みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

トク

95【関ケ原の26人】(25)島津豊久 (島津本軍と加藤清正はなぜ関ケ原へ行けなかったのか?) (2023/11/05 訪問)

(25人目)島津豊久の続き⑧です。「都之城」を訪れてきました。
JR西都城駅(写真⑨)から徒歩で15分のところにあります。現在の城跡には歴史資料館が建てられていて(写真①②)、大手門も残っていました(写真⑤⑥)。

実は1599~1600年に、ここを舞台にして起きた島津家の内乱「庄内の乱」が関ケ原や九州の諸将にも関係し、また豊久の運命を大きく変える事になってしまいました。そのため気になり訪問しました。そしてこの乱があったがために、義久は薩摩から弟の義弘に援軍を送る事ができず、また加藤清正も関ケ原へ向かう事ができませんでした。よって関接的に関ケ原の勝敗にに大きく影響したかもしれない乱であったと言えると思います。

ではもしこの庄内の乱がなかったら、関ケ原はどうなっていたでしょうか? 島津義久は薩摩より義弘の元へ大軍を送っていたでしょう。そして加藤清正も自ら大軍を率いて熊本から関ケ原へ向かっていた事でしょう。島津と加藤、どちらの軍勢も当時の日本では最強と言っていい大軍勢です。強さから言えば、おそらく西軍の中心であった宇喜多秀家や石田三成の軍勢の比ではないと私は思います(それだけめちゃくちゃ強いという事です)。しかしいざとなると、彼らが西軍・東軍どちらに付いたかは私にはわかりませんが、関ケ原の戦いの構図は間違えなく大きく変わっていたと思います。特に三成と仲が悪いと言え、最も豊臣秀頼を慕う加藤清正は要注意です! それは以前の私の投稿で、なぜ清正はあのような大城郭(熊本城)を築いたのか? そしてなぜあの豪華な本丸御殿(昭君之間)を作ったのか? その理由を思い出していただければ解ると思います。

私は都之城の本丸から都城市街を眺めて見ました(写真⑧)。当時ここに立て籠もる伊集院忠真に対し、義久率いる薩摩の島津本軍と豊久の佐土原軍がこの城をぐるりと取り囲んでいたであろう光景を想像してみました。関ケ原がたった1日で終わらず、もしあと数ヵ月長引いていたら、これらの軍勢と加藤清正の軍勢が関ケ原へ向かっていたかもしれません。そうなった場合、はたして戦の結末はどうなっていたでしょうか? そして家康はどう対応したでしょうか? などとまたいつものようにありえなかった想像にふけってしまいました🤔。


【余談】庄内の乱とは(御参考まで)
島津義久の筆頭家老であった伊集院忠棟は、根白坂の戦いの後、秀吉に降伏するよう義久に進言した人物とされ、秀吉より信頼されかつその恩賞として都之城8万石を賜り、それまで都之城を治めていた北郷氏を追放して、島津家家中を二分するほど権力を有するようになりました。そして太閤検地で不満をもつ諸将をも取り込み、このままでは島津家を乗っ取るのではとうわさされていました。義久が朝鮮の義弘に船や物資・援軍を送れなかったのも、忠棟がこの諸将らに反乱を起こさせ妨害させたからだとされています。1599年3月これをよく思わない義弘の子で義久の後の島津家を継ぐ事がすでに決まっていた忠恒は、何と伏見の島津屋敷にて忠棟を斬殺してしまいました。これに怒った忠棟の子の忠真は居城の都之城に立て籠もり、義久と一戦構えます。同6月佐土原城主として大坂に参勤中だった豊久も、家康から義久と相談しながらともに乱を鎮めるようにと命を受けて薩摩へ戻り、外城の山田城を落とします。籠城も限界となった1600年3月、最後には家康の仲介で、忠恒は謹慎、忠真は降伏し都之城を明け渡して乱は終息します。関ケ原が起きる直前の出来事でした。これにより軍勢が疲弊したため、島津義久は関ケ原の義弘に援軍を送る事ができず、加藤清正は忠真と内通していたのではと家康から疑われ関ケ原への参陣を禁止されたのでした。

次はその「山田城」を訪れ、豊久の運命を分けた関ケ原へと話を続けます。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

駿府城

発掘情報館きゃっしる【別館】が移転します!

駿府城跡天守台発掘調査現場内での発掘調査速報などを発信している発掘情報館きゃっしる【別館】は、令和6年3月31日をもちまして閉鎖します。
長きに渡り当サイトをご利用いただきまして誠にありがとうございます。

令和6年3月1日からは静岡市公式ホームページ文化財ブログ(https://www.city.shizuoka.lg.jp/s6725/s012603.html)にて更新していますのでご利用ください。
今後も発掘調査現場の最新情報や関連情報をお届けしますので、ぜひご覧ください!

「静岡市 文化財ブログ」と検索してもアクセスできますので、お気に入りやブックマークに登録されている方は、お手数ですが新しいアドレスへの変更をお願いいたします。

◆サイト完全移行時期
令和6年4月1日より
◆ホームページURL
(現)発掘情報館きゃっしる【別館】http://www.shizuoka-bunkazai.jp/castle-info/
(新)静岡市公式ホームページ https://www.city.shizuoka.lg.jp/s6725/s012603.html

+ 続きを読む

広島城

広島城二の丸茶会を開催します

江戸時代の姿を忠実に復元した二の丸復元建物で上田宗箇流の茶会を実施します。


日  時:令和6年3月24日(日曜日) 
     11時~ (受付は10時30分~14時00分)
開催場所:史跡広島城跡二の丸復元建物(中区基町21)
参 加 料:お1人様 500円

※ 事前の予約不要
  当日、会場受付にて茶券を御購入ください。
※ 服装は自由
※ 雨天決行

【お問合せ先】
市民局 文化スポーツ部 文化振興課広島城活性化担当
〒730-8586 広島市中区国泰寺町一丁目6番34号
Tel:082-504-2869 Fax:082-504-2066
bunka-machi@city.hiroshima.lg.jp

+ 続きを読む

イオ

駅前の遺構 (2023/12/23 訪問)

鎌倉末期に伊丹氏が猪名川の河岸段丘上に築いた城館(伊丹城)で、水陸交通の要衝として長らく伊丹氏の居城でしたが、織豊期に荒木村重に攻められ落城。村重が惣構に改修して居城とし有岡城と改名しました。村重が織田信長から離反すると、有岡城に籠城して織田軍の攻撃を約1年にわたってしのぐも落城し、戦後は池田之助(元助)が城主となりましたが、美濃国・岐阜への移封により廃城となりました。

JR宝塚線・伊丹駅から登城開始…というか、明治期に主郭の真ん中に鉄道を通して停車場を設けたため、伊丹駅がすでに主郭内です。西口を出た先の広場の西辺には復元と思しき土塁があり、有岡城跡の説明板が立てられています。カリヨンを奏でるフランドルの鐘の奥には、有岡城に幽閉された黒田官兵衛にちなんだ官兵衛ゆかりの藤が植樹されていました(官兵衛がどこに幽閉されていたのかは不明のようですが)。広場には発掘調査で確認された伊丹期の建物内の沓脱石や伊丹之親の歌碑も見られました。

広場からエスカレーターを下りて北に向かうと、石垣で虎口風に造られた史跡公園入口に有岡城跡の石碑が建てられています。史跡公園は主郭の北西部にあたり、北西辺の土塁と石垣が遺っています。石垣には転用石も多く見られました。また発掘調査で確認された礎石建物跡や井戸跡が復元されています。

続いては惣構めぐりをしようと史跡公園を出て西に歩き始めたところで、公園の西麓に広がる横堀にびっくり! 下調べで堀があることは承知していましたが、駅前の一等地にまさかこれほどの規模で遺されていようとは…。歩道をはさんだ南側の堀跡は舗装されて子どもたちがボール遊びに興じる広場になっていますが、堀の形状はそのまま残されていて、駅西口広場の土塁とあわせてこちらも往時の姿を感じさせてくれました。

駅前の城跡でもあり、遺構はあまり期待していなかったんですが、思いのほか見応えがありました。気を良くして惣構めぐりに向かいます(続く)。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

脇城と連携し機能していた (2024/03/03 訪問)

県道12号線に案内板があり、北に入り細い道を進みます。
途中いくつか案内板があるので迷わず駐車スペースへ辿り着けます。
そこから先は徒歩で。
少し登ると二郭に着きます。
二郭は墓地で古い石塔が並んでいます。
北に曲輪が連なっているようですが藪で断念、主郭に向かいました。
二郭と主郭の間には深い堀切が残っています。
堀切の奥には腰曲輪もありました。
登城路自体も腰曲輪なのでしょう。
主郭へは坂虎口となっていました。
主郭には説明板が立っています。

阿波九城の脇城とは距離も近く、連携した対の城でした。
現在残るのは主郭周辺のみですが当時はもっと大規模な城だったようです。

この後脇城に向かいましたが、その前に散策したうだつの町並みも風情があってよかったです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー73城目 (2024/01/13 訪問)

2023年11月の出石城・有子山城以来の続100名城登城で2024年の初スタンプとなりました。初めて訪れた時は雨もよいの曇天で臼杵城には曇天のイメージがまとわりついてしまっています。5度目の攻城で初めて快晴に恵まれました。櫓の写真などは曇天の方が撮影しやすいのですけれどもね。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

Tokyobay

築地は「海軍発祥の地」 (2024/02/26 訪問)

聖路加病院から勝鬨橋方面へ進むと大きな公園があり、シーボルト像が見える。なぜか子供たちが像に群がっていて説明が中々読めない。この辺は江戸蘭学発祥の地であり、シーボルトの娘いねが産院を開業したことを記念して設置したようで、シーボルトと築地には直接の関係はない。さらに進むと電信創業之地の碑がある。築地と横浜で初めての電信が行われたとのこと。その向かいには月島の渡し跡があり、勝鬨橋が出来る前まで運行していたらしい。その奥に立派な料亭みたいのがあって、結婚式をしてたのか入口付近が若い男女で盛り上がっている。その入り口の脇に運上所跡の碑があるのだが、少々見つけにくい。ここは東京税関発祥の地。
そして隅田川に出て勝鬨橋へ。「日本国重要文化財」になっているのは知らなかった。この辺は昔仕事でよく来た場所だが、当時は何もなかったのに、タワマンだらけになってしまって街が大きく様変わりしたことに驚く。築地市場内でも時々食事したが、もう更地になってしまってなんだか寂しい。橋の脇には海軍経理学校の碑があるが、この築地市場は軍艦操練所跡でもあり「海軍発祥の地」とされている。勝海舟が頭取でジョン万次郎も教鞭をとったとか。その後火事で移転した後には有名な築地ホテル館ができる。こういった歴史は仕事で来ている時は何も知らなかったし、碑や案内板にも見向きもしなかったが、歴史を知らずに人生終わらないで本当によかった。まだまだ知らない事だらけだが。
最後に築地本願寺へ。時間が遅くて内部は見学できず。ここが元々西本願寺だということも知らなかった。最近は寺の改革が進んでいるようで、洒落たカフェ等が併設されて結構賑わっているし、合同墓なんかも作って人気だとか。ただし、墓に入るには一応浄土真宗の門徒?みたいのにならないとイケナイらしいが。この日はちょうど有名人の葬儀をやっていてマスコミがたくさん来ていた。人間いつ死ぬかわからない。毎日悔いなく生きないと。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

堀越城の余った写真 弘前市堀越 (2021/05/08 訪問)

天正18年(1590)に大浦為信が豊臣秀吉から津軽本領安堵の朱印状を受け、4万5000石の大名になりました。その際に姓を大浦氏から津軽氏に代え、本城を大浦城から堀越城に移したそうです。古くは南北朝の建武3年に南朝方と戦うため曾我太郎貞光が堀越と新里に館を築いたと、翌年に記された「曾我貞光申状案」に記載があるそうです。貞光は元々は南朝に尽くした人物だそうですが、軽んじられたため、足利尊氏の蜂起に呼応して北朝方に転じたそうです。その曾我貞光も八戸根城南部政光もしくは三戸南部氏によって滅ぼされたそうです。
堀越城は一時期、津軽藩の本城だっただけあって立派な土塁と堀が二重に本丸を囲っていますが、東側の三の丸は外堀だけになります。城址の南北を国道7号が縦断してはいますが、宅地の中にこれだけの城跡がこの状態で残っていることに感心しました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ヒカミ

雪の郡上八幡城 (2024/03/10 訪問)

雪だるま作っちゃいました。
雪だるまの向こうのお城
イイですよねぇ〜

+ 続きを読む

しんちゃん

そろそろ草刈りタイムだぜ (2024/03/03 訪問)

吉田城の修復が終わったらしいので散歩がてら見に行ってきました。南多聞あたりの石垣が崩れていたのだけどキレイに修復されている。交換した石垣は1割程度らしいので、うまく修復してくれていると思います。御疲れ様でした。吉田城の古い石垣は池田輝政の時代の物で、チャートを多く使用しています。当時は15万石くらいあったので、田原の蔵王山や新城の豊川流域からも石材を集めてきたそうな。東御門あたりや天守台に多く使われています。三の丸あたりの豊橋公園の門(旧陸軍のものらしい)の右手にある鏡石もチャートらしいです。なんか白いけど‥時代がたって変色したということですかね?
鉄櫓に登ってみて凄く気になったんだけど。草や木が生えすぎでないかい?しばらく二川宿本陣が休館になるので豊橋の歴史的な遺構は吉田城ぐらいになっちゃいますよ。このままだと「草生える城」とか「www吉田城www」とか呼ばれてまうわ。
地元なので言いたいこと言ったけど、そろそろ草刈りタイムじゃないですかい?

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小城小次郎

玉石垣だけじゃない (2023/05/23 訪問)

玉石垣で有名なお城だが城域の保存状態、本丸の切岸、松尾丸の池、それに北東尾根を断ち切るダイナミックな堀切など見所満載だ。

+ 続きを読む

チェブ

大掾さんと札掛さん。あれ掛札さん? (2024/02/10 訪問)

「石岡城」へ転戦です。
前に投稿した「戸崎城」「穴倉城」とも見つけるのが大変で、車だとUターンができず行き過ぎたり、駐車場が見つからなくて うろうろしました。
こちら「石岡城」は説明板の前が広くなっていて、駐車しやすく、すぐに見つかりました。
*「戸崎城」の説明板の前に駐車してたら、なんと、お城巡りの方が。写真を写すのに邪魔してしまいました。お話できたので良かったんですけどね。

「石岡城」の説明板には、1214年、大掾 資幹さんが居城したのが始まりとあります。
その後、「府中城」を本拠地にすると「石岡城」は「外城」と呼ばれたそうです。
その時の城主が掛札さん。(札掛 兵部之助)
1590年に、大掾氏が滅亡し「石岡城」は廃城しました。
1590年といえば北条討伐でしょうか?

説明板の右手に赤い幟が見えます。『岡田稲荷神社』です。
狛狐さんが新しい前掛けをして可愛いです。

その後に『札掛神社』。こちらは青い幟です。後ろに土塁があります。
??。『札掛?』
もう一度、「石岡城」の説明板に戻り読み直します。
『城主だった掛札氏をまつる札掛神社』と、あります。
記載ミスかな?
調べてみたら、常陸 佐竹氏の家臣に掛札氏のお名前があります。

車に戻ると、説明板にあるように空堀がありました。藪で覆われてます。

大掾氏(だいじょう)のお名前も はじめましてでしたが、札掛さんと掛札さんも気になる「石岡城」攻めでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

おめでとうございます! (2024/02/24 訪問)

ぴーかるさん。念願の佐味城登城 おめでとうございます。3人の城人と1体のお城好き生命体(城ブー=しんちゃん)が短期間に登城したことは快挙と言って良いと思います。正直 このお城はいつまで登城できるかわからないので、山城好きや土の城が好きな方は今のうちに訪れた方が良いのでは‥と思います。(あまり大きな声では言えませんが)
わたくしも年末から回った登録待ちの城が山ほどたまっているのですが、土日で尾張・岐阜県南部のリピート城を30ほど回って来ました。しんどかったけど新規の「行った」は一つもありません。城びとあるあるですね。写真がいっぱいあるのにリピートの写真がまた溜ってしまった。どうしよう‥何も考えてない(笑)。

+ 続きを読む

イオ

有岡城落城の悲劇の地 (2023/12/23 訪問)

七松環濠とも呼ばれる中世以来の環濠集落で、織田信長の有岡城攻めに際して織田信忠が陣城として改修しました。有岡城が落城すると、荒木村重の家臣妻子ら六百数十名は七松城に移送されて処刑されたと伝わります。

JR神戸線・立花駅から徒歩で登城。七松八幡神社あたりが城跡とされ、境内にはこの地で処刑された武士及び家族の慰霊碑が建てられています。明瞭な遺構は見られませんが、七松八幡神社は微高地にあり、境内東辺の道が環濠跡、昭和公園東辺の道路脇が堀跡とも云われています。なお、七松八幡神社の北隣にある弘誓寺の太鼓楼(?)は、唯一お城っぽさを感じさせる建物でした(むろん遺構ではありませんが)。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

奥豊後 (2024/01/13 訪問)

竹田市の城ですが、岡城から遠く離れた山中に位置します。大分駅からレンタカーにてアプローチ。奥豊後グリーンロードからの入り口をなかなか見つけられず難渋しました。吉川弘文館の「九州の名城を歩く~熊本・大分編」のトリを飾る城で、巨大城郭のようですが、城址碑より奥には脚を伸ばしませんでした。ちなみに九州の名城を歩くでの読みは「やまんじょう」となっています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

Tokyobay

学校発祥の地巡り~築地鉄砲洲の旧外国人居留区界隈~ (2023/02/26 訪問)

佃大橋を渡り鉄砲洲通りを南下。築地鉄砲洲には外国人居留区があったため、宣教師や教員が来日し多くの学校が設立されたので確認しに向かう。まずは青山学院発祥の地。ここは分かりやすくスグに見つかった。ただし、後から写真をよく見ると「発祥」ではなく「記念」の地となっており、調べてみたら源流はいくつかあるようで前身の学校がここにあっただけで、「発祥」とは言い切れないようである。
次に明治学院発祥の地を探すが中々見つからず。ようやく見つけて写真を撮ってると、通行人から「何の写真とってるの?」と話かけられ、事情を説明すると「へえ~そうなんだ。この辺に住んでるけど全然知らなかった」との返答。旅先でこういう会話は時々あるが、地元民というのはそういうものかもしれない。ちなみに明治学院のルーツは神奈川宿周辺を散歩した時にあった寺のヘボン塾じゃなかったけ?とも思ったが、後継の学校が築地に出来たようである。でも、なんで築地を発祥の地にしているのかは不明。この辺は青学とは対照的。
それから、外国人居留地の碑へ。居留地時代のレンガ塀遺構とガス灯がある。で、その向かいが暁星学園発祥の地。ちなみに後から調べると外国人居留地の絵図には「遊郭」も描かれており、新富町周辺が京都にちなんで「新島原」と呼ばれたらしい。これは知らなかった。ただし、横浜にも遊郭はあったから、この時期の政策?というのはそういうものなのかもしれない。まあ、昭和の敗戦後にも同じような事はやってたが。
そして、聖路加病院と聖路加国際大学の間を抜ける。聖路加病院に来るのは初めてだが、この病院を見るとサリン事件を思い出す。病院の先が立教学院発祥の地で、その向かいが慶應義塾発祥の地。なんでキリスト教系ではない学校があるのかと言うと、外国人居留区が出来る前から中津藩中屋敷があったため。その他にも女子学院、雙葉学園、女子聖学院、関東学院の発祥の地もあるが廻りきれず。学校以外では、聖路加国際大学のある場所が赤穂藩浅野家上屋敷で浅野内匠頭長矩生誕の地。ここは四十七士が泉岳寺に向かう途中で吉良の首を捧げた場所でもある。で、その近所に芥川龍之介生誕の地もある。
少し離れた東銀座周辺には専修大学発祥の地。昔大学誕生物語の映画を見た事があるが、たしか銀座のレンガ街で始まったような。今は自販機の隣にひっそりと碑があるだけでちょっと寂しい気もするが、他方で時の流れも感じてこれも歴史かなと。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

山下城 (2024/01/13 訪問)

【山下城】
<駐車場他>田福寺駐車場を利用しました。
<交通手段>車

<見所>曲輪
<感想>現地説明板によると山下城は『地誌「播磨鏡」によると、浦上久松の居城であるとされ、1532年頃築城、1566年頃に別所氏の平坦拠点基地として改修され1578年まで機能していたと考えられる』とあります。
 城跡は田福寺の南、案内があり木が伐採整備された山が見えますので適当に入り込めます。城跡は主郭に帯曲輪が取り巻き、北側下段に2郭、堀切を挟んで田畑となった曲輪があります。2郭の更に北側の曲輪は整備中でしたので立ち入りませんでした。

 城びとフラッグが田福寺の裏山に立ってあり、城跡主郭とずれているので気になり、田福寺墓地の上段まで登りアプローチしましたが、入り込めそうな場所が無く断念しました。非常に気になります。

<満足度>◆◆◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

立入禁止 (2024/03/09 訪問)

皆さんの投稿を拝見していて大きな期待を持って昨日、赴きましたが、ゲートには南京錠がかかり「無断入山を禁ず」の表示があっては攻城を断念せざるを得ませんでした。吉川弘文館の「近畿の名城を歩く」にも所収の城なので何とか攻城できることを願っています。

+ 続きを読む

カズサン

【遠江石津砦】静岡県掛川市 横須賀城築城前の砦の一つ (2024/03/01 訪問)

 住所:静岡県掛川市山崎513(八幡神社)
 駐車場:掛川市山崎221石津公会堂
 参考資料:余湖図コレクション石津砦、グーグルマップに依る。

 高天神城未踏だった見張台を探訪の前に浜松から横須賀城経由の南回りの道を選択したので、横須賀城の西手前に在る石津砦を探訪、此処も余湖図コレクションさんの掛川市を眺めていて県道41号線上に在る事を知り高天神城登城前に初探訪、前々から横須賀城登城に通てる道で「何かあり様な雰囲気だなぁ~」と思っていました。
 横須賀城の松尾山から続く砂州上の西端地で西から登ってS字状に廻って東横須賀城方向へ降りて行く頂点に在ります、石津公会堂の駐車場は北側はゲートに綱が張って有り横の道を南に入る、交通量も少なく神社前に路駐。
 神社は公会堂より4~5m西に高く階段より鳥居を潜り境内へ特に解説板、案内は無い、境内の高い楠は存在感がある、南側の現在田圃からが10m程の高さで往時は遠州灘の入江が迫っていた思われる。

 現地解説板が無いので、余湖図コレクションさんの解説によると、家康から高天神城攻めの横須賀城築城を命ぜられ、砂州西端の微高地に砦を築き横須賀城の完成までの臨時砦としていた様子、先に投稿しました撰要寺砦も横須賀城築城前の臨時砦で入江の内陸横須賀城よりに在った様です。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

【遠江大石氏屋敷】静岡県掛川市 帰農し御子孫居住 (2024/03/01 訪問)

 住所:静岡県掛川市大坂708
 駐車場:大石家南前の旧軽便鉄道南大坂駅跡広場(34°40'13"N 138°02'30"E)に駐車可。
 参考資料:余湖図コレクション大石氏屋敷、グーグルマップに依ります。

 高天神城未踏の見張台探訪の後時間に近くの何処かを訪ねようと余湖図コレクションさん掛川市内の城跡砦を眺めてると徳川高天神城攻め六砦の中村砦、三井山砦と在りその中間辺り三井山砦の近くに大石氏屋敷の解説が俯瞰図と共にあり、グーグルマップで駐車出来そうな所を確認して探訪に出掛けました。

 場所は住所の通り、旧相良・大須賀線の道路沿い高台にご子孫の方がお住まいで元の屋敷跡より東下に現代の長屋門が南側に控えお屋敷です、庄屋さんを勤めていた様です。元屋敷跡は現在の屋敷より西の高台に在った様で茶畑、ビニールハウスが西、北側山野樹林に囲まれてそのエリアを護ってるように見受けられます。
 旧相良大須賀線道路からは見上げる様な位置関係に在ります。私有地ですから外から見上げて若干坂道から裏の畑辺りまでを眺めて終わりにしました。
 
 特に案内板は無く歴史等は現地で確認できませんが余湖図コレクションさんの解説によると、天正2年(1575年)大石義久・久末父子は徳川方の一員として高天神城に籠っていた。5月の武田勝頼による高天神城攻撃によって大石義久は戦死、高天神城開城後大石久末は馬伏塚城の大須賀康高に属し高天神城奪還に活躍した。天正10年武田氏が滅亡した後は地元に帰農して名主となったという。

 また南前に旧軽便鉄道南大坂駅跡に軽便鉄道の解説板が南大坂駅名板状に成っており写真付きで昔の風情を醸しています、区間は袋井から南を通って藤枝間営業距離64.6kmとの事、昭和42年廃線、一部藤枝側が昭和45年廃線と成った。小さいですが公園広場に成っており昔の縁を偲ぶようでも有りました。
 
 
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ495