぶ大人ですが。)

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しんちゃん

戦国の習いとはいえ長宗我部氏もエグい。 (2023/08/14 訪問)

牛岐城は現在牛岐城址公園になっていますが、遺構の大半は
開発によって消滅しています。
石垣の一部が牛岐城址館の中に保存されていて、
公園の管理人に頼むと中を見学させてもらえます。
牛岐領には観応2年に足利義詮の家臣安宅氏が入りましたが
南朝方に与したが破れ、阿波守護細川頼之家臣、新開氏が
牛岐に入ったと伝わります。後に長宗我部氏の軍門に下りますが、
このころには牛岐城の記述がみられます。土佐物語にも牛岐城の
記述が見られるようです。長宗我部氏は自らの軍門に下り、従軍していた
武将にも信頼を置かなかったらしく、新開道善入道は丈六寺へおびき出され
謀殺され、今でも血天井が残っています。
一宮城主、一宮成助も翌11月7日に夷山城で弟、一宮主計頭・家臣星合六之進と
共に謀殺されています。道善嫡子式部少輔、道善甥の新開右近、桑野河内守、野田采女正、
河内駿河守も相次いで殺されています。
しかし天正13年、豊臣軍による四国侵攻で長宗我部氏の勢力は牛岐城を追われ土佐へ
退いていきました。

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しんちゃん

阿波公方(平島公方)墓所 (2023/08/14 訪問)

徳島県阿南市那賀川町の西光寺に阿波公方・川島公方家の
墓所があります。囲いと門付きの墓所には初代川島公方
足利義冬公の墓があります。
そして義冬の子で14代将軍となった悲運の人物
足利義栄公の墓もあります。
将軍でありながら京に入ることができず、等持院に唯一
木造が無いお人であります。
細川氏、三好氏、長宗我部氏にいたるまで公方家の権威には
敬意を払っては来たのですが、徳島藩主の蜂須賀氏は
露骨な嫌がらせ(いじめに近い)を行ってきています。
禄高を一挙に百石内外に削り、公方四代目の義次を平島又八郎と
名乗らせるなど目に余るものがあります。
徳川将軍家の時代では足利氏の権威というのは邪魔な
存在だったのかもしれません。
京都に移ってからも冷たくあしらわれ
流浪同然の暮らしだったというので、正直残念な話だと思います。

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しんちゃん

公方一族の栄枯盛衰 (2023/08/14 訪問)

平島館は室町時代11代将軍足利義澄の次男、義維(後の義冬)
が阿波守護職、細川持隆に招かれ天文三年(1534)に当地に
入って以来250年間、平島公方の居館でありました。
文化2年(1805)徳島藩主蜂須賀氏の陰湿かつ執拗な嫌がらせに
ついに耐え兼ね、平島公方家は紀州へ去り、その後、京都に
帰還したのですが、誰も暖かく迎えてくれず、流浪同然の
暮らしだったと伝わります。
平島公方が平島を退去した後、居館は破壊され、玄関・書院は
小松島市地蔵寺に移築、花垣門は阿南市吉祥寺に移築され
往時をしのばせます。那須川町赤池西光寺には公方一族の
墓所があります。

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tp.etsu

お堀にかかる橋… (2023/06/23 訪問)

お仕事の間に散策。
有料公園の中にあるので、とても綺麗に整備されてました!

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tp.etsu

雪の中… (2023/02/10 訪問)

寒かった…。
お仕事の都合で、夜しか行けず。
でもキレイ(-ω☆)

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しんちゃん

城主も城址も散々である。 (2023/08/14 訪問)

津田城は元八幡神社があったという標高87mの津田山に
あったとされています。
主郭部の北側は失われているようで、ロープが張っていない箇所で
崖になっている箇所もあります。近づかないほうが良いでしょう。
下側には郭が残っています。
城主桑村隼人亮は日奉氏の家系で、鎌倉時代の井戸城主薬師寺政村の
後裔です。三好義賢のために兵器を堺で買ったが
帰途、淡路の生石崎沖で海賊に襲われ戦死したと伝わります。

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ぴーかる

蜂須賀家政生誕地 (2023/07/22 訪問)

【宮後城】
<駐車場他>駐車場はなし。<35.342515, 136.884938>ポイントの住宅予定地の空き地道路脇に停車しました。
<交通手段>車

<感想>2週連続日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第2弾4城目。宮後城の築城年は定かではありませんが応永年間(1394~ 1428年)には安井氏が居城していたとされます。戦国時代には安井重継が居城しており、重継の姉の安井御前は蜂須賀正利(蜂須賀正勝の父)に嫁いで蜂須賀城に居城していました。蜂須賀城は織田信秀との対立により領地・城を奪われ夫と夫の子正勝と共に宮後城に移り住みます。蜂須賀家政はこの地で生誕したとされます。城主の安井重継は蜂須賀正勝に家督を譲り安井氏は蜂須賀家に吸収されます。ちなみに安井重継の長男長吉は妻方の浅野長勝(秀吉の妻おねの養父)に養子に出されて家督を継いで浅野長政となります。木下秀吉と蜂須賀小六正勝との出会いは妻おねの縁故だった説を私も思いました。
 現在城びとポイントの場所は住宅建設中で城跡碑も説明板もありませんでした。道路を隔てた北側の蜂須賀家政生誕地碑を撮影して終了した。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

発掘調査では堀が見つかったらしい。 (2023/08/14 訪問)

魚住城は周囲に対して少し小高くなった住宅地の中に
有ります。一区画が小さい公園になっていてそこに
案内板が立っています。それによると、南北朝時代の初めに
赤松氏の一族であった魚住太夫判官長範によって築かれたと有ります。
天正6年(1578)に羽柴秀吉が別所長治の三木城を攻めた際、別所氏に
味方していた魚住頼治が三木城への兵糧補給に適した赤根川河口付近の
西嶋村に城を移したと有ります。
周囲には城柵を設け、毛利方からの兵糧を陸揚げし、卜部安知に
指揮をさせて三木城に運んだとされています。
天正8(1580)に三木城が落城すると、魚住城も廃城になったと
いうことです。

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小城小次郎

単なる偶然か運命の糸か (2023/01/28 訪問)

深溝から大庭氏を駆逐した五井松平家から分家した深溝松平家は後に島原藩主となるが、島原の乱で総大将を務めて不慮の死を遂げた板倉重昌の家系が旗本として明治まで深溝を領しているのは単なる偶然か運命の糸か。

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しんちゃん

囲まれたら和睦。 (2023/08/14 訪問)

枝吉城は吉田郷土館の背後、神本神社のある丘陵に
築かれています。本丸が城址公園になっていて、
城址碑があります。登り口は二つありました。
一つは神社の左手奥から続いている道があります。
もう一つは郷土館から左手に入り、玉津王塚古墳の
模型のあるあたりから城址に続く道があります。
かつては赤石氏の被官であった明石氏によって築かれたと
されています。
枝吉城は天文7年(1538)明石正風の時に赤松・細川連合軍に囲まれ
戦わずして和睦(降伏)しています。
天文23年(1554)明石某の時にも三好実休らに囲まれ、駆け付けた
三好長慶の大軍に怖れをなしてか、あっさりと和睦しています。
無理をしないポリシーのようですね。

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しんちゃん

いいのかな。 (2023/07/16 訪問)

西方院山城は瑜伽神社のある丘に築かれた城で、かつては
神社側からアクセスできたと思われますが、危険とのことで
施錠され立ち入ることができません。
乗り越えるわけにもいかず‥
かつて隣の鬼蘭山城とつながっていたということは
あっわかりやすい登り口が、二分後にはもう城域にいました。
登ってすぐ郭に到達し、堀切と土塁に土橋がかかっているので
それを渡ると主郭です。なかなか良く遺構が残り
東に二重の堀切があり、周囲も土塁が残ります。
遺構を見たらそそくさ退散。
奈良ホテルへ向かいます。

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しんちゃん

大乗院庭園 (2023/07/16 訪問)

鬼薗山城は古市氏が対立する筒井氏に備えて築いた城で
かつては西方院山城とつながっていたそうです。
現状、奈良ホテルの敷地内になっているそうで
警備員に止められないか心配でしたが、問題なく
見学できました。遺構は見当たりませんが
大乗院庭園がすぐ近くにあり、無料で見学することができます。

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カズサン

真夏の諏訪原城・北馬出と復元薬医門 (2023/08/21 訪問)

 諏訪原城築城450年イベントの一つで中馬出・三日月堀の景観を高所からの見晴らしとして仮設展望スタンドが架設されて素晴らしい俯瞰を見る事が出来ます。(期間中)
 素晴らしい景観を見た後、中馬出の北に続く北馬出に平成28年復元された薬医門・令和3年と4年に復元された板塀(現在は鉄骨剥き出し塀)を眺めながら、続く壕と北側の大井川と富士山の景観を眺める事を楽しみにしていますが、真夏の蒸し暑い蝉しぐれの中、富士山を遠望することは叶わない。
 北馬出、復元薬医門、復元板塀こと赤い鉄骨塀を真夏の酷暑の中、眺めて楽しみました。
 

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todo94

城カード第3弾再建天守シリーズ① (2023/08/09 訪問)

この夏の北海道はゴールデンカムイの聖地巡礼が目的でしたが、松前城の城カードを外すわけにはいきません。函館から往復すると半日がつぶれてしまいますが仕方ありません。天気予報はずっと芳しくなかったのですが、見事な晴天に恵まれました。北海道らしからぬ暑さを味わうことにもなってしまいましたが。

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トク

64【関ケ原の26人】(23)石田三成 (石田三成と名護屋城①) (2023/08/20 訪問)

(23人目)「石田三成」の続きです。
関ケ原の戦いの伏線となった「名護屋城」を訪れてきました。

ここに当時大坂に次ぐ日本第二の都市があり、20万以上の人口で賑わっていたとは、何度訪れても、やはり今のこののどかな風景からは想像がつきません。登城する前に登城口前にある県立名護屋城博物館をまず先に見学してきました(写真①)。ここでは、元寇から秀吉時代の名護屋城や朝鮮出兵の様子が詳しく展示解説されています。また黄金の茶室が昨年は期間限定でしたが、今では常時観覧できるようになっていました(写真②③)。この立派な博物館が何と無料で入れます。しかも複数人いればバーチャルVRを無料で借りる事ができ当時の名護屋城をVR体験する事ができます(身分証要)。名護屋城も入城無料です(気持ちだけ清掃協力金100円お願いしますとの事、代わりにパンフレットもらえます)。佐賀城本丸御殿も無料だったので、佐賀県は実に「がばい!」と改めて思いました。

城の大手門跡(写真④)から本丸まで大きな石垣が多々見えますが、その近くにごろごろところがっている無数の石があます。これは一国一城令で寺沢広高が破却した跡です。それが今でも残っています。あまりに石垣が立派すぎたからか、壊しきれず中途半端な破却で終わっているのがよくわかります。大手門を過ぎると太閤道(写真⑤)と東出丸(写真⑥)を通り、また破却できなかった石がゴロゴロ転がる三の丸を抜けると本丸に着きます(写真⑦)。ここには畳300畳分の大広間を持つ巨大な御殿がありました。そして天守台には五重六階の巨大な天守がそびえていました(写真⑧⑨)。

慶長の役では三成自ら軍目付として渡海、しかし各地で日本軍が敗戦しているのを真の当たりに見て、前線の小西行長に和睦の仲介を託し、戦を止めようと名護屋に戻り状況を秀吉に報告しますが、当然秀吉は納得せず、返って前線で戦っている諸将たち(武断派)の怒りを買う内容になってしまいます。そして秀吉死後、武断派の怒りは収まらず、三成襲撃事件へとつながり、三成は家康の仲介で佐和山に籠り蟄居の身へ・・・

私は天守台に立ち海を眺めて考えてみました。三成も名護屋城の天守からどんな思いでこの海を眺めていたのでしょうか? 家康は憎けれど、同じ秀吉の小姓として仕えた者同士と、この後に関ケ原で戦をする事になるとは、本望ではなかったのではないでしょうか? 結局ここが、今まで順風満帆だった三成の人生のターニングポイントの場所になってしまいました。

次は(名護屋城②)石田三成陣跡と、前回は呼子のイカを紹介しましたが、今回はこの名護屋での私のお気に入りの場所を御紹介します。
 

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しんちゃん

詰めの城の奥丸 畝状竪堀。 (2023/08/14 訪問)

秋月城の詰めの城は奥丸と呼ばれ、秋月歴史公園になっており
車で行くことができます。
道は狭く、急坂ですが5ナンバーくらいのサイズであれば
問題なく到達でき、駐車場もあります。
入り口は獣害よけの針金でぐるぐる巻きにされていて、
さすがに面倒なのでよいしょとまたいで入りますが
あまり行儀はよくないです。
山頂部に郭があり、途中にも展望台の郭、東屋の郭がありますが
展望台の階段は傷んでいるかもしれないので、登らない方がよいかも
しれません。山頂部からの眺めもイマイチ。
でも東屋の郭の左右に竪堀があるようです。向かって右側の方が
良く見えますね。畝状竪堀のようです。
奥丸から下った先、駐車場の西側に池があるようです。この付近に
五輪塔があるようですが未確認です。

秋月歴史公園駐車場
徳島県阿波市土成町秋月明月82−2
34°06'12.6"N 134°18'52.7"E
34.103505, 134.314643

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しんちゃん

四国管領細川氏の居館跡 (2023/08/14 訪問)

秋月城は県道139号線によって南北に分断されており
その周囲を巨大な堀がめぐり南北も堀切によって
分断されていたようです。城址碑のある北側の郭が
主郭のようで現状墓地でヤブ化が進んでいます。
城郭大系に寄ればここが南北朝時代に四国大将・四国管領
として四国の守護に号令した細川氏の居館跡ということです。
阿波の吉野川流域の武士たちが足利尊氏に協力し湊川の戦いで
楠木正成を破る強力な兵力になっていたそうです。
戦国期には秋月五郎左衛門光秋が城主を務め、天正年間に落城。
本丸の一角に秋月城主及び戦没将士の墓 があるそうです。

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しんちゃん

西へ東へ (2023/08/14 訪問)

西条城は西条東城とも呼ばれ、かつての居館跡の丘の南に祠と
城址碑があります。遺構は有りません。
吉野町の「三木家系図」には貞和2年(1346)左近将監備前守春之が
秋月城の支城として築城したとあります。
天文年間、岡本美作守清宗の時代に長宗我部元親の攻撃を受け
落城。天正14年(1586)蜂須賀家政がこの城を阿波九城の一つとして
修復し、後の一国一城令により廃城になったと伝わります。

西条西城は阿波市吉野町字蛇池にあり、現状畑地でビニールハウスの
近くに城址碑が残っています。
かつては西条壱岐守の城で中富川の合戦で討ち死にし天正10年に
落城と伝わります。

西条東城 入り口付近
徳島県阿波市吉野町西条町口132
34°05'57.6"N 134°22'58.0"E
34.099322, 134.382787
狭い道を入っていきます。

西条西城跡石碑
徳島県阿波市吉野町西条蛇池139−7

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