真夏の明石城はガラガラでした。天気良かったのでいい写真になりました。
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2023/08/23 10:49
#29 喜春城 (2023/08/20 訪問)
真夏の明石城はガラガラでした。天気良かったのでいい写真になりました。
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2023/08/23 08:45
2023/08/23 08:30
2023/08/23 07:00
ツアー宿泊地の近く (2023/07/22 訪問)
大人の休日俱楽部の東北エモーション往復乗車ツアーに参加。本八戸駅からホテルに向かって歩く途次に角御殿表門の写真は撮影しました。ホテルにチェックイン後、夕食前に三八城公園はしっかりと散策してまいりました。初めて訪れたのは大学3年の春休み、1984年3月。東北ワイド周遊券(学割)を使っての思い出の地です。当時はカメラなぞ、所有しておらず旅先で写真撮影をする趣味は持ち合わせていなかったのですけれども。絵葉書蒐集の趣味は持ち合わせていましたが。
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2023/08/23 01:37
① 13年前に掠めていました。 (2023/06/23 訪問)
2010年8月、初めて一人で東北新幹線に乗って出かけたのが花巻でした。
当時書いていたブログは消してしまい写真も残っていないので断片的な記憶を繋げてみると、新花巻で宮沢賢治童話村に行き、バスで花巻に移動してイギリス海岸を散歩。花巻駅前のグランシェール花巻に宿泊して、翌日、宮沢賢治生家跡、産湯の井戸、賢治自耕の地(下の畑)から花巻農業高校(羅須地人協会)まで歩きました。当時はまだガラケーで羅須地人協会がこんなにも遠いとは知らず(賢治自耕の地から8.7㎞)、花巻駅の観光案内所かホテルのフロントでいただいた手描きの地図を頼りにひたすら歩いたのでした。
(今回「花巻に空港があるんだ~!」と新鮮に感じてしまったのですが、実は13年前に空港沿いを黙々と歩き、花巻空港駅も利用していました^^;)
「花巻城以外行った」という感じの13年前ですが、花巻は自由なひとり旅の楽しさに目覚めてしまった思い出の地。
当時は全く知らなかった(関心もなかった)花巻城のおかげで再び行く機会を得られて懐かしさと楽しみでいっぱいです。
といっても下調べなしで突入したのですが!!
<つづく>
※ただの思い出なので【周辺観光】カテゴリーにしました。
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2023/08/22 22:49
堀と土塁、郭も散策してみて (2023/08/13 訪問)
日本城郭大系によると、城主矢野駿河守国村は、讃岐大川郡の
虎丸城主を兼ねたが、天正7年(1579)脇城外で討ち死にしたと
有ります。城跡は比高30mの小高い丘の上にあり
主郭には城山神社が建っています。周囲には石碑がいっぱいあります。
主郭から南の堀切に降りる道があり、東側に土塁が続き
堀に沿って西側へ進むと、左手側、南西の方向に郭があります。
一度城跡から出て、西側の道を南に進むと、東に続くあぜ道があり
そこから南西の郭にアクセスすることが出来ます。
郭は意外と広く土塁も一部残っているようです。
縄張り図の練習をしたかったので、自分の確認した遺構を
絵にかいてみました。余湖クンさんの縄張り図も書き方の参考に
させていただいています。感謝いたします。
自分の書いた縄張りと城郭大系の縄張りを比べてみると
まだまだ城域は広そうです。新しい情報をもとに再度
縄張りを書き直してみましたが、城山神社より東は
ヤブやガケが危険そうです。私は散策していない個所を
推奨できませんので、あらかじめそうお断りさせていただきます。
遺構の残っている城で100%安全な城は無いと思いますが
より長く城めぐりを楽しむために無事帰るを心がけています。
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2023/08/22 20:00
羽黒城 (2023/07/22 訪問)
【羽黒城】
<駐車場他>興禅寺駐車場に駐車しました。
<交通手段>車
<感想>2週連続日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第2弾2城目。現地説明板によると羽黒城は1201年、鎌倉時代初期に梶原景時の変の際に難を逃れた景時の孫の豊丸(のちの梶原景親)がこの地に定住し築いたとされます。以降約380年間梶原氏の居城として栄えてきました。戦国時代17代当主梶原景義は織田信長に仕え羽黒3000石の領主となります。景義は本能寺の変の時に本能寺に入っていたとされ討死したようで後裔がいなかった為にその後廃城となったようです。小牧長久手合戦の前哨戦の羽黒の戦いで城跡一帯が焼け落ちたようで、その後羽柴秀吉方の基地として修復しますが戦後再び廃城となったようです。
梶原氏の平素の居館跡が現在の興禅寺だったようで先達方に倣ってまず興禅寺境内にある梶原氏供養五輪塔にお参りして城跡地に行きました。当時の城は前方後円墳を改造した砦のような感じだったと思われます。墳丘の頂上に石碑があり北側に堀跡である直線状の窪地があります。窪地のさらに北側は削平地が広がっています。その更に北側、磨墨塚との道路の境目は少し土塁状になっています。
<満足度>◆◇◇
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2023/08/22 19:57
門 (2023/08/20 訪問)
本丸北の不開門が復元されたものです
枡形虎口にもなっているのはいいです
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2023/08/22 15:43
仮設展望と中馬出 (2023/08/21 訪問)
宗春さん投稿(8/18登城、8/20投稿)で諏訪原城に仮設の展望スタンドが出来た事を察知、早速諏訪原城築城450年記念イベントをネットで検索し、状況を確認するが仮設展望スタンドの事は島田博物館のHPでは確認できず、では登城しかないと、月曜日でビジターセンター休館日、島田博物館も休館日でしたが、山越えと1号線バイパス約40km程1時間掛けて登城しました。
昨年の仮設展望スタンドの体験を逃していましたので今年な是非にと二の曲輪中馬出へ、中馬出三日月堀南西隅に仮設展望スタンドが設置されています。
設置期限は諏訪原城築城450年記念イベントの期間でおよそ7月初めから9月4日、9月4日には撤去するとの事、ビジターセンターの休館日は仮設展望スタンドも閉鎖で立入禁止。
島田博物館では前期7月1日~8月13日、後期8月15日~9月24日で第91回企画展「築城450年記念 諏訪原城」が開催されています。
その一環として今年も期間限定で諏訪原城中馬出に仮設展望スタンド設置された模様。
月曜で閉鎖されていましたが鉄骨、周囲、基礎の安全を確認して申し訳ございませんが虎ロープを潜って登り景観を観察、2m程の高さですが中馬出と三日月堀の草は刈られてさらに良く観察できます。早めにお越しください。
宗春さん投稿ありがとうございます。
夏の暑い午前10時頃の蝉しぐれ、登城者は私一人でした1時間ほど草の刈られた順路を回りビジターセンター近くで登城者一人と遭遇。
今回は超広角レンズで撮影しました中馬出をご覧ください。
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2023/08/22 12:57
一富士二鷹三茄子スタンプラリー ~二鷹編~を開催しています!
8/1(火)から10/31(火)まで、家康公ゆかりの地を巡る「開運 一富士二鷹三茄子スタンプラリー ~二鷹編~」を開催しています。一富士編に続き、第二弾目になります。
スタンプは、「どうする家康静岡大河ドラマ館」や「発掘情報館きゃっしる」など全7か所に設置されています。
すべてのスタンプを集めると静岡浅間神社で「二鷹」デザインの限定御朱印をプレゼント!
また、一富士編、二鷹編、三茄子編の3つをコンプリートした方には限定の特典も予定しています。
発掘情報館きゃっしるにもスタンプが設置されていますので、ぜひこの機会に駿府城跡天守台発掘調査現場にお越しください♪
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2023/08/22 07:15
南蛮BVNGO交流館 (2023/07/17 訪問)
3連休の締めは大友氏館。ちょっと早めに到着してしまいましたが、すでに開いていた庭園から見学させていただきました。9時の開館を待って南蛮BVNGO交流館へ。大友宗麟が案内してくださる映像をしっかりと堪能させていただきました。大友宗麟の生誕500年の記念の事業として2030年、大友氏館の復元が計画されているようです。その後は唐人町の復元整備を目指すようです。帰路は、特急と新幹線すべて自由席を乗り継ぎました。大分駅が立派な駅ビルになっていてとてもびっくりしました。
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2023/08/22 00:48
ヒルに注意。 (2023/08/18 訪問)
イノシシか熊除けかはわかりませんが、高速道路の高架下の扉をあけていざ登城です。
けっこうな傾斜、積もった落ち葉、雨上がりで濡れた岩が滑るのでなかなかにハードな城攻めでした。2キロ行くのに1時間(^◇^;)
苔むした石垣や虎口の石積みが残っています。
本郭以外の郭はさっぱりわからないくらいには木に覆われた山でした。
途中で休憩中に腕にヒルが落ちてきたので吸われる前に払い、下山後にコンビニトイレで上半身は確認したんですけどね。
夕方宿に着いてから足首をヒルにやられていたことに気がつきました。
膝までの靴下を履いていたので靴下の上からやられたようです。厚めのデニムを履いていたので、靴とデニムの隙間から入った模様。
皮膚に直接ではなかったので歩いている間に落ちたようで、本体は見つからずでした。
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2023/08/21 23:52
いかちん縄張り図。竹ヤブきっつ‥ (2023/08/17 訪問)
天正13年(1585)加藤嘉明が豊臣秀吉の命により志知城に入城。
今の志知城の縄張りは加藤嘉明によるものと伝わります。
志知城は周囲を水堀で囲まれ南側の堀は土砂に埋まっているようです。
北側にも内堀が流れ周囲の川や水路と相まって、かつては幾重にも
水堀を巡らしていたのではないでしょうか。
主郭部は東が二の丸と呼ばれ、西が主郭になるようで
城址碑が二つ存在します。
主郭はいくつか空堀で区切られているのですが
これは後世の遺構かも知れません。
主郭の一部には謎の石積みがありますが、なんだろうコレ?
周囲には不思議な土盛りもあります。
主郭を南に下っていくと高さ1mに満たない段差がありました。
主郭内はかなりヤブ化が進んでいて、移動できないエリアも
多々あります。いかちんで主郭周辺の縄張り図を掲載しますが
まだ全体を確認できたわけでは無いので、隠れた遺構があるかも
しれません。勇者の出現を期待します。
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2023/08/21 12:07
63【関ケ原の26人】(23)石田三成 (石田三成と長浜城) (2023/07/02 訪問)
(23人目)「石田三成」の続きです。
秀吉に仕え出世への始まりとなった「長浜城」を訪れてきました。
15才で家臣となった佐吉は、ここで秀吉に小姓として仕え、得意の算術で才能を発揮し徐々に頭角を現します。そして8年後、秀吉の中国攻めの時に初めて従軍し、それから賤ケ岳、小牧長久手の戦いを通じて、この長浜から出世への道が始まりました。その後、九州征伐、小田原北条攻めなどで、兵站の才を存分に発揮します。しかし唯一戦った忍城では失敗してしまいました(笑)。そして奥州仕置を経て、朝鮮出兵のため名護屋城へ。
私は長浜城の天守に立ち、琵琶湖を眺めてみました。南側には彦根城や佐和山が見えました(写真④)。また北側には賤ケ岳(写真⑤)や小谷城(写真⑥)、東側には伊吹山が見えました(写真⑦)。
佐吉(三成)は、ここで秀吉に仕えながら、いったいどんな夢を見ていたのでしょうか?
【余談1】大蛇(おとち)の岩窟
伊吹山中を敗走しながら秀吉と出会った観音寺を目指した三成ですが、追手が迫ってきたため、今度は母の墓がある法華寺を目指します。そこで地元の人々に助けられその法華寺の山中奥にある「大蛇の岩窟」に匿われました。本当は、長浜からその岩窟まで行こうと思っていたのですが、とんでもない山中みたいで(だから隠れるのに最適だったのかも?)、熊や蜂や蛇が出て道にも迷ったりもするとの事、一人で行くのは大変危険な場所のようなので、心残りではありましたが断念する事にしました。いったいどんな場所だったのでしょうか? 長浜市のHPにボランティアガイドが行った時のツアー写真がありましたので代わりに掲載させていただきます(写真⑧⑨)。行く時は個人でなくボランティアガイドと大人数のツアーで行かれた方がいいようです。またここでの美しい秘話は以前私の(12人目:田中吉政)でお伝えしましたのでよければまた参照して下さい。三成がそこで食べたニラ粥はいったいどんな味だったのでしょうか?🤔
【余談2】にしんそばと地ビール
長浜駅前で名物「にしんそば」と「地ビール」で昼食をとりました。猛暑の中を歩いたのでとても美味しかったです。三成にもこの「伊吹バイツエン」飲ませてあげたかったな~😊(写真⑩)。
次は、三成の人生ターニングポイントになった(肥前名護屋城)を訪れます。
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2023/08/21 00:17
立ち入り禁止。ハメ(毒ヘビ=ニホンマムシ)や毒ハチがいますよ。 (2023/08/13 訪問)
土佐泊城は南海病院の敷地内にあり、現状立ち入り禁止です。
駄目もとで登城許可を申請に行ったのですが、
しばらく整備がされていないのでヤブ化が進んでいて
ハメや危険なハチが出没するので非常に危険だとのことです。
もちろん許可を得ることはできませんでした。
ハメというのはこの地域での毒蛇のことを言うらしいです。
徳島県には蛇が10種生息していて、そのうち2種がウミヘビで
残り8種の中で毒を持っているのはニホンマムシとヤマカガシだけです。
頭部の形状を聞くに、このハメというのはニホンマムシのことを
いうみたいですね。この後も山の整備をする予定はないらしいので
立ち入り禁止は当面続くと思われます。
入れない城と判断して「いった」をポチらせていただきました。
ちなみにヤマカガシもニホンマムシに引けを取らない危険な毒ヘビです。
マムシが夜行性、ヤマカガシが昼行性の違いがありますが、
ヤマカガシはキバが口の下側についているので毒の注入効率は悪いですが
毒自体はマムシの三倍の強さを持っていて、かつて兵庫県で二人の中学生が
ヤマカガシにかまれて亡くなっています。
毒蛇の種類によって血清が異なって来るので、噛まれた毒蛇の種類を
把握することは重要なことのようです。
ネットからダウンロードしたヘビの写真を使うのは気が引けるので
ノリで描いてみました。ふだん絵など描いたりはしないのですが
案外うまく描けたのではないでしょうか?
ペンは画材屋さんで買いました。コピックは高いので色付けは
色鉛筆です。学生時代以来ですね、水彩絵の具のほうが良いのかな?
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2023/08/20 23:51
残ってるだけ凄いのかも。 (2023/08/12 訪問)
富松城はかつて細川氏の分裂抗争が尼崎に及んだ際に
尼崎城・伊丹城・越水城のほぼ中間地点に位置していたため
戦略上の要地であったと案内板には書かれています。
周囲はフェンスで囲まれていますが、フェンスごしに堀が
周囲を囲っているのがわかります。
南側に回ってみますがここも柵で囲まれていて入ることは
出来ません。‥ダメだわ。
遠目になんとなく郭らしきものが見えますが
木がうっそうと茂っていて良くわかりません。
しかたがないので次へ向かいます。
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2023/08/20 23:35
荒木村重ゆかりの地で惨劇の跡の地。 (2023/08/12 訪問)
七松城は環濠集落の中に置かれた城で、かつて荒木村重が
織田信長を裏切った際に有岡城攻めの陣城として
利用されたとあり、有岡城落城後、
天正7年(1579)12月13日 122人の女性たちがが磔に
かけられ、他510あまりが家4軒に押し込められ
焼殺されたということです。
城跡の中心は七松八幡宮で、境内には
七松城落城なくなられた武士及び家族 故六百二十余人之碑
が建っているのですが‥ 数は合ってるんだけど
落城したのは有岡城では? 誰もつっこんでないけど
これは突っ込んじゃいけない所だったんだろうか‥?
七松城の西側には堀の形状に水路が残りかつての環濠集落の
名残をしのばせます。一部は暗渠になっているようです。
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2023/08/20 23:11
2023/08/20 22:46
久能山東照宮に行った時に初めて知った久能山城 (2023/08/20 訪問)
日本平からロープウェイで久能山東照宮へ。
ロープウェイの紹介アナウンスで東照宮側のロープウェイの乗り場付近に石垣の遺構を見ることができると教えてもらう。
家康公が死んだ跡は東照宮としてお城の役割を終えたので、城の様子がわかるものはこの石垣くらいだった。
久能山東照宮・博物館を見学。
久能山東照宮は、日陰に入ると風があって比較的涼しさを感じた。
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2023/08/20 22:34
天守台発掘調査で夢が膨らむ駿府城 (2023/08/12 訪問)
酷暑の中、駿府城を見学。
公園内に入る前に県庁を一周。石垣に守られた中にある県庁は魅力的。
東御門から公園内に入り、時計回りに一周。本丸堀→坤櫓→家康公像→天守台発掘場へ。
天守台は見学できる場所も広く、昔はどうなっていたかな~と想像しながら見学するのがとても楽しかった。
再建までは莫大な費用と時間がかかると思うが、いい方向に向かってくれればいいな。
公園の外の堀を一周歩いて回ろうと思ったが、暑さで断念。
夜ライトアップがあることを知り、夜再度訪問してライトアップされた東御門を見学。
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