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カズサン

中の御門渡櫓門復元工事中 (2023/10/01 訪問)

 鳥取城は現在中の御門渡櫓門の復元工事中です、2022年8月より復元工事に着手し、枡形石垣の復元から始まり、今年の4月28日は渡櫓門の起工、更に7月9日は上棟式、現在は素屋根に覆われて仮設足場も付き、屋根の瓦葺き、土壁の左官工事、続き土塀、枡形囲い土塀の工事中です。
 令和7年3月には竣工予定との事、渡櫓門の工事の進捗は如何かと鳥取へ用事が重なり帰省しました折に見て回れる範囲内を見学してきました、フェンス越しの見学ですが、完成が待たれます、後1年6ヶ月です。
 ビューポイントの三階櫓台・重層石垣群と久松山、三階櫓台石垣群、二の丸・菱櫓台・天球丸を太鼓門石垣を入れての3枚も投稿します、結構いい眺めだなぁ~と思っております。
 中の御門渡櫓門工事の進捗は鳥取市のHPで都度都度情報発信されています。
  
 

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朝田 辰兵衛

碑だけではショボいと思ったので… (2023/09/17 訪問)

以前,芥川山城を攻城時にスルーしてしまったので,観音寺城からの復路に途中下車しました。碑だけではショボいと思ったので,芥川一里塚,芥川仇討の辻を。どちらも,JR高槻駅から向かう途中にあります。

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chiroru

貸し切りで (2020/09/15 訪問)

土佐街道でランチ、「夢創館」にて100名城のスタンプ押印。高取城の案内映像を見て登城。
搦手からの登城でした。くねくねして足元も力をいれてゆっくりと歩かないと危ないです。

石垣の宝庫みたいなところで縄張りもしっかりとしたものでした。

秋晴れの気持ちの良い天気で、貸し切りで城内回らせてもらって(^^♪

高取城の石垣は高くて山の中でそびえ立つ素晴らしいものです。平地に立つ石垣とは趣が違って見え、景色も風も素敵。

帰りは石舞台古墳に立ち寄り、石ずくめの日でした。

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カズサン

移築太鼓櫓探訪 (2023/09/19 訪問)

 宮沢遺跡と東北道沿い未踏の城探訪の3日目、国神城と中畑陣屋を終えて、西方向の大里城を目指すが夕立と雷雨で、急ぎ「道の駅季の里天栄」に入り雨宿り時間もお昼時、昼食と産物を眺め時間待ち、小降りに成ったので大里城の登城口の一つ、天栄村ふるさと文化伝承館へ、道の駅からの道に閉館の看板、ふるさと館の近くに坂道には閉館で車止め、月曜日は休館日、道の駅に来る前に、大里城の南東登り口は確認済み、雨も完全に止まずふるさと館からの侵入登城路も閉館で入れないと、諦め撤収。
 
 雨でも探訪出来る処は近くの白河小峰城と目的地を変更して小峰城へ向かう、駐車場は二の丸南の無料駐車場を利用。
 今回まで、移築太鼓櫓を探訪して居なかったので、二の丸から本丸石垣、三重櫓を眺めて、二の丸東門から約300m東方向に在る、旧小峰城太鼓櫓の移築先を探訪。
 少し迷いましたが福島地方裁判所白河支部の東隣奥に専用駐車場と共に奇麗に整備されて移築されています、案内受付にパンフレット有り、1枚頂きました。
 前回探訪の令和3年11月にはまだ完成して居なく見学はしていませんでしたので今回初見学です。
 
 この後の予定で栃木県那須塩原市の未踏の城探訪を計画して居ましたが西、北方向から雷雨が押し寄せ豪雨状態で帰路に着きました。
 

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城好きのメガネ

「尼崎城」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
尼崎城は、1617年に戸田氏鉄が5万石で入封し、築城したとされる。戸田氏が美濃・大垣へ移ると徳川譜代の家臣・青山氏4代、桜井松平氏の松平忠喬が4万6千石で入る。幕末まで桜井松平氏が治める。戊辰戦争では新政府軍に恭順し、所領を安堵される。復興天守は地元の篤志家によって約10億円以上の私財を投じて再建される。

<アクセス>
阪神電気鉄道 尼崎駅 徒歩10分

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城好きのメガネ

「三木城」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★★★★★
三木城は、室町時代に三木別所氏の初代当主別所則治によって築かれたとされる。小寺氏の御着城、三木氏の英賀城と並び播磨三大城と称された。戦国時代には、別所長治と羽柴秀吉との間で起こった三木合戦では、「三木の干し殺し」と呼ばれる兵糧攻めが行われた。三木合戦後も、京都や大阪をつなぐ交通の要衝として秀吉・子飼いの家臣が城代として入る。関ヶ原の戦い後は、池田輝政の姫路入封に伴い、姫路城の支城となる。家老の伊木忠次が入城したが、一国一城令によって廃城となった。現在、曲輪、土塁、横堀(空堀)、井戸、天守台が遺されている。

<アクセス>
神戸電鉄 粟生線 三木上の丸駅 徒歩10分

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城好きのメガネ

「明石藩舞子台場」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★★★☆☆
明石藩舞子台場は、1863年に幕府の命を受け、勝海舟の指揮のもと明石藩が築造した砲台跡である。対岸にある徳島藩松帆台場と連携して外国船を挟み撃ちにする構想であった。現在、「天端の石敷き」などが遺されている。

<アクセス>
JR舞子駅 徒歩10分

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城好きのメガネ

「楼ノ岸砦」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
楼ノ岸砦は、石山合戦の際に織田信長が築いたとされる。当初は本願寺勢の攻撃により落城した。本願寺勢力の防衛拠点となり、石山合戦の終結とともに廃城となる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
大坂メトロ谷町線 天満橋駅 徒歩10分

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カズサン

中畑郵便局の裏に二本のカヤの木 (2023/09/19 訪問)

 宮沢遺跡と東北道沿い未踏の城探訪の3日目、城びと未登録の大寺城を終えて近くに在る国神城を初探訪、国神城の約500m北西に中畑郵便局が在りその裏に中畑陣屋跡の二本のカヤの木が大きく聳えてる。
 駐車場:中畑郵便局南の駐車場エリア、空いていたので少しの間駐車。
 参考資料:城びと、グーグルマップ、城跡ほっつき歩記さん福島県編に依ります。

 カヤの木を見て中に入るが立入禁止の札が掲げれれてる、郵便局の人に聞くと中に人が居て声を掛けると返事が在り見学できるかもしれない?と聞き及んだので少し中に入り声を掛けたが応答なく断念、周辺で中を覗き、北角の澄江寺も訪ねました。
 歴史は、幕末に長崎奉行を勤めた旗本松平氏(松井)の陣屋跡、5000石の領地陣屋のようです。(城跡ほっつき歩記福島県編の抜粋)
 

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カズサン

牧草地に浮かぶ城 (2023/09/19 訪問)

大寺城を終えて地道を国神城へ、駐車場は探せなかったので直接、国神城を囲んでいる畑・牧草地の農道に着ける、到着当時は西側牧草を刈り入れ中、農作業されてる方に国神城への導入路を聞き、北の農道側に畦道が在り、そこより国神城本丸の土塁土壇へ案内解説板が有る。
 車は北の農道に路駐、車の往来は少ない今回は私の車と、牧草を刈ってる農業機械と運搬トラックのみ。

 北側に在る案内解説板を確認して撮影、そこより登ろうとしたが若干急斜面にて下から眺めるのみとした、牧草地・畑の中は入れないので北東側から西、南、南東側の農道から眺め写真を撮る、本丸のみが残るだけで東の泉川が外堀の役目だったそうで、西側と南側は水田、堀の役目を担っていた模様、本丸以外は東西南北、農業地開墾開拓されている。

 案内板によると、平安時代後期前九年の役(1062年)の戦功で、河内の石川頼遠・有光が仙道(福島県中通)の地の一部を拝領して石川の地に入り、藤田城(石川町中野)に居城した。その後矢吹の地は石川郡に属し戦国時代末期まで石川氏の支配領域であった。
 興国年間(1340~1345年)石川家15代領主石川詮持の弟、光定の子、石川九郎光幹が国神城に入り、「中畠(中畑)氏」を称したとの伝えもあるが定かではない。中畠氏は、国神城から観音山館(中畑根宿)に居を移す。
 国神城は泉川を外堀とし自然の丘を活かし周辺を堀で囲み、その後は水田として残って居る、規模は東西約300m、南北約400mで本丸にあたる高台と南部の曲輪は地形的にそれぞれ分断してる。(案内解説板による)
 

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きよまさ

姫たちの思い (2023/10/15 訪問)

今日は刈谷城を踏破して、合わせて刈谷市歴史博物館の展覧会「姫たちの想い」を観覧して来ました。家康の母、於大の方や姉の妙春尼、水野家から加藤清正に嫁いだ、かな姫が取り上げられていました。

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ろっし

お城探訪 (2023/10/14 訪問)

お寺の横から登りました。

頂上付近には曲輪や石垣など見る事ができると思います。

眺望は時期によれば見れるかな⁉️

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にのまる

太平洋を一望する海防城 (2023/08/18 訪問)

18きっぷの3回目は常磐線に揺られて日立へ行ってきました。日立駅からは徒歩です。

坂道(助川城址通り)を登って着いた広場は養正館跡。茨城百景の石碑と養正館の説明板と標柱、助川海防城の標柱がありました。養正館は水戸の弘道館に先駆けた教育施設だったそうです。

そのまま進んで奥の階段をのぼったところが本丸跡。遠見番所跡はさすが!いい眺めでした。表門礎石は二の丸の鳩石と共に残る貴重な城の遺構だと説明板にあります。ということは、かっこよく組まれた石垣は公園整備後のもののようです。
登ってきた坂道がまさに城域で、この最高所から異国船を見張っていたのだなと実感しました。

鳩石は写真⑥の階段を上がったところ、養正館跡の広場のお手洗いの前にありました。最初、どこが鳩なのかわからなかったのですが、よく見るとちゃんと鳩がいました。写真⑦です。探してみてください🕊️

日立駅からの海の眺めも素晴らしかったです🌊

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カズサン

【陸奥大寺城】福島県石川郡玉川村 大寺城跡公園整備良 (2023/09/19 訪問)

 宮沢遺跡と東北道沿い未踏の城探訪の3日目、前泊の福島市から東北道須賀川ICを降りて県道63号線走行し福島空港横を通て大寺城跡公園と成ってる大寺城を初登城。

 住所:福島県石川郡玉川村大字南須釜舘坂(大寺城跡公園)
 駐車場:大寺城主郭下と藤の丸の間に4台ほど駐車可能、トイレ有。(37°12'22"N 140°27'21"E)
 参考資料:古城盛衰記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依ります。

 城びとには登録されていませんが、丹羽長重さんが2020年8月に登城投稿されて居り、城郭放浪記さん昨日のTOP10にも揚がっており、ピックアップし今回の城探訪に加えました。

 県道63号線で集落に入り堀切のような道、出丸であった東福寺の反対の北側に大寺城跡の案内指示板が出て居り、細いですが舗装されて道が大寺城址公園・駐車場まで繋がっています。
 駐車場からクランクした階段を段曲輪越しに主郭虎口へ、広く南は一段浅く落ちてる、北東角には自然石の大寺城主之碑が立ってる、中心には祠が祀られている、東屋は北側、近くに平成26年の大沢城の昔と今としてのパネルが写真入りで紹介されている。
 主郭東下に富士の丸今は枝垂れ桜で葉が茂り鬱蒼としてる、その東下に堀切の様な峠道?南、東に曲輪が段々の様に見受けられるが畑か草茂り良くは判らない。主郭、腰曲輪2段、下の段曲輪には東屋が建てる、富士の丸はよく整備されていてこじんまりと探訪し易い城跡です。

 歴史的には承保元年(1074年)石川有光により築城され石川氏代々の居城、2代3代の50年間に本丸、二の丸、三の丸、富士の丸が整えられた。文安三年(1446年)13代光義の時、石川町中野から薬師如来・日、月天・十二神将を東福寺境内に移したのにちなんで石亀ノ里大寺と改め、大寺氏を名乗るようになった。
 天正十七年(1589年)伊達政宗の来攻の際には所領争いの確執などから須賀川の二階堂氏と共に敗れ石川昭光の軍門に降ったために大寺城も没収され破壊されたと伝えられてる。(案内解説板抜粋)
 

 

 

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チェブ

小栗と船橋でこんがらがる。 (2023/10/14 訪問)

歩いても、汗だくにならなくなった秋の休日。
千葉県船橋市の「城ノ台城」でこんがらがって来ました。

JR総武線『下総中山駅』から「城ノ台城」跡となる『多聞寺』まで15~20分くらい歩きました。
山門をパチリ。
『多聞寺』の裏手が高くなっていて、木々が伸びてます。こちらに「城ノ台城」の何かが有るのではと、『多聞寺』右手の坂を上がりました。
写真②、船橋のマンホールと道路の滑り止めのシマシマ。結構な坂でした。
坂の上はお墓になっていて、入れなさそうです。
次の目的城に転戦する為、京成電鉄『東中山駅』に向かいました。
駅のすぐ近くに公園があり、何やら説明板が、、、。
写真③です。『東中山台遺跡群』の説明板でしたが、この辺りに「小栗原城」があり、城主の館もあったとあります。
「城ノ台城」の別名が「小栗原城」です。

こっから、ちょっと ややこしい話。
「城ノ台城」の城主は小栗 判官 満重さん。つまり「小栗原城」の城主は小栗 判官 満重さん。
船橋市の郷土資料室によると、小栗 判官 満重さんは伝説上の人物との事。
千葉氏家臣の小栗氏という情報もありました。

小栗 満重さんを調べたら、茨城県筑西市の「小栗城」で自刃で亡くなってます。伝説の人物ではないようです。
それに「小栗原城」「小栗城」、原の字がないだけ。惜しい。
どちらも、小栗 満重さんが活躍したのでしょう。ただ、船橋市説の方が劣勢です。
なんだか、両城でゴッチャになってしまったのかな?

私は船橋市に始めて電車で来ました。
この日、船橋・京成船橋・新船橋・西船橋の駅を使いました。さらに、西船と京成西船。(降り間違えた駅も含みます。)
調べてみたら、船橋とつく駅名は7ヵ所あるようです。これを乗りこなせる船橋市民の方々、尊敬します。

いつか船橋市が 自信を持って『小栗 満重』の居城ですと、PRしてもらいたい「城ノ台城」攻めでした。

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ぴーかる

下関前田台場 (2023/09/09 訪問)

【前田台場跡】
<駐車場他>専用駐車場あり。国道9号線沿い<33.972883, 130.969827>
<交通手段>車

<感想>1泊2日北九州・豊前中津の旅1城目。下関前田台場は幕末に長州藩が下関に築造した台場の一つで、低い位置する低台場と東方向6mほど高い位置に高台場とがあります。当初は低台場のみがありました。1863年に攘夷決行として5月10日から関門海峡を通過する外国船を次々と砲撃を開始します。6月フランス船が報復として前田台場を砲撃、上陸して周囲の民家を焼きはらいます。その後高杉晋作が下関の防衛を任せられると前田台場を修復し高台場を急造します。1864年にイギリス、フランス、アメリカ、オランダの四か国は長州藩の攘夷派一掃と関門海峡封鎖を武力解除するために連合艦隊を組んで下関の砲台を攻撃し破壊占拠(四国艦隊下関砲撃時事件)されます。前田台場もこの事件で占拠されます。2010年に国史跡に指定されています。
 現地は地表面に観察できる遺構はそれほど残されておらず、削平地広い削平地があるのみのようです。低台場内は散策できますが、高台場の方はロープが張られ内部はビニールシートで覆われた発掘途中?の面積が多いです。

<満足度>◆◇◇

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じゅんじん

大樹寺 (2023/09/30 訪問)

ビスタラインですね。

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じゅんじん

家康公の地元 (2023/09/30 訪問)

大河ドラマでにぎわう岡崎城へ。5年ぶりでした。おみやげ店も新設されてにぎやかでした。

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Pylori

琉球の歴史を実感 (2023/09/11 訪問)

石垣が美しく、琉球文化を感じることができました。
沖縄の辛い歴史を背負った城であり、現在進行中の本殿の復興も含めて沖縄の皆さんの思いに感激しました。

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にのまる

18きっぷ2回目のラスト (2023/08/16 訪問)

宇都宮城からの帰りに、まだ明るい!まだ行けるっ!と途中下車して行ってきました。
5年前に城内散策をしているので、今回は周辺メインでまわりました。

『小山御殿広場』①②③
歴史的な流れなどについては写真の解説をご覧ください💁‍♀️ 読みやすくてわかりやすいです。
交差点の広場に平面復元された御殿跡。推定鳥瞰図に簡単な説明もあってイメージしやすかったです。

『小山評定跡碑』④
小山市役所の駐車場に由来の記された石碑がありました。小山御殿広場からは市役所の中を通り抜けられます( *´艸`)

『小山評定之碑』⑤
須賀神社にありました。

『小山政光 寒川尼像』⑥
思川のほとりに仲よく立っています。昨年の「鎌倉殿」の時代です。

以上、ぐるっとまわってから小山城(祇園城・⑦⑧⑨⑩)へ行きました。
本丸・二の丸エリアの公園整備は継続中でしたが、北側は自由に歩けました。
地域住民の方が安心してお散歩できる、誰からも愛される城址になればよいなと思います。

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