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しんちゃん

平安の頃からの有力者の城。 (2023/11/26 訪問)

上野原城は平安時代末期に古郡忠重によって築かれました。古郡氏が建暦3年(1213)の和田合戦に敗れて滅亡すると加藤氏が入ったとされています。加藤氏は上野原七騎とともに武田氏に従い活躍しますが武田氏と共に滅びたそうです。城跡は宅地化が進み堀跡もはっきりしませんが南西側の崖は健在で今では高速道路が通っています。

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しんちゃん

戦国期の善得寺会盟の舞台 (2023/11/25 訪問)

善得寺城は今川氏の支城とされ今川、北条、武田の三者が会談したという善得寺会盟の舞台になったと言われています。永禄12年(1569)には北条氏に攻められ北条氏の支城として大藤左近右衛門が守備したとされています。城域は和田義盛神社から日吉浅間神社にいたる丘地のあたりと見られ、江戸時代にこの地域6ヶ村(190石)を支配した東泉院跡地が隣接します。公園内に建つ宝蔵には東泉院に関わる資料が公開されています。

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カズサン

10年振りチョイ寄り再登城 (2023/10/21 訪問)

 西美濃未踏の城廻Ⅴの川手城を終えて北西約300m程の加納城を10年振りにチョイ寄りし2度目の登城で近世築城石垣を観てみたいと暗くなる前に探訪しました。

 駐車場:加納城南側東の堀跡駐車場を利用
 参考資料:グーグルマップに依る。

 駐車場から本丸南側の南東角石垣観察、東に張り出した出枡形の南面石垣観察するが草に覆われている、南側の堀跡と道路の間に低い土塁が復元されてる。
 南口より本丸内部に進入、本丸内部、外枡形の内部に入るが草が茂り過ぎている、本丸の北西角の土塁上は天守台跡と言われてるが草が茂り過ぎ、本丸内部は夕刻に成っていますが犬を連れての散歩、付近の方の散歩などで活用されている。
 北口より出て案内板の確認、立派な石垣が有る北面東側は草に覆われて石垣の存在が失われている、残念が状態です、北面西も同じく、北西角、南西角は何とか石垣が外から見る事が出来る。
 折角遺った貴重な石垣をもう少し景観整備保存に力を入れて頂きたい、岐阜城だけでなく加納城も大切な文化財遺構です。
 発掘調査は継続されているようですので最終結果などで成果としての加納城跡を見てみたいものです。
 

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いんげん丸虫

地徳館 茨城県常陸太田市 (2023/11/11 訪問)

南北朝時代の城郭のようです。
単曲輪の主郭に帯曲輪がまき、両端を堀切で遮断してます。
国道に広い箇所があり、路駐可能だと思います。
小さな看板があり、道がついてます。

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OHagi

井伊直政と彦根城 (2023/08/10 訪問)

今年の夏に行きました。国宝の城はこれまで3箇所回っていますがどの国宝よりも立派な天守で、井伊家の権力がひしひしと感じられました。
あと彦根城の堀巡りも堪能しました

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WEST

松山城訪問 (2023/11/22 訪問)

4年ぶりの松山城訪問です。ロープウェイ・リフト乗り場の近くの加藤嘉明公の銅像を見学してから、登城しました。徒歩でも登城できますが、楽をしてリフトにての登城です。
松山城は城門、櫓、天守等、当時の建物も多く、また立派な石垣など非常に見ごたえがあるお城です。ゆっくり見ているとあっという間に時間が過ぎてしまいますね。
天守は現存天守としては最も新しいものだそうですが、天守内を登ってみるとその歴史の重みに遜色はないようです。平日の登城でしたので、お城内部をゆっくり回ることができました。
訪問時は搦手側の乾門が改修中でした。改修の期間は2024年3月までとのことです。
帰りは、黒門口登城道から徒歩で降りて、二の丸史跡庭園に寄りました。ここには遺構として大井戸がありますが、その大きさにびっくりです。また、この庭園は「恋人の聖地」と呼ばれているそうです。ロマンティックな場所として活用できますよ。

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WEST

湯築城訪問 (2023/11/21 訪問)

松山市の道後公園内にある湯築城を訪問しました。伊予鉄道市内電車の道後公園駅から歩いて直ぐですのでアクセスしやすいお城です。搦手口を入ってすぐに、ビデオ上映や展示等をしている湯築城資料館があり、その歴史の一端を理解できます。
ここは河野氏が250年間以上に亘って居城としたお城で、見どころは良好に残っている二重のお堀と土塁です。建物等も復元整備されており、当時の様子をイメージしながら城内をゆっくり散策できます。
外側土塁の一部が断ち切られて土塁内部断面が見える展示があります。重機の無い時代にこの大規模な土木工事は驚きです。
中央部の丘陵にある展望台にあがれば、松山市内が一望できます。また、数キロ先には松山城の天守が望め、同時に訪問することで中世、近世の城郭の対比を感じることができます。
公園内には子規記念博物館(木曜日は休館)、近くには道後温泉があり、道後観光の見どころの一つとしてお勧めいたします。

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カズサン

西美濃未踏の城廻Ⅴ土岐源氏の居城 (2023/10/21 訪問)

 鷺山城主館址を終えて、稲葉山に聳える岐阜城天守を望み、岐阜駅繁華街を通り、加納城を横目に済美高校内に在る川手城に初登城。

 駐車場:無し、川手城跡の在る校内道路の南側の西に学校関係者駐車場が有り邪魔に成らない範囲で路駐。一時停止。
 参考資料:古城盛衰記さん、グーグルマップ、現地案内板「手城の由来」による。

 川手城は革手城とも称し、現在は済美高等学校の校内に遺跡が石碑、案内板、神明神社、遊具と共に土壇上に遺っている。現在地は案内板によると川手城城域のほぼ北隅の地と推定されると記されてる。
 高校の校内に在り見学できるとは大変ありがたい事です。
 
 土岐氏は清和源氏の一族で美濃を中心に栄えた、3代美濃国守護職土岐頼康の時代に美濃国・尾張国・伊勢国守護職に成ったおり、手狭になった長森城(川手城より約3km東)から文和2年(1353年)川手城を築き、以降11代土岐頼芸まで居城し頼芸は斎藤道三に美濃を追われた。
 道三の時代には革手の町屋は庇護され、信長の時代町屋は岐阜に移り、江戸期には加納城が築城されて残って居た土塁等も使われて遺構は消滅した。(革手城の由来抜粋)

 西美濃未踏の城廻の残りが4~5城有りましたが暗くなり車中泊でもと思っていたのですが荒れて気温が下がる予報で5℃までの寝袋では心もとなく日帰りとし後日挑戦とした。
 帰りは少し暗くなっても大丈夫な隣300m程の加納城を門限前までにと10年振り2度目の立寄り探訪しました。
 

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todo94

朝駆け (2023/11/23 訪問)

西宮名塩SAにて車中前泊し、舞鶴若狭道、北近畿豊岡道にてアプローチしました。この日はいくつもの山城攻略の予定があったので、「あ」さんのように藪漕ぎ敢行しての登頂は断念し、供養塔までとして撤退いたしました。今回の鳥取県の攻城は此処のみ。この後は但馬の城をめぐりました。

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橋吉

城山公園 (2023/11/22 訪問)

三ノ丸は護国神社および幼稚園となっています。
堀も一部の超されています。

二の丸・本丸周辺は城山公園になっています。
二の丸の周囲は土塁のようにも見えますが、公園としてかなり整備されているので遺構かどうかよくわかりません。

本丸に向かい道は山城のような感じもしますが、所詮公園の中ですから時間はかかりません。
ただし、ここでもクマが目撃されているので注意が必要です。
本丸上段と大手門の石垣が復元されています。

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しんちゃん

築城者の岡部正綱は飲み過ぎで‥ (2023/11/25 訪問)

菅沼城は中富中学校のあった台地上に築かれていて、今ではドローンの会社になっているようです。休日ということもあり、人気も無いので城址碑の写真だけ撮らせていただきました。本能寺の変の後、武田方から徳川方についた岡部次郎右衛門正綱に家康が命じて築かせたとされています。かつての領主・穴山信君が伊賀で落命したため、河内地方を抑えるために急いで城を築く必要があったようです。
その後、菅沼定政が入城し城名の由来になったようです。岡部正綱は徳川の甲斐平定に尽力し武田の旧臣たちを調略するために毎回酒宴を催し急性アルコール中毒で亡くなったという説があります。今だったらウコンとかヘパリーゼとかあるんですが当時はそんなもん無いですからね。

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宗春

丹波・但馬・播磨の名城を攻めてきました その④赤穂城【播磨】 (2023/11/24 訪問)

11/24(金)に休暇を取って4連休にし、友人と名古屋から車で攻城しました。

さて赤穂についてですが。
愛知県出身の自分としては、赤穂浪士はただの逆恨みのテロリストに過ぎません。
「忠臣蔵」はフィクション、というか「忠臣奨励」プロパガンダですよね。所謂【フェイクニュース】です。

浅野某はロクに朝廷の饗応も出来ず、高家(こうけ:朝廷と幕府の橋渡し役)である吉良のお殿様に叱責された事を逆恨みしての「松の廊下事件」であったと私は承知しています。

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しんちゃん

国指定天然記念物のお葉付きイチョウが目を引く。 (2023/11/25 訪問)

下山城は甲斐源氏の加賀美光重が建仁年間(1201~4)に下山に入部し下山小太郎光重と名乗ったのが始まりのようです。応永25年(1418)武田氏の一族、穴山氏が下山氏の館跡に居館を構えたとあります。手前の門をくぐった右手にひっそりと城址碑が立っていますが、とにかく国指定天然記念物のお葉付きイチョウが目を引きます。紅葉も盛りで綺麗なのですが、うかつに近づくと銀杏爆弾を踏んでしまいます。この銀杏‥いくつも踏むと靴を洗うまで匂いがとれません。以前難儀したこともあるので、そろりそろりとよけながら歩きます。墓地の裏手に堀が残っているらしいので見に行こうとすると、今度は鹿のフンがいっぱい落ちています。イノシシのもありますね。
自分、こう見えてけっこうウン〇(野生動物の)には詳しいのです。山城を登るときにはウ〇コの知識は重要だと思います。
墓地の裏手には確かに堀らしいものがありますね。土塁らしきものもあるようです。あとは爆弾をよけながら車に戻ります。

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くうくう

織豊系陣城、佐々氏森寺城に対する前田氏の付城か

義仲道横の丘陵に築かれている。古城を基にしたのだろうか。詳細不明。縄張は技巧的で織豊系陣城と思われる。かなり造りは細かい。この規模では実際どうなのだろうと考えてしまが、その明瞭な折れや横矢掛かりの土塁に惚れ惚れしてしまう。

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しんちゃん

土門を抜けると主郭にたどり着く。 (2023/11/25 訪問)

波木井城は富士川の西側の台地上に築かれています。大永元年(1521)今川方の武将・福島正成が甲斐の国に侵入した際に城主波木井義実は今川方に通じていたため武田信虎に当城にて殺されたとされています。城の北東、行き止まりに向かう道を進んでいくと城址碑と案内板があります。城を南から西に回り込んでいくと城内に続く道が分岐しています。入口は土塁に阻まれ開口部は狭いですが、これも遺構で土門と呼ばれています。貴重な遺構で傷つけるわけにはいきませんが、5ナンバーサイズの車であれば通行は可能です。その先が主郭で東に鉄塔の建っている一段高い場所があり、東下段に郭が配され民家が建っています。

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くうくう

七尾湾に面した平山城

天正9年(1581)織田信長より能登一国を与えられた前田利家が築く。そして兄安勝が城代になる。金沢へ移る間の重要拠点だった。今は公園となり、石碑や前田利家松子之像などが出迎えるばかりであるが、近年の丑寅の展望台や乾の展望台など城郭を意識した整備や、櫓台や土塁などもあり、往時の雰囲気が感じられる。

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ぴーかる

直峰城 (2023/11/04 訪問)

【直峰城】
<駐車場他>国道403号線の直峰城跡登城口の道路を北上し行き着いた場所に12台程度駐車できる駐車場があります。駐車場にはトイレがあり、パンフレットも置いてあります。
<交通手段>車

<見所>曲輪群・堀切
<感想>1泊2日上越の城攻め旅2日目4城目。現地説明板によると直峰城は南北朝時代、南朝方の新田義貞に味方した風間信昭の居城であったと伝わります。16世紀前半は越後守護代長尾為景の家臣・吉田英忠が城主であった。上杉謙信の時は城主は不明で、御館の乱後は功績のあった樋口兼豊(直江兼続の父)が城主となります。上杉家が米沢移封後は堀秀治の家臣・堀光親が城主となります。1610年堀家の改易後とともに廃城となりました。
 駐車場から山頂の主郭へは家臣の屋敷跡の曲輪が多く残る東側のルートと、谷あいと家臣の屋敷跡が数か所と主郭下の二の丸・蔵跡曲輪が見られる西側のルートの2本があります。駐車場も曲輪跡だったようで、駐車場の傍に曲輪跡があります。私は東側のルートから登り主郭から西側のルートを降りて戻りました。本丸・二の丸奥にある大堀切、山頂までに広がる曲輪群はかなり見応えがありました。正直なところ前日に行った鮫ヶ尾城より見応えがありいい城跡でした。曲輪配置、造りが何となく春日山城を彷彿とさせるものがあります。

<満足度>◆◆◆

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しんちゃん

松源寺 長野県下伊那郡高森町下市田 (2023/11/12 訪問)

松源寺は松岡城の城域内にあり五の郭あたりに建っています。かつて井伊谷の亀之丞(後の井伊直親)が今川氏に命を狙われた際に逃げ込んだ寺で、亀之丞は10年ここで暮らしたそうです。その縁でか本能寺の変の後、松岡氏が徳川家康と対立する小笠原貞慶に味方した際に井伊直政のとりなしで命を助けられたそうです。松源寺自体が堀と土塁で守られていて、出城の松岡南城と合わせて、松岡城の守りが堅固であったことをうかがわせます。

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しんちゃん

松岡南城 長野県芋伊那郡高森町下市田新井 (2023/11/12 訪問)

松岡南城は松岡城の出城と考えられていて、松岡上の西側に位置する丘陵上に築かれています。城域は小規模なもので畑地にも堀切と土橋があります。南に郭があり、その先の森の中に主郭があるようです。主郭の北側に堀切と土橋があり、主郭はヤブに覆われているので淵を進んでいくと、その先はさらに深い藪に覆われていて進むのは困難と見て引き返しました。

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しんちゃん

井伊直親をかくまった松源寺のある城。 (2023/11/12 訪問)

松岡城は松岡氏の城で河岸段丘を生かした台地上に築かれていて、西側に位置する松岡南城は出城であると言います。城域内には井伊谷の龍潭寺と縁の深い松源寺があり、この寺も土塁と堀に守られています。「女城主直虎」に登場した亀之丞(井伊直親)は今川に命を狙われた際に、この法縁で松源寺に逃げ込み10年を市田郷で過ごしたとされています。
城域は丘陵上に、堀で区切られた各郭によって構成されています。松源寺のある郭を五の郭として背後に五の堀があり、三の郭、二の郭、主郭の間にそれぞれ堀切が存在します。主郭西側から南側にかけ帯郭や腰郭が配されています。竪堀もあるようなのですが、それほど確認できていません。二の堀あたりで地元の子供たちの弓技大会が行われているようです。
矢の先端は竹をとがらせただけのようですが、危ないことには変わりないので距離を取っているとコントロールを外れた矢がこっちに飛んで来ました。子どもの放った矢とはいえなかなのスピードです。これが屈強な武士の放った矢なら回避は不可能でしょう。攻城感が出てきて結構なことです。こんなところで矢で射られて喜んでいる私は変態なのでしょうか?

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