202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:福江城
(2022/06/07 訪問)
江川城(城びと未登録 長崎県五島市)から徒歩5分ちょっとで、五島観光歴史資料館(32.694023、128.846890)に着きました。
まずは続100名城スタンプを押印してから攻城です。
築城年代は、1617年(元和3年)、1638年(寛永15年)など諸説あるそうですが、 いずれにしても唐津藩主寺沢広高の設計で福江藩二代藩主五島盛利によって築かれました。
五島氏の出自は詳らかではないが、松浦党の宇久氏を祖とします。宇久氏は宇久覚の頃に福江島まで勢力を拡げ岐宿城に入り、宇久勝の頃には辰ノ口城を居城として五島列島の大半を勢力下に収めました。
1507年(永正4年)宇久覚の家督を継いだ宇久囲でしたが、妹婿である玉之浦城主玉之浦納の反乱によって討たれました。
宇久覚と平戸松浦弘定の娘との間に三歳になった三郎がいましたが、辛うじて祖父の平戸松浦弘定を頼って落ちていきました。
1521年(大永元年)元服して宇久次郎三郎盛定と称した三郎は、松浦弘定の援助を受けて玉浦納の館を急襲しました。
不意を突かれた納は嵯峨島へ逃れていきましたが、追手に追い詰められると自刃して果てました。
1526年(大永6年)宇久盛定は江川城を築き、以後宇久氏の居城となりました。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦では宇久玄雅は軍勢を率いて赤間の関(下関)まで行きましたが、玖島城主大村喜前の意見もあって東軍となり所領を安堵されました。
福江藩(五島藩とも)は15,530石で江川城を居城として始まりました。
1614年(慶長19年)に居城であった江川城が焼失したことから石田陣屋が築かれ、幕末までこれを居城としました。
1661年(寛文元年)五島盛利の三男五島盛清が3,000石を分与され、翌年富江陣屋を構えて交代寄合となり、福江藩は12,000石余りとなりました。
1806年(文化3年)に異国船防御を理由に幕府に築城を願いますが許可されず、1849年(嘉永2年)五島盛成のとき、幕府から築城許可がおり、1863年(文久3年)に石田城が完成しました。
この石田城はそれまでの石田陣屋を改修したものでした。
石田城はもともと福江港に面した城で、現在本丸は五島高校の敷地となっています。
五島高校の本丸を囲む内濠、外濠公園や五島邸の付近に外濠が残されています。
二の丸にある五島邸は五島氏庭園として国指定名勝にもなっていますが、訪問日は休館日(火水曜日)でした。月曜日が休館日だとかってに誤解していました。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=辰ノ口城(城びと未登録 長崎県五島市)に向かいます。
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