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トク

広島と呉(その①)「広島城と原爆ドーム」

昨年は終戦記念日の前に、西郷隆盛を追って鹿児島城に行き、その足で鹿屋・知覧の特攻基地まで足を延ばし平和について考えました。今年は広島城を見学した後、向かいにある「平和記念公園(原爆ドーム・平和記念資料館)」を見学して近くのホテルに宿泊し、翌日はさらにJRで30分の呉まで足を延ばし「大和ミュージアム」を見学してきました。その様子をお伝えします。

私はまず、広島城の天守最上階から爆心地を眺め、当時の事を想像してみました(写真⑥)。1945年8月6日午前8時15分、たった1発の原子爆弾で約14万人の方々が亡くなられたそうです。今ではビルが立ち並び緑の公園がとても多い、この美しい広島の街並みを見ていると、当時の悲惨な様子などは、戦争を知らない我々にはなかなか想像し難いものがあります。その当時ここから見た景色は、いったいどんな景色だったのでしょうか? 原爆投下直後、天守は爆風で倒壊したのではなくまだ残っていたらしいです、しかしその数時間後、ついに耐えられず天守は自壊(倒壊)したとの事です。

そこから原爆ドーム(写真①②③)と平和記念公園(写真④)を見学し、平和記念資料館を訪れて来ました。外国人の方々が大変多かったのにはビックリしました。6月の広島サミットの前に展示がかなり一新されたと聞いていましたが、核戦争の悲惨さがとてもよく伝わる内容になっていました。皆さんも是非一度は見学されてみて下さい。ここに来ると当時の景色や被爆した人々の様子が実によく分かり、当時の事を知る事ができました。

【余談】広島城天守再建
耐震化に問題があるため、広島城の天守は2025年度中に閉館が予定されているようです。耐震補強も考えられたようですが、広島市と有識者で構成する会議にて解体し木造にて再建される方向で進んでいるようです。現在の広島城を見学されたい方は、それまでに訪問された方がいいかもしれません。ここも、今後の動向に注目ですね!

次は呉に向かいます。
 

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ふゆづき

酒井左衛門尉家の城 (2023/07/18 訪問)

戊辰戦争の活躍で勇名をはせ、今では家康配下の酒井左衛門尉家の末裔の居城である鶴岡城を訪問しました。
続100名城には列記されているものの、遺構はそれほど多くなく、市民憩いの場である鶴岡公園として親しまれているようです。
遺構は本丸に庄内神社が置かれ居ますが、本丸櫓跡を除いて石垣部分は少なく、水堀と土塁をかぎあげただけの簡素な平城でありるように思われますが(図面によると馬出はあるようです)、その分築城に必要な費用確保に対する農民の負担も大きなものではなかったのでしょう)。
これは、ことさら強力な防御力を誇示しなくても、近隣の外様である秋田藩(佐竹氏)に対しては、山形城が押さえになっていることや、戊辰戦争時のように籠城による戦闘を想定していなかったことが理由にあるかもしれません。
藩校である致道館は三の丸におかれており、往時の様子を良く残している他、江戸時代と明治時代(洋館)を挟んだ多くの建物が致道博物館に集められています。
なお、城内には鶴岡出身の藤沢周平記念館もおかれています。
城内に見るべきものは多くありませんので、攻城時間は周囲の致道館と致道博物館を併せても90分というところかと。
周囲には駐車場も多く、自動車で訪問する分には不自由はないと思われます。

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イオ

花菖蒲池 (2023/06/10 訪問)

揖斐川支流の平野井川の湾曲部の自然堤防に位置する城で、戦国前期に稲葉通貞が築いたとされ、稲葉氏代々の居城として知られますが、稲葉貞通が郡上八幡に移封されると西尾光教が城主となり、関ケ原の戦いの後に光教が揖斐に移ったことにより廃城となりました。江戸中期に稲葉良通(一鉄)の母の菩提寺である華渓寺が本丸跡に移転して、現在に至っています。

曽根城公園の駐車場から登城開始。華渓寺の前には曽根城跡の石碑と説明板が立てられ、境内の入口にも本丸跡の石碑と説明板があります。境内北側での発掘調査で検出した石垣は埋め戻されて駐車場になっていますが、地表面に石列が復元されています。なお、華渓寺西側のハリヨの池や北側の曽根の池は水堀っぽい感じですが、平野井川の氾濫によりできた切所池で、遺構ではないようです。曽根の池の西側に整備されている花菖蒲池は曽根城の家老だった斎藤利三の屋敷跡にあたるようで、南西隅に石碑が建てられています。この日は翌日に花しょうぶ祭を控え、2万7000株ものハナショウブも見ごろで、多くの人が訪れていました。さらに日没後はライトアップもあるようなので、夕食を摂ってから再訪すると、宵闇の中に照らし出されたハナショウブは実に見事でした。

この日のお目当てはこの花菖蒲池で、皇居東御苑の菖蒲田がなかなか良かったところに、城びとの記事で曽根城公園のハナショウブのことを知り、花しょうぶ祭は無理でもライトアップは見てみたい、ということでやって来た次第です。日付が替わる頃の帰宅になった上に前日は東京日帰り出張だっただけに、たいがい疲れましたが、それだけの甲斐はありました。
 

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しんちゃん

3日に一度は玄米で。じゃなく城域全体に郭と防御設備を配した城。 (2023/01/08 訪問)

穆佐城は伊東氏の城で四十八城の一つです。
古くは南北朝時代に松尾城の土持氏がこの城を攻めたという
記録があり、後に伊東氏と島津氏で、この城を
奪い合い、最終的に島津氏の城になりましたが
慶長20年(1615)の一国一城令により廃城となりました。
城域は広く、全体に郭が配され中央の主郭の西側には大きな堀切があります。
私が訪れた際には東の登城口から主郭周辺までは良く
整備が行き届いておりました。西側のCの郭の周辺あたりは
いささか雑草が成長してましが、西に抜けると北側には
出丸があり、なぜかビタミンの父・高木兼寛氏の銅像と案内板があります。
ビタミンB1には脚気を防ぐ効果があって玄米やそばに含まれているそうです。
江戸で庶民が白米を食べるようになり、将軍病と言われた脚気がはやった際に
そばが脚気に効くと評判になり、そばを食べるようになったといわれています。
そんな江戸時代の知恵も高木氏の功績も日露戦争に生かされず多くの
兵士を脚気で失ったのは痛恨の限りです。
話がそれましたが、この地域には珍しい縄張りの
非常に堅固な城だと思いました。

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しんちゃん

どっちつかずで結局、大友氏にやられた土持氏の城。 (2023/01/08 訪問)

松尾城は日向国北部の平安時代からの豪族、土持氏の総領、
縣土持氏の本城で、大友氏、島津氏の両氏に対し
臣従や協力するそぶりを見せていましたが
島津を討伐するために日向に攻めてきた大友宗麟に
松尾城で攻め滅ぼされました。
城あとには遊歩道が続いていますが、整備のされている
本丸、二の丸、三の丸以外はヤブ化がすすんでいて
散策は難しいです。
本丸と二の丸の間は大きな堀切になっていて
本丸には土塁が残っています。

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しんちゃん

海に張り出した岩盤上の台地に築かれた城。 (2023/01/08 訪問)

日知屋城は伊東氏によって築かれ、伊東氏四十八城の
一つと言われています。
城址は南東に海に張り出した地形上に築かれ
遊歩道に沿って歩いていけば虎口、主郭、
古代メンヒル(ストーンサークル)のある郭、
東の郭とひとしきり見学することが可能で、主郭周辺と
東の郭には石垣が残っているようです。
東の郭の先は海に岩盤がせり出しています。
海城の要素もあるのかもしれません。

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しんちゃん

伊東氏の本城の一つ。「最強の城」で紹介。 (2023/01/08 訪問)

都於郡城は伊東四十八城の中でも佐渡原城と並んで
伊東氏の本城とされています。
主に五つの郭(城)から成りますが
私はいきなり本丸→二ノ丸→三ノ丸→西ノ城→奥ノ城と
訪問しています。
本丸と二ノ丸には土塁が良く残っています。
とにかく広い。一つ一つの郭が大きく独立した城のようです。

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しんちゃん

二度にわたる大軍による包囲にも持ちこたえた城。 (2023/01/08 訪問)

天正6年(1578)、大友宗麟が6万の兵で山田有信の守る高城を包囲しました。
有信はわずかな手勢で大友軍を足止めし、その後の高城川の戦いでの島津軍の
勝利に貢献しました。
この時の城兵の数ですが、wikiでも高城の項目と山田有信の項目では
1500~3000と開きがありますが、いずれにしろ大友の大軍を引き留めた
功績は大きいでしょう。
高城は尾根上に空堀が6つ設けられていて、中でも第一の空堀は
そのまま主郭の下に通じる通路となっています。
主郭はなかなか広く南側に櫓を模した展望台があり
かつて戦場となった高城川を望めます。

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ぴーかる

黒野城 (2023/07/15 訪問)

【黒野城】
<駐車場他>城跡入口<35.459896, 136.723383>に2台駐車可能
<交通手段>車

<見所>土塁・堀・城石
<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅第1弾、4城目。黒野城の築城者は加藤光康の子の貞泰で加藤光康が甲府24万石の領主の時に朝鮮の役で陣没したため(石田光成の毒殺とも)に嫡男の貞泰はまだ幼少という理由から1594年に美濃黒野4万石に減封され黒野城を築城します。関ヶ原合戦では加藤貞泰は当初西軍につきますが、すぐ東軍側について戦後は本領安堵になります。1610年に加藤貞泰は伯耆米子藩6万石へ加増移封されて、黒野藩は加納奥平氏領となり黒野城は廃城となります。
 現在は本丸部分の堀と土塁、本丸内部は公園とグラウンドとして残っています。方形土塁上の北東隅と南東隅に櫓があったらしく、土壇は残されていませんが幅広くスペースが残されています。本丸の堀と土塁は見事であり見応えがあります。また西の虎口跡周辺に城門礎石と石垣跡の石が置かれています。城は江戸時代を通して残されていたのだろうか?本丸跡は堀と土塁が良好に残りなかなか見ごたえがありました。

<満足度>◆◆◇

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豊川城 (2023/08/03 訪問)

 JR豊川駅より徒歩約10分、光明寺付近が跡地と伝わっています。城びとには未登録の城址です。山門の横に城址碑があります。鎌倉時代大江氏が居館を築いたのが始まりとされています。慶長7年(1,602年)、刈谷城主水野勝成の弟水野八十郎忠直が陣屋を構えました。遺構はないと思われます。

 近くには日本三大稲荷の一つとされている豊川稲荷があります。稲荷と称していますが実は神社ではなく正式名称は曹洞宗の寺院「妙厳寺」という不思議な存在です。
諸説ありますがここもいなり寿司発祥の地といわれています。というわけで昼飯は贅沢をして「豊川創作いなり寿司 和食処 松屋」さんでプレミアム創作いなり寿司ランチをいただきました。

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設楽原古戦場 (2023/08/03 訪問)

 夏の古戦場巡り。長篠の戦いと一般にいわれていますが、設楽原古戦場へ行って来ました。JR飯田線三河東郷駅より2時間くらい徒歩へ行ける範囲を散策しました。復元された馬防柵が当時の雰囲気を醸し出しています。ただ戦場は広く徒歩では回りきれません。設楽原歴史資料館は長篠・設楽原の戦いにまつわる展示として、「設楽原の戦い」、「火縄銃」などのコーナーがあり、また、幕末のころ日米修好通商条約調印の立役者として活躍した岩瀬忠震を紹介する展示もあり楽しめました。

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イオ

城郭相当の屋敷 (2023/06/10 訪問)

江戸初期に徳川家康が江戸と京都の往還の休泊施設として造営した屋敷で、家康のほか大坂夏の陣の後に徳川秀忠が利用しましたが、寛永年間には役割を終えて大半の建物が取り壊されました。現在では西半分は中学校になっていますが、東半分は牡丹園として公開され、主郭の土塁や堀が良好に遺っています。

北隣の無料駐車場から登城開始。駐車場近くの北側に入口が設けられていますが、後世の改変によるもののようです。入口の両脇には土塁が続き、土塁沿いに東に進むと古井戸跡がありました。古井戸跡の奥、北東隅の土塁上には櫓台が建てられていたようです。櫓台から南に進むと東向きに開口した虎口があり、虎口の南側には水堀(?)、北側には土塁と横堀が続いています。虎口を出て外側から北東隅櫓台を確認すると、引き返して今度は主郭の南辺へ。‌南辺の土塁にも開口部(立入禁止)が設けられていますが、これも後世の改変でしょうか。南辺の土塁上に丸太のベンチ(らしきもの)が見えたので、登ってみると土塁の外側に横堀が続いていました。主郭内部は牡丹園として整備されていて、満開の時季には大いに見応えがありそうです。

屋敷とはいっても徳川将軍専用ともなると、さすがに見事な防御の備えのある城郭でした。ただ、整備された庭園ということで油断して半袖・短パンの軽装で歩いていると、ヤブ蚊にまとわりつかれて往生しました。夏場でも長袖を着るか虫よけ対策をしたほうが良さそうです…。
 

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にのまる

②西の曲輪~風呂ケ谷 (2023/05/28 訪問)

第四曲輪→第五曲輪→第六曲輪まで来ました。(写真①~③)
第七曲輪から木製の階段を二つ下りると第十曲輪です。(写真④)
……って、ちょっと待った!!
それでは曲輪がひとつ足りません。
復元門のところで第九と第十が分かれているのかとも思いましたが、パンフレットで確認してみるとそうではなくて、どうやら第七曲輪の階段が第八曲輪を跨いで第九曲輪に架かっているようでした。
第八曲輪、めっちゃ小さいです。平らな部分は人ひとり立つのがやっとなくらい。私が今まで見た曲輪の中でナンバーワンの小ささでした。曲輪群が傾斜地に段々に築かれているのでスキップフロアみたいにしたのかなぁ?(第九もそこそこ小さいです。)

第十曲輪のお馬さんの小屋で続100名城スタンプを押しました。周囲は堀切&竪堀パラダイス。土塁越しの写真⑥は堀切跡を整備された(?)ような感じでしたが行き方がわかりませんでした。(写真⑩が復元堀切の行き方のようでしたがどこに道があるのかもわからないままでした。)

虎口の復元門から風呂ケ谷に向かいます。羊歯が繁り、水を湛える井戸にも小学生による手づくりの説明がありました。
ここから新城に行きかけたのですが、せっかくなので風呂ケ谷駐車場まで行ってみました。こっちがメインなのか!って感じでした。

<つづく>

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にのまる

①永昌寺登城口から本郭~西の曲輪へ。 (2023/05/28 訪問)

13:02に松丸駅に到着。
見知らぬ土地、しかもどんどん山の中に入っていくイメージの列車旅で、一体どんなところに向かっているのだろうという不安もあってドキドキでしたが、松野町は自然豊かで落ち着いた歴史を感じる町でした。
出迎えてくださった観光案内所兼切符売り場の方に、河後森城へ行くことと帰りは16:36の列車に乗ることを伝え、登城マップと100名城スタンプまでの最短コースが書かれた地図をいただきました。

滞在予定時間は3時間以上あるので最短コースはとらず、登城マップの徒歩コースに従って途中まで進んだのですが風呂ケ谷登城口へは行かず、立派な城址碑のある永昌寺登城口から登りました。大洲城、宇和島城と大した山登りをしないでここまで来たので久々の山城登城モードです。
写真③は本郭手前から。「線路はどこでしょう?」クイズが出せそうな良き眺めでした。
本郭には建物跡が整備されていました。1600年頃には天守もあったとか。手づくりの説明板がとてもよかったです。
写真⑤は松丸駅と川向こうの道の駅方面です。ここでも線路をさがすのが楽しかったです。

西第十曲輪の掘立柱建物が見えてきました。貴重な石垣を確認し、第二曲輪(⑧)→堀切(⑨)→第三曲輪(⑩)と進みます。

<つづく>

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しんちゃん

新所城② 一城別郭の機能を持っていたのではないか? (2023/06/25 訪問)

新所城その②です。
①では大手だけで一頁使ってしまいました。
ひとしきり散策した感想として、この城はいざとなると
左右いずれの郭も主郭となりうる機能を持った一城別郭の城と思われ
尾根の中央を堀切で明確に区切ってあります。
西側が主郭と見られる郭群で、東側が副郭とそれに付随する郭群とみられます。
土塁などの遺構は東側に多く残り、
尾根上に巨石をうまく使って防御のための施設を築いていたのでは
ないかと思われます。大手を登った先の尾根にある巨石や
東西に続く尾根上に配置された石の台を礎石代わりにして
門などを置いていたのではないでしょうか。
東の尾根上には南側にしか土塁が付いていませんが、これは
北側にある沼の周囲の湿地帯からは敵が攻めてこれないと考えての
ことだと思います。
副郭には周囲に土塁が残り、東端の尾根上の先まで郭が配されています。
その先に突き抜けると、そのまま下山できるのですが尾根先を周回
するように堀切と土塁が築かれています。
最後まで防御に関しては抜かりがなく、感心しました。

それにしても不思議な位置に置いてあった残念石、気になります。
潜伏キリシタンでもいたんでしょうか? いやいや‥考えすぎですね。

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小城小次郎

千早神社のその先に (2023/01/20 訪問)

恥ずかしながら千早城に登ったのは23年ぶり。千早神社が山頂だと信じ込んでいたのだが、神社の裏側には更に高い場所(禁足地)があって、どうやらそこにも城郭遺構(段曲輪?)があるらしいことに初めて気がついた。

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朝田 辰兵衛

鏡山城散策 2/2(3郭・馬のダバ→北郭)を。 (2023/06/10 訪問)

西条駅前3番乗り場から路線バスが出ています(広島大学ループ線)。最寄りバス停は「鏡山公園入口」です。200円(IC可)。広島大学にアクセスするだけあって,本数は多いです。
とにかく,ブルーシートが目立ちます。井戸跡は手厚く整備されていますが,畝状竪堀は確認できませんでした。
公園内には老若男女を問わず人が集まっていましたが,わざわざブルーシートだらけの城跡を散策するスキ者は私だけでした。
主郭背後,北郭にかけてはブルーシートなし。ようやくほっこりできる感覚になりました。
主郭では,スズメバチが回遊しておりました。くれぐれもご注意ください。

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朝田 辰兵衛

鏡山城散策 1/2(鏡山公園→5郭・下のダバ)を。 (2023/06/10 訪問)

西条駅前3番乗り場から路線バスが出ています(広島大学ループ線)。最寄りバス停は「鏡山公園入口」です。200円(IC可)。広島大学にアクセスするだけあって,本数は多いです。
とにかく,ブルーシートが目立ちます。井戸跡は手厚く整備されていますが,畝状竪堀は確認できませんでした。
公園内には老若男女を問わず人が集まっていましたが,わざわざブルーシートだらけの城跡を散策するスキ者は私だけでした。
主郭背後,北郭にかけてはブルーシートなし。ようやくほっこりできる感覚になりました。
主郭では,スズメバチが回遊しておりました。くれぐれもご注意ください。

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イオ

むしろついでのほうが… (2023/06/10 訪問)

戦国末期に竹中重利が築いた城で、重利が豊後高田に移封されると武光忠棟が城主となりましたが、関ケ原の戦いで西軍についたために改易され、長松城も廃城となりました。現在、城跡は小学校の敷地になっていて遺構は消滅しており、校門西脇に城址碑と説明板が立てられているくらいです。

…と、これだけではあまりに見どころがないので、長松城とは直接関係ありませんが、城址碑から東に徒歩2分の平林荘跡には大垣城七口門のひとつ(清水口門)が移築されていますので、ついでにどうぞ。
 

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todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー68城目 (2023/07/15 訪問)

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー、残り1/3を切っているのに大分県の4城を丸々残しているのはまずいなと思い、行き先を大分に定めました。海の日の3連休を使えば姫島にも脚を伸ばせそうということで、中津城をターゲットに。残念ながら中津に泊をとることができず、別府泊になってしまったのですが。福沢諭吉旧居にて3館共通券を購入してしまったので、中津城の続100名城スタンプをゲットした後、中津市歴史博物館に行ってみたのですが、これが思わぬ大収穫。大好きな長岩城のリーフレットは手に入れられるし、模型展示はあるし、動画視聴まですることができました。そして博物館に接して発掘復元された石垣。(トクさんの投稿をご参照あれ。)石垣の動画の後にスクリーンが上がり、目の前のガラス越しに本物の石垣が現れるという演出も含めて最高でした。おかこい山の存在も知りましたので、リーフレット片手におかこい山めぐりもしてしまいました。共通券で100円引きになる自性寺の大雅堂など、思う存分、中津を楽しむことができました。ただ、危険な暑さの中の長時間の散策で大量に発汗。500mlのペットボトルはあっという間に空にしてしまいました。

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