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しんちゃん

宮山城 木造氏の城 三重県津市戸木町 (2023/10/08 訪問)

宮山城は式内社・敏太神社の背後にある丘陵上に築かれており、案内板も設置されて
います。最頂部に主郭が築かれ神社が鎮座しており、敏太神社から参道が続いており
ます。雨の日でも簡単に訪問することが出来、遺構も良く残ります。主郭の周囲を土塁
と空堀がめぐり、その外側にも堀と土塁が巡っており、内部に複数の郭を残します。
天文年間(1532~1554)に木造具政によって戸木城の支城として築かれたとされ、
天正12年、小牧長久手の戦の際、織田信雄に協力し蒲生氏郷に攻められ落城したと
現地案内板には書かれており、現在の縄張りは蒲生氏により戸木城攻めの支城として
改修を受けたものとされています。

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ゆいと

古代と中世の時代に別れた城山城 (2023/10/13 訪問)

駐車場あり トイレ駐車場にあり
城山城は標高458メートルの亀山にあります。城山城は古代と中世に築かれました。僕は馬立コースで登りました。石垣は山の所々にあります。中世時代の主な城主は赤松氏、山名氏、尼子氏です。山登りは上級者向けです。途中道幅の狭いところがあるのでロープをつかまないと落ちる可能性があります。ロープは木と木の間にくくってあります。近くに川が流れています。道には石が転がっています。城には亀の池という広いため池があります。くだるときもとても大変でした。山にはたくさんスズメバチがいます。

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朝田 辰兵衛

【再訪】観音寺城散策1/2(入山料無料ルートガイド) (2023/09/17 訪問)

安土城,観音寺城を攻城する際,入山料が気になる方へガイドを兼ねて紹介します。これは裏技でもなんでもなく,合法ですのでご安心ください。
JR安土駅から,徒歩約30分で滋賀県立安土城考古博物館へ。その敷地内の東側に遊歩道入口があります。そのワキに繖山のパネルがあり,遠くからでも目を引くのですぐにわかると思います。
送電鉄塔の巡視路を兼ねた遊歩道となっているようで,安土城⇔観音寺城の分岐点まではキッチリ整備されています。ここに建設されている関西電力の送電鉄塔は「東海幹線251」という名称でした。ここからは右折し,観音寺城へ。
この先,桑実寺の分岐が2度出てきますが,いずれも直進です。
山は秋らしい雰囲気が出ていましたが,実際の空気感は真夏。赤とんぼのつがいを見つけましたが,全く動きませんでした。画像はピンボケしちゃいました。スミマセン。
繖山山頂手前にビュースポットがあり,琵琶湖(西の湖)を眺望できます。焦らずに,ここでパシャリ📷
ここからすぐに繖山山頂。今回は,遊歩道入口より約60分。猛暑の中,前回より時間短縮しましたが,持参の水分量1.5Lに『少なかったかな…』と感じていました。

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しんちゃん

藤堂高虎の孫が築いた伊勢久居藩の陣屋 (2023/10/08 訪問)

久居陣屋は寛文10年から藤堂高通(藤堂高虎の孫で嫡男高次の次男)によって造築され
一年余の工期を以て完成したとされています。高通は5万石を分領され大名格ではあった
ものの城を築くことはゆるされず、陣屋として築かれました。大手は東に付き、陣屋の
大部分は久居中学校の敷地内です。かつて御殿のあった南西部は公園となっていて
立ち入りが可能です。南から西側にかけてフェンスが掛けられていて、一部ですが
フェンス越しに土塁を見ることが出来ます。西側に大きな空堀があるようですが藪が
通路を遮り確認は困難です。城下各地に武家屋敷の長屋門があると城郭体系には
記載がありますが確認できていません。

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にのまる

18きっぷ2回目。ワンコイン野菜サンドがボリュームがあっておいしかったです。 (2023/08/16 訪問)

東武宇都宮駅の方が近いのですが、18きっぷ利用なのでJR宇都宮から歩きました。
前回は雨の夕方の訪城で、復元土塁の上を歩いて櫓を覗き込んだだけで終わってしまっていたので一からやり直しです。

大通りから一本入ると真っ白な清明台が目に飛び込んできました。交差点の交通標識や信号機の密集する背後によみがえるいにしえの記憶。時代を超えて重なり合う姿に復元のありがたさを思いました。

土塁トンネルをくぐると手入れの行き届いた目に鮮やかな緑の芝生広場、本丸跡です。
土塁の上には天守代用だったのではないかといわれる清明台と、遠く富士山まで望めたという富士見櫓。共に1階だけですが入れました。風が吹き抜けて気持ちがよく、かつ眺めもいいです。開け放たれているので鳩なども入ってくるようですが。富士見櫓には模型もありました。

城址公園内には3つの施設があります。歴史展示室のある「清明館」と、復元土塁の中の「宇都宮城ものしり館」と「まちあるき情報館」です。現地ならではの豊富な資料とボランティアスタッフの方の解説に、ネット上の概説では理解が浅くなりがちな部分についても深く知ることができました。江戸時代の資料としては、別の日に行った飛山城で購入した企画展の解説書「徳川幕府の成立と宇都宮」(宇都宮市教育委員会発行)がわかりやすくまとまっていてよかったです。

宇都宮城周辺は現在も市の中心部で、西側の三の丸跡には高層の市役所があります。
これはもしかして城址公園を俯瞰できるのでは?と思い、行ってみました。フロア案内を見ると最上階の16階にレストランと展望室があります。
よっしゃー!とエレベーターで上がってみました。しかし、時刻がちょうど正午でレストランは職員さんでごった返しています。展望室もレストランの中のようで、市民でも市職員でもない者が入り込むのは迷惑になりそう。そこで「ものしり館」のボランティアさんに教えていただいた、北へ約1㎞の二荒山神社までお散歩してきました。

1時間後に戻ってくると職員さんのお昼時間も終わったようでレストランはガラ空き。ラスト1個のサンドイッチを注文して、誰もいない特等席を陣取りました。
見えました!すごいです。
現在、城址公園として整備され復元されているのは本丸の西辺のごく一部です。それだけでもよき眺めではありますが、先に見た城絵図やジオラマを思い出しつつ(スマホの写真も出しつつ)目を向けると、たちまち土塁に築地塀、水堀を巡らした広大な本丸が浮かび上がってきました。想像力で復元を完成させるのです。部分復元によってもたらされたサプライズ。仕掛けとしてはかなり壮大です。

コンクリート土塁ゆえに上にも登ることができ、エレベーターの設置も可能で、伝統工法による櫓の復元も実現。防災施設として領民を守る城の役割もばっちりな宇都宮城。独自のセンスとアイデアでまだまだ進化し続けるのではないでしょうか。これで終わり、ではないような気がします。

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カズサン

南朝大忠臣大波氏の城 (2023/09/18 訪問)

 宮沢遺跡と東北道沿い未踏の城探訪の2日目高子岡城を終えて国道115号線を相馬市方向へ走行し大波水戸内集落へ、国道沿いに上り下りからも良く分かる立看板、横看板が有る、集落の坂道を約200m程登ると案内看板、城名石碑が登城口に有り良く分かる、車は更に50m程進むとひまわり看板に駐車場案内あり。
 
 駐車場:砂利舗装で余裕のある駐車場が2段で配備されてる。
 参考資料:古城盛衰記さんグーグルマップに依ります。

 登城口に案内看板が有り、「南北朝時代吉野朝廷に仕え北畠顕家に従えた大忠臣大波氏代々の拠る処の城」と大きく目を引きました、整備された西からの道を登り主郭へ、西奥に櫓台上の土壇が有り自然石を研磨し「大波城阯」下段には碑文が戦前の陸軍中将の揮毫に依る石碑で非常に立派です。主郭内は公園化されて居り、忠魂碑も立っていました。
 近くに霊山城跡が在りますので繋がりも有ったのでしょうか?
 遺構は良く分かりませんが西側の多段曲輪?畑の跡か?、東法面に多段曲輪?の畑段は夏にひまわりが咲いてる畑の様で、集落の案内看板にはひまわりに写真が大きく目を引きます。
 帰りに立看板が「もうお帰りですか この城跡は春夏秋冬変色します またおいで下さい」大変目を引きました。
 夕立明けの探訪でした。

 大波城も近い時期に、とある煩悩の登城目録さんが登城、投稿されていますが探訪の流れなので投稿させて頂きます。
 
 

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しんちゃん

主郭はコンクリの蓋の上 (2023/10/08 訪問)

上津部田城はマックスバリュ津北店の南の道路ぞいにあります。かつては主郭の
周囲を土塁で囲っていたようですが、道路を通すため主郭の大部分が削られ、トンネル
を築くことで強引に主郭を再現しています。主郭と南西の郭の間には堀切がかかって
います。主郭は上から見るとコンクリのトンネルの上とは思えないですが南にわずかに
土塁が残っています。周辺にもいくつか扁平地があり県の施設もあります。

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WEST

名胡桃城訪問 (2023/10/03 訪問)

群馬県の名胡桃城を訪問しました。
自動車での訪問でしたが、関越自動車道の月夜野ICから約2kmのところにあります。駐車場も隣接しておりアクセスしやすいお城と思います。
名胡桃城址案内所にて前情報を得て、登城しました。城内はきちんと整備されており、馬出から三郭、二郭、本郭、ささ郭と大変まわり易かったです。
名胡桃城は、豊臣秀吉の小田原攻めに関わるお城ということで、再認識をしました。
所要時間は、城址案内所内の展示等を見るのを含めて1時間ほどでした。


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しんちゃん

本山専修寺 三重県津市一身田町 (2023/10/08 訪問)

専修寺は三重県津市にある真宗高田派の本山の寺院です。文明10年(1478)に皇室の
御祈願所となり栃木県真岡市の本寺をしのいで本山と呼ばれるようになりました。
親鸞に関わる貴重な書物や肖像などを数多く有し、如来堂と御影堂が国宝に指定され
山門や唐門が重要文化財に指定されています。このたびは調べが足りず太鼓門を
見損ねてしまいましたが長屋門のような建物の上に三重の櫓が乗っかっているような
デザインでなかなか面白い外観をしています。

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ダイエティシャン

松江城水灯路2023 (2023/10/01 訪問)

今年も開催中です。

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AJ

奇跡と物理と

ぜひ参加したいところですが、関東からはなかなか。

数年前に熊本城を訪れた時には被害を受けた建造物の多くはすでに解体され、使用木材は大事に保管されていました。あれだけ話題をさらった「奇跡の一本石垣」(飯田丸五階櫓)もそのうちの一つ。地震直後、わずかに残った隅角部の石垣が櫓の重さに耐えるように見える姿が話題になりましたね。

ほぼ直方体である算木積の積み石が鉛直に積まれると、上載荷重に比例して大きな強度をもつと言われます。奇跡かどうかは別にして、400年前にそこまでの技術が確立されていたという事実にも感動したいと思います。

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臥竜公園 (2023/10/12 訪問)

 臥竜公園として整備されています。須坂市動物園側から登城しました。道は整備されていて概ね歩きやすかった。曲輪跡や竪堀等を見ることができます。竪堀は1本はわかりますが、他は浅くなったり、草木でわかりにくくなっています。

 須坂駅より臥竜公園へバスもありますが、歩いても登城口まで20~25分くらいです。行きは緩い坂をだらだらと上り、帰りは下りとなります。

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しんちゃん

織田信孝時代の見事な天守台が残る (2023/10/07 訪問)

貞治6年(1367)亀山城主関盛盛政の長男盛澄が神戸氏を名乗り、天文年間(1532~55)
に神戸氏によって神戸城は築かれたとされています。永禄10年(1567)織田信長三男信孝
が神戸氏の養子に入り元亀2年(1571)神戸城主になります。天正8年、神戸城の拡張工事
がなされ五層の天守が築かれたとされ本丸北西部には大きな天守台が残っています。
南西には土塁が残り本丸西側から南側にかけて水堀が残っています。かつての二の丸・
三の丸は神戸高校の敷地内になっているようです。鈴鹿市の蓮華寺に本多氏の時代に
二の丸に築かれていた平櫓が移築されています。四日市市の顕正寺には城門が移築されて
います。

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高井寺 (2023/10/12 訪問)

 安芸備後を治めていた福島正則が広島城の無断普請を理由に領地を没収され、この地に転封されたときの屋敷跡です。高井寺周辺が跡地です。土塁の一部が寺の北側に残っています。石垣が見られますが、高井寺が建立されたときに土塁や空堀を壊した後に作ったもので、屋敷があった当時のものではないとのことです。寺の方に案内していただき高井寺本堂内の福島正則の肖像画の掛け軸を見せていただきました。
徒歩5分くらいの所に福島正則荼毘所跡があります。

 須坂駅からバスがあり堀ノ内バス停下車。バス停のすぐ近くに屋敷跡があります。

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チェブ

ほんとだ、位置関係おかしいぞ。 (2023/10/04 訪問)

以前、赤い城さんが【城と看板】に投稿されていた、「榎本城」で笑いました。

1185年 小山 宗長さんが築城しました。
侵略され、北条家→上杉家→北条家と翻ろうされたようです。
秀吉さんの北条討伐時の「榎本城」の城主は、近藤 綱秀さん。北条 氏照さんの家臣です。
「八王子城」で綱秀さんは討死しました。
綱秀さんの留守の間に「榎本城」は結城氏に攻められます。

「榎本城」に到着し、一言。
『ほんとだ、位置関係おかしい。』でした。
後ろの説明板は斜めから読み、反対側に移動し読み、と、内容が入ってきません (;´A`)

石碑と説明板の向こうに土塁がありますが、草木が元気で高さが分かりません。
空堀の草木も、深さを教えてくれません。

石碑と説明板を、長時間眺めていただけなのに、笑顔で「榎本城」を後にしたのでありました。

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しんちゃん

二日でなんとか堀きった。土塁はおそらく固めてない。 (2023/10/07 訪問)

菰野城は菰野陣屋とも呼ばれ(土)方雄氏の代に徳川幕府より12000石で菰野の地を与え
られています。元々織田信雄が北伊勢五郡を統治していた時代に雄氏の父、雄久が
菰野を治めていたので雄氏は菰野に返り咲いたことになります。雄氏の妻は織田信雄の
娘の八重姫で、信雄に堀もないような城の主に娘はやれないと言われ、二日昼夜兼行で
幅6mの堀をめぐらし、なんとか輿入れに間に合わせたというエピソードが残っています。
菰野町の金蔵寺といなべ市の光徳寺に城門が移築されており、近鉄湯の山線横には
二重櫓の石垣が残っていると城郭体系には記載があります。菰野町池底の民家には
二重櫓が移築され倉庫に転用されているとありますが未確認です。
補足‥ヒジカタ氏と入力しようとすると不適切な内容とエラーが出ます。ドカ〇じゃ
なくてヒジカタなんですが‥めんどうくさい時代になったものです。

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しんちゃん

岸岡城の案内板とか欲しかったりする。 (2023/10/07 訪問)

岸岡城は岸岡山丘陵に築かれていますが遺構の大半は失われているようです。岸岡山七号墳
あたりが主郭のようで、すぐ近くにわずかに高台となる扁平地があり、櫓台ではないかと
考えます。城郭大系によれば丘陵南麓から北西部に深さ3mの幅広い空堀が円形状に
残っていると記載がありますが確認できていません。

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しんちゃん

落ち武者街道と空堀 (2023/09/07 訪問)

千種城は南朝方の武将千種忠顕の息子顕経によって築かれたとされます。比高20mほど
の丘陵に築かれ主郭の周囲に土塁が残ります。東に大きな空堀を配し土橋がかかり
空堀の周囲に土塁が残ります。主郭西側の遺構は不明ですが落ち武者街道の看板
(倒れていますが)につられて降りていくと西の扁平地の間に大きな堀切がかかって
います。西側には城山苑があるのですが、城山苑から県道へ続く道を下っていくと
道沿いに堀切らしきものが見えます。ひょっとするとこのあたりの土地も戦国期の
城域だったのかもしれません。

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カズサン

初代伊達朝宗が築いた城 (2023/09/18 訪問)

 宮沢遺跡と東北道沿い未踏の城探訪の2日目、平沢城・平沢要害を終えて、福島県へ移動、東北道桑折JCTより新しく出来た東北中央道の伊達中央ICを降りて約1,2kmの伊達氏発祥の地、高子岡城麓駐車場に到着。

 駐車場:高子岡城南東麓、亀岡八幡宮鳥居脇に大型バス、普通車のアスファルト舗装、駐車は余裕あり
 トイレ:さらに下段の高子岡公園に真新しいトイレあり。
 参考資料:城びと、伊達市HP、グーグルマップに依ります。

 麓の駐車場から亀岡八幡宮の鳥居を潜って登城、草も刈られて登城は整備されている大変ありがたい、主郭の八幡宮に向かって階段状の畑、多段曲輪のようにも見えるが、観光パンフレットの写真は桃が咲いた時期で素晴らしい景観です、階段を上がって主郭は亀岡八幡宮鎮座(鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請)、更に頂上部には高子20境丹露盤が有り巨石の景観と北西に落ち込む崖からの伊達郡一帯の眺めは素晴らしい、遠くの山腹に桑折西山城を眺める事が出来る、北西麓は桃畑、春の桃の時期、桜の時期が最高でしょう。
 南東の麓は最近開発された住宅街、高子岡公園と環境整備されている、公園のトイレは大変ありがたい利用させて頂きました。

 源頼朝の奥州合戦で常陸介中村入道念西と4人の子息達の功績により伊達郡を賜り、高子岡城を築き移住し姓を伊達と改めた、この周辺には梁川城、桑折西山城など城館を含め伊達氏の城が多くあります。鎌倉期室町期戦国期を乗り越えて江戸期仙台伊達藩へ飛躍しました。(解説板抜粋追記)

 近い時期に「とある煩悩の登場目録」さんが登城されていたのですね、投稿が近場で重なりますが先からの繋がりなので投稿させて頂きます。
 

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しんちゃん

江戸時代 親子で小芝居 サバイバル (藤堂家) (2023/10/08 訪問)

津城は織田信長の弟の織田信包が築いた城が原点になります。慶長13年(1608)に藤堂高虎が
22万石で入り豊臣氏に対抗して伊賀上野城と津城を大改修します。津城は城下町を含めて極めて
高い防御力を持った城に生まれ変わり、本丸の周囲に広い幅を持った広大な内堀を配しています。
内堀の周囲に二の丸が配され、その周囲を外堀が周回し、その周囲を三の丸が囲みます。城域の
北を安濃川、南を岩田川が流れ天然の要害となし、外堀と岩田川の間には一応区切りがありますが
満潮時には海の水が外堀に流れ込み海城の様相も呈していたようです。コンパクトな構造ながら
十分高い防御力をもっているのですが高虎公はさらに二の丸の東西の水路を南北の川につなげて
三重の堀にしようと考えていたようです。さすがにこれだと堅固な城になりすぎて幕府に目を
つけられてしまうので工事にストップをかけたようですが、高虎公も外様大名という立場で本領を
守るためいろいろ苦心していたようで、跡取りの高次の出来が悪いから自分の死後は国替えをして
いただきたいと家康公に願い出て、逆に家康公から子孫の代まで要衝の地の伊勢を守るようにと
仰せつかっています。うまく高虎公が家康公の言葉を引き出した格好になりますが家康公は高虎公
の息子が阿呆で無いということは御見通しだったようです。その高次公は幕臣達に目をつけられ
ないようにバカ殿の振りを続けていたようですが、小芝居の才は親譲りだったのかもしれません。

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