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コロスケコロコロ

松江城! (2023/11/23 訪問)

松江城が最後で国宝五城を制覇できて、良かったです。

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いんげん丸虫

根羽女城(ねばめ) 長野県根羽村 (2023/11/25 訪問)

標高730mの山城です。1km離れて根羽男城があります。
主郭の北に堀切、南に土橋状の遺構があるのですが、かなり
薄まってますね。祠や鳥居も倒壊しています。
看板は無いのですが、小川川の橋を渡る登城路はついてます。
村民の駐車場があり、駐車可能です。

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しんちゃん

鯖街道に面する謎の城 (2023/12/03 訪問)

細川城は鯖街道(国道367号)に面した山に築かれている謎の城です。山の麓にはいつの時代のものか解らない石垣が数多く散見し、郭ともみられる扁平地が数多くあります。山の上まで道が続いていて何かありそうな雰囲気がありますが、参考にした古城盛衰記さんの記事によると比高200mの山上には何も遺構がないとされているので訪問はしていません。築城の途中で放棄されたのでしょうか?発掘調査を希望したいところです。

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しんちゃん

天守と庭園。 (2019/12/31 訪問)

小倉城は細川忠興が慶長7年(1602)から唐風の天守閣を築くなど改修を施し、寛永9年(1632)よりは小笠原氏が入りました。海に面した水城で本丸周囲に水堀が残り、北の丸跡には八坂神社が鎮座しています。
本丸の北東の下屋敷跡には小倉城庭園が再現されています。本来の天守は四重五階で最上階以外は破風が無く、最上階は黒色の唐造りで下層は純白の非常に特色のある天守だったのですが、再建に際して地元の強い要望から今の形になったようです。
史実より見栄を優先した結果なのですが個人的にはオリジナルの方が良かったな‥。建築家の方も残念がっているようですがいささか安易な手法に傾きすぎてしまった感は有ります。反感を覚悟で書きますが何事も安易なやり方で事を進めるのは感心しません。城郭は文化財なので史実を無視した安易な再建や整備には個人的には賛同はできかねます。

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小城小次郎

三家とも独立した交代寄合なのだ(仲良しだったみたい) (2023/04/15 訪問)

西・東・北の高木家はもともとひとつの高木家だが三兄弟(一人は甥っ子だが養子縁組で弟になった)それぞれに武功を上げたので三家とも独立した交代寄合の扱いを受けた。三家のうち二家ずつで仲良く参勤交代してたそうだ。

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コロスケコロコロ

米子城! (2023/11/22 訪問)

石垣の山道を登っていくと、頂上からの眺めが素晴らしくて、石垣も立派で良かったです。

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コロスケコロコロ

鳥取城! (2023/11/22 訪問)

以前から天球丸の巻石垣が観たくて、他の石垣も素晴らしくて良かったです。

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コロスケコロコロ

河原城! (2023/11/21 訪問)

お城への登城口が工事で通行止めだったけど、道の駅から見上げた天守閣の佇まいが良かったです。

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しんちゃん

御館の乱の舞台となる。 (2021/05/01 訪問)

御館は住宅地の一角に公園として整備され、かつての面影は残っていません。関東管領上杉憲正が北条氏康に敗れ長尾景虎を頼ってきた際に景虎(上杉謙信)が憲正のために造営したとされています。公園が主郭の中心地で周囲を堀で囲まれ、北と東西に4つの郭を配していたようです。天正6年3月13日に上杉謙信が亡くなると上杉景勝と上杉景虎の間でお家騒動が起こり、御館も戦火に見舞われ放火され落城したとされています。

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駿府城

発掘調査現場から富士山が見えます!

皆さん発掘調査現場から富士山が見えるのはご存知でしょうか?
晴れた日には、発掘調査現場見学ゾーン【南側】から富士山を望むことができます!
ちなみにこちらの写真は、発掘調査現場見学ゾーン内【南側】のこちらのスポットから撮影しました。

同じ南側でも富士山が見える位置と見えない位置があるので、ベストポジションを探してみてください。
徳川家康が晩年を過ごした駿府城と富士山の壮大なコラボレーションは見応えがあります!
ぜひ皆さんも富士山と発掘調査現場を撮影してみてください。

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カズサン

二の丸入城散策 (2023/11/12 訪問)

 水戸城は2年前の同月同日に二の丸復元角櫓公開されて復元角櫓に登った日以来の登城です。武田氏館と水戸城周辺未踏の城廻りの途中、近くまで来たので寄らなくては、銀杏の紅葉も見ごろかなと誘われました。
 先に3編投稿しましたのがまだ投稿掲載したい写真も有り、二の丸大手門から本丸薬医門までの散策途中に撮った写真を投稿致します。
 日曜日で生徒さんはお休み、観光客だけ、白土塀通りは静かで往時の通りかなと錯覚する様な雰囲気でした。
 また角櫓通路入口辺りに水戸城三階櫓の解説板が有り、昭和20年8月までは現存で、8月の米軍空襲で焼失したのは残念です。
 復元三階櫓は何時の事でしょうか?内部5階で外観3階建だったそうです。
  
 

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カズサン

通路がモルタル整備された角櫓 (2023/11/12 訪問)

 何と!二の丸角櫓への通路がモルタル舗装で奇麗に整備、歩きやすく、車いすの方に便利になって居ました、2年前の同月同日の探訪は砂利道で歩きにくかったのですが2年で素晴らしい改良、モルタル舗装の茶の色と、プラ竹矢来の薄緑、白壁の二の丸復元角櫓、両翼の多門櫓の漆喰白壁、土塀の白壁、黒の土塀副柱が奇麗にマッチして素晴らしい景観です。
 竣工公開されて2年振りの再探訪、改善が進んでる事がうれしいですね!角櫓に登って見学観察させて頂きました。
 

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イオ

とことん岡山城(下の段南部) (2023/08/13 訪問)

(続き)

大手筋にあたる目安橋を渡って本丸へ。橋のたもとに目安箱が置かれていたことによる名で、往時は木橋だったようです。目安橋を渡ると内下馬門があり、枡形の石垣には見事な巨石が用いられています。さすがは蛸石をはじめとする大坂城の巨石の多くを手配した池田氏の城だけのことはありますね。

内下馬門を抜けると眼前に大納戸櫓の高石垣が聳えています。大納戸櫓は天守に次ぐ大きさの三重櫓だったようですが、櫓台だけでもなかなかの迫力です。大納戸櫓から続く中の段の南辺石垣を眺めつつ東に進むと、中の段に続く石段への入口脇に供腰掛が再現されています。供腰掛は登城する藩士の供の者が待機するための建物で、休憩所として開放され、建物内に岡山城の絵図や説明パネルが展示されています。供腰掛の北側、本段南西下の石垣は宇喜多期のもので、岩盤の上に隅部が設けられていました。

本段南辺の高石垣を見上げながら東へ。下の段の南東部には発掘調査により判明した建物跡が平面表示されていて、供腰掛の絵図とあわせてしばし往時の姿を脳裏に思い描きました。そして宍粟櫓、旗櫓、鎗櫓とたどり、旭川河畔に下りて弓櫓の石垣を確認。建物は遺っていなくても見どころはいろいろとあってどんどん楽しくなってきました(続く)。
 

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todo94

倒木で駐車場までは車で行けません (2023/11/23 訪問)

健康公園側から攻めましたが、なだらかな坂で丘城のようなイメージでした。太い木の枝が散乱していて車で進むことはあきらめ、徒歩にて攻城しました。せっかく駐車場が完備されているのにもったいないことです。駐車場には説明板が建っていて眼下に国道9号と集落を望むことができます。こちら側はかなり急峻で遠望も要害堅固な山城のように見えます。駐車場から折り返すといよいよ城の中枢部へ。さほどの期待はしていなかったのですが、結構な遺構が残っていて紅葉とともに楽しめました。「温泉」と書いて「ゆの」と読むのは、世界遺産構成資産の「温泉津(ゆのつ)」で承知していましたが、町名は「しんおんせん」でした。

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とばつびしゃもん

切込み接ぎの石垣が目に留まる (2020/12/13 訪問)

丹鶴城公園の小さな駐車場に駐車し、二の丸側の登城口から冠木門を通って登城開始。
松の丸から熊野川に面した水ノ手曲輪へ。船着場や炭納屋があったそうで、水運を活用していた城であることがわかる。もどって鐘ノ丸、本丸へ。一部崩壊している天守台を含め城内のほとんどは切込み接ぎの石垣で構成されていて、整然とした雰囲気が感じられる。80分ほどで退城。
新宮市立歴史民俗資料館で続日本100名城スタンプポン。資料館には新宮城の発掘調査資料が展示されていました。

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しんちゃん

また出てきちゃった。 (2023/12/03 訪問)

坂本城の本丸石垣は琵琶湖が渇水の時に姿を見せるそうです。2年前、27年ぶりに姿を現したと記事になったと思いますが、ここの所、毎年姿を現しているような気がします。気候変動の影響もあるようですが日本は大丈夫なのでしょうか?
でもせっかくなので見に来ました。朝からの曇天もいいかんじに晴れてきています。この日は久々に虹も見れました。(しかも特大)石垣は‥ありました。本丸はある企業の敷地になるのですが石垣見学コースが設置されているようです。
しかし、このままだと琵琶湖の水が本当に制限されてしまいそうです。巷では映画「翔んで埼玉」の呪いではないかと言われていますが近畿の皆さんの貴重な水がめがこのままでは困りますね。世の中が良い方向に向かっていくことを願います。

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しんちゃん

城址にかかる大きな虹。ちょっとラッキー (2023/12/03 訪問)

坂本城は織田信長の命で元亀2年(1571)明智光秀によって築かれた水城で、かつては壮麗な天守を構えていたそうです。本丸周辺は企業の敷地内になるので現在城址公園がある場所は本丸より南の琵琶湖を埋め立てた場所に造られていて明智光秀の像や歌碑などが建っています。二の丸跡にも城址碑がたっていて近くの聖衆来迎寺には坂本城の表門が移築されているとされ、織田信長の武将・森可成の墓もあります。駐車場はそれなりの広さですが、訪れる人が後を絶たず交通整理の人までいるようです。
周囲を散策していたら本丸周辺から琵琶湖にかけて見事な虹がかかっていました。これだけ形のはっきりした虹は久しぶりなので、なんか得した気になりました。
この日、坂本城を訪れた目的は他にもあります。次に続きます。

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しんちゃん

福田寺に城址碑が建つ。 (2023/12/03 訪問)

北比良城は福田寺のあたりが城址とされ城址碑が立っています。田中氏の城らしいのですが天正10年田中左衛門尉定光の時に織田信長に叛いて落城したとされています。遺構は全くと言い程残っていませんが、少し小高い台地上に築かれているので戦国期は琵琶湖がよく望めたのではないでしょうか。

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しんちゃん

水田の中に城址である願船寺が建つ (2023/12/03 訪問)

船木城は高島七頭の一人、佐々木能登守師綱により築かれたとされ願船寺周辺が城跡とされています。周囲の水田が堀の名残とされ浮島ように寺が建っています。織田信長の湖西征服の際に破城の憂き目にあっているようで遺構はほとんど残っていないようです。

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くうくう

島津義弘ゆかりのシラス台地を利用した南九州型城郭

永暦元年(1160年)日下部重貞が築城。日下部氏、北原氏のあと、永禄7年(1564)島津氏が入城。島津義弘の居城として有名。30~56歳まで在城し数々の合戦に出陣。なかでもこの近くの木崎原合戦で大勝し武名を揚げた。
川内川北岸の河岸段丘上に築かれた。射場が駐車場になっており本丸物見曲輪など公園化されている。物見からは飯野の町が見下ろせる。しかし二の丸三の丸など薮で一部しか見学できない。

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