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todo94

県内の城めぐり2022㉜ (2022/05/28 訪問)

中野県庁の建物のちょっと前方にかなりの広さの駐車場がきれいに整備されていたので此処に車を駐め、高梨氏館跡に向かう前に、入館いたしました。説明板に井戸遺構のことが記されていたので周辺を暫く散策してみましたが見つけることは出来ませんでした。残念。

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朝田 辰兵衛

ポチと書き込みが追いついていませんが… (2022/06/13 訪問)

ポチと書き込みが追いついていませんが,大洲城で日本100名城コンプリートです。苧綿櫓と南隅櫓は少し離れているので,事前に下調べをしておくと宜しいかと思います。

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小城小次郎

絶妙なバランスと言えなくもないが (2022/01/24 訪問)

本丸の櫓台に無理やりねじ込まれた天守は、移築先とも伝わる丹波亀山城の古写真を基にしつつもかなり独特な風貌を有する。縦に長くて撮り方次第では不格好にもなるこの天守を美しく撮るのは至難だとも思う。

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にのまる

広々。 (2022/05/29 訪問)

新井城から移動しました。
地図に従い歩いたつもりが行き止まりっぽいコンクリートの壁にぶつかり、「なんでぇ~?」となったのですが、階段があったのでおそるおそる上がってみるとそこがゴールでした(‘ω’)ノ
市役所第2分館(旧三崎中学校)前の説明図を見ると、どうやら搦手口から上がったようでした。
本丸と大手の位置も示してあったのでぐるりと見渡しながらかつての姿をイメージしました。といってもいつの時代のどんなお城だったのかよくわからないままです。

大手から坂を下って光念寺へ行ってみました。光念寺は和田義盛による開基・創建とされるお寺で、石橋山の戦いの後に義盛が奉じた筌龍弁財天がありました。
三崎小学校との間の道などは堀跡の名残のような雰囲気があります。光念寺とお隣の本瑞寺も城域だったようです。

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赤い城

模擬天守は郷土資料館 (2022/06/12 訪問)

目立つ模擬天守は郷土資料館になっていますが入れる日は限られています。
ちょうど紫陽花が周りに咲いていました。
文化学習センターが建っている辺りが天神曲輪、駐車場が二の丸になります。
それぞれ石碑が立てられています。
本丸は農耕地となっていました。
遺構は道路を挟んだ反対側に土塁が残っています。
碑が立っているところが遺構で少し低くなっている部分は復元されたものらしいです。
古河公方や上杉謙信が所有した後北条氏家臣の成田氏が居城としました。
江戸時代にも残り、騎西藩の居城となりました。
遺構も少なく模擬天守は残念な感じですが地元の誇りとなっているのは感じられました。

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カズサン

伯耆未踏の城廻りⅢ (2022/06/21 訪問)

 小波城を終えて9号線を東進、大山町富長(富長神社)を目指す、ガイドは余湖図コレクションさん、グーグルマップ、神社入口の東に航空写真で駐車エリアを確認して目指し駐める。(35°29'59"N 133°28'36"E)

 第一鳥居横に富長城の標柱、案内板説明板は無い、第一鳥居を下がって石橋、下は自然水堀深い水路に成って居る大堀切の様です、参道石段を登り、両脇は高土塁、山門を潜って富長神社本殿、広い本曲輪と成って居る、杉林など樹木で鬱蒼としてる、土塁が南、東、西を囲ってる様子、北は日本海に崖で落ち込んで居る、鬱蒼としていて日本海側は確認して無い、開口部は東の参道虎口、西の虎口で本曲輪と西の曲輪の大堀切に続いてる、大堀切は現在通路で日本海側の漁港に通ってる、大堀切を北に降りて日本海を確認したが急崖である。
 南の通路土塁側から西を見ると畑と樹木の在る高台、西曲輪の物見台曲輪と3曲輪の様である。(余湖図コレクションさん俯瞰図に依る)

 大山町富長城跡の概説
 海岸を見下ろす標高26mの断崖に築かれた富長城は五角形状の主郭、西の2郭、堀が良好に残る単郭式の山城です。
 指定面積は14,227㎡と広大で、主郭には現在、富長神社が鎮座して居ます。元弘頃には名和氏家臣の荒松兵庫が居て、戦国時代には福頼周辺(米子市淀江町)を拠点とする、福頼左衛門尉が居城し、大永4年(1524年)に尼子の伯耆攻めで落とされたと伝えれれています。大山町史跡指定昭和57年11月19日
 大山町文化財室による。

 

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ぴーかる

升方城 (2022/05/22 訪問)

【升形山城】
<駐車場他>登城口前<36.764387, 137.417961>に2台程度駐車可能
<交通手段>車

<見所>土塁・曲輪
<感想>1泊2日富山城の旅7城目。初投稿いただきます。今シーズンは山城は終了したつもりでしたが、富山県の北東部の松倉城を中心とした城びと山城集中地帯のこの一帯がどうしても気になり攻めちゃいました(*^^)v
 現地表記の升方城は升形山城ともいい、築城年は定かではないが応永年間(1394〜1427年)に松倉城主の椎名氏によって築城され、家臣小幡九助が守った。松倉城支城群のひとつで松倉城から最北西部の山の突端に位置します。松倉城と共に城主は椎名氏家臣→上杉氏→佐々氏→前田氏と移っていったようです。
 上記ポイントに展望台、トイレ、城跡碑等があり登城口も案内がありますので簡単に登れます。登城路を登ると朽ちた冠木門らしき門の手前に曲輪と竪堀があります。朽ちた冠木門から城跡に入ります。城跡は楕円形の主郭を中心にその下段に帯曲輪、帯曲輪は北側と西側を広く削平地にしています。主郭に東屋があり南側に説明板、石積みが僅かに残る土塁上に城跡碑があります。現地説明板の縄張り図に畝状竪堀や帯曲輪に石積みの遺構がありますが、あまり手入れされていないようでかなり鬱蒼としていて全然わかりませんでした。いい遺構が
残っているようなので残念です。南の尾根道伝いに城びと未登録の南升方城に行けるようです。
 攻め終わって登城口に戻った時に地元の方々が大規模に草刈りを始められたので現在は手入れされているとは思います。

<満足度>◆◆◇

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トク

熊本城の復興状況(2022夏) (2022/06/27 訪問)

(1月2022冬)に、見事に復興した天守と、そしてまだ手付かずだった「宇土櫓」、奇跡の一本足から解体中だった「飯田丸五階櫓」についてレポートしました。あれから5カ月が経ち、今どうなっているのか? また前日(6/26)にも熊本市で震度5弱の地震があり、気になったので訪れてきました。


「宇土櫓」は、まだ全く手付かずのようで前回と同じ悲しい姿をさらしたままでした(写真①)。よく見ると、櫓の下の石垣内部深くとその横の堀の下の地質調査を行っているようでした(写真②)。どのような地質かをまず解明し、それから解体して土を補強し、石垣を積みなおしてから櫓の修理となるのでしょうか? となるとまだ相当な時間がかかりそうな・・・(今はどうなるのかよくわかりません)。これからも注視していきたいと思います。

「飯田丸五階櫓」も前回と同じ解体中のままです。詳しい事はわかりませんでしたが、全く進展は見られませんでした。(写真③)

今回ちょっと気になったのは、「扇の勾配石垣」です。細川時代の下方の隅石の部分にわずかなはらみと一部ずれと崩落が見られました(写真④⑤)。そしてその右側の部分にもはらみとずれと崩落の跡が(写真⑥)。加藤時代の部分にも若干ですがわずかなはらみとずれがありました(写真④左)。 細川時代の部分は上部が地震前より15cmほど下に沈んでいるとの事です。という事は地震により石垣に微妙なずれが起こり、そして浸み込んだ雨水やその後の数度の地震などでできたのかもしれないと思いました。 本丸御殿下の石垣にも同様に見られました。もし石垣や内部の土をこれから調査し、解体して土を補強してから石垣を積みなおして、それから上に載っている本丸御殿や櫓の再建となると・・・ とてつもなく長い時間がかかってしまうので、他に簡単ないい修復方法があればいいですが・・・ 他にもまだまだ手付かずの箇所は多数あります。(私は専門家ではないのでよくわかりませんが、これ以上にならぬ事を今は祈るだけです)。ここもこれから注視していこうと思います。

大天守・小天守はすでに再建が終わって公開されており、勇壮で華麗な姿を見せてくれているので、それだけが唯一うれしいです。(写真⑦) しかし、それ以外の部分は、まだまだこれからです。大地震からすでに5年が経ちましたが、完全復興への道のりは、とてつもなく長くなりそうだなというのが今回訪れた私の実感でした。半年後にまた見にきます。そしてこれからも応援していきたいと思います。


帰りに、お城のすぐ近くにある「くまモンスクエア」に寄り、くまモンに会ってきました。相変わらず元気なやつでした(笑)。(写真⑨)

最後に熊本駅で名物「熊本ラーメン」食べて帰りました (にんにくたっぷりの濃厚とんこつおいしかったです😊)(写真⑩)。
 

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おっちゃん

池田城跡公園案内図 (2016/03/21 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

沢良宜城跡図 (2017/09/18 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

滝川氏城跡縄張り図 (2017/12/30 訪問)

現地案内板より抜粋。

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カズサン

伯耆未踏の城廻りⅡ (2022/06/21 訪問)

 鳥取県西部伯耆の国に城びと登録未踏の城が5城有りましたので今回の郷里鹿野慶讃法要の後に廻る事に、前日法勝寺城は草の茂りが深く登城口まで、小波城は古城盛衰記さんのガイド案内でグーグルマップを良く確認して、カーナビに鳥取県米子市淀江町小波161-2に合わせ走行、9号線中間交差点信号を南下1km程中間集落に入り東進、山陰道ガード下手前の池の前辺りが目的地。
 車は目的地入口から手前に約200m程の三角コーナーに路駐(35°26'17"N 133°24'45"E)

 案内板、道路指示板は有りません、古城盛衰記さんの写真でここかな?と分かるくらい、東に向かった丘陵先端に築かれて居る、現在虎口は軽四轍が有り進んで行くと開けた平作地、中へは鎖が掛かり進入禁止、そこで内部の写真を撮り撤収、周りは竹ササで覆われ茂っている、東は池を挟んで山陰道が走ってる、西は丘陵続きで畑と成って居る、城域に境に樹木が茂り堀切らしさを感じるが良く分からない。

 歴史は古城盛衰記さんに依ると。
 元弘3年(1333年)名和長年は後醍醐天皇の隠岐島脱出を助け、船上山に立てこもった、隠岐国守護の佐々木清高は追撃の為小波城(小浪城)に入り、出雲国、伯耆国、因幡国の軍勢をまとめ、天皇方のこもる船上山を攻めた。
 しかし、船上山を落すことはできず、清高は再び小波城に入った。天皇方は小波城を攻め、夜半になり名和長年らは、小波城の四方八方から松明を投げ入れ、佐々木清高らを追い落とした。
 清高父子は、航路、隠岐国に逃れ、出雲国から若狭国、越前国へ落ち伸びたという。

 

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カズサン

伯耆未踏の城廻りⅠ (2022/06/20 訪問)

 郷里鹿野慶讃法要を1日半終了の後、山陰道(無料区間)浜村鹿野ICから米子西ICを降り国道180号線を南下、鳥取県も高速が出来東西の交通が大変便利に成りました、南部町に在る法勝寺城へはスムーズに進行しましたが、180号線1本西の町中道から法勝寺川を渡る手前の道が軽四がやっとの広さ、困り果てて近くの方に聞き小型車だとキズつけるかも?と言われ代わりの法勝寺川土手の道を教わる、ここも離合不能、対向車が来たらアウト、目的の橋を渡って山沿い麓に砂利舗装の専用駐車場が在る、拾数台は可能。

 法勝寺城は初訪問、草の茂りが深く、マダニの新聞報道を聞くと藪漕ぎもしづらく登城は断念、近くに居た方に他の登城道を聞くがここの道との事で、林業関係の方が草刈りするのですがまだの様ですねと。

 麓の案内板、城名石碑、山中鹿之助に攻められ自刃したと言われる毛利本紹と主従の墓がある。案内板石碑の裏が大堀切の様である。
 歴史は投稿写真の案内板、案内石碑をお読みください。

 登城は草が刈られた時期、晩秋、桜の頃が宜しいのではと思います。

 案内ガイドは古城盛衰記さん余湖図コレクションさんを参考にしました。

 

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にのまる

三浦一族終焉の地 (2022/05/29 訪問)

「道寸祭り」に合わせて午前10時~正午の2時間限定で実施された東京大学臨海実験所内の城址一般公開に行ってきました。
先に海岸に向かい、途中、外からロープ越しに堀跡を確認。道寸祭りの会場で「鎌倉殿」のパンフレットなどを大量にいただきました。
その後一般公開会場に向かうと既に長蛇の列。主催者の予想も超えていたようです。石神井城(東京都)の一般公開のように城址を自由に見られるのかと思っていたのですがそうではなくて、10人ずつのグループで10分程度、解説付きの見学でした。外から見た空堀を内側から見せていただき、立ち入り禁止の理由やそのメリット、今後の展望などのお話を伺いました。そのほかの遺構についてはギリギリのラインから覗き込むにとどまりましたが研究会の方のお話を実際に聞きつつ質問させていただく機会を得られ、貴重な体験となりました。秘蔵の肖像画も見せていただけました。
その後、マリンパーク駐車場奥の城址碑、三浦義意公、道寸公の供養墓に行き、天然の要害感のある海岸におりてみました。
日差しの強い日ではありましたが、久々の青い海に青い空、気持ちよかったです。

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モト

祠と城址の碑 (2022/06/20 訪問)

全国にいくつかある小谷城ですが、ココは「こや」と読みます。
城跡には祠と碑が建ってました。
案内板もあります。
案内板だけでもあると大まかな概要もわかるのと城跡に来たんだなと思えて幸せです。
特別な遺構は残っていないようです。

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赤い城

天神曲輪に天満宮が建つ (2022/06/12 訪問)

羽生駅から徒歩で20分。
古城天満宮に石碑と説明板が立っています。
この日は車だったのですが天満宮前に短時間ならば駐車は問題ありません。
この天満宮は古城天満宮と呼ばれ、天神曲輪があった跡地です。
主郭部などはここから西に広がりますが住宅地や企業の敷地で遺構はありません。
この辺り、もともとは沼沢に囲まれた要害だったようです。
古河公方家臣の広田氏が築いたとのこと。
上杉氏と北条氏の間で争奪戦が繰り返された城です。
雰囲気を感じるのも難しいですね。

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カズサン

亀井玆矩公墓所は砦の様 (2022/06/20 訪問)

 亀井玆矩公の墓所は鹿野城の北西約2.8km程の小山武蔵山の明星ヶ鼻に在り鹿野城を望める砦の様な所です。
 鹿野城、檀家寺、宿泊の山紫苑によく訪ねながら一度も参拝して居ませんでした、今回の檀家寺で慶讃法要が有り宿泊先の山紫苑の行き帰りに亀井玆矩公墓所の白い標柱がやけに目につき、夏は明けるのが早く5時前には明るい、食事前の6時から7時に参拝探訪しました。
 これまでの行き帰りに目にはしてるのでしょうが、今回が探訪の縁と成りました。

 住所:鳥取県鳥取市気高町山宮字田仲 駐車場は特に在りませんが田仲集落の西の入口三角コーナーに駐車可能数台(35.475342E 134.043207N)

 田仲集落の中程に石垣と鳥居が構え、亀井玆矩公墓所の標柱、亀井武蔵守玆矩と解説板が石垣沿いに有ります、鳥居を潜って九十九道を登って行き、道は整備されています、石垣と石段、急な所を登りますので砦かなと思う造りです。墓前は広く、石垣基壇に角柱墓が立って居ますが墓標に刻んだ名は良く分かりませんネットの情報で「中山道月大居士」と刻んであるそうです、唐風に琉球の別称刻んだようです。
 参拝して墓前の広場から鹿野城方向を眺める、朝の6時過ぎ朝靄で鹿野城の城山は微かに見えるほど、登りお降り朝でも汗びっしょり。

 参拝終って鹿野城址を訪ねました、何時ものショットを取って終了約1時間程でした。

 亀井玆矩公は山中鹿之助と尼子氏復興を願って毛利氏と戦い、秀吉の第二次鳥取城攻防戦で鹿野城を良く護り貢献する、鹿野城を与えられ関ヶ原では東軍に立ち43000石と成り因幡気多郡高草郡を治め、朱印船貿易での潤いで治水新田開発殖産などに勤めて領民に大いに敬われ、津和野移封に成って以降も現在も「亀井さん」と慕われています。

 

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小城小次郎

下津井城がくっきり見える (2022/01/24 訪問)

丸亀城の本丸から瀬戸大橋と鷲羽山ハイランドが見える・・ってことはその手前にある下津井城もくっきり見えたはずだが丸亀城の大改築は下津井城の廃城後のことだったので両城が並び立つことはなかったのか。

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赤い城

あやめ園。 (2022/06/12 訪問)

菖蒲城址あやめ園が城跡で道路の向かい側に駐車場があります。
この日は時折晴れ間も見える曇り空だったのですがここに着いた途端に土砂降り。
それでも栢間陣屋の門をくぐり園内に。
今年は休耕地が多く、あやめも寂しい感じでした。
これも畑を長持ちさせるための方法だそうです。
園内に立派な石碑が立っていますが遺構はありません。
来年は畑いっぱいの花が咲くのを期待します。

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朝田 辰兵衛

龍野古城,その先には八幡宮跡が… (2022/06/12 訪問)

龍野古城本丸跡までは,他の登城グループと一緒になりました。ところが,本丸跡のすぐ先にある八幡宮跡へは行かれずに下山されたようでした。個人的感想を言えば,八幡宮跡のほうが魅力的でした。みなさんは,見落としのないように。

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