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夏まつり(南西隅櫓特別公開) (2023/08/11 訪問)

 名古屋城夏まつりが開催中で西南隅櫓が公開されていたので行って来ました。何回も来ている名古屋城ですが、隅櫓内の見学は昨年の東南隅櫓に続いて2回目です。江戸時代には11基の隅櫓が存在していたようですが、残っているのは3基(西南、東南、西北)だけです。東西11.8m、南北13.5m、高さ14.1mという大きめの隅櫓で2階建てに見えますが、一層目の屋根をつけていないため内部は3階建てになるという珍しい形式です。
この日は休日で開門と同時に行ったのですが、すでに多くの方が見学に訪れていました。西南隅櫓見学の後、本丸御殿へ行ってみると20分待ちとのこと、すでに数回見学したことがあるので今回はスルーしました。
 名古屋城は外堀もかなり残っています。この日は県庁東側の外堀周辺を散策してきました。

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関東八家成田氏 (2023/08/10 訪問)

石碑と標柱がありました。遺構はないようです。

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常光院 (2023/08/10 訪問)

 常光院が跡地で、低くなっていますが土塁や堀が残っています。

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光恩寺 (2023/08/10 訪問)

光恩寺が跡地です。山門前と寺の背後に浅くなっていると思いますが空堀が残っています。

 城とは関係ありませんが、寺の隣には日本公許登録女性医師第1号となった荻野吟子女史生家の長屋門が移築されています。当時女性には国家試験の受験資格がなく、その道を切り開いた方ということで寺では「合格の門」として正月に開放しているようです。

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城之内公園 (2023/08/10 訪問)

東武鉄道小泉線西小泉駅から徒歩で約15分、城之内公園が跡地です。水堀や土塁が残っていています。

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神光寺 (2023/08/10 訪問)

 東武小泉線本中野駅から徒歩約15分、神光寺周辺が跡地です。寺の入り口近くには説明板があります。北東部に低くなった土塁と思われる土の高まりがありました。この寺には県指定天然記念物の大カヤがあり、その説明にも中野城のことが書かれていました。

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榊原康政 (2023/08/10 訪問)

 館林駅より徒歩にて登城しました。土塁が各所に残り土橋門が復元されています。市内各所に遺構があるようですが、今回は散策していません。城沼を堀として活用した平城ですが、多く残っていればすばらしい景観だったのではないかと思います。

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古城天満宮 (2023/08/10 訪問)

 古城天満宮付近が跡地とのことです。遺構はないと思われます。

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大雷神社 (2023/08/10 訪問)

秩父鉄道持田駅より徒歩にて登城しました。ゆっくり15分くらいでしょうか。久伊豆神社大雷神社合殿周辺が跡地です。背後に土塁が少し残っているように見えます。

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カズサン

再訪飯山城本丸桝形石垣と本丸 (2023/06/19 訪問)

 9年振りの再登城(初登城H26年4月)、先の7月2日に「再訪飯山城整備は如何にとチョイ寄り」投稿しましたが、写真も多く残っており、未投稿写真で構成した投稿を致します。

 本丸の北側に石垣が残っており、北西角に本丸門枡形虎口石垣が見所です、本丸内部の写真も合わせ掲載します。
 

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にのまる

雨の公園散策 (2023/05/29 訪問)

屋島城からはJRではなく琴電を乗り継いで高松に戻り、“高松築港駅のホームから鞘橋を見てみたい”という5年前の自分の願いをかなえてあげました。
ホームすれすれにある石垣にはがっちりネットが張られ、内堀の説明板もありました。
18時近かったので玉藻公園は翌日まわしのつもりでいたのですが、なんとなく西門に向かうとまだ開いている!!
日の出~日没が開園時間らしく、西門の開門時間は年間8パターン。(東門は2パターン)
この日の閉門は18:30で、まだ40分近くあったのでそのまま入園しました。
【平日・閉園時間間近・雨】というお城独占の好条件が揃った40分。
青天下とはまた違った趣のある石垣をゆっくりと味わいました。
そして念願の桜御門。
2階展示室は曜日も時間も限られており入れませんでしたが、堂々と構える姿はドキドキするくらいかっこよかったです。
国宝(当時の国宝保存法に基づく)指定内定の翌年に空襲により焼失してしまったという悲運の門はそれを支える石垣にも焼け焦げた跡が残ります。門の復元にあたって割れ・ヒビを接着して再利用したり、割れた石を加工したり、また新しい石材と交換したりなどして、石垣の修理だけでも6年の歳月が費やされているそうです。
ここのほかにも空襲の跡の残る石垣が随所に見られます。かつての建造物が復元され新たな歴史を刻み始めたお城の歩みを平和な世の中でずっと見られたらいいなと思いました。
入園チケットのデザインも移築現存の艮櫓の写真から天守台~桜御門~月見櫓まで見渡せるものに変わっていました。
月見櫓は改修工事中。大手にあたる東門が閉門時間を過ぎていたため旭橋をわたれなかったなどもありました。また、公園内を歩いただけでは理解しきれない部分も多いですが、堀で泳ぐ魚に心を奪われていた前回よりは考えながら見られたのではないかと思います。

赤い城さん
国替えお疲れさまでした。
置き土産のように関東のすべての登録城に足跡を残してくださったので今後の登城に役立たせていただきます。ありがとうございました。
四国には今後も行くことがあると思いますので情報をお願いいたします。

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ぴーかる

伏屋城 (2023/07/15 訪問)

【伏屋城】
<駐車場他>駐車場はなし。城跡説明板前に少しだけ停車しました。
<交通手段>車

<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第1弾8城目。伏屋城は一夜城とも呼ばれ美濃攻略のため信長に命じられた木下藤吉郎秀吉の築城とされます。築城年は永禄年間(1558~1569年)となっていますが、稲葉山城が落城したのが1567年なので墨俣城築城~1567年の間に築城されたと考えます。築城方法も墨俣城と同じく川の上流から資材・木材を流して陸揚げして短期間で築城したとされます。土塁のある平城で補給基地・砦の役割をしていたかと思われます。現地は説明板と説明板の裏手藪の奥に土塁が残されています。

<満足度>◆◇◇

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イオ

とことん江戸城・番外編(小石川後楽園) (2023/06/23 訪問)

一連の東京出張もこの日でようやく最終日。さすがに4週連続ともなると疲れもあり、今日は真っ直ぐ帰ろうと思っていたんですが、いざ仕事を終えると、次はいつ来られるかわからないんだから…と、つい小石川後楽園に寄り道してしまいました。

小石川後楽園は、江戸初期に水戸徳川家初代藩主の徳川頼房が江戸中屋敷の庭園として築造し、二代藩主の光圀が完成させた回遊式築山泉水庭園です。水戸徳川家の江戸中屋敷(明暦の大火後は上屋敷)は小石川後楽園に加えて東京ドームや後楽園ホールなど、現在の東京ドームシティ全てを合わせた広大な敷地を有していたようです。さすがは徳川御三家。

小石川後楽園は唐門(令和2年復元)により内庭と後園に分けられ、唐門の奥には琵琶湖に見立てた大泉水を中心とした後園が広がっています。光圀が好んだ梅林のほか、稲田や花菖蒲田、藤棚に紅葉林、一つ松や枝垂桜など季節の花木が楽しめ、円月橋や得仁堂、西湖の堤など中国の風物があるかと思えば、大堰川に渡月橋、音羽の滝や通天橋、清水観音堂に小廬山など京都に見立てたものや、木曽川や龍田川など各地の名所も取り入れられて、見どころ盛りだくさんです。また、都心のど真ん中にありながら静謐な空気に包まれており(時折ジェットコースターの歓声が聞こえてきますが)、私のように歩き回って写真を撮りまくるおのぼりさんだけでなく、ベンチに腰掛けて穏やかに本を読む人を幾人も見かけるなど、都会のオアシスとなっているようです。年間パスポート1200円で一年中来園し放題なら安いものですよね。

江戸城に関連していえば、水戸徳川家江戸屋敷に神田上水の分流が引き入れられて、飲料水、生活用水だけでなく庭園の泉水に活用された上で、水道橋下流の神田川をまたぐ巨大な懸樋によって城内に給水されました。現在も園内の神田上水跡は満々と水をたたえています。

さて、小石川後楽園をひとめぐりして東門を出たところで、西側築地塀の石垣をまだ見ていないことに気付きました。西門から出れば近かったんですが、もう退出してしまったのでやむなく南辺外周を西に向かうと、小石川後楽園展示室なる建物があり、覗いてみると小石川後楽園や水戸徳川家に関する資料が展示されていました。無料・無人の小さな展示室なので、時間がのある方はふらっと立ち寄ってみるのもいいかと思います。
で、本題の西側築地塀の石垣ですが、西門の脇に説明板があり、説明板脇の築地塀に沿って北に進むと、築地塀下部の石垣にあるわあるわ、探すまでもないほどに多くの矢穴や刻印が見られます。説明板によると鍛治橋門北側の外堀から出土した石垣石を転用したものなんだそうで、こうして江戸城ゆかりの庭園に江戸城の石垣石が用いられているのは嬉しいことですね。

…ということで、今回のとことん江戸城はここまで。昨年の取りこぼしの多くを回収できたとはいえ、今回行けなかった上野東照宮や寛永寺、増上寺に加えて、一般参賀でしか行けない皇居部分もありますし、次はいつになるやらわかりませんが、とことん江戸城はまだ続くことになりそうです。
 

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赤い城

新居の最寄り。 (2023/08/05 訪問)

久しぶりの投稿となりました。
7月下旬に讃岐国へ移住、まだ城廻りにはなかなか行けない感じです。

とりあえず新居から最寄り(徒歩25分)の城に行ってきました。
琴電水田駅からは徒歩で30分、近くに駐車場はなさそうです。
法寿寺が二郭、通路となっている堀切を挟んだ墓地が主郭です。
主郭の虎口部分に碑があり、さらに進むと説明板も立っています。
主郭は土塁で囲まれています。
主郭の先の堀は薮、近いしまた冬に来ようかな。

皆さん、引き続きよろしくお願いします。

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歴史案内活動【8月12日(土)09:00~11:30】 (2023/08/12 訪問)

こんにちは、躑躅ヶ崎歴史案内隊のEこと上田絵馬之助です。

気がつけば8月です。
Eが現在在住している沖縄は大きな台風が通り過ぎたばかり。
本州にも台風の襲来が予想され、穏やかならぬ夏となってますが、
そんな中でも武田神社境内の歴史案内活動を行いますのでお知らせします。


日時:令和5年8月12日(土) 09:00頃~11:30頃
参加ガイド:局長・大塚與左衛門/民部少輔(弥三郎)景政

◆武田神社境内に今日も残る数々の城郭の痕跡を、個性豊かな甲冑ガイドがわかりやすく楽しく案内します。
◆案内時間は10分~30分、ご都合に応じて調整できます。
◆ガイドは無料です。
◆バスツアーなどの自由時間にあわせた案内も可能です。
◆雨天、COVID-19感染拡大状況等により中止の場合があります。
◆案内活動は武田神社様の承認のもとに行ってますが、当隊そのものは武田神社様とは無関係の有志団体なので
 活動に関する武田神社へのお問い合わせはご遠慮ください。
 問い合わせ、連絡は当隊公式ツイッター(https://twitter.com/KoufuSamurais)へお願いします。

夏の暑さ、ガイドも適度に休息と水分を補給しつつ、
熱中症予防に努めながら活動をしています。
皆様も暑さ対策をじゅうぶん取りながら、
8月の猛暑を乗り切ってください。

そんな夏の武田神社のおすすめスポットは
武田水琴窟!
竹筒に耳を当てれば
地に埋めた甕に落ちる水音が聞こえ
静寂とともに涼を感じます。
訪問の際はぜひお試しください。(E)

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新ろくべえ

宇都宮城に行ってきました (2023/08/05 訪問)

《藤原時代》
宇都宮城は、平安時代末期に藤原宗円が主君の源義家が
前九年の役で功績を挙げ、下野守になったことにより、
宗円も宇都宮明神の社務職と鬼怒川流域一帯の支配権を与えられ
宇都宮城を築いたのが始まりと言われている。
宗円は兄・兼仲が死亡したことにより、兼仲の妻
を正室に迎え、その子宗綱を養子に迎えた。
宗綱は、宇都宮城二代当主となり、八田権守を称した。


《宇都宮時代》
宇都宮氏は、関東八屋形や国司、守護となり、
その宇都宮氏の領地支配の拠点。そして居城として、
宇都宮城は使われた。
しかし、1300年後期から、関東管領や古河公方、小山氏などに
攻められ、ついに1455年、古河公方足利成氏が宇都宮城14代当主・宇都宮等綱を破り、
宇都宮城は開城となり、等綱は白河に逃れた。
等綱の子の宇都宮明綱が古河公方に降伏したことにより、城主に復帰した。
17代当主・宇都宮成綱は、芳賀高勝に実権を握られ、ついには強制的に隠居させられ、
同年に高勝を謀殺してしまうことにより、芳賀氏が反乱を起こし
宇都宮氏と芳賀氏による宇都宮錯乱が発生した。
芳賀氏はすでに宇都宮氏と同等の力を持っていたため、宇都宮成綱は、
小田家当主・小田政治と協力、支援してもらう形で1514年頃から、
戦いが始まり、その年の内に乱を鎮圧した。その後も周辺大名に
侵攻を受けるものの、はねのけた。けれどまた、1526年に父の死により城主となっていた、
宇都宮忠綱は、猿山で、結城政朝と戦うが、大敗。さらに芳賀興綱に
宇都宮城を奪われたが、結城政朝と組んで宇都宮城を占拠した。
また、宇都宮興綱の子・宇都宮尚綱も1549年に那須高資との戦いで五月女坂で戦死。
尚綱の子・広綱は真岡に退去。でもまた佐竹義昭と組んで宇都宮城主に復帰。
北条氏政や武田勝頼を退けた。広綱の子・国綱の時代には
1586年に皆川広照・壬生義雄等が宇都宮城を攻め、城下に放火し、その一派により
城を占拠したが、城を取り戻し復帰。後北条氏の侵攻を防いでいたが、
豊臣秀吉による小田原征伐の直前には、周辺全てが後北条氏に寝返り、
秀吉が来るまで、防戦状態まで陥っていた。そのため、本拠を平城の宇都宮から
山城の多気山に移した。豊臣軍が到着すると討伐に参加。宇都宮城は、関東と東北の
大名らの戦後処理を11日間行った(宇都宮仕置)。宇都宮国綱は所領を安堵された。
豊臣姓を下賜され、秀吉とは良い関係とされたが、突如改易させられた。

《豊臣時代》
1597年に浅野長政が城代となるが、1598年に蒲生秀行がお家騒動を起こしたことにより、
会津若山92万石から18万石となり城主になる。秀行は、城下町の整備を行った。
関ヶ原の戦いのさいには、上杉景勝を討つべく出陣した德川秀忠が宇都宮に入ったが、
秀忠自身が西に向かうことになったため、秀行が会津にいる景勝を牽制した。
関ヶ原の戦い後に秀行が会津に移ったため、大河内金兵衛が城代となり、同年奥平家昌が入った。
1619年には、本多正純が城主となるが、謀反の疑いを掛けられ、失脚。また城主は奥平氏となった。
その後、松平→本田→松平→阿部→戸田→松平→戸田と城主は変わり、戸田7万石で明治維新を迎えた。

《その後》
宇都宮城は戊辰戦争の舞台となり、宇都宮城下は壊滅的な被害を受けた。
宇都宮城が新政府軍の手に渡ると、会津戦争の拠点となった。
その後、城門などの遺構は払い下げられ、面影がなくなり、戦後も水堀が埋められてしまった。
平成になって清明台などの櫓や土塁、塀などが復元され、宇都宮城址公園となった。

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新ろくべえ

戸祭城(戸祭中城)に行ってきました (2023/08/05 訪問)

戸祭城は、宇都宮家七代目当主・宇都宮景綱の
弟・宇都宮盛綱の子・宇都宮泰綱が戸祭に住み、
戸祭氏を名乗って城を建てたのが始まりの城です。
近くにある祥雲寺は、戸祭氏の子孫の戸祭備中守高定が、
戸祭城の鬼門よけとして作ったと言われています。
戸祭氏は代々宇都宮氏に使えましたが、
1597年(慶長2年)に、宇都宮国綱が改易となり
宇都宮氏も滅亡したため、戸祭城も廃城となりました。

【城情報】
・形式       ❙平城
・築城年      ❙鎌倉時代中~後期
・廃城年      ❙1597年
・築城者      ❙宇都宮泰綱(戸祭泰綱)
・最後の城主    ❙?
・廃城理由     ❙主君・宇都宮国綱の改易のため
・主な城主     ❙戸祭泰綱、戸祭備中守高定
・遺構       ❙ なし
・主な建築物    ❙ なし
・説明看板、石碑  ❙石碑→側面に説明の文字(とても見にくい)
・駐車場、トイレ  ❙駐車場 無 トイレ 無
・天守       ❙なし
・保存状態(自身判断)❙遺構はなく、石碑のみ
・城レベル     ❙1(詳しくは新ろくべえのプロフィールへ)
・備考       ❙・祥雲寺によると、備中守高定の屋敷は、
          ❙ 戸祭全体といわれている。
   

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トク

60【関ケ原の26人】(22)毛利輝元 (毛利輝元と萩城:天樹院) (2022/11/16 訪問)

(22人目)毛利輝元の続きです。
萩城三の丸にある天樹院を訪れてきました。
毛利輝元はここに眠っています。私は墓の前に立ちまた考えてみました(写真①②③)。

輝元は家康に対して何もできなかった自分を責めながら表向きは恭順の意を取り続け、裏では着々と対徳川への備えをしていました。しかし関ケ原から2年後、何と徳川と島津との間に和議が成立してしまいます。さらにその2年後、萩城が完成し広島から萩へ移ろうとしていた矢先、ここで頼みとしていた黒田官兵衛が亡くなってしまいます(享年59)。野望が消え、後は長政に任せ、福岡城でのんびりと隠居生活だったようです。そしてそれから数年後、加藤清正・池田輝政・島津義久らも次々と亡くなっていきました。よって後ろ盾を失った輝元は、毛利家存続のため、徳川秀忠の代になってもその恭順の意を示す態度を変えざるを得ませんでした。さらに追い打ちをかけるよう一国一城令で泣く泣く岩国城を破却。これらは輝元にとっては相当な屈辱だったと思います。家臣らもそれに不満を感じたのか分裂が絶えず、健康が悪化した輝元は、病を押して大坂の陣の時は徳川方として出陣、その一方で毛利家のとりまとめに尽力していきました。しかしついに1623年に限界を感じ、関ケ原に行った養子の(秀元)が譲った側室の実子(秀就)に完全に家督を譲り、この三の丸にて隠居します。そしてその無念を抱えたまま2年後(関ケ原から25年後)の1625年、ここでその生涯を閉じました(享年73)。そしてその隠居所には代わって天樹院が建てられ菩提が弔われました。

輝元の無念はこの天樹院にある菩提とともに長州藩士へ代々と受け継がれていきまます。また本領安堵の約束を反故にした家康(徳川)への恨みと屈辱は相当なものがあったと思います。

そしてその死から240年後、ついに輝元の無念と屈辱を晴らす好機がやって来ました! その意思を受け継いだ長州藩士たちが、「尊王攘夷」という名のもとに集い、徳川倒幕への烽火(のろし)を、何とこの萩の地から上げたのでした~!(😱~)


【余談1】萩市内観光
萩城下には他にも、幕末の思想家「吉田松陰」の私塾で多くの尊王攘夷の志士たち(桂小五郎(木戸孝允)、伊籐博文、山縣有朋、久坂玄瑞、高杉晋作など)を輩出した、世界遺産「松下村塾(しょうかそんじゅく)」など見所が多数あります(写真④⑤⑥⑦)。100円のループバス(写真⑩)が市内をぐるぐる走っているのでとても便利に観光できまた。

【余談2】オススメの宿
松下村塾の隣にあるホテル「萩本陣」に宿泊しました。ここはとてもオススメです。7種類の温泉露天風呂が実に気持ちよく食事もよかったです。この日の夕食は「ふぐつくし会席」でした(写真⑧⑨)。部屋からは萩市内も一望でき遠く萩城まで望めました。またこのホテルの前のバス停(松陰神社前)からは、津和野行の路線バスや東萩駅や萩バスターミナル行きの100円ループバスも停まりますので翌日の行動にも便利でした(送迎もあります)。

残るはあと4人です。
次は(23人目)に続きます。
 

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しんちゃん

ほろ酔い投稿 真田攻めの為の攻撃的な城 (2017/08/14 訪問)

500mlのビール缶2本空けてちょっとほろ酔い気分なのですが
消失したと思っていた中山城のデータがでてきたので登録させて
いただきます。ウィッ‥(失礼)
中山城は織田信長横死で空き家状態になった上野国への進出を狙って
北条が築いた城です。
南に向かって伸びる舌状台地の上に築かれた城で比高は高くありませんが
比較的多数の兵員を収納できるので、防御のための城というよりは
攻撃のための城ですね。北条氏の鼻息が伝わって来るようです。
織田も武田もいないわけですからね、火事場泥棒も超本気モードです。
そんな中山城ですが、本丸周辺のガードは厳重です。
写真だとヤブ化してますが本丸周辺の堀はすごいですね。
ちなみに登城道からすぐ本丸に行くことが出来るので
非常に手短にこの城のおいしいところを、ご賞味いただけます。

しかし、崖端城や舌状台地の上に築かれた城って、なんとなく船に似てますね。
かつて日本が保有していた巨大戦艦や空母も海に浮かぶ城ってイメージがあります。
さしづめ艦橋は天守閣ですか。人の本質は時代が経ってもそんなに
変わらないってことですかね‥ いいかんじに酔いが回って来てますね。

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AJ

狭間をゆく城 (2023/07/18 訪問)

若干使い古された感が否めない言い回しですが、関東では珍しい石垣造りの中世・戦国山城。太田金山城(群馬県太田市)。そしてこれも同地域の名城とされる城跡ではお決まりの枕詞ですが、上杉や武田との攻防を耐え抜いた難攻不落の要塞。確かにその通りではありますが、それ以上の何かをお伝えできればと思います。

実城(本丸)域で多用された石垣(ではなく「石積み」と呼ぶべきとの意見もあるようです)に関しては、金山自体が岩盤でできていたため、資材調達には困らなかったと思われます。もちろん整形にはかなりの技量を要したでしょうから、大手の厳重な構造は当時から、訪れる人を圧倒したのではないでしょうか。あの太田道灌が「天下の名城」と絶賛したとか。

新田一族の岩松氏によって築城されたのが1469年。標高239mの山頂部から複数の尾根上の広範囲に曲輪群が展開します。実城へ続く道はとりわけ戦闘的で、竪堀・堀切・土塁に加えて木橋や桟道も。重要な通路は絶妙に折り曲げられ、石垣上からの横矢はデフォルト。

さて、これだけ堅固な城に拠りながら、群馬生え抜きの戦国大名に育たなかったと聞くと、若干不思議に思われるかもしれません。そこに、この城を規定した地域要因がありそうです。

いわば紛争地帯の城。大名を志向するよりも、あくまで地域勢力(国衆)としての生き残りを模索したあとがうかがえます。つまり、周辺に台頭した大名(武田、越後長尾、後北条)間の争奪戦の渦中にありながら、彼らのいずれかと結んで命脈を保つという戦略。その強かさに興味をそそられる人は少なくないかもしれません。

主家の地位をおかして金山をおさえた横瀬氏(のちに由良に改姓)は北条に仕えながら越相同盟(1569)の成立に貢献します。同盟はのちに破棄され、金山は上杉に攻め込まれますが、見事にこれを撃退。単なる領境の要塞ではおさまらないポテンシャルを秘めた名城です。そんなストーリーを思い浮かべながら歩いてみてはいかがでしょうか。

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