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しんちゃん

野牛郭 (2024/03/16 訪問)

長篠城に来るのは何回目になるでしょうか?最新の写真が欲しくてやってきたのですが、せっかくだから普段いかない場所に行ってみようと思って駐車場(巴城郭跡)に車を停めて古城跡踏切を越え、南東の野牛(やぎゅう)郭を訪問しました。
踏切の名前もいいセンスをしてます。線路で土塁が分断されていて、その先に進むと野牛郭に到達します。殿井と呼ばれる井戸跡も残っています。家屋があるので、その先に進むのを躊躇しますが、どうやら廃屋になっているようです。そこから川辺に降ってみると宇連川が流れ、その先で豊川と合流しています。川の流れがキレイですね、完全に春の陽気になっています。はっきり言って熱いです。
その後はいつもの通り本丸を訪問です。休日ですが他の百名城と比べると断トツに人は少ないですね。でも毎年5月5日の長篠合戦のぼりまつりの時には多くの人手で賑わいます。火縄銃の演武やよさこい踊りも見ることができます。事前に奥三河観光ナビをチェックしていただけると良いでしょう。

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しんちゃん

於ふうさんが可哀そうじゃん (2024/03/16 訪問)

新城城は長篠の合戦の後、長篠城主・奥平信昌によって構えられたのが始まりとされています。彼の最初の妻・於ふうは齢13で武田の人質に送られ16で新城市のコオリ坂で山県昌景により磔にされてしまいました。信昌はこの城に移り徳川家康の長女・亀姫を正室に迎えラブラブ生活を‥ いい気なもんだぜ信昌さん。於ふうさんが可哀そうじゃねえかって、これが世知辛い戦国の世ってもんですか。
城址はほぼ新城小学校の敷地内となっており立ち入りはできません。ただ南東部から土塁のある城址南部に入れる箇所があり残存する遺構を確認できました。実はこの城に来るのは3回目なので裏手から入れるのは知っているわけです。
南東部には土塁と城址碑が残存し、かつての堀跡を確認することができます。南西部には堀が二重に存在し、土塁を一部確認することができました。城址の南部は豊川の造りだした天然の切岸になっています。ただ、さらなる天然の要衝である長篠城からここに移った理由は不明です。うらめしや~が恐かったわけではないと思いますが。

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朝田 辰兵衛

細かい制約を書いた標識が足を止める… (2024/02/12 訪問)

コインロッカーのない鶴川駅からアップダウンを繰り返し,いつの間にか川崎市に入り,再び町田市に入ってました。コロナ禍での生活は不便だったと思います。新潟県津南町と長野県栄村の関係性のよう…。
この日は天気は良かったものの,キャリーバッグと一緒は難儀しました。沢谷戸自然公園内はずっと持つか下ろすかで…。どこでもそうですが,張られたロープを無視することは論外。しかし,それ以上に細かい制約を書いた標識があります。団体NGとか取材NGとか…。わかってないと,急に気持ちが萎えるのではないかと思います。そんな中,誰かが監視しているのではないかと注意を払いつつも,無事に七面堂の建つ主郭櫓台跡にたどり着くと,他のお城では感じなかったような達成感が…。達成感ではなく安堵感かもしれません…<笑>。
久しぶりに東京都のお城をポチッ👉}}}

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三浦の晃ちゃん

九鬼水軍 (2024/03/16 訪問)

九鬼水軍で有名なお城です。
石垣が見事でした。
本丸からの景色は、最高でした。
往時は天守閣もあったようです。

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ぴーかる

松平城山城 (2024/01/27 訪問)

【松平城山城】
<駐車場他>そのまんま公園駐車場数十台あり。
<交通手段>車

<見所>巨岩・曲輪・虎口跡・堀切・横堀
<感想>日帰り松平郷の旅2城目。松平城山城は太田道灌が築城したという伝承がありますがそれはさすがに信憑性に欠けます。松平宗家三代信光が築城または改修を行い、子の光親(能見松平氏の祖)を城主としたと伝わります。更にその後は大給松平氏の支城となったようです。
 城跡へはそのまんま公園の東の登り階段途中から左手に「これより先は登山道‥‥」の札が木に付けてある場所から山に入ります。途中の城山城跡付近の巨岩は見所で巨岩の上に登れば絶景が見られます。登山道を少し進むと巨岩2つを利用した折れ曲がり虎口のような道になっています。
 城跡の縄張りはおおまかに尾根上に沿って凵字状になっており、公園から登ると凵字の左側の尾根から入ります。左側尾根は2段の連段になっていて堀切で仕切っています。上の段の曲輪壁に石積みが残っています。主郭は凵字状の底部中心にあり東西を堀で区切っています。主郭に磐座と思われる巨岩が置いてあります。主郭の南下段にも巨石があります。主郭主要部の東端に堀切があり凵字の右側に行きます。右側が大手になるようで、全面に堀を配置した虎口跡や横堀を廻らした大曲輪が数か所あり見応えがあります。曲輪壁にも僅かに石積みが残存しています。凵字状の左側は搦手側のようで、奥に進むにつれてだんだんと見応えが増してきて楽しかった。

<満足度>◆◆◆

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todo94

住宅地の中の公園 (2024/01/27 訪問)

白石から東北本線で太子堂駅へ。太子堂駅から徒歩にて攻城いたしました。仙台地下鉄の富沢駅が最寄り駅なので太子堂駅からだと結構歩きます。周囲は宅地が造成されていて、フェンスで囲まれた公園になっていました。土塁が残っていて周辺住民の良い遊び場になっているようでした。

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チェブ

大木と獅子頭。 (2024/02/10 訪問)

1346年、大掾 詮国さんが築城した「府中城」。
三の丸に小学校。正門横が写真③の土塁です。残った土塁も立派ですが、その土塁に根をはる大木も立派でした。
ぐるっと裏手に回りフェンスの向こうにも、高低差があり、見ようによっては空堀にも感じられます。

現存している陣屋門を見学しようと思い、駐車場を探していると、工事現場の塀の向こうに屋根だけ見えました。路駐してパチリッ。
市民会館が解体中で、陣屋門も まるっと囲われてました。陣屋門は残ります。陣屋門も大切にされているようで、解体されずに、お引っ越しを繰り返してました。市民愛が感じられます。

「府中城」を後に土橋通りを通ります。
「府中城」の回りはお城跡に道ができているようで、見通しが悪く、ゆっくり走行。土橋通りはまっすぐです。
少し走り、信号待ちをしてたら視線が、、。
写真⑤の獅子頭が交差点を監視中です。
近くの、常陸國總社宮の大祭で大きな獅子舞が見られるのだそうです。

大木と、大きな獅子頭が見守る「府中城」攻めでした。

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しんちゃん

妄想戦記関ヶ原・小早川秀秋の章 関ヶ原合戦のクライマックスは大御所家康と若き秀秋の心理戦 (2024/03/10 訪問)

妄想戦記まだ続いてます。ここまで来たら好きな武将に小早川秀秋を加えるべきかもしれません。話の内容はあいかわらずかっ跳んでいるので、ご容赦を。

小早川は内府の首を欲しています。養父隆景が亡くなったあと元養父秀吉に越前に減封された際に筑前に戻れるよう計らってくれたのは家康を中心とする五大老です。秀秋は内府にはかりしれない恩義があるはずなのですが?
天正10年生まれの秀秋にとって、伝説の戦国武将で天下人に最も近い家康は憧れの存在だったと思います。だからこそ家康の首が欲しいのでしょう。若き秀秋にとって天下への未練や憧れが少しでもあれば家康はいつかどうしても越えねばならない壁となります。ある意味ファーザー・コンプレックスに近い感情を持っていたのかもしれません。家康の敷いたシナリオに乗れば石高は大幅に増え先は安泰かもしれません。でもそれで打ち止めです。家康が天下を取れば、それは盤石なものになるでしょう。齢18の秀秋にとってその先の時間はとてつもなく長く感じたのかもしれません。
33万石の身上の秀秋が遠く九州から1万6000近い軍勢をつれてきたわけです。100石あたり4~5人の計算です。この若者の心に野心が無かったと言い切れるでしょうか?関ヶ原に向かう道中、各地をうろうろして文字どうり、うろん物を演じていたのも周囲を油断させようとする演技のようにも見えます。ここまで周囲を欺こうとするのは、年少期に秀吉から小早川家に養子に出されたり、秀次事件を目の当たりにして周囲の人々の感情に敏感になってしまったからなのだと思います。下手をすれば自分もいつ秀吉に殺されるかわからないからです。

この戦場を大御所家康の立場からも見てみたいと思います。戦場は敵も味方もおおよそ彼の思惑通りに動いています。広家が毛利を押えてくれていますが、広家とていつ寝返るかわかりません。この戦は早めに決着をつける必要があります。しかし一人だけ自分の思惑道りに動かない人物がいます。なぜ小早川は動かないのでしょうか?
うろん者だと侮っていたこの若者は自分の提示した条件に不服があるようです。小早川は毛利が動くのを待っている。むしろ誘っているのか?
彼は大軍を持って家康に一撃を加える位置にいます。「そうか‥欲しいのか、この首が」家康の首を取ったあとの秀秋がその先に望むのはさらなる立身出世か、それとも天下か?
かつて天下を望んだ戦国大名たちは数多くいました。彼らのほとんどが滅び、実際に天下を取った秀吉も滅んだ今、そのような大それた野望を持つものが矮小とはいえまだいたとは。この生意気で見の程知らずの若造に次の天下人となる自らの器を見せつけてやる必要があります。
かくして家康は動きます。本体を前進させ秀秋に、この首を取れるものなら取って見ろとプレッシャーをかけます。家康は秀秋に心理戦を仕掛けます。
「どうした秀秋、はよう動かぬか!いくら待っても毛利は来ぬぞ。いつまでもそんな所におらずに、お主も早う腹を決めよ!」
大御所と若き秀秋の心理戦は一瞬で勝負が着きました。
「このお方こそが真の天下人か‥」もう秀秋に家康に対抗する気力は有りません。改めて大御所の次期天下人としての器の違いを見せつけられました。アル・中と言われているわりに頭の回転の速い秀秋です。次の標的は昨日からいろいろつっかかってきて居心地を悪くしてくれているあの人物です。
「悪く思うな刑部少輔!」そう大谷刑部がこの戦で死んだのも、西軍が負けたのも、若き小早川の野望があっさり潰えたのも、すべて〇〇〇が悪いのです。※

※一部修正 この突拍子もない話は従来の二次資料を基にした創作ですが、近年論議されている一次資料を基にした新説だと関ヶ原の内容が全く違って来てしまいます。白峰氏による一次資料による新設だと最初から小早川は東軍として行動しているので、従来の優柔不断な印象とは異なってきますね。二次資料通りとしてもギリギリまで行動を起こさなかったのは彼なりの計算があったのではないかと考えています。小早川は意外と天下に近い人物で元々は秀吉の後継者候補で秀頼の義兄弟でもあります。
条件によっては太閤にもなりうる人物で、小早川が死去した翌年に徳川家康は征夷大将軍になっています。徳川が将軍職を継いでいくという路線が決定した段階で小早川が邪魔になった可能性があるわけです。また傀儡の太閤としての利用価値も無くなったわけで、暗殺された可能性があると思います。酒飲みを殺すのは簡単で鴆毒を用いれば良いわけです。死因は鴆毒が肝臓にたまって肝硬変を起こしたか、毒によって内臓疾患が加速したのではないかと考えています。
小早川が死去して3年後に、織田秀信も高野山の麓で亡くなっています(享年25か26)。自害と言われていますが怪しいですよね。小早川も織田秀信も反徳川の勢力に担がれる可能性があるので暗殺されたのではないかと考えています。
小早川の死亡の9年後には加藤清正が亡くなっています。彼の死因も毒による暗殺ではないかと言われていますね。
考えすぎと言われるかもしれませんが、平成の世でも怪しい最期を迎えた人は結構いましたね。 ヤバいですね~。

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しんちゃん

大谷刑部vs金吾(筑前)中納言 布陣の段階でバッチバチ!  (2024/03/10 訪問)

前回に続いて松尾山城を彷徨っています。北西に向かうつもりが南の郭のあたりをウロウロして、そこからまた北の尾根の間を彷徨います。大谷刑部の陣の方に向かって伸びる尾根に取りつくと(南の郭からも尾根上に行けます)先に向かって進みます。しばらく北上するとやがて鉄塔のある扁平地が見えてきます。「鉄塔?」こんな所まで開発の手が入っているのか。あてが外れたかな‥と思いましたが、裏手の藪に入ると土盛りの様な物が見えてきます。
トクさんの記事を見ると大谷刑部の陣は小早川秀秋の陣の方を向いているとあったので、秀秋は急いでここを改修したのかもしれません。
この怪しい鉄塔の郭がちょうど大谷刑部の陣と対の位置にあるわけです。盛り土を裏側から見てもやはり盛り土です。土の高まりが有りますね。おそらく一日も無かったと思うので、これでも十分な出来じゃないでしょうか?
「歴史探偵」で千田教授が解説していたのもこのあたりかもしれません。ここなら郭から尾根上に来れるので比較的安全に見学できます。現状、推定の土塁ですが、いずれ縄張りにも反映してもらえるといいですね。
大谷刑部と小早川秀秋は布陣の段階ですでにバチバチやっていたということです。

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シェル

麓に様々な年代の石垣!!〜実は水戸藩天狗党ゆかりの地〜 (2024/02/24 訪問)

 敦賀駅からJR小浜線に乗車し美浜駅下車 徒歩約30分。資料館の南側に駐車場があります。駐車場の所に「若狭國吉城」の石碑がありました。
 国吉城歴史資料館受付で続100名城スタンプを押印。
 小浜線の時刻の兼ね合いで、山の遺構見学は断念し、麓にある遺構のみを見学していたところ、資料館の方にお声を掛けていただき、ご厚意で麓の遺構を案内してくださいました。
 資料館がある場所は、佐柿町奉行所跡で江戸時代に築かれた石垣が資料館西側に残っていました。
 城主居館跡は、土塁や木村期(1583~1586?) の石垣、京極期(1601~1634?)の「算木積み」の石垣などが残っており、麓の遺構だけでもかなり見応えがありました!!
 また資料館から少し南西側には、准藩士屋敷跡があります。こちらは水戸藩天狗党の中で処刑を免れた者が居住していた場所だったようです。まさかの国吉城のそばにも天狗党ゆかりの地があるとは驚きました!!こちらには慶応年間に築かれた石垣が残り、説明板が設置されていました。

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しろりん

見晴らし抜群 (2024/03/10 訪問)

青葉山に高い石垣で造られた仙台城址。ここから仙台の街が一望できます。伊達政宗公の騎馬像は仙台市のシンボルといえます。説明パネルのQRコードを読み込むと仙台城がVR体験できます。

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イオ

惣構の痕跡 (2023/12/23 訪問)

一向宗の塚口御坊を中心に栄えた寺内町が戦国中期に城郭化した城で、織田信長の有岡城攻めでは当初は荒木方の出城として、織田方が奪取すると陣城として機能しました。

阪急・塚口駅から徒歩で登城。駅の北東すぐが城域のため、市街化により遺構のほとんどが失われていますが、4か所あった虎口周辺にわずかに惣構の痕跡が窺えます。東部の東町門には土塁の上に祠と塚口城跡の説明板があり、土塁の外側には堀の名残の水路と案内パネルがあります。東町門内で街道が分岐していたようで道標もありました。北東部の清水町門も土塁の上に祠があり、土塁の外側に堀の名残の水路、土塁の手前には「従是南尼崎領」の石碑が見られます。北西部の北町門も土塁(?)の上に覆屋が設けられた祠がありますが、堀跡は見当たりませんでした。南部の踏切近くのロータリーあたりには南町門があり、南辺は二重の堀で囲まれていたようですが、阪急神戸線の開発により遺構は見られません。ただ、南町門から東に徒歩2分の位置の祠は、開発に伴って移設された南町門の祠と思われます。また、西部には寺内町の中心だった塚口御坊跡に正玄寺が建ち、境内の説明板には塚口城についての記述もありました。

ほとんど遺構はないものの、城内を歩いてみると門跡や堀跡の水路、町割りなどにわずかに城の痕跡が感じられました。この後は富松城に行くつもりでしたが、13連勤を終えての疲れもあり、この日はこれまでとして塚口城が2023年の城納めとなりました。
 

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todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー74城目 (2024/01/27 訪問)

二本松城からの転戦です。東北本線で白石駅にアプローチ。徒歩にて攻城しました。全く残雪のなかった二本松に比べ、白石城は本丸も二の丸もぐしょぐしょの雪がたっぷり残っていて靴がすっかり濡れてしまいました。二の丸には宮城県出身の横綱・巨砲万右衛門の銅像がありました。顕彰碑には谷風の名も連ねられています。昼食には、初めての白石温麺(しろいしうーめん)をいただくことができました。

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じゅんじん

11年ぶり (2024/01/19 訪問)

大宮小学校です。近くは駿河国一宮富士山浅間大社です。

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じゅんじん

いつ完成なの? (2024/01/19 訪問)

なかなか進みませんね。

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じゅんじん

吉田 (2024/01/14 訪問)

仕事帰りに寄りました。

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じゅんじん

井伊 (2024/01/07 訪問)

井伊の本拠地です。
初日の出にお勧め。

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しんちゃん

妄想戦記関ヶ原・小早川秀秋の章 毛利〇〇〇トリオの巻 ※ (2024/03/10 訪問)

最近、小早川秀秋のことばかり考えています。この若者が何を考えてここに来たのか、考えていたら妄想が止まらなくなってしまいました。ここからは妄想戦記関ヶ原で行かせていただこうと思います。私見や主観を通り越した、かなりぶっ飛んだ内容になりますのでご容赦くださいませ。

主郭に立って全面を俯瞰すると関ヶ原一帯が良く見渡せます。今は樹木が生えているので大谷吉継陣や南宮山の毛利輝元の陣は見えませんが、かつては良く見渡せたことでしょう。小早川に陣地をぶんどられた伊藤某が樹木の伐採を行ってくれていたはずです。
ここは東軍を攻めるにしても西軍を攻めるにしても絶好の配置。それだけではなく南宮山の毛利の動向も伺えたはずです。少なくとも毛利の陣からは松尾山の小早川の陣の動向が良く確認できたはずです。それが重要なことだと思うのです。
それにしても陣地を得るためだけに味方を追い出してまで布陣するでしょうか。一つ間違えば内乱になりかねません。なりふり構わずこの場所に陣取っただけの重要な理由があるはずです。実は小早川は内府に味方する振りをしながら、ここに内府の首を取りに来たのです。とはいえ‥条件を満たせばの話です。彼にとってのこの合戦での百点満点の回答は内府に味方し西軍を討ち果たし、彼に褒めてもらうことではありません。内府の首を小早川の軍勢が挙げ、後の自らの天下人への踏み台を築くためです。
そのために遠方よりわざわざ15675名もの兵士を引き連れてきているわけです。この数は大身の毛利の軍勢とほぼ変わりません。この陣地は家康の首を取るのに最も適した陣地でもあるわけです。秀頼の誕生によって一度その手からすり抜けた天下に近づくためには自ら家康の首を取る必要があったわけです。彼の心の中の隅にあった天下への渇望がここに来てより大きくなったのではないでしょうか。しかしそのことを監視の奥平貞治に気づかれるわけにはいきません。
さて、関ヶ原合戦よーいどんです。一番槍を横取りされた福島正則が怒っています。それはさておき今、西軍を小早川が攻めれば東軍は間違いなく勝利するでしょう。でも彼は動きません、家康が天下を取るのがイヤなのです。毛利が東軍に調略を受けているのは小早川も承知していたとは思いますが、毛利が動いてくれなければ家康の首は取れません。今、強引に攻めれば万一、家康の首を取れたとしても数で勝る東軍に袋叩きに会うでしょう。秀忠の3万8000の軍が来ていない以上、毛利と小早川で挟撃すれば勝てる公算が高いです。
小早川はギリギリまで動かない決断をします。小早川隊が動かないのは南宮山から良く見えるはずです。霧が出ていたとしても標高の高い峰同志、間に遮るものはないはず。小早川が動かないということは東軍の調略がうまくいっていないということを示しています。
毛利が東軍を攻撃すれば小早川も呼応すると考えるのが妥当でしょう。「ユー動いちゃいなよ!」「内府を挟み撃ちにしちゃおうぜ!」
このメッセージは毛利に届いているでしょうか? 
小早川は自分が毛利だったら東軍を攻撃するだろうと考えていたはずです。

※ 

でも秀秋の送ったメッセージは大御所家康公にはバチバチに届いているようです。戦場でこの御方の目をごまかせるわけが有りません。
どうする秀秋?

松尾山城攻略に戻りますが、思ったより雪が積もっていて、よく滑る。しかも周囲の斜面が切岸のようで危ない。「やべえぜ‥」帰ろうかな‥と思いますが、もう少し頑張ってみたい。西の郭の北西の尾根先に出ますがここでは無いようです。とりあえず別の場所に移動します。

※ ちょっと思うところがあって修正
  従来の二次資料に基づく関ヶ原観を主体に、話を小早川側に極端に寄せて膨らませていますが、近年論議されている一次資料による新設を考慮すると解釈が全く異なってくるので少し表現を控えました。

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しんちゃん

宅地に土塁と堀が残る。播磨守護・赤松氏の守護所 (2023/12/30 訪問)

坂本城は室町時代の播磨国の守護所で14世紀~15世紀の初めに赤松氏によって築かれたとされています。現在では宅地に飲み込まれていますが堀と土塁が部分的に残り市指定史跡として保存されています。
発掘調査の結果、周囲に堀と土塁をめぐらせた170m四方の規模だったことが解ってきています。嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱によって赤松満祐が一時的に籠り追討軍の山名宗全と戦ったそうです。赤松氏は一旦滅びますが、後に再興し、勢力を伸ばした山名氏とこの地で攻防を繰り返したそうです。

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しんちゃん

東本願寺名古屋別院 襟を正して参ろう (2024/03/02 訪問)

古渡城は現在の東本願寺名古屋別院のあたりに築かれていたそうです。天文11年(1542)ごろ織田信長の父・信秀によって東の今川方に対抗するために築かれたと有ります。東西140m、南北100mの平城で周囲に二重の堀が巡らされていたそうです。
この日はお城EXPO・in・愛知を訪問した帰りだったので南門は閉まっていましたが、東側が解放されていたので中に入ることが出来ました。南門から入って左、西隅あたりに城址碑と案内板が有ります。
東本願寺名古屋別院に東にある下茶屋公園は旧東本願寺別院・新御殿の後庭とされていて、作庭は天保のころに遡るようです。この周辺もかつての古渡城の跡地に含まれているような記述もありました。

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