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にのまる

【かるた】岡城の読み札

大パノラマ 巡る石垣 岡城址

かまぼこ石 大手へいざなう 岡城址

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にのまる

【かるた】大分府内城の読み札

廊下橋 殿様気分 大分府内城

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にのまる

【かるた】人吉城

はね出しが ぴしっと整列 人吉城

肥薩線 復旧願う 人吉城

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にのまる

【かるた】熊本城の読み札

復興城主 みんなで応援 熊本城

再びの 雄姿仰がん 熊本城

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にのまる

【かるた】佐賀城の読み札

鯱の門 弾痕刻む 佐賀城址

本丸御殿 迷路のようだよ 佐賀城址

御座間で 2ショット撮れます 佐賀城址

亀甲乱積み 花びら模様の 佐賀城址

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にのまる

【かるた】吉野ヶ里の読み札

城の起源 はじめて知った 吉野ヶ里

よみがえる 環濠集落 吉野ヶ里

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にのまる

【かるた】名護屋城の読み札

陣城に 天守建てちゃう 名護屋城

崩落の 跡さえ豪快 名護屋城

名古屋城より でっかい陣城 名護屋城

秀吉の 果てなき野望 名護屋城

150棟 マンモス団地 名護屋城

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にのまる

【かるた】福山城の読み札

400年祭 鉄板復活 福山城

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にのまる

【かるた】月山富田城の読み札

イエローバス 城下を巡る 月山富田城

絶景が 待ってる本丸 月山富田城

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蒜山地域最大規模 (2023/05/27 訪問)

「城びと初投稿いただきます」(ぴーかるさん投稿からのぱくり)。
蒜山高原の東端にある比高130mの城です。近づいて行くと、主郭の一本松がいかにもな雰囲気を醸し出しています。山の西麓裾の道を集落の外れまで南下すると、粟住城の説明板があり、そこが登城口です。
主郭とその近くの郭の木はよく伐採され、今、膝ぐらいまで木が挽回した状態。主郭から北側の郭は、間が切岸と堀切で隔てられています。登城道は、主郭の南下に至るのですが、主郭とは反対側に鞍部を挟んで小さなピークがあり、そこから、三方の尾根に小さい郭群が並んでいます。城域は、南北500mほどもあります。
山頂からは、蒜山高原越しに、蒜山三座とその向こうの大山が望めます。
中国山地内ながら、広い平地(東西20km,南北10km)の蒜山高原の生い立ちを調べてみました。この場所は、中国山地脊椎の北側に位置し、流れる川は日本海に北流していたが、蒜山三座の噴火により、北側が高くなり、川は蒜山三座を迂回(西流→北流→日本海)。そして、大山も噴火して川は塞き止められ、湖に。湖底は堆積物で平らになり、その後、岡山に流れる出る旭川が水を抜き、平原に、との展開。雄大ですなあ。

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ぴーかる

二ツ山城 (2023/04/09 訪問)

【二ツ山城】
<駐車場他>駐車場あり。二ツ山城登城口<34.862001, 132.522859>から道なりに車で10分程進んで終点に6台程の駐車場があります。
<交通手段>車

<見所>堀切・曲輪・切岸・石積み・櫓台
<感想>第2弾安芸高田・北広島の山城攻めの旅2日目ラスト9城目。現地説明板によると、二ツ山城は1223年に富永氏によって築城されました。富永氏はこの地の出羽郷の地名を取って出羽氏と称します。1361年には阿須那高橋氏の攻撃を受け城主は討死し落城します。戦国時代1530年高橋氏は毛利元就によって滅亡し出羽氏が二ツ山城主に復帰します。永禄年間には毛利元就の6男毛利元倶が出羽氏の養子になりますが17歳で夭折します。1600年毛利氏の萩移封により出羽氏も移住します。城はこの頃廃城となったようです。
 城跡は東西に伸びる尾根上に曲輪が広がっています。東と西にそれぞれの山のピークに主要部があり、神明空堀と呼ばれる大箱堀の堀切で大まかに東西に仕切っています。上記駐車場は城跡の西の端から登城します。まず3重堀切があり圧倒されます。西の主要部は西の丸と呼ばれ東西に段曲輪があります。西の丸の東下段のお蔵段には蔵跡の石積み基壇が方形に残っており見応えがあります。その東下段に神明空堀があり、空堀から東に2段曲輪があり東西に長い馬場があります。整備され綺麗な削平地になっています。馬場から主郭北側に回り込み雪隠の段(トイレ曲輪)に入ります。雪隠の段北側の尾根にも2重堀切があります。主郭は東西にかなり広く圧巻です。主郭曲輪壁はちょっと藪化して表面観察できなかったので石垣探索しませんでした。主郭東に駄屋の段、主郭南に太鼓の段と南曲輪があります。城跡南面の東西に通った通路には所々に土留めの石積みが残っていて当時の雰囲気を伝えます。なかなかのスケールで見応え充分、百・続百名城に負けていない城跡でした。
 これにてこの旅終了。昨年の12月に館跡、2月と今回の合計3回に分けて安芸高田市と北広島町吉川氏の城を多く攻め取りました。初めは何となく城びとフラッグが集中しているゾーンで軽い気持ちで行ってみたかっただけだが、実際行ってみると、見応えあるダイナミックな城や特徴的・特異な縄張りの城が多く好きな城が沢山ある地域となりました。また機会があれば行ってみたい。走行距離812㎞無事走破。

<満足度>◆◆◆

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美夢

【かるた】島原城の読み札

城キャンで 夜も楽しむ 島原城

層塔の 天守がどんと 島原城

島原城 炎天の涼 かんざらし


読み札のみの投稿です
層塔型天守が美しい島原城
駐車場(RVパーク)では城キャンも出来
夜のイベントも楽しそうです✨
暑い日には冷たいかんざらしが美味しそうですね
(そうめんアイスも食べたいですw)

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にのまる

【かるた】大野城の読み札

千代のむかしの 息吹そよぎし 大野城

四王寺山 大宰府防衛 大野城

山登り 絶景ご褒美 大野城

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)9日目:揖斐北方城 (2023/04/26 訪問)

相羽城からの転戦です。城山さくらの森公園空スペース(35.507211、136.534360)に駐車しました。

北方城は、建武・延元の頃に吉田休三入道によって築かれたと云われています。あとはよくわかりません。

公園になっていて、遺構らしきもの(山頂の公園が曲輪といえば曲輪)は見つけられず石碑があるのみ。
山頂は風強く寒かった。熱があるせいか寒気がします。気力では熱は下がりませんね。
攻城時間は5分くらいでした。
次の攻城先=揖斐城に向かう予定でしたが、風邪が悪化した為、本日の予定(揖斐城、小島城、菩提山城等)を全て中止し、ドラックストアで薬を買って、早めにホテルで休み、明日以降に備えました。
本日の予定分(揖斐城、小島城、菩提山城等)はいつかリベンジします。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)9日目:相羽城 (2023/04/26 訪問)

軽海西城からの転戦です。神社北側公民館入口(35.456320、136.636801)から進入して駐車し、標柱(35.455549、136.636556)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、建暦・建保年間(1211~19年)に土岐二郎光俊によって築かれたと云われています。
光俊は土岐美濃守光衡の嫡子浅野判官光行の二男で、饗庭二郎と称し鎌倉北条方に属して承久の乱で討死したそうです。
饗庭氏は光俊の後、二郎太郎国綱、国頼、国信と続いたようですが、後に廃城となったようです。
天文年間(1532年〜55年)初期には長屋景興が垂井より移り、城を修築して美濃国守護土岐頼芸に仕えました。
1546年(天文15年)斎藤道三が相羽城を攻めましたが、この時は落城しなかったようです。
しかし、翌年土岐頼芸の籠もる大桑城が落城し頼芸は国外に逃れると、道三は再び相羽城に攻め寄せ城主景興と嫡子与五右衛門景直は奮戦むなしく討死したそうです。一説に景興は城を逃れて木曾屋に隠れて没したともいわれています。

現在の八幡神社境内は周囲より幾分高く、ここが本丸跡と伝えられており、標柱と石碑が建っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=揖斐北方城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)9日目:軽海西城 (2023/04/26 訪問)

北方城からの転戦です。標柱と説明板付近(35.429279、136.655305)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、1468年(応仁2年)以前に稲葉氏によって築かれたと云われています。 稲葉氏が数代ここを居城としましたが、その後西村勘九郎(斎藤道三)が居城したともいわれています。
1560年(永禄3年)池田恒興の家臣片桐俊元(半右衛門)が城を修築して居城としたそうです。
1589年(天正17年)一柳直末が大垣より移って60,000石を領しましたが、直末が豊臣秀吉による小田原征伐で戦死した後、城は廃城となりました。
その後、1640年(寛永17年)に城跡に菩提を弔うために円長坊が建てられ、宝暦年間(1751~64年)に円長寺となって現在に至るようです。

円長寺門前に「軽海西城跡」の標柱と由来説明板が建てられています。
周囲に土塁・堀の跡が残っているようですが、雨が降っているので捜しませんでした。
なお、かつて城の東方には軽海東城があり、加留美長勝、朝倉高清、安藤守宗(安藤守就の次男)などが拠ったとされるようです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=相羽城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)9日目:北方城 (2023/04/26 訪問)

黒野城からの転戦です。常誓寺参拝者専用駐車場入口(35.437312、136.691382)から進入して駐車しようとしましたが、手前の道路で工事中。
付近を車でウロウロして、説明板(35.437132、136.691643)前で路駐して、北方城の石碑と案内板の写真を撮ってすぐ撤退しました。

築城年代は定かではないようですが、明応年間(1492~1501年)に伊賀太郎衛門光就によって築かれたと云われています。
4代目城主の伊賀太郎衛門守就から安藤氏を名乗り、安藤守就に改名します。
守就は当初、土岐頼芸に仕えていましたが、美濃が斎藤道三によって奪取されると、道三の家臣として仕えました。稲葉良通や氏家直元らと並んで西美濃三人衆と称されたそうです。
1556年(弘治2年)道三と斎藤義龍の抗争(長良川の戦い)では義龍に協力し、義龍の没後は斎藤龍興に仕えました。
1567年(永禄10年)織田信長の美濃侵攻に対して他の三人衆らと共に内応し、そのまま信長の家臣として仕え、引き続き北方城城主となります。
しかし、1580年(天正8年)河渡城主であった実子安藤尚就が、甲斐の武田勝頼と内通したという罪により、信長によって織田氏から追放され、北方城城主は稲葉良通がなりました。
1582年(天正10年)本能寺の変で信長が明智光秀により討たれると、守就は子の安藤尚就と共に挙兵して北方城を奪い、再起を試みますが、稲葉良通に攻められ敗死し、北方城は廃城となりました。
北方城の跡地には、1668年(寛文8年)に北方陣屋が築かれ、美濃国加納藩藩主松平光重の三男である戸田光直(戸田光賢)、旗本5,000石の陣屋となり、1868年(明治元年)まで存続します。

攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=軽海西城に向かいます。

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かんちゃん

【かるた】

ラスト水戸城!
長々とすみませんでした!

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かんちゃん

【かるた】

高知城。

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かんちゃん

【かるた】

伊賀上野城!!!

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