夏季特別展「徳川家康-天下人への歩みー」が2023年7月23日~9月18日の期間開催されているので行って来ました。長篠合戦屏風(六曲一隻)、徳川家康画像(三方ヶ原戦役画像)、豊臣秀頼が慶長16年に二条城で家康と会見したとき送ったとされる南泉一文字の刀など充実した展示です。すぐに出てくるつもりが、ゆっくりしてしました。
それにしても徳川美術館へ行ったのは久しぶりでした。以前、行ったのは昭和でしたね。
JR大曽根駅から徒歩10分くらいで行くことができます。
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2023/08/19 22:31
徳川美術館(夏の名古屋市散歩) (2023/08/19 訪問)
夏季特別展「徳川家康-天下人への歩みー」が2023年7月23日~9月18日の期間開催されているので行って来ました。長篠合戦屏風(六曲一隻)、徳川家康画像(三方ヶ原戦役画像)、豊臣秀頼が慶長16年に二条城で家康と会見したとき送ったとされる南泉一文字の刀など充実した展示です。すぐに出てくるつもりが、ゆっくりしてしました。
それにしても徳川美術館へ行ったのは久しぶりでした。以前、行ったのは昭和でしたね。
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2023/08/19 22:25
御所屋敷(夏の名古屋市散歩) (2023/08/19 訪問)
豊臣秀吉の母大政所(なか)の在所であると伝わる場所です。尾張藩がまとめた尾張志には 『この御器所村の古老伝説に太閤秀吉の母堂は、この御器所屋敷に住んで秀吉を産み、そこで御所屋敷という様になった』とい記載あるそうです。ここも豊臣秀吉の生誕地候補のひとつです。また持萩中納言の屋敷とされ、秀吉の母なかは持萩中納言の娘でこの地で生まれたと云う話もあります。
名古屋市昭和区にあり地下鉄鶴舞線荒畑駅より徒歩5分くらいで行くことができます。
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2023/08/19 22:21
2023/08/19 22:15
山崎城および山崎砦(夏の名古屋市散歩) (2023/08/19 訪問)
佐久間信盛が居城としていたこともある城と伝わっています。城びとには未登録の城址です。安泰寺付近が城址です。遺構はないと思われますが、西側にある名鉄名古屋本線が走っている場所はかっての堀跡といわれています。説明板はありませんが、案内標識と東海道荒崎呼続町線の道路に石碑に山崎城の名前がありました。
名古屋市南区にある城址で名鉄名古屋本線呼続(よびつぎ)駅より徒歩5分くらいで行くことができます。
山崎城の北西約500mにある砦で佐久間信盛の築城と伝わっています。こちらも城びとには未登録です。信盛が山崎城へ入った際に築かれたと思われます。現在は白毫寺となり、遺構はなく石碑も説明板もありません。
白毫寺は「年魚市潟勝景」で知られる地で、埋め立てられる前はこの辺りまで海が迫り、遠浅の干潟があったと伝わっています。「年魚市」は「あゆち」と読み、「愛知」の語源になったと伝わっています。
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2023/08/19 21:56
2023/08/19 21:56
もう暗くなってきたので、滑り込みポチっと (2023/08/11 訪問)
革嶋城は革島氏によって築かれたとされ
革嶋神社一帯に築かれていたとされています。
南側にささやかな公園があり、革嶋城公園の
プレートがあります。
革島氏は西岡被官衆の一人で、かつて西岡と呼ばれた
地を治めた、室町幕府に被官した有力土豪達のことを
ことを指すそうです。
西岡は京都盆地西部の西岡丘陵から桂川右岸を指すそうです。
地理的に足利将軍家とのつながりも深そうですね。
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2023/08/19 21:48
安井城(夏の名古屋市散歩) (2023/08/19 訪問)
豊臣秀吉の正室・おね(ねね)の養父である浅野又右衛門長勝の居城です。城びとには未登録の城址です。山神社、お福稲荷神社の南西が城址と伝わっていますが、住宅街になり遺構はありません。山神社鳥居近くに山神社の説明板があり安井城についての記載があります。長勝は妻の妹婿杉原定利の娘、おね・ややを養女に迎えています。ややは長勝の姉婿の子安井長吉(のちの浅野長政)を婿養子としてします。
名古屋市北区にある城址で、地下鉄名城線黒川駅より徒歩約20分で行くことができます。
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2023/08/19 21:35
周囲の坂がすごい (2023/08/11 訪問)
枚方城は枚方小学校の周辺が城跡とされています。
このあたり一帯、周囲に対し明確に高台にあるので
非常にわかりやすい。
城主の娘が豊臣秀吉の愛妾になって近くの御茶屋御殿に
住んでいたというので寄ってみます。
路がすごく狭い、大きい車だときついですねココ
しかも一方通行ではないので次から次へと対向車が
やってくる。大阪だなあ‥。
御茶屋御殿跡からの眺めはなかなか良いです。
淀川が良く見えますね。
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2023/08/19 21:27
2023/08/19 21:20
2023/08/19 21:05
写真暗くてゴメン (2023/08/11 訪問)
寺戸城は南北朝の時代に竹田氏によって築かれたとされ
応仁・文明の乱では東軍に属し応仁3年(1469)には
西岡被官衆が寺戸城に陣替えとなり西岡の戦いが繰り広げ
られました。
城跡は市街地と化していて公園の一角に寺戸城跡の標柱が
建っているのですが公園の中からしか寺戸城跡の表示が見えません。
願得寺宝菩提院跡の案内板も建っていますが、
近くの消防団の軒先に釣鐘がぶら下がっているのが
なんとなく意味深ですね。
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2023/08/19 20:46
堀切が立派。 (2023/08/11 訪問)
交野城は別名・私部城(キサイヘ)とも呼ばれる城で
大阪のこのあたりでは非常に良く遺構が残っています。
築城主は河内の実力者安見宗房の一族である安見右近とする説
が有力ですが、それ以前に鷹山弘頼が居館を築いていたという
説もあるようです。
西から二郭、本郭、三郭と横並びに続き
三郭は宅地化していますが二郭と本郭の間には巨大な堀が明瞭に残ります。
本郭周辺は宅地化しており侵入は憚られます。
二郭に大きな看板があるのでそこから訪問し、本丸を堀越しに
じっくり眺めます。
堀底に井戸跡もあるようなのですが確認は出来ませんでした。
この暑さの中で特に苦労もなくこうして遺構を拝めるのは
本当にありがたいです。
この後に淡路と徳島ではヤブ地獄(複数)と下り坂地獄を味わうことに
なりますが、好きでやっているんだから仕方が無いっていえば
仕方が無いですわ‥。
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2023/08/19 20:22
移築した門は気持ちよく見せてもらえました。 感謝。 (2023/08/11 訪問)
長尾陣屋は江戸時代、久貝氏によって築かれた陣屋だそうです。
城郭放浪記さんの情報によると瑠璃光寺の東側一帯とありますが
遺構は無いですね。
陣屋の門が津田の円通寺にあるというので訪問します。
気持ちよく案内していただき、仏像も拝観させていただきました。
有難うございます。
門を眺めていると南無阿弥陀仏~ とリズム良い読経が聞こえてきます。
私もつい、つられて南無阿弥陀仏とつぶやいてしまいます。
ぽくぽくぽくぽく‥
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2023/08/19 20:05
三箇城は地味だが城主の人生は奥が深い (2023/08/11 訪問)
三箇城の比定地として三箇菅原神社や大畑の廃慶岸寺跡が
あげられますが、今回は勉強不足で三箇菅原神社しか
訪問していません。城址碑が神社の境内にひっそりと建っています。
城跡ははっきりしませんが城主の三箇頼照はなかなか波乱万丈の人生を
送っている人物です。
wikiの情報によりますが、三好長慶に仕えている時にロレンソ了斎の説教を聞いて
キリスト教に改宗を決意したとあります。後に京で実権を握った松永久秀に
伴天連追放令が出された際にはヴィレラやフロイスを保護したと有ります。
主君の三好義継にも仏教への改修を命じられますがこれを拒否、
堺に逃れ、後に織田信長に従いキリスト教への信功も取り戻します。
本能寺の変の際には明智に味方しますが破れ、筒井順慶の元へ逃れます。
その後、秀吉に許されますが天正15年(1587)の伴天連追放令の際には高山右近や
オルガンティノ神父らと小豆島に潜伏します。
オルガンティノを永原の信者代表に引き合わせたのち、彼の記録は途絶えていますが
時代の荒波の中で己の信仰を貫いた信念のある人物のようです。
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2023/08/19 17:42
登城路崩落の為、通行止 (2023/08/13 訪問)
佐土原城は、標高約70mの丘陵に築かれた山城と、その麓に広がる平城で構成され、約二十七万㎡という広大な面積を誇っています。
現在、鶴松館が建っているいる場所は、江戸時代に平城の佐土原城があった場所ですが、背後の山全体が室町時代から江戸時代初期まで存在していた佐土原城です。
歴代の城主は、伊東義祐公や、島津家久公・島津豊久公がおり、戦国時代の日向国の中心でした。
平成8年の発掘調査で南九州では唯一となる天守の存在が確認され鯱瓦等が発掘されているとのことで、是非、天守台跡などを見たいのと、続・百名城のスタンプ目的で佐土原城を訪問しましたが、鶴松館のスタッフの方から、「登城路が崩落しているところがあったり、草が腰のあたりまでのびていて危ないから通行止めにしている」とのことを聞きましたが、諦めきれず「行けるところまで行っても大丈夫ですか」と尋ねたところ、大手道の登城口あたりなら大丈夫とのことで、行けるところまでまで行ってきましたが、やはり登城口を過ぎた辺りで登城路が崩落しており、ブルーシートが掛っていました。( ノД`)シクシク…
ですが、鶴松館に引き返しガイドさんの話が面白くついつい聞き、鶴松館もガイドさん曰く、柱穴・礎石・石組みなどの遺構から、想像し復元された館で二条城の御殿を模して建てたなど展示物の説明などを受け、目的は達成できませんでしたが愉しい時間を過ごしましたが、早く登城できることを願います。
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2023/08/19 16:19
2023/08/19 09:14
多数の礎石 (2023/08/14 訪問)
草刈りなどきれいに整備されており、城の立体模型もある。そして何より、かなり高い山城の主郭に多くの礎石かわ残っているのは珍しいです。
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2023/08/19 08:58
2023/08/18 23:54
下り坂地獄 (2023/08/13 訪問)
木津城はかつては三好氏の武将、篠原肥前守入道自遁の城で、
後に長宗我部元親の城になります。
元親の腹心、東条関之兵衛が守将を務めますが
天正13年(1585)内大臣になった豊臣秀吉の大軍の総攻撃を
受けます。豊臣秀長、秀次の連合軍は城郭大系によれば6万あまりとされ
堅固な天然の要害である木津城は八日間持ちこたえますが
水の手を絶たれ、関之兵衛は敗走、責任を取らされ弟の唯右衛門と共に
元親に首をはねられます。ひどい話です。
東側に登城道があるというので登ってみたのですが
廃屋近くにある道を使って登ったので道は途中で消え直登に近い
やり方で登ることになりました。どうやら、もう少し北のコンクリの
くぼみにある藪のあたりから登れば横堀につきあたる
らしいのですが、それどころでは無くなってしましました。
四国ではすぐにGPS圏外になり地形図が役に立ちません。
なんとか山頂あたりまで、よじ登りますが、ひどいヤブで進めません。
降り口を探して周辺をさまよいながら郭らしい箇所で
謎の石積らしいものを見つけましたが詳細は不明です。
結局直接山肌を下っていくのですが、さすがに6万の大軍をてこずらせた
要害。一筋縄ではいきません。
下りが急で、ブレーキが利きづらいので木をストッパー代わりにして
下っていきます。危険個所を避けながらなんとか下山。
正式な登城道からリトライしてみたいとは思いますが、
万一に備え、ロープでも準備しておきたいものです。
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2023/08/18 23:05
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