りゅうおうざんじょう

龍王山城

奈良県天理市

別名 : 龍王城
旧国名 : 大和

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南城・主郭部と西端の曲輪間の堀切
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イオ

南城 (2024/12/28 訪問)

(続き)

南城北西麓の駐車スペース(説明板あり)から登城開始。ハイキングコースをしばらく行くと左側に尾根へと上る階段があり、右側は西端の曲輪、その間の堀切は切通道になって続いています。階段を上り、尾根沿いに展開する曲輪群を進むと曲輪間に石段がありました。てっきりハイキングコースとして改変されたものかと思っていたら、発掘調査により検出した石段遺構なんだとか。石段の上の曲輪では礎石建物や石組庭園も確認されているようです。龍王山山頂が南城の本丸です。本丸からは西に大和盆地を見下ろす眺望が開けています。本丸の南東には堀切を挟んで弥七丸が連なり、さらに東の堀切の先の曲輪が東端です。

堀切の堀底から続く城道を南へ下ります。弥七丸の南西下を通る城道沿いには喰違い虎口や土橋、伏兵溜まりなどが設けられている…そうですが、これかな、と思う箇所はあるものの、いまいち確証が持てませんでした。その先には本丸南下の腰曲輪から竪土塁が城道までのび、竪土塁を回り込むと屋敷地らしき削平地が広がっています。屋敷地の上には龍王山の名の由来でしょうか、柳本龍王社が祀られていて、南城の水の手だったと思われます。龍王社から切通道を上って行くと最初に上った階段のところに到着。階段の北側から北西端の堀切を抜けて尾根の東側に出ると、主郭部北下の腰曲輪を確認して南城をひとめぐり。

辰年の城納めとして訪れましたが、技巧的な虎口あり、巨大な堀切あり、畝状空堀群ありと、北城・南城あわせて4時間半を要する大いに見応えのある城でした。


…ということで、久々に「麒麟」でも「金龍」でも「きっかけ」でも「くいだおれ」でもない、普通の投稿をしたように思いますが、城めぐりの投稿も4か月分くらいたまってしまっているので、これからぼちぼち挽回していきたいと思います(…追いつけるのか?)。
 

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イオ

北城(2/2) (2024/12/28 訪問)

(続き)

北城の大手口は北西側に設けられています。北西にのびる尾根上に曲輪を連ね、尾根の東側を削り込んで西の大手の丸とし、削り残しを竪土塁として大手口にあたる北虎口に繋げています。尾根上の曲輪群の北西端では堀切と南北に派生する竪堀により茶屋ノ屋敷と呼ばれる曲輪への通行を遮断していました。西の大手の丸のあちこちでは石垣の痕跡も見られます。

西の大手の丸から主郭部の西側に回り込むと、主郭部西面は幾条かの竪堀、南西面は畝状空堀群で守られています。灌木と藪で見づらくはあるものの、畝状空堀群はなかなか見応えがありました。また、西に派生する支尾根にも曲輪群が設けられ、先端部の両脇には竪堀も見られます。北城南端の馬池の南側をめぐる登城道は横堀と土橋で防御されていました。

馬池から畝状空堀群の上部に通された道をたどり、時ノ丸を経て主郭部へ。本丸から北西にのびる尾根に階段状に設けられた曲輪群には、それぞれ西辺や北辺に土塁がめぐらされていて、内側に石積が施された土塁も見られます。そして北城の締めくくりに本丸に到着。西辺に土塁がめぐるほかに目立った遺構はありませんが、なかなかの広さがありました。

さて、北城に続いては南城へ。歩いてもそう遠くないはずですが、せっかく南城近くにも駐車スペースがあるんだから、と車で南城に向かいます(続く)。

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イオ

北城(1/2) (2024/12/28 訪問)

戦国前期に十市氏が築いた城で、龍王山頂部に位置する南城と北西下方の広大な北城からなり、まず南城が築かれ、後に広い屋敷地を確保するために北城が築かれたと考えられるようです。松永久秀が大和国に侵攻すると降って松永方の城として大和国統治の拠点となりましたが、信貴山城の戦いで松永氏が滅亡すると龍王山城も破却され廃城となりました。

北城、南城ともに直下まで舗装道が通じているので、天理ダム側から対向困難な道を進み(幸い対向車には遭遇せず)、北城登城口手前の駐車場(東屋あり)から登城開始。北城本丸への登城口には城跡碑と説明板が立てられています。登城道を進むと、左右の太鼓ノ丸と辰己ノ櫓から二重に喰違い状に突き出た土塁が南虎口を構成していて、二重の土塁の間にはすり鉢状の池があり、池を回り込む間、左右と正面の三方の曲輪から集中砲火を受ける厳重な備えになっています。本丸南下の腰曲輪と太鼓ノ丸との間の堀切から太鼓ノ丸に上ってみましたが、東辺や西辺の一部に土塁がうっすらと遺るくらいでした。本丸南下の腰曲輪にも東辺から西辺にかけて土塁が見られます。

本丸には最後に行くことにして、本丸と辰巳ノ櫓間の堀切から辰巳ノ櫓へ。辰巳ノ櫓東下の腰曲輪からは竪堀が落ちていますが、藪でよく見えません。堀切まで戻って、今度は本丸下の帯曲輪を東から北へ。本丸の切岸がなかなかの高さと角度で続いています。帯曲輪の北下には大手口からの城道が東西に通っていて、竪堀伝いに下りて行くと東側の城道沿いに土塁が設けられています。説明板によれば、土塁の下は北東尾根を断ち切る掘割(堀切)になっているとのこと。土塁から城道を東に進んだ先の曲輪は笹藪に覆われていたので引き返して、土塁東端の竪堀から堀切へと下りて行きます。堀底に下り立ってみると、かなりの深さがあり大堀切と呼ばれるのも納得です。堀底には苔むした石材が散乱していて、説明板にあった土塁の石垣(あるいは石塁)でしょうか。大堀切の西下には水場があったようで、馬ひやし場という名が伝わっています。馬ひやし場の北には谷沿いに区画された屋敷地が広がっていて、周囲を土塁で囲み北端には竪堀が設けられていました。屋敷地西側の一段高い位置には五人衆郭と呼ばれる曲輪があり、北端には塹壕状の石積みの溝が、その下には竪堀群が敵の侵攻に備えています。

(続く)
 

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しんちゃん

松永氏の勢力に組み込まれた十市氏の城 (2021/04/04 訪問)

龍王山城は大和の五大豪族・十市氏の城で、後に十市氏が松永久秀に降った際には松永方の
戦力として組み込まれ、信貴山城で松永一族が滅んだ際に龍王山城も破却されたとされます。
異なる頂に南城と北城の二つの城が築かれ、南城の方が早く築かれたとされます。
南城、北城と呼ばれますが実際には北城からやや南東側300mあたりに南城が存在し、南城の
郭は最北の郭から南東側に直列に配されていて、最高部に本丸が築かれ北城より眺望に優れています。
周囲にも郭があるようで、西側の馬ヒヤシと呼ばれる場所には柳本龍王社が祀られ、小さな
ため池があります。城郭としての完成度は北城の方が高く、最高部を本丸とし山腹部や尾根上に
多くの郭が配されています。北側は尾根が多く枝分かれしており、南北の城を俯瞰で見ると
南城の南東端を人体の肘に例えるのなら北城は北西に開いた掌に近い形状をしています。
南城を北城の出城として機能させれば、より強固な山城となることは間違いなく、松永氏の
勢力下にて信貴山城に次ぐ重要な城であったとされるのは得心のいくところです。

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城郭情報

分類・構造 山城
天守構造 不明
築城主 十市遠忠
築城年 天文年間(1532〜1555)
主な改修者 松永久秀
主な城主 十市氏、秋山氏、松永氏
廃城年 天正6年(1578)
遺構 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、竪堀
住所 奈良県天理市田町、柳本町/桜井市笠
問い合わせ先 天理市教育委員会文化財課
問い合わせ先電話番号 0743-65-5720