南北朝期に北畠氏家臣の加藤甚左衛門が赤羽川と江ノ浦の間の丘陵上に築いた城で、甚左衛門は赤羽谷の奥村氏の侵攻を迎え撃つも、内通により敗れて自刃しました。戦国末期、加藤氏五代・甚五郎は北畠信意(織田信雄)より奥村氏とともに北畠旧臣と結んで敵対する熊野の堀内氏攻めを命じられ、三木城を攻め落とすも堀内氏の反撃を受けて撤退。何とか長島城に帰還したものの、寝返った奥村氏に火をかけられて城は焼失し、甚五郎も自刃しました。
登城口はいくつかあるようですが、南東麓の長楽寺から登城しました。長楽寺は加藤氏の菩提寺であり山麓の居館跡でもあるようで、山門の脇には長島城跡説明石板が建てられています。長楽寺の脇から山中へは津波避難道が整備されていて、避難道を登って行くといくつかの石碑が建てられた平坦地があり、中腹の曲輪跡のようです。ここで長島神社からの道(たぶん)と合流し、さらに登って行くと愛宕社を過ぎたあたりから道はシダに覆われるようになり、シダをかき分け進んだ先が主郭です(登城口から約15分)。
主郭は東西二段になっていて、南東隅の虎口から入ると長島城跡の石碑があり、西側上段の手前に説明板、上段には通信施設が建っています。主郭には土塁もなく特に見るべきところはありませんが、主郭の南下には竪堀と帯曲輪があり、西下は両端が竪堀となって落ちる堀切が西尾根を断ち切り、北西下から北下にかけては3条+3条の連続竪堀が横移動を封じ、東下も南北両側に落ちる竪堀が東尾根からの侵攻を遮断しています。
東尾根を下って行った先には加藤甚五郎一族の五輪供養塔が建てられています。ここも中腹の曲輪跡のようで、説明板によればこの五輪塔は江戸中期に菩提寺の長楽寺から移されたものとのことです。ここからはとばつびしゃもんさんに倣って郵便局の前に下りて行くつもりが、分岐を間違えてより北側の青面金剛童子の脇に出てしまいましたが、道中に湾の先に広がる熊野灘を眺めることができたので、これはこれでヨシ! としておきましょう(主郭周辺からは眺望がききません)。
私の拙い写真では伝わりませんが、藪に沈んでいたり浅くなっていたりはするものの、主郭を取り巻く竪堀群はなかなか見応えがありました。あとはシダをもうちょっと何とかしてもらえれば…。
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