みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:中島城(城びと未登録 福岡県柳川市) (2022/06/07 訪問)

塩塚城からの転戦です。西鉄中島駅から徒歩5分ちょっとで、説明板付近(33.120458、130.436114)に着きました。

鷹尾城に付随する支城の一つで、立花宗茂が柳河城主のとき、その重臣立花(米多比)鎮久を鷹尾城に置き、中島城の勤番も兼ねさせました。
柳河城に田中吉政が封ぜられたときには、鷹尾城に入った宮川才兵衛に中島城も与えられました。

遺構はありませんが、案内板とその隣には小さな祠が祀られていました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=慶長本土居跡(城びと未登録 福岡県柳川市)に向かいます。

+ 続きを読む

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:塩塚城 (2022/06/07 訪問)

辰ノ口城(城びと未登録 長崎県五島市)から飛行機(五島福江空港➡福岡空港)と電車を使い塩塚駅に着きました。
塩塚駅から徒歩10分弱で、模擬模型&石碑付近(33.142129、130.426642)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、柳河城主蒲池氏の支城です。 1581年(天正9年)蒲池鎮漣は龍造寺隆信に猿楽の催しに誘われ、佐嘉に赴いた所を謀殺されました。
これを機に柳川に侵攻した龍造寺氏は、まず柳河城を攻め落とし、その勢いをもって塩塚城に攻め寄せました。塩塚城には柳河城を脱した蒲池鎮漣の夫人・子供等がいましたが尽く討ち果たされました。

遺構はありませんが、工場脇の道路の石碑と模型の模擬天守があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=中島城(城びと未登録 福岡県柳川市)を目指す為、電車で塩塚駅から西鉄中島駅に向かいます。

+ 続きを読む

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:辰ノ口城(城びと未登録 長崎県五島市) (2022/06/07 訪問)

福江城から徒歩15分ちょっとで、住吉神社参道入口(32.684827、128.846970)に着きました。石碑は参道入口の道路反対側にあります。

築城年代は定かではないようですが、1388年(元中5年)宇久勝が岐宿城より辰ノ口城へ移ってきたのが始まりとされます。
九代宇久勝の後も代々続きますが、1507年(永正4年)十六代囲のときに玉之浦納の反乱によって辰ノ口城は落城、宇久囲は城を脱しますが黒島で自刃しました。
このとき囲の嫡子三郎は平戸の松浦氏を頼って落ちました。1521年(永正18年)三郎は宇久盛定と名乗り、松浦氏の援助を受けて福江に上陸し玉之浦納を打ち破って宇久家を再興を果たしました。
辰ノ口城は住吉神社の参道入口付近の畑地の辺りに築かれていたそうです。
遺構はありませんが、参道入口の向かいに石碑があり、宇久氏ゆかりの石祠が祀られています。

辰ノ口城(城びと未登録 長崎県五島市)に行く途中、岩川井戸がありましたので、こちらも写真を投稿します。
攻城時間は5分くらいでした。辰ノ口城(城びと未登録 長崎県五島市)から五島福江空港までは徒歩30分くらいかかりました。
次の攻城先=塩塚城(福岡県柳川市)に向かう為、五島福江空港から福岡空港へ飛び、そこから塩塚駅を目指します。

+ 続きを読む

歴史案内活動【令和4年6月18日(土)9:30~12:30】 (2022/06/18 訪問)

こんにちは、躑躅ヶ崎歴史案内隊のEこと上田絵馬之助です。

躑躅ヶ崎館跡の歴史案内活動を行います。
関東甲信越は梅雨入りし、雨模様の今日このごろですが
武田神社では6月30日に半年分の祓いをして夏に備える神事「夏越祓(なごしのはらえ)」が行われ、
境内には大きな茅の輪(ちのわ)が設けられ、参拝客が茅の輪くぐりができるようになっています。

日時:令和4年6月18日(土) 9:30頃~12:30頃
  (雨天の場合、25日(土)または26日(日)に延期します。)
参加ガイド:局長・大塚與左衛門、民部少輔(弥三郎)景政、上田絵馬之助

◆武田神社境内に今日も残る数々の城郭の痕跡を、個性豊かな甲冑ガイドがわかりやすく楽しく案内します。
◆案内時間は10分~30分、ご都合に応じて調整できます。
◆ガイドは無料です。
◆バスツアーなどの自由時間にあわせた案内も可能です。
◆雨天等により中止の場合があります。
◆案内に先立ち検温等のCOVID-19感染対策を行っていただきます。
◆また、感染防止のため甲冑ガイドと一緒に写る記念撮影はご遠慮いただいてます。
 甲冑ガイド単独の撮影は可能ですので、撮影者間の距離を保って撮影ください。
◆案内活動は武田神社様の承認のもとに行ってますが、当隊そのものは武田神社様とは無関係の有志団体なので
 活動に関する武田神社へのお問い合わせはご遠慮ください。
 問い合わせ、連絡は当隊公式ツイッター(https://twitter.com/KoufuSamurais)へお願いします。(E)

+ 続きを読む

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:福江城 (2022/06/07 訪問)

江川城(城びと未登録 長崎県五島市)から徒歩5分ちょっとで、五島観光歴史資料館(32.694023、128.846890)に着きました。
まずは続100名城スタンプを押印してから攻城です。

築城年代は、1617年(元和3年)、1638年(寛永15年)など諸説あるそうですが、 いずれにしても唐津藩主寺沢広高の設計で福江藩二代藩主五島盛利によって築かれました。
五島氏の出自は詳らかではないが、松浦党の宇久氏を祖とします。宇久氏は宇久覚の頃に福江島まで勢力を拡げ岐宿城に入り、宇久勝の頃には辰ノ口城を居城として五島列島の大半を勢力下に収めました。
1507年(永正4年)宇久覚の家督を継いだ宇久囲でしたが、妹婿である玉之浦城主玉之浦納の反乱によって討たれました。
宇久覚と平戸松浦弘定の娘との間に三歳になった三郎がいましたが、辛うじて祖父の平戸松浦弘定を頼って落ちていきました。
1521年(大永元年)元服して宇久次郎三郎盛定と称した三郎は、松浦弘定の援助を受けて玉浦納の館を急襲しました。
不意を突かれた納は嵯峨島へ逃れていきましたが、追手に追い詰められると自刃して果てました。
1526年(大永6年)宇久盛定は江川城を築き、以後宇久氏の居城となりました。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦では宇久玄雅は軍勢を率いて赤間の関(下関)まで行きましたが、玖島城主大村喜前の意見もあって東軍となり所領を安堵されました。
福江藩(五島藩とも)は15,530石で江川城を居城として始まりました。
1614年(慶長19年)に居城であった江川城が焼失したことから石田陣屋が築かれ、幕末までこれを居城としました。
1661年(寛文元年)五島盛利の三男五島盛清が3,000石を分与され、翌年富江陣屋を構えて交代寄合となり、福江藩は12,000石余りとなりました。
1806年(文化3年)に異国船防御を理由に幕府に築城を願いますが許可されず、1849年(嘉永2年)五島盛成のとき、幕府から築城許可がおり、1863年(文久3年)に石田城が完成しました。
この石田城はそれまでの石田陣屋を改修したものでした。

石田城はもともと福江港に面した城で、現在本丸は五島高校の敷地となっています。
五島高校の本丸を囲む内濠、外濠公園や五島邸の付近に外濠が残されています。
二の丸にある五島邸は五島氏庭園として国指定名勝にもなっていますが、訪問日は休館日(火水曜日)でした。月曜日が休館日だとかってに誤解していました。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=辰ノ口城(城びと未登録 長崎県五島市)に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:江川城(城びと未登録 長崎県五島市) (2022/06/07 訪問)

博多港を前日の23:45出航の野母商船/太古に乗船して、福江港に8:15分に着きました。
船中泊で移動したので、博多港を出航する前に博多埠頭第2ターミナル近くにある「みなと温泉 波葉の湯(9:00~25:00)」で入浴しました。
目標の福江城五島氏庭園が9:00開園なので、その前に城びと未登録ですが、江川城を攻略します。
福江港から徒歩10分ちょっとで、明人堂前(32.698532、128.842740)に着き、そこから徒歩5分圏内に、六角井戸入口(32.697305、128.843287)とホテル入口にある石碑付近(32.697117、128.844779)に着きました。

1521年(大永元年)宇久盛定によって築かれたと云われています。
宇久盛定は宇久氏十七代当主ですが、父の囲は1507年(永正4年)に玉之浦納の反乱によって自刃に追い込まれ、盛定は幼少のときに平戸の松浦氏を頼って落ちていました。
1521年(大永元年)元服した盛定は松浦氏の援軍を得て玉之浦納を討ち宇久氏を再興しました。
宇久氏は盛定より江川城を居城として代々続いていますが、1614年(慶長19年)火災によって焼失、その後は石田陣屋を築いて移っています。

遺構はありませんが、五島第一ホテルの脇の石碑、明人堂や六角井などの史跡がわずかに残っています。
明人堂は福江に来航して通商を求めた明人王直に対して、貿易を許可し居館として与えられた地の一角に祖先を祀る廟を建てたのが始まりと云われ、六角井は飲用水を得るために掘られたものだそうです。
攻城時間は移動時間を含めて20分くらいでした。次の攻城先=福江城へ向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小城小次郎

さながらひとつの都市のようだ (2022/01/10 訪問)

赤松氏中興の祖である赤松政則が応仁年間に築いた巨大城郭はあたかもひとつの大きな都市のようだ。言い換えれば主郭への求心力が低い群郭式とも見え、戦国大名化が図れなかった赤松氏の立ち位置を表象しているのかもしれない。

+ 続きを読む

赤い城

武蔵と上野の境目 (2022/06/04 訪問)

神保原駅から徒歩で25分くらい。
金窪城址公園周辺が城跡です。
公園の前に石碑と説明板が立っています。
これが土塁のようにも見えますが遺構なのかは?
公園の北側に忍保川が流れています。
周辺を歩いてみましたが明確な遺構は分かりませんでした。
築城は新田義貞と云われていますが戦国時代には神流川の戦いで滝川一益が北条氏と戦った城です。
結果大敗し、落城してしまいました。
今はお年寄りがグラウンドゴルフを楽しむ憩いの場となっていました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

北風の又三郎

最高の石垣 (2022/05/04 訪問)

新宮城に行きました。

新宮城は、新宮市にあるお城で、石垣が主な遺構です。また、山の中を紀勢本線が通っています。

石垣が、とても見事なのですが、崩れかかっていました。もうちょっと整備してほしいです。新宮城で特徴的なのは、水の手です。水の手は、川に面しているところで、当時は、海へつながる港のような物だったそうです。木道からは石垣が見れます。他にも、ケーブルカー跡など、他の城にはないものがたくさんあります。

#は廃止しました。城びとの編集部の方にお願いです。#の機能を追加してください。お願いします🤲

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

柳本城/柳本陣屋 (2022/05/08 訪問)

【柳本城】
<駐車場他>障害者ふれあいセンター・黒塚古墳展示館駐車場<34.559979, 135.844478>6台程度あり。
<交通手段>JR柳本駅から徒歩

<感想>日帰り列車で奈良盆地1周ちょこ城巡りの旅4城目。柳本城は中世に黒塚古墳を改変し楊本氏によって築かれたと云われる古墳城と、現在は柳本小学校になっている織田有楽斎長益の5男尚長が1万石を分地してもらい柳本藩を立藩し築造した柳本陣屋跡があります。
 古墳城のほうの築城者の揚本氏は十市氏に対抗し争ったがやがて没落し城は十市氏のものとなります。黒塚古墳を改変しそれを中心とした城郭構造をしていたようなのですが現在は中世の城跡の表記は少なく前方後円墳の前方部と後円部のくびれ部分を堀切にした発掘調査の説明板があります。現在は埋め戻されています。
 陣屋跡の方は大書院と玄関が橿原神宮に移築されています。現地は小学校正門西側壁に説明板、石垣が一部、家老屋敷(私邸宅)が残されています。JR柳本駅はなまこ壁の長屋門風で素敵。

<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

零汰

そこに城があるから行ってみた:1.1、雄八重(おばえ)城:2.1、銀鏡(しろみ)城

日本城郭体系を始めて眺めた時からずっと思っていた事がある。「なぜ城郭の歴史や背景ばかりしか書かれていないのだろう」と。城郭自体の情報が欲しかったのできっと縄張りとか絵図とかが載っているはずと思っていた。記載されていない訳では無いが極端に少ないのだ。

後日譚
雄八重城と銀鏡城を満足訪問を終え、何か月か経った頃に久しぶりに投稿してみようと2城の写真を眺めた。眺めるとしっくりこない。
実は2城共訪問した時に小さい疑問があった。訪問時は思いがけない石積を見て感激でさほど気に留めなかった。再度見直すと疑問が大きくなり考える事をほっといて投稿を辞めた。

今年の3月までに、雄八重城より東、国道219号線周辺の20数か所の城訪問が終わった。その結果おかしな事に気が付いた。どの城もまともな石積が全く無い。すると今回の2城を思い出されて釈然としない。が、そのままにしておいた。

終活2を終えてから物足りなさを感じて鹿児島のマイナーの城跡を10数城廻った。するとどうも気になり考え込む城跡が2城あった。
事例は同じではないが、またもや今回の2城を思い出した。先週の話である。

モヤモヤが晴れずに各媒体を調べ、柄にもなく城の背景を調べだした。因みに伊東48城には他にも米良氏の城が幾つかあるが石積は無い。すると「なぽのホームページ」で2城の訪問記録が見つかった。2城の石積にも触れていた「当時の石積だったら凄い」みたいなぼかした表現。それから程なく宮崎城郭報告書を見ると雄八重城の切岸の石積は近世か?との表現。銀鏡城は縄張り図に石積表記があるが文章には石積の表現が無い。城郭体系に至っては背景のみで城についての記述な全くない。

要は調査しても歴史的背景の資料が残っておらず確証が持てずに表に出せられないのが真相ではないか、と自分なりに結論付けた。そう考えると様々な事が整理できる。私はこれまで大きな勘違いをしながら訪問をしていたらしい。

今回の2城についてだが、例えば地元の歴史書などに(16〇〇年~16〇〇年の〇年にかけて石積の改修を行った)などと記録が残っていたらこの2城は表に出てきたのかではないだろうか。今は納得しないままで投稿しなくて良かったと思っている。

話は冒頭に戻る。つまり城の世界では歴史的背景が重要である、そう考えると城郭体系の内容も理解出来る。「何故こんな城跡が表に出ないだろう」は城自体は残っているが歴史的背景がはっきりせず、たとえ遺構らしきものが有っても裏付が無く表に出にくい。「石碑のみ、神社のみで遺構が無い」は遺構は現存しないが歴史的背景がしっかりとしている。つまり歴史的背景がしっかりしている城跡の方が、例え遺構が残っていても歴史的背景が無い城跡よりも上位にくるという事ではないだろうか。

歴史的背景の重要さに気付くのに時間が掛かったが、自分なりに解決出来たので良かったと思う。そう考えると今回の2城は思い出深い城になったと思っている。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小荷駄

福与城跡 (2022/06/12 訪問)

城跡南側に駐車場と仮設トイレがありました。下草も綺麗に刈っていただいてありました。この季節には非常に有難いです。整備して下さった皆様ありがとうございます。南側の曲輪は畑になっていましたが主郭との間の堀や土橋、北城やニの曲輪なども良く確認でき楽しく散策出来ました。予想以上に遺構があり整備もしっかりしていただいてあり大満足でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

外濠が四方残存広大な陣屋です (2022/05/30 訪問)

 坂田城址を終えて、地道と初めて圏央道を使い、館山道から木更津南ICを降りて、飯野陣屋跡内に在る飯野神社鳥居前に到着、車は鳥居前の脇駐車エリアに駐める。坂田城址から行程は約80km程有り約1時間半、17時からの探訪と成る。
 情報と案内は古城盛衰記さん余湖図コレクションさんに依る。
 
 飯野陣屋は外濠、土塁が完全に残って居り、外周長方形で約1400mは在るのか?、三大陣屋の一つと言わられる、他は徳山陣屋、敦賀陣屋。訪ねて居ませんが西地域に三条塚古墳、その東前に飯野神社が中心地に鎮座、南東に本丸、二の丸、三の丸の悌郭式、西外に外郭が有った模様、現在古墳と神社以外は住宅と畑に成って居ます、元藩士の方々の住宅かも?
 南側の中間地に折れが有る、又東側の中間地辺りに出隅があり折れを作ってる。

 外濠探訪は南側半分、東側、北側半分の東地区中心、濠の土塁側が垂直に立って居るので石垣、石積の護岸が有るのかと訝るも草が茂り良く分からない、近くを通った方に聞くと石垣と答えてくれたが良く分からない。
 その方と会話してたら浜松ナンバーの車を観て、浜松から来たの、私は磐田市出身と言われ故郷の話で盛り上がる。

 歴史は、保科正忠が慶安元年(1648年)築いた、17000石、分知し15000石に成るが後5000石加増し2万石で明治を迎える。飯野藩は大坂城番、江戸城の門番を務める事が多く、飯野陣屋には代官2名がいて事務処理を行っていた。

 飯野陣屋を終えてアクアライン経由を選択、これがトンネル内の事故2件の渋滞に掛かり、圏央道の事故渋滞情報で分かって居ましたが3時間も経てば空いてるのではと、木更津南ICより18時過ぎ入り、海老名SAまで3時間、やっと夕食、浜松帰宅は深夜過ぎ。

 岩手宮城茨城千葉4県未踏11城チョイ寄り2城、天気に恵まれ昨年11月から6ヶ月振りの良い城廻りでした。

 

 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

うさ

浜田城 (2022/06/12 訪問)

街中にある神社&公園。
冠木門が建てられていました。

+ 続きを読む

higekam

信長に先んじて天下人と呼ばれた三好長慶の故郷 (2022/06/10 訪問)

城館跡の規模には驚いたが、城跡が思いのほか小規模で驚いた。三好一族を育み、支えたところと言われても相当の想像力が必要。

+ 続きを読む

higekam

阿波九城のひとつということで登城 (2022/06/10 訪問)

敷地内駐車場に立派な模擬天守が立ちはだかる。
その後ろに堀切跡と思われる車道があり、その向こうがかっての城域の中心。
先端部は岩の鼻と呼ばれ、眼下を吉野川が流れる。そうか、吉野川を使い徳島城へと向かう動きを監視していたと知る。

+ 続きを読む

カズサン

南突舌状台地に凄い城郭、大手口・三郭・二郭編 (2022/05/30 訪問)

 主郭・見台編からの続きです。

 坂田城址の見所の一つに大手口が有ります、二重空壕、三重土塁、桝形、食違い虎口が案内板縄張図に見られます、是非見たいと目を凝らすが樹木、深い草木が茂り中々確認する事が出来ないが、長い土橋通路で壮大で在り様な事は分かる。
 もう一つは三郭と二郭間の空壕と土塁、縄張り図によると二郭側の土塁に東西一つづつ出隅横矢掛土塁が在るのだが大手口同様樹木、草木が茂り良く分からない、土塁の高さは何となく分かる。
 一ヶ所でもいいですから見学探訪拠点を作って欲しいものです、遊歩道見学探訪では折角の遺構が周知されなく勿体無い気持ちでいっぱいです。
 三郭・二郭とも果樹園(梨、葡萄、桃、など)、畑に成って居ます。

 素晴らしい遺構、城跡を見学させて頂きました、続100名城に次ぐのでしょうか、続々100名城?には入ってもおかしくない城址です。
 民有地の中、路駐と見学させて頂き有難うございました。

 

 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

toco

天下布武の出発点 (2022/06/12 訪問)

信長攻略の出発点。

城内は程よく動画やパネルなどの展示があり楽しく学ぶことができました。

隣接の古城跡公園や清洲公園も楽しく散策できました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

南突舌状台地に凄い城郭、主郭・見台編 (2022/05/30 訪問)

 坂田城はバラエティー番組TOKIOの鉄腕ダッシュの1~2年前の放映を観ていたら、ここは城跡?案内板が映し出されて坂田城跡を認識し、早速調べて何時か行きたいと未踏の城にリストアップし、今回の岩手宮城茨城千葉の未踏の城廻りに入れました。
 車は東側中頃に在る坂道を登り三郭南半分側の農道東側に路駐、勿論作業されてる方に了解は取りました、感謝します。
 情報と案内は余湖図コレクションさん、古城盛衰記さんに依ります。

 坂田城の構造は、南に主郭、東に見台・(馬出)、北に二郭・(登城)、その北に三郭・(於東・道城)、大手口で外郭に成って居る、南北約1400m、東西約250mと長大で各郭は空壕、土塁で囲まれ土橋で繋がってる、大手口は二重空壕と三重土塁、食違い虎口、枡形が厳重に守ってる、その北外郭は現在梅園で早春は観光客で賑わってるとか?、搦手は主郭の西側に急峻な崖をぬって坂田池方向に抜けれる、現在急な階段が付いてる。規模は千葉県でも最大級との事、凄い素晴らしい城郭で、堪能させてもらいました。
 空壕、土塁が見所ですが樹木、草木が茂り中が良く確認できない、遊歩道沿いに見学探訪、二郭、三郭は畑、果樹園に在ってる、見台、主郭は樹木草で茂り遊歩道以外は入り込めない。

 歴史は、千葉氏の築城と伝えられ、坂田城はこの地の領主三谷胤興の居城、一族の内紛で弘治元年(1555年)井田友胤に襲われ三谷氏は滅び、千葉氏に従属し里見氏に属する正木氏の東上総侵攻を防ぐ、秀吉小田和征伐には城主井田氏は小田原城に在って、追討軍にて落城し廃城と成った。(案内板抜粋)

 大手口・二郭・三郭編に続きます。

 

 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

風に立つライオン

200名城攻城達成 (2022/06/01 訪問)

200名城の最後に残った河後森城。東京から鉄道で、丸亀、大洲のスーパーホテルに泊まりながら、3日かけて予土線松丸駅へ。風呂ケ谷登山口から、まず新城へ。一旦分岐に戻り、西第1十曲輪から本郭、古城と回る。200名城達成。通算288城目。特に本郭、古城で蚊の集中攻撃に会い、写真を撮るたび刺された。痒くてたまらず、3時間経過して、駅側に降りるのは止めて、古城から新城に行くルートから分岐に降りて下山。駅で予土線待ち時間に駅舎内の日帰り温泉へ。露天風呂もあり、極楽。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ483