みやもりじょう

宮森城

福島県二本松市

別名 : 四本松城、宮守城、上館
旧国名 : 陸奥

投稿する
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

伊達輝宗 (2023/09/29 訪問)

 大内氏の城で、宮森城を上館、小浜城を下館というようです。
この城が有名なのは伊達輝宗の拉致事件だと思います。大内氏が去った後、伊達政宗の父輝宗がここに在城していましたが、和議の御礼のために訪れた二本松城主畠山義継に拉致され、阿武隈河畔粟の須で最期を遂げました。輝宗の死に関しては自分が読んだ小説などでは、拉致された現場にかけつけた政宗が鉄砲を撃たせ敵方とともに撃ち殺したことになっていましたが、畠山が輝宗を刺殺したなどの説もあるようです。

 主郭周辺に曲輪を思われる曲輪を思わせる削平地がありますが、どこまで当時の地形かわかりません。また藪になっていて散策はしませんでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぎりょう

伊達輝宗拉致事件の舞台となった城 (2022/09/10 訪問)

今回の二本松・三春ツアーの三城目は宮森城。二本松市小浜(旧岩代町)にあり、ここから小浜城までは北に2km程の距離だ。城下を三春街道と本宮街道が通り古くから交通の要衝である。その歴史は古く応永3年(1396)に宇都宮氏が奥州管領に任ぜられこの地に築城し四本松城(しおのまつじょう)と称した。文明3年(1471)に大河内氏が城を修築し宮森城と改め、天正8年(1580)大内定綱がここに移り東安達地方を治めるが同13年9月(1585)伊達政宗に敗れ会津に敗走した。その後政宗の父輝宗がこの城に入るが同年10月8日、和議お礼に訪れた二本松城主畠山義継に輝宗が拉致され、阿武隈河畔で最期をとげる事件が起きるが、その場所がこの宮森城である。(現地案内板より)
城址は比高60m程の尾根上、現在神社が建つ平場が主曲輪、東西北は急斜面、南に一段下がった現在は畑となっている平場が曲輪2と思われる。さらにその下も広いなだらかな斜面となっているが曲輪として利用されていたかは判然としない。主曲輪の社の横と後ろには土塁状の高まりが見られ、社の脇には建物の礎石らしい大石が残されている。中世山城は昭和の頃まで農耕地として利用されている事が多いが、ここも主曲輪の東側や曲輪2から下の部分も大きく改変されているものと思われる。
伊達政宗の仙道制覇の発端ともなった輝宗拉致事件、その舞台となった宮森城だが少しさびしい状態と感じた。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

モト

門の雰囲気が良い (2021/05/06 訪問)

門を通って本郭へ行くと神社が建っていました。
遺構はその周辺に残る土塁を確認しました。
他の方の投稿で神社の横に碑がある事を知ったのでそれは見たっかった、いや残念。
しかし、私としてはこの門がなんとも言えず良い。
なんか雰囲気ありません?

+ 続きを読む

カズサン

伊達輝宗非業の城 (2017/11/24 訪問)

 一昨年の11月下旬福島県須賀川市の須賀川城、岩瀬山城を終えて東北道を経て二本松ICで降り国道459号線を東へ岩代小浜城方面に向かう以前登城した小浜城前を通り過ぎ県道40号線を南下1.5~2km先の分かれ道辺りに宮森城の案内看板が出ている案内に従い模擬復元城門の有る処を車で潜って本丸下駐車場駐車。(情報、ガイドは何時もの城郭放浪記さん余湖図コレクションさん)
 神社が鎮座してる所が本丸、田圃か畑か耕作放棄地みたいな感じで曲輪が連なってる様。
 この城に伊達政宗の父伊達輝宗が在城し二本松城主畠山義継に拉致され政宗軍に両者非業の死を遂げるNHK大河ドラマのシーンを思い出します。 直ぐ北の小浜城は伊達政宗在城、石垣の残る名城です。

 この後南下して常盤城を初登城。 山城サミット佐野大会前日日帰り福島県未踏の城廻りでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城郭情報

分類・構造 山城
築城主 宇都宮氏広
築城年 応永3年(1396)
主な改修者 大河内修理
主な城主 宇都宮氏、大河内氏、大内氏
遺構 曲輪、石垣、土塁、礎石
再建造物 石碑、説明板
住所 福島県二本松市小浜字上館
問い合わせ先 二本松観光協会
問い合わせ先電話番号 0243-55-5122