二条城の写真。
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2023/05/30 23:35
2023/05/30 23:13
【かるた】平戸城の読み札
カスドース 頬張り見上げる 平戸城
平戸城 ニドザキサクラ 姫のよう
黒子島 見渡す絶景 平戸城
読み札のみの投稿です
天守からの眺めがとても美しい平戸城
珍しい二段咲きの八重桜、平戸ニドザキサクラは
花びらが100枚以上もあるとか
まるで美しい衣を重ねたお姫様のように可憐
観光の後は甘〜いカスドースを頬張れば
旅の疲れも癒やされそうです
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2023/05/30 23:05
【かるた】福岡城の読み札
天守台 礎石は語らず 福岡城
学生寮 石落とし付き 福岡城
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2023/05/30 21:07
【かるた】宇和島城の読み札
荒波のごとき石垣宇和島城
騙された! 空角の経始 宇和島城
唐破風が やさしさ添える 宇和島城
島々を 一望のもと 宇和島城
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2023/05/30 20:19
日本一大きい天守閣 (2023/05/29 訪問)
大阪城の天守閣は日本一大きい天守閣です。豊臣秀吉が作った大阪城は大阪夏の陣でなくなってしまいます。そして、徳川家康は大阪城を再建しました。しかし、大阪城の天守閣は第二次世界大戦の大阪大空襲のときに大阪城の天守閣が大きな被害をうけ、天守閣が焼失してしまいました。そして、第二次世界大戦が終わると、大阪城の天守閣は再建されました。大阪城の中の物は大阪大空襲のときに焼失しなかったのが、すごいと思いました。再建されたので、今の大きい天守閣がある状態で残っています。大阪城の周りにはたくさんのお店があります。
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2023/05/30 20:15
2023/05/30 20:05
2023/05/30 19:06
枝ノ城 (2023/04/09 訪問)
【枝の城】
<駐車場他>駐車場は無いですが、城跡は5分もあれば十分見れます。
<交通手段>車
<感想>第2弾安芸高田・北広島の山城攻めの旅2日目8城目。枝の城の築城は定かではありません。吉川氏家臣の森脇氏が城主だったと伝えられています。
比高10mと低い城跡で主郭と南側に極小さい腰曲輪、北側は堀切になってはいますが竹藪化して入り込めません。すぐ西側の街道(県道5号線)を押さえる砦のような役割だったと思われます。
<満足度>◆◇◇
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2023/05/30 18:27
【かるた】
石(いし)高し
天守小さき
丸亀城
天守は現存天守の中で最も小さい一方、石垣は高かったことを詠みました。
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2023/05/30 15:16
横堀と堂の尾曲輪 (2023/05/25 訪問)
大河ドラマどうする家康も三方ヶ原の合戦も終わり長篠合戦、高天神城攻防戦が控えていますので、二度目の高天神城へ登ろうと考えていましたら、前日に掛川城の二の丸御殿で「高天神城家康読本」(高天神城の歩き方ガイド)縄張付きを配布資料棚から見つけ頂きましたので早速翌日に登城しました。
高天神城へは9年前の平成26年11月以来の2度目です、前回は追手口からの登城でしたので、今回は搦手口からの登城としました。
駐車場は搦手口の北側に広く多く準備されています、トイレも完備しています。今回は搦手口に近い駐車場を利用、すでに数台の県外車も見受けられて、人気の高さが窺えます、何人かの方にお声がけして登城しました。
前回探訪観察して居なかった西の峰を主に探訪し、西の丸下から二の丸へ、袖曲輪、堂の尾曲輪、西側下の南北に走る横堀、堂の尾曲輪の2本の堀切、井楼曲輪と廻り、横堀の素晴らしさ、堂の尾曲輪西側城塁の高さ(切岸かも)にも驚愕、西側からの攻めは完璧な守り、堀切深く、現代の見学には木橋を掛けてほしい。井楼曲輪へ北端入口にはロープか階段を整備してほしい?など思いながら探訪、良い城跡です、9年振りで初体験しました。
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2023/05/30 14:02
現存二の丸御殿 (2023/05/24 訪問)
掛川城木造復元天守閣の外壁のリニューアル工事が終わり4月1日から公開され天守閣に登れるようになりましたが2ヶ月経過前に土佐漆喰壁を近くで見ようと登閣し、入場券には二の丸御殿も入場がセットでしたので、久しぶりに二の丸御殿内部を拝観観察しました。
現存御殿は二条城、川越城、高知城と掛川城の4城で非常に価値のある掛川城御殿です。
大書院、小書院、畳廊下、俳優の杉良太郎さん寄贈の甲冑が目を引きました、私蔵していた甲冑が同じ掛川城主の勤めていた方々であった事から掛川市に寄贈された旨が寄贈文に書かれていました。
帰りに掛川名物抹茶入小豆餡どら焼きを購入、高天神城のガイドマップが資料棚に有ったので頂き、翌日登城しました。
続きは高天神城へ。
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2023/05/30 07:33
【かるた】大分府内城の読み札
海を背に 堅固 大分府内城
廊下橋 渡る 大分府内城
読み札のみの投稿です
海と川を利用した梯郭式の大分府内城
廊下橋が格好いいですね
人質櫓も詠み込みたかったのですが
上手くつくれませんでした
(^~^;)ゞ
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2023/05/30 06:53
柏崎の城④ (2023/04/16 訪問)
海音寺潮五郎の「天と地と」を読了してから間もない2009年4月以来、14年ぶりの再訪になります。前回確認した柏崎総合高校にある城址碑に加え、国道353号と国道8号の交差点付近にある城東公園の石の説明板も確認することができました。ピクミンブルームのキノコが生えていたおかげです。一人でキノコチャレンジをクリアしてポストカードもゲットしました。間違って削除してしまわないよう、お気に入りにしてあります。
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2023/05/30 06:49
2023/05/30 06:43
【かるた】松山城の読み札
・お堀端 伊予鉄行き交う 松山城
・静寂の 登り石垣 松山城
・連立天守 ぐるっと一周 松山城
・隠し門 奇襲作戦 松山城
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2023/05/30 05:11
(長野県&岐阜県方面城巡り)9日目:黒野城 (2023/04/26 訪問)
鷺山城からの転戦です。城の南西の二の丸資料館私設駐車場(35.45904、136.72209)に駐車しました。
黒野城まで徒歩2~3分くらいです。黒野公民館横に黒野城址の石碑と案内板があります。
築城年代は定かではないようですが、1594年(文禄3年)以降に加藤貞泰によって築かれたようです。
加藤景泰(貞泰の祖父)は土岐氏に仕え、美濃国橋詰庄で70貫の地を領していましたが、加藤光泰(加藤貞泰の父)は斎藤龍興、豊臣秀吉に仕え、甲斐国24万石を与えられています。
加藤光泰は文禄の役に出陣しましたが、朝鮮の役からの帰国途中に1593年(文禄2年)に病死します。
家督は嫡子貞泰が継ぐこととなりましたが、幼少であるという理由で、美濃国厚見郡・方県郡40,000石に削封されてしまい、黒野城を築いて居城とした。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦では東軍に属して戦功を挙げ、家康より黒野城と40,000石は安堵され、加藤家の働きに対して弟平内は美濃国内で3,641石を賜り加増されました。
1610年(慶長15年)加藤貞泰は伯耆米子藩60,000石へ加増移封され、40,000石の領地は加納奥平氏領となり黒野城は廃城となりました。
黒野城は現在、本丸がそのまま公園として残り、現在も方形の土塁と濠が残っています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=北方城に向かいます。
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2023/05/30 05:05
(長野県&岐阜県方面城巡り)9日目:鷺山城 (2023/04/26 訪問)
高富陣屋からの転戦です。鷺山公民館駐車場入口(35.450668、136.752134)から進入して駐車し、登り口(35.450912、136.751719)に向かいました。
築上年代は定かではないようです。文治年間(1185年~1190年)に山田郷地頭職であった佐竹常陸介秀義によって築かれたとも云われています。
美濃守護職土岐頼芸が一時居城としており、その後、嫡子義龍に家督を譲った斎藤道三が隠居城として鷺山に移ったそうです。
1555年(弘治元年)義龍は道三を鷺山城から追放し、翌1556年(弘治2年)義龍は道三を攻め滅ぼし、これを討ち取ります(長良川の戦い)。この戦いの後、鷺山城は廃城となったようです。
山上は公園として整備されているようです。
鷺山城の攻城は強雨の為、登城口を確認して撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=黒野城に向かいます。
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2023/05/30 05:01
(長野県&岐阜県方面城巡り)9日目:高富陣屋 (2023/04/26 訪問)
篠脇城からの転戦です。美里会館入口(35.496117、136.788942)から進入して駐車しました。
1806年(文化3年)本庄道昌によって築かれました。
本庄氏は1648年(慶安元年)本庄道芳が五代将軍徳川綱吉に仕えて旗本となったことに始まります。
道芳は綱吉の生母桂昌院の異母兄にあたる人物であったことから大身の旗本となったようです。
道芳の孫の本庄道章は1705年(宝永2年)美濃国山県郡と方県郡などに6,000石の加増を受け、10,000石となって諸候に列しました。
道章は当初、岩瀧陣屋を構えていたましが、1709年(宝永6年)には高冨村石畑に陣屋を移し、1806年(文化3年)道昌の時に高冨村天王の高冨陣屋に移ったそうです。
高富陣屋は高冨小学校の北にある美里会館付近に築かれていたそうです。
現在、遺構はなく美里会館に「陣屋の跡」の石碑が建っているのみです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=鷺山城に向かいます。
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2023/05/30 04:57
(長野県&岐阜県方面城巡り)9日目:篠脇城&東氏館庭園(城びと未登録 岐阜県郡上市) (2023/04/26 訪問)
二日町城からの転戦です。古今伝授の里フィールドミュージアム駐車場入口(35.811258、136.924262)から進入して駐車しました。
『大和村史』によれば初代・東胤行の晩年に築城が始まり、14世紀前半の四代・東氏村のとき本格的に城が完成して移住したとされます。
1468年(応仁2年)には斎藤妙椿に攻められて落城したが、関東に在陣していた東常縁がこれを伝え聞いて詠んだ歌が妙椿に伝わり、贈歌10首と引換えに城を返還した、と『鎌倉大草紙』にはあるそうです。
1471年(文明3年)から1477年(文明9年)にかけて、宗祇が篠脇城に常縁を訪ねて古今伝授を受けています。
1540年(天文9年)に越前国から朝倉氏が来攻したが、城主・東常慶の指揮の下、放射状竪堀から巨石を投下し、撃退したといわれています。
しかし、これによって[要出典]城自体の破損が著しく、翌1541年に朝倉氏の再来攻の際は、油坂峠で迎撃しています。
常慶は篠脇城を修復せず、同年に八幡(現・八幡町)の赤谷山に築城して移転し、篠脇城は廃城となりました。
後に遠藤氏が東氏の後を継ぎ、郡上八幡城を本拠としています。
篠脇城は栗巣川南岸の標高480m程の山に築かれています。北麓に東氏の館跡があり、そこから遊歩道が主郭まで通じているようです。
東氏館庭園は栗栖川の南岸、篠脇城の北麓にあり、発掘調査によって庭園が確認され、東氏館跡庭園として名勝になっています。
東氏館庭園は駐車場から篠脇城登り口(35.810443、136.925684)へ向かう通り道になります。
篠脇城の攻城は強雨と霧の為、登城口を確認して撤退しました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=高富陣屋に向かいます。
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2023/05/30 04:50
(長野県&岐阜県方面城巡り)9日目:二日町城 (2023/04/26 訪問)
宿泊先のホテルより、城碑と説明板前(35.894581、136.846564)に駐車しました。
本来はホテルを朝早く出発して、鷲見氏居館(城びと未登録 岐阜県郡上市)や鷲見城(城びと未登録 岐阜県郡上市)を攻城する予定でしたが、昨日、雨に濡れた影響で風邪をひいたようで、予定を変更して最初に二日町城を攻城しました。
熱があるようなので、本日の攻城は途中でリタイアするかもです。
康永年間(1342年〜1344年)に東益之によって、北の鷲見氏を警戒し築かれたと云われています。 東益之は篠脇城主で、二日町城を築いて次男の安藤氏世を置いて守らせました。
鷲見氏は平安時代末頃に大鷲退治の功により芥見荘鷲見郷を与えられました。
鎌倉時代には所領を安堵され、室町時代には美濃守護・土岐氏の片腕として活躍しました。境を接する南の東氏とはあまり仲がよくなかったそうです。
その北の脅威・鷲見氏は、1541年(天文10年)に東常慶が滅ぼし、本城を篠脇城から赤谷山(東殿山)城に移しました。
しかし、東氏は1559年(永禄2年)に一族の遠藤氏(盛数)によって滅ぼされました。滅亡と共に城主を失ったと思われ、そのまま廃城になったと考えられています。
二日町城は越前美濃国境から東へ伸びた尾根の一つに築かれており、現在は公園となって石碑が建っています。
雨が強く降り、霧もかかっている為、城碑と説明板を確認して撤退しました。
林道は舗装されていますが、狭いです。雨、霧を気にしながら車をゆっくり進めました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=篠脇城&東氏館庭園(城びと未登録 岐阜県郡上市)に向かいます。
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