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しゃちほこ

雪国に潜む城 (2023/01/02 訪問)

お正月に会津若松城(別名鶴ヶ城)に行ってきました。
 この城は1384年に建てられた城で蘆名氏、蒲生氏、伊達氏、上杉氏などの東北の豪族が入城していて、城下町も栄えていました。1869年、松平容保が率いる旧幕府軍が立てこもる会津若松城は新政府軍との激戦の舞台になりました。一日に二千五百発もの弾丸を浴びたともいわれていますが、耐え抜きました。降伏はしましたが、落城はしませんでした。
 期待以上の天守、石垣の迫力に圧倒され、さらに雪が降る冬にいくとより鮮やかで幻想的です。もちろん青空との相性も抜群です。四季折々の景色を楽しめるので皆さん是非行ってみてください。
 あと名物のソースカツ丼もお忘れなく!

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ぎりょう

曳家の天守も男前! (2023/05/22 訪問)

青森三城目は弘前城へ。ご承知のとおり令和3年9月から本丸東面石垣の積み直し工事を実施中で、天守は曳家された状態が続いています。石垣修理の完了後の令和7年に天守の移動、さらに令和8年から2年をかけて天守の耐震補強と保存修理の予定という。東北地方唯一の現存天守が先々までしっかりと保存され、後世に受け継がれることは素晴らしいことです。ただし5年後に自身の足で登城し美しく整備された天守と再会が可能かちょっと考えてしまいました(笑)
桜の時期が終わった平日でしたが、観光客もたいへん多く弘前城の人気の高さを再認識しました。曳家工事のため設置された展望デッキ上から見る天守の姿は、見上げた感覚とは趣をことにしてなかなかの男前でした。
この日は大手門から登城、二の丸未申櫓、辰巳櫓を横目に南内門、本丸から北の曲輪、丑寅櫓、四の丸北門(亀甲門)とゆっくり攻城できました。
その後は、最勝院で最北に建つ五重塔、初代藩主為信の菩提寺である革秀寺で彼の霊廟(いずれも国の重文)を見学。津軽氏の歴史を訪ねることができました。





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カズサン

二の丸・袖曲輪・馬出 (2023/05/25 訪問)

 二度目の登城は未踏の西峰曲輪群を探訪観察、横堀・堂の尾曲輪・井楼曲輪編投稿に続き二の丸跡・袖曲輪・馬出編を投稿します。
 二の丸は西峰曲輪群の本丸に当たる西の丸の北下の平坦地、堀を挟んで北に袖曲輪、西下に馬出、馬出西下に横堀と続く横堀、二の丸西下に切岸と横堀が北に伸びてる横堀と堂の尾切岸土塁曲輪の間に構えています。
 馬出には天正二年戦士者之碑、本間氏清、丸尾義清の戦死址墓石、社が祀られています。

 狭いエリアですが見所満載の曲輪群です。
 

 

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風来坊や

天空の城 (2023/06/01 訪問)

竹田城跡周辺では秋から冬にかけてのよく晴れた早朝に朝霧が発生し、丹波地方の風物詩となっています

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風来坊や

世界文化遺産登録から30周年 (2023/06/01 訪問)

1993年(平成5年)外観の美しさと城としての実用性を兼ね備え、日本の木造城郭建築の代表例としてユネスコの世界遺産リストにその名が登録された。

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風来坊や

岡山市民の日 (2023/06/01 訪問)

登城記念に大手饅頭頂きました。
池田家や小早川家といった歴代城主の家紋などが印刷された特別包装のまんじゅうが配られました。

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風来坊や

因島水軍城より望む (2023/05/31 訪問)

青陰城は海賊ではなく戦国山城であり長崎・青木・余崎などの連絡場所であった。
また、周辺に因島村上氏が残した武具や遺品・古文書など歴史資料を展示している資料館(因島水軍城)があります。

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ぎりょう

青森の「土の城」に感動! (2022/05/21 訪問)

青森探訪の二城目は浪岡城。堀越城からは21km、車で30分ほど。
浪岡城は、南北朝時代に南朝を指揮した北畠親房の子孫、浪岡北畠氏によって1460年代に築城されたという。永禄5(1562)年に親族間の争いが起こり、その後浪岡北畠氏は弱体化し、天正6(1578)年に大浦(津軽)為信に攻められて落城する。廃城後は田畑として使われていたが、昭和15(1940)年に青森県初の国史跡に指定された。昭和52(1977)年から発掘調査が始まると12世紀後半代から16世紀末までの陶磁器や金属製品、武具など大量の遺物が出土しており、古くからこの地方の中心として機能した城館だったことがわかる。
城地は浪岡川の段丘に立地し、南は浪岡川とその氾濫湿地で防御、主曲輪である内館、それを囲む東館、北館、西館など八つの曲輪で構成されている。各曲輪間は中土塁を持つ幅20m程の水掘りで区画されており、中土塁が通路の役目をはたしていたものと想像できる。
北館は広大で、大身の家臣屋敷が並び立つ曲輪であったらしく井戸跡をはじめ遺構を復元展示している。
比高10m程の平城なのだが、各曲輪は広さもあり、中世の「土の城」の構造がとてもわかりやすいと感じた。
城址には「浪岡城案内所」があり駐車場(小型車は24台駐車可)を利用できる。また近隣には発掘調査の出土遺物を展示する「中世の館」もあるのだが第三日曜は休館(前記案内所も)だったため見学できなかった。


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赤い城

津金学校 (2023/05/28 訪問)

明治、大正、昭和の三世代の学舎が残る津金学校の駐車場を利用。
その後ろの諏訪八幡神社周辺が城跡です。
神社西側に土塁と空堀が残っています。
ただしこの時季、空堀は藪と伐採された木枝で覆われ、形を明確に確認することはできませんでした。
空堀の北側は竪堀となっているそうですがこれも確認できず、やはり冬ですかね。
ここの城主津金氏は常陸佐竹氏の一族とされています。
堀底はやっぱり?

写真投稿するのにGoogle Photoにアクセスできなくなったのですが私だけ?
ちょっと不便になりました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:津屋城 (2023/04/27 訪問)

福束城からの転戦です。本慶寺駐車場(35.255134、136.565504)に駐車しました。

津屋城は、文明年間(1469-1487) 高木氏によって築城され、高須城主・高木盛兼の一族である高木八郎左衛門正家の居城でした。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦で石田三成に味方したため改易となり、廃城となりました。

現在城址は本慶寺の境内となっており、城跡碑と説明板が建てられています。
遺構として空堀、土塁、土橋があるようですが、入口のみ確認して境内を歩きませんでした。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=駒野城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:福束城 (2023/04/27 訪問)

曽根城からの転戦です。福満寺入口前(35.298612、136.623624)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、1600年(慶長5年)関ヶ原合戦の頃は20,000石を領した丸毛兼利の居城だったそうです。
兼利は西軍に味方したため、東軍に属した松の木城主徳永寿昌や今尾城主市橋長勝らに攻められ福束城は落城し兼利は大垣城へ逃れました。戦後は前田利常に仕えたそうです。

福束城は福満寺の北側一帯に築かれていたそうですが、現在は河川改修によって遺構は消滅しているようです。
福満寺の境内に福束城の説明板が設置されています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=津屋城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:曽根城 (2023/04/27 訪問)

御茶屋屋敷からの転戦です。曽根城公園専用駐車場(35.403659、136.619731)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、永禄年間(1558年 - 1569年)初期に稲葉良通(一鉄)によって築かれたと云われています。
稲葉氏は伊予国河野氏の一族で稲葉通貞の時に美濃にきて、土岐氏に仕えたと云われています。
土岐氏が没落すると斎藤氏に仕え、さらに織田信長、豊臣秀吉に仕え1588年(天正16年)郡上八幡に40,000石で移封となりました。
稲葉氏のあと西尾光教が20,000石で入封、関ヶ原合戦では東軍に属して大垣城攻めの功により揖斐城に30,000石で転封となり、曽根城は廃城となりました。
春日局の父は明智光秀の重臣であり甥(実際には従弟)とも言われる斎藤利三で、母は稲葉良通(一鉄)の娘です。後に稲葉正成の妻となっています。

現在は本丸跡に華渓寺があり周辺は曽根城公園となっています。
城塁、石列、堀を確認しました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=福束城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:御茶屋屋敷 (2023/04/27 訪問)

長松城からの転戦です。ボタン園見物客駐車場(35.389288、136.579689)に駐車し、御茶屋屋敷入口(35.389268、136.579922)に向かいました。

"説明板によるとお茶屋屋敷は、1604年(慶長9年)徳川家康が、織田信長の造営した岐阜城御殿を移築させた将軍専用の休泊所跡のようです。
"

ボタン園の入城は無料ですが、付近の道路は狭いので、車の通行は注意が必要です。
遺構として土塁、横堀(空堀)、井戸跡を確認しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=曽根城に向かいます。

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小城小次郎

宇喜多直家はここを起点に膨張していった (2023/01/07 訪問)

児島湾に面した田園地帯にぽっかり浮かぶひょうたんみたいな小山が、宇喜多家雄飛の起点となった乙子城。宇喜多直家の祖父がいたともされるこのお城を浦上家が直家に与えたことから、直家と宇喜多家の膨張が始まっていく。

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赤い城

ふるさと公園 (2023/05/28 訪問)

ふるさと公園に駐車場があります。
公園が主郭部で薬研堀が残っています。
以前は狼煙台があったようですが登城時は無し。
そこから竪堀っぽい部分はありました。
天正壬午の乱の際には北条氏が駐屯地としていたとされます。
この日は早朝の訪問でしたが地元の方が草刈りをされていました。

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にのまる

石碑復活🙌 (2023/05/05 訪問)

2018年5月に行った時には長崎館の石碑があったのですが、その後宅地造成のため撤去されたとのご報告がみなさんからあり、もう行くこともないだろうなーと思っていたのですが、先日、お散歩中に寄ってみたら石碑復活していました\(^o^)/
以前のは赤文字だったので新しくされたようです。(新旧並べてみると同じもののようにも見えます。)
閑静な住宅街のお店の敷地ゆえすぐにお暇しましたが、うれしかったです。

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ぴーかる

嵐山城 (2023/04/22 訪問)

【嵐山城】
<駐車場他>専用駐車場はなし。阪急嵐山駅周辺にコインPあり。
<交通手段>阪急電車

<見所>堀切
<感想>嵐山城の築城は応仁の乱の頃で山城国の守護代香西元長が築城したとされます。香西元長は管領細川氏の家督争いに加担している中で討死し、後は管領の細川晴元らによって使用された可能性があるそうです。
 私も[京都京都一周トレイル西山26]から登城しました。城跡までは3㎞程はある長丁場ですが登山道が整備されているのでハイキングと同じ感覚で登れます。登り始めてすぐに獣捕獲檻のある場所に削平地があります。[西山30]の標識場所にも削平地が広がっています。嵐山城跡の一部かどうかは分かりませんが古い曲輪跡のような感じがしました。麓付近と中腹の曲輪跡かもしれません。[西山32]の標識からやっと嵐山城方向の案内があります。ちょうど中間地点くらいです。[西山33]の標識辺りに嵯峨の町と桂川・渡月橋が見える展望が良い所があります。ここから残りは横移動な感じで主要部入口の堀切に当たります。堀切正面の山が主要部になりますので、堀切から左手の道には行かずに少し荒れた右手方向の道を登ります。主要部虎口とおぼしき場所に石積み遺構があります。山頂部はそこそこ荒れています。石積み虎口のある広めの削平地と一旦狭くなって北側の削平地があります。どちらが主郭かよく分かりませんでした。北側の削平地から北西方向に扇状に段曲輪が広がっています。すこし荒れているのと、城跡説明板も石碑も何も無いのでビギナーにはちょっと遺構の判別は難しめかとは思います。

<満足度>◆◆◇

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トク

㊷【関ケ原の26人】(18)大谷吉継 (大谷吉継陣跡) (2022/12/01 訪問)

(18人目)「大谷吉継」の続きです。
関ケ原の「大谷吉継 陣跡」を訪れてきました。

大谷吉継の陣は山中村と呼ばれた地にありました。麓の駐車場にチャリを止め(写真①)、ここから徒歩で登ります。階段を登るとJR東海道線の踏切があります(写真②③)。ここは十分注意して渡って下さい。線路は意外と幅広く足を取られます。見通しも悪く警報機が鳴るやいなやあっと言う間に猛スピードで列車がきました(😱~)。踏切を渡って神社の右手から登り、途中右に行くと吉継陣跡と眺望地、左に行くと吉継の墓があります(写真④⑤⑥)。

大谷吉継はこの陣で藤堂高虎と対峙します。しかしその陣の位置を見て私は驚きました。吉継の陣は高虎の方を向いていません。何と松尾山にいる小早川秀秋の方を向いていました。もうこの時点で、小早川秀秋が裏切るという確信があったものと思われます。(写真⑦⑧⑨)

でも不思議でした。大谷吉継はなぜ、京極高次・脇坂安治・朽木元網・小川祐忠・赤座直保の5人もからも裏切られたのでしょうか? 今まで吉継の悪い噂などは聞いたことがありません。恨まれるような男ではなくむしろ実直な男だと思います。三成に加担したから・・・? ただそれだけの理由だったからなのでしょうか?

吉継は病を押して戦います。今でいうハンセン病だったようです。もはやこの時点では、立つ事もできず輿に乗り、目も見えなくなっていました。平塚為広が吉継に代わり、実質は大谷軍を指揮していたようです。

数に劣る大谷軍ですがよく奮戦し、小早川軍とは互角に戦います。しかし、前方で吉継を補佐(与力)であったはずの、脇坂・朽木・小川・赤座の4人が裏切り反転、藤堂高虎に調略され共に攻めに加わると、もはや持ちこたえる事はできず、吉継は最後にここで自刃して果てました。関ケ原の戦いの最中で亡くなった大名は、大谷吉継ただ一人だけです。なぜそうせざるを得ないまでに追い込まれてしまったのでしょうか? しかしこの中でまた吉継に関わる美しい話があったので、この続きは藤堂高虎の中で・・・

次は(19人目)藤堂高虎に続きます。
 

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イオ

池の中の水城 (2023/02/11 訪問)

かつての深野池西寄りの三つの島にあった水城で、室町中期に河内国守護・畠山氏の内紛に際して築かれたようです。三好長慶が飯盛城に入った頃には飯盛城の支城として機能しており、大坂との間の舟運を担った三箇頼照の居城でした。三箇頼照はキリシタンに改宗(洗礼名サンチョ)すると城下に教会を建て、河内キリシタンの拠点として繁栄しました(ルイス・フロイスの書簡にも三箇の隆盛ぶりが記されています)。三箇頼照は三好氏が滅ぶと織田信長に従うも、本能寺の変以降は明智光秀に味方したため城も教会も焼き討ちされ、三箇城は河内キリシタンの結城如安(ジョアン)に与えられましたが、小牧長久手の戦いで討死したことにより廃城となったようです。

江戸中期に新田開発により深野池が干拓されたため遺構は消滅しており、所在地もはっきりしないようですが、城びと位置情報の三箇菅原神社が比定地のひとつとされ、三箇城址石碑と菅原神社の説明板に三箇城の記述が見られました。神社前の参拝者用駐車場から参拝がてら周囲をひとめぐりしましたが、微高地といえば微高地かなぁ、という感じでした(たぶん気のせい)。

それにしても、下調べの段階では池の中の水城といわれてもいまいちピンとこなかったんですが、飯盛城のスタンプを押しに訪れた大東市立歴史民俗資料館で、大和川の付け替えと新田開発の展示を見て、いろんなことが納得できました。大和川の付け替え自体は知っていましたが、付け替えまでは北に分流してこのあたりで淀川からの分流と合流して池や湿地帯になっており、三箇城は大坂との間の舟運を担うべく池の中に築かれていること、池や湿地帯と生駒山地との間の狭い平地を東高野街道が走っているため、三箇城に加えて野崎城を支城とすることで水陸双方の交通を掌握できること、だからこそ三好長慶は飯盛城を居城としたのではないか…。資料館や博物館を訪れることを今年のテーマのひとつにしていますが、遺構のない城であってもこうして資料館で理解(妄想?)を深められるのは楽しいものですね。
 

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todo94

和歌山の城めぐり② (2023/04/29 訪問)

ゴールデンウイークの初日の行き先を和歌山としたのは、鳥取県に次いで攻城数が少ない県だったから。手取城からの転戦です。説明板もある遊歩道の入り口は、県道から三﨑神社に向かう裏道に入ってすぐの場所ですので、県道沿いの駐車場を利用するとよいかもしれません。遊歩道を進んで峠のあたりは堀切跡だとのことです。ピクミンブルームのキノコが生えていたので本之脇城の入り口であることが確認できました。キノコクリアでゲットしたポストカードには標柱が写っていましたが、現地には存在していません。木のベンチが目印です。山中に少し分け入ると、石垣が現れます。

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