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トク

潮見櫓の復元工事始まる (2024/01/24 訪問)

福岡城で潮見櫓の復元工事(再移築工事)が始まりました。

下之橋御門に並ぶ現在の地に旧黒田邸から移築された櫓が、30年前までは潮見櫓とされていました(写真①②の櫓が潮見櫓とされていた)。しかし、黒田家の墓所である「崇福寺」にあった櫓が、もともとは三ノ丸北西角にあった潮見櫓が移築されたものだとの証拠(棟札と移築図面)が見つかり、それから後は現在の櫓は、伝潮見櫓と(伝)の字がつけられるようになりました。ならば結局この伝の櫓は、福岡城にあったとされる47の櫓の中のいったいどの櫓だったのか? それはまだ特定できていないそうです。

この福岡城の三ノ丸の北西角にあった潮見櫓は、遠く玄海灘や博多湾に現れる異国船などの監視や、また福浜(現ペイペイドーム東側)から黒門川を通り直接福岡城内へ物資を運び入れる船を監視していたようで(写真⑦)、高さ10mの二階建ての櫓だったそうです。梁や柱など再利用可能な部分は再利用され、土に藁を混ぜて土壁を作るなど当時の技法を採用して、実際に建っていたとされる三ノ丸の北西角にできるだけ忠実に崇福寺より再移築して復元されるとの事です(説明写真④⑤⑥)。

私は工事現場を訪れて来ました。しかし、素屋根と高い工事塀に覆われて近づく事ができず、中の工事の様子を見る事はできませんでした(写真③)。逆に言えば、完成したら一夜城のように突然現れるという事になるのかもしれません。それもまた別の意味で楽しみです。

福岡城から東へ3km程離れた所にある「崇福寺」へも行ってきました。入口にある山門(写真⑧)は、福岡城の本丸表御門が移築されたものだと伝えられています。この寺は中門(写真⑨)から中へは、普段は立ち入る事はできません。塀に隙間がちょっとだけある場所があったので、そこからこっそり黒田家の代々の墓所を覗いて写真を撮りました(写真⑩)。ここには「黒田官兵衛(如水)」と「黒田長政」が眠っています。一番右の茶色い墓が如水、右から二番目が長政の墓です。中に入れなかったので、どこに今まで櫓が建っていたのか? それはわかりませんでした。

完成は1年後(2025年春)だそうです。今から楽しみに待ちたいと思います😊。
 

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しんちゃん

桜と蓮でイメージが良くなった。 (2019/08/14 訪問)

高田城には21年5月にも訪問していますが古い方の写真で登録させていただきます。高田城址公園として整備され桜の名所でもあります。徳川家康の六男、松平忠輝の居城として天下普請によって築かれました。西側の堀や郭の配置は正保年間の構造を残しており内堀の外周に外堀である北堀・西堀・南掘が残っています。石垣は使用されず、すべての郭には土塁が築かれていたようです。本丸には天守代用の二重櫓(後に三重櫓に改修)が置かれ、今は天守代用の復興櫓が築かれ堂々とした天守の風格を漂わせています。
忠輝改易後は左遷地としての意味合いが強くなり不始末をやらかした大名が中央から飛ばされてくることがしばしばあったようです。負のイメージが付いてしまった高田城ですが北陸でも屈指の桜の名所で、外堀に植えられた蓮は紅白の入り混じった珍しいもので規模の大きさもあって「東洋一」を自称し、高田城の印象は間違いなく良い物に転換できたと思います。めでたし、めでたしということで‥。

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しんちゃん

何気に国の史跡で世界遺産だったりする。 (2013/10/05 訪問)

山吹城は国の史跡「石見銀山遺跡」に含まれており、2007年に石見銀山が世界遺産に登録されるにあたって構成要素の一つの「銀山柵内」に当城が含まれています。標高414m、比高200mの山城ですが実際に登ってみると結構しんどかった記憶があるので、ここで登録してしまいます。(できればもう登りたくない)
延慶2年(1309年)ごろに石見銀山が発見され、その守城として大内氏によって築かれたとされています。戦国期には大内氏と小笠原氏の間で銀山を巡る争いが起こり、天文6年(1537)には尼子経久によって占領されます。やがて大内氏に代わって毛利氏が銀山の争奪戦に加わり永禄5年(1562)には毛利元就の手中に収まったそうです。関ヶ原の合戦後は幕府領となり大久保長安が山吹城に入りますが翌年、大森代官所に拠点を移したため廃城となったようです。
山吹城は最高所を主郭として南北に4段程度の郭を配しています。東西の側面がほぼ無防備になりますが特にこれといった防御の仕掛けは無いようです。南側には多数の畝状竪堀を有しているようですが未確認です。もしもう一回行くことがあったら確認に行きますかね‥

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とばつびしゃもん

観音寺城の付城らしき城 (2023/11/04 訪問)

八幡城北の丸から八幡山縦走コースを行く。上り下りはあるが整備されている道を25分ほど進むと下り道との分岐点へ。そこには北之庄城縄張図や城址説明看板が設置されている。
縄張図を参考に、堀切に架けられ土橋を渡って城内へ入るとのろし展望台。当時はここで狼煙を確認したのか?そこから城の西側土塁の上を進むと7、8分で長命寺港展望台と案内板のある地点へ。その間は八幡山城全景や琵琶湖が望める。Uターンし下段曲輪の七ツ池跡に向け木々が生い茂る下段曲輪を恐る恐る進むと、それらしい跡をひとつふたつ発見。またその先に進むと大手門にあたる桝形虎口らしき遺構が確認できました。
下城は先の分岐点を下り、20分ほどで北之庄神社横へ出る。そこからラコリーナへ。有名なバウムクーヘンを食べて山城攻めの疲れを癒す。

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T-Shionoya

堀切が印象的な三河山中城 (2023/12/10 訪問)

県内最大級の山城とのフレーズに釣られて訪れた愛知県岡崎市の山中城。

東西三河の境界エリアで、平地から山地に入った比高約100mの山を城郭とした城。
山頂の主郭から、"山"の字形の各尾根に曲輪と堀切を配置した縄張。

北麓を東海道が通り、西尾へ向かう吉良道と、桑谷峠を越え蒲郡へ向かう西郡道の分岐点が存在する要衝。
築城時期は定かでないが、西郷(岡崎松平)信貞所有の1524年に安城の松平清康が奇策で奪取。
清康が殺害されると、今川そして徳川の支城となり、都度城が拡張されたと考えられている模様。

現在は遊歩道が整備された岡崎市の指定史跡。

訪問時は東端の舞木口から獣除けの門を開閉し入山。しばらく登ると土橋のような尾根が現れ、それを渡ると城内。
曲輪1段1段の高低差が大きく、下段側の付け根に設置された堀切が印象的で、特に東曲輪2と3の間の深い堀切は1つの見どころ。

帰りに東部市民センターに寄ると、模型と共に現在の遊歩道とは異なる推定城道が示された地図があり、事前にコレを入手して行けば更に深い見方ができたかも。
トータル滞在時間約3時間の三河山中城が、私の城郭巡りの166城目となりました。

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HARU

名古屋城 (2023/10/26 訪問)

前日に「関ヶ原古戦場」を訪ね、大垣に宿泊、この日大垣城をみてから名古屋に移動し、初めて「名古屋城」を訪れました。名古屋城の天守は戦災で焼失し、昭和34年に鉄骨鉄筋コンクリートで再建されましたが、現在木造での復元計画が進行中で色々な問題もあるようです。現在は内部に入れず外観を見るだけになっていますが、その代わりに2018年に完成公開した「本丸御殿」が素晴らしく、見応えがありました。

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しんちゃん

スーパーパノラマビューですわ (2019/05/03 訪問)

関ヶ原の合戦の際、東軍に加わった中村一氏の嫡子・一忠はその功により伯耆国17万5千石を賜り近世米子城を築いたとされています。麓に三の丸、中腹に二の丸、頂部に本丸が築かれ大天守(四重)と四重櫓がそびえ立つ壮観な眺めであっただろうと思います。
完全な総石垣の城で麓の枡形から、しっかりとした石垣で築かれています。三の丸・二の丸と訪れ、内膳丸を経て本丸に向かいます。本丸一帯はかなりの広さを持ち建造物が全くない分、周囲の眺望は抜群です。とにかく人が多く、顔が写ってなければいいやで掲載しております。市街地から中海・大山と周囲を良く見渡せ、目の良い御仁なら日本海まで見通すことが出来るかもしれません。
かつての巨大建築物が失われたのは残念ですが、頂部一帯の解放感は格別のものが有ります。ただ石垣から落ちると危ないので昼寝はお勧めできません。

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HARU

大垣城 (2023/10/26 訪問)

徳川家康公ゆかりの地巡りで、「関ヶ原古戦場」を訪れたあと大垣に宿泊、翌朝に訪ねました。大垣城は関ヶ原の戦いの折り、石田三成の西軍の陣が置かれ、激しい籠城戦を展開しました。大垣城は国宝に指定された後、戦災で焼失し、昭和34年に再建されています。天守内にある資料をみると、関ヶ原の戦いの様子など窺い知ることができます。

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HARU

姫路城 (2023/09/07 訪問)

姫路城の世界遺産登録30周年の関連で夏の特別公開として普段非公開の「乾小天守」「東小天守」など6棟が公開されるのに合わせ、学生の時以来45年ぶりに訪れました。とにかく感動の一言でした。

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朝田 辰兵衛

小山城からは,バスを利用…🚌 (2024/01/07 訪問)

八田家御朱印屋敷の最終入場時刻(16:30)に間に合わせるため,御坂西小学校前からバスに乗り,鵜飼山にて下車。余裕で間に合いましたが,閉門しておりました…😱
気を取り直し,周囲を散策して,にのまるさんから紹介していただいた“勝頼グランパ館”へと向かう途中,にのまるさんが散策しておられた「ホテル石風」の前を通りがかり,「武田勝頼夫人遺愛の松」を発見しました。
八田家御朱印屋敷が開門しており,ゆっくりしていたなら,「武田勝頼夫人遺愛の松」をスルーしていたかもしれません。

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しんちゃん

斎藤別当実盛館跡実盛塚 (2019/08/10 訪問)

埼玉県熊谷市西野には斎藤別当実盛館跡と見られる地に「実盛塚」と呼ばれる板石塔婆が建っています。実盛公が平治の乱の後、長井荘の荘官を務めた時の住居と見られます。大正15年に埼玉県指定史跡「斎藤別当実盛館跡実盛塚」として登録されましたが、どういう経緯か昭和38年に県の史跡を解除されたようです。今では熊谷市指定文化物「史跡実盛碑」として史跡保存会の方々によって管理されているようです。写真の銅像は妻沼にある聖天歓喜院の境内にあるものです。

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HARU

掛川城 (2023/06/26 訪問)

徳川家康公ゆかりの地巡りの長篠城の翌日、転勤先の静岡(市)にいたときに訪ねて以来の訪問になりました。家康がらみでは浜松城に立てこもる今川氏真を攻めた時に井戸から霧が立ち込め家康軍から守ったという「霧吹き井戸」があります。ここの御殿は現存する城郭御殿として、京都二条城など全国でも数カ所しかありません。二の丸御殿は二条城と二カ所のみです。

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HARU

長篠城 (2023/06/25 訪問)

岡崎・静岡(駿府)・浜松に続き、徳川家康公ゆかりの地巡りの第4弾として「長篠城」を訪れました。長篠城は宇連川と豊川(寒狭川)が合流する断崖上に築かれた要害堅固な城。武田氏と徳川氏が争奪を繰り返し、長篠設楽原の戦いの発端にもなった城としても有名です。史跡保存館には貴重な資料が残り、設楽原の復元された馬防柵も見応えがありました。

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しんちゃん

子孫は「のぼう」の人 (2019/08/10 訪問)

現地に建っている標柱を読むと藤原鎌足の子孫、道宗の子である助高(資隆)が天喜元年(1053)に成田の地に館を構え成田氏を名乗ったと有ります。ふむふむ‥古いですね。その後成田氏は「関東八家」と呼ばれるまでに勢力を拡大し成田親泰が忍城主になるまで、この地に住み居続けたと有ります。ああ‥「のぼうの城」に繋がるんですね。

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HARU

浜松城 (2023/06/07 訪問)

岡崎・静岡(駿府)に続き、徳川家康公ゆかりの地巡りの第3弾として浜松を訪れました。「浜松城」は徳川家康が岡崎城から拠点を移し、引間城から浜松城と名を改め、大改修を施しました。歴代城主は要職に就く者が多く「出世城」の異名があります。ここでもNHK大河ドラマ「どうする家康」のドラマ館を訪れ、その後と翌日には市内のゆかりの地巡りをしました。泊まったホテルの部屋からも浜松城が間近にみられました。

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しんちゃん

やはり木造天守(櫓)は良い。 (2019/08/11 訪問)

白石城は標高76mの丘陵上に築かれている平山城で戦国期から存在していたようです。慶長5年(1600)会津征伐と関ヶ原の合戦の後、伊達氏の持ち城となり慶長7年(1602)片倉景綱が入り1万8千石を領しました。一国一城令の後も特例として城の存続が認められ明治まで片倉氏の居城として存続したそうです。
事実上の天守といえる三階櫓は木造で復元され見ごたえも満足感も高めです。やはり木造の城は良いですね。度重なる地震で天守にもダメージが残り令和3年と4年の地震でも壁に亀裂が生じるなどの被害が出ているそうです。被害と修復の追いかけっこになっていますがメゲることなく頑張って修復を続けていただきたいと思います。

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小城小次郎

万を超える軍が収容できる広大な敷地 (2023/05/04 訪問)

いわゆる方八丁の広大な敷地に、門や塀だけでなく兵員宿舎と考えられている竪穴住居が復元されている。なるほど。有事の際にはこうした竪穴住居が無数に作られ、万を超える舞台をまるごと収容していたわけだ。

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HARU

久能山東照宮 (2023/03/01 訪問)

駿府城を訪ねた翌日、徳川家康公が眠る「久能山東照宮」を訪れました。ここには昔「久能寺」があり、武田信玄が城砦を設け「久能(山)城」と称し、その後徳川のものとなりましたが、家康公の遺骸を埋葬した際に久能城を廃城にし、今の東照宮が創建されたとあります。今回は日本平ロープウェイを利用しましたが、東照宮を少し下ると眼下には石垣とともに素晴らしい景色が望めます。ロープウェイ乗り場近くの展望台からは富士山が綺麗に見えました。

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HARU

駿府城 (2023/02/28 訪問)

2月初めの岡崎に続き徳川家康公ゆかりの地巡りの第2弾で静岡(駿府)を訪れました。ここでも浅間神社境内にあるNHK大河ドラマ「どうする家康」の大河ドラマ館を訪ねた後、駿府城公園に向かいました。堀の近くにある「静岡市歴史博物館」からは復元された巽櫓と一緒に富士山が綺麗に見えました。公園内では現在天守台の発掘調査が進められ、こちらも見所の一つです。

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ヒロケン

シンプルな城跡 (2024/01/05 訪問)

津城は、岩田川と安濃川の三角州に二重の水堀を設けた縄張りで、本丸の東西に東の丸と西の丸を直列に配し、その周囲を内堀で囲み、その周りを二の丸、更に二の丸を外堀で囲んだ、輪郭式の平城でした。内堀に至っては、最大幅100mにも及ぶ広大なもので、さながら、湖上に浮かぶ島の様であったと云われています。
また、本丸には三重の櫓が2基、二重の櫓が3基が建てられ、それらを多聞櫓で接続した厳重な造りであったとされています。現在は、本丸の石垣と内堀の一部が残っており、現在の姿から当時の姿を想像できないくらいシンプルになっています。

築城主は長野氏の一族、細野氏が小規模な城を築いたのが始まりとされ、織田信長公の伊勢侵攻で長野氏の養子となった、織田信包公が改修、その後、関ヶ原の合戦を経て築城の名手と知られた藤堂高虎公が22万石を拝領し、津城に入城しています。上記で挙げた津城の縄張りは、この藤堂高虎公によるもので、藤堂流の築城術の粋を凝らして築城されています。

現在の津城跡は本丸と西の丸が公園として整備され、鉄筋コンクリート製の模擬復興された三重櫓、かつての内堀の殆どは埋め立てられ一部が残るのみとなっていますが、天守台の石垣や、本丸を囲む石垣が残り、かつての面影を残しています。
続100名城のスタンプはかつては、水堀であった高山神社に設置され、駐車場も三重櫓のすぐ傍に設けられています。

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