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しんちゃん

当日拝観できました。たまにはいいことがあっても。 (2023/07/18 訪問)

永禄4年(1561)、三好長慶がかつての主君、細川晴元を幽閉し周囲に土塁や堀を、巡らせて城塞化し
それを普門寺城と呼ばせたと伝わります。
合わせて普門寺の復興もされ、永禄6年(1563)晴元が死去した後、永禄9年(1566)には
三好三人衆に擁立された足利義栄が入り、ここで将軍宣下を行い
室町幕府の征夷大将軍に就任したとのことです。(wiki参照)
境内は国指定名勝「観音補陀落山の庭」があり、片隅には細川春元の墓と伝わる宝篋印塔があります。
北西と北側には土塁が残り、特に北側には堀の名残と思われる細い通路があり外側からも
フェンス越しに土塁を眺めることができます。
拝観には前日予約が必要とのことですが、コロナも収まってきていることだし
ダメもとでアポを取ってみたら幸運にも拝観させてもらうことが出来ました。
ひとしきり由来を説明していただいて、この寺が周囲より高地にあることも教えていただきました。
当日の予約は運に左右されるので基本は前日予約が望ましいです。





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しんちゃん

椿尾下城 (2023/07/16 訪問)

椿尾下城は椿尾城(上城)の南西部に位置しています。
椿尾氏によって築かれ、椿尾氏はもともとは同じ大乗院方の衆徒
である古市氏に従っていたのですが、やがて筒井氏に
恭順したとされています。
下城は山道を通じて上城とつながっているようですが
路が不安だったので上城へ行くときは国道25号線から行きました。
下城へ登城した際は北東部の側面から直接取りつきましたが主郭を含めて
この周辺はひどい藪です。
南西部から登る道を発見したのでご紹介します。
北椿尾町集会所の脇から道が続いていて
(34°37'54.8"N 135°52'0.36"E)34.631896,135.867653 の位置から
石垣のある坂を上っていきます。
ここで分かれ道を左手(たしか)に進んでいけば南西部の遺構にたどり着けるようです。
登城道の左手にうっすらと畝状の竪堀のようなものが見えますが
これは筒居氏の山城の特徴かもしれません。
このあたりの土は崩れやすく竪堀の遺構も残っていれば奇跡に近いでしょう。
南西部から中央へ続く郭は比較的移動しやすいですが
東側に近づくにつれ藪が厳しくなってきます。
郭の間は堀切で仕切られその遺構も見事なので、足元に気を付けながら
郭のヘリか斜面を移動して遺構を確認してみるのもアリかもしれません。




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トク

58【関ケ原の26人】(22)毛利輝元 (毛利輝元と萩城) (2022/11/16 訪問)

(22人目)「毛利輝元」の続きです。
今度は、関ケ原の後に築城した「萩城」を訪れてきました。何やら城人の特集と、たまたまだぶってしまいましたが御容赦下さい(本当に偶然です)。

訪問したのは昨年秋ですが、紅葉が色づき始めた頃できれいでした(写真⑩)。今年は猛暑なので、ここで秋の萩城の写真を皆さんにお届けします。少しでも涼しさを感じて頂けたら幸いです。

毛利輝元は、中国七か国120万石の大大名でした。関ケ原の戦いでは西軍の総大将を務めましたが敗戦の責任を負い、周防長門36万石に減封されてしまいます。そして長門の萩の地に「萩城(指月城)」を新たに築き居城としました。

JR山陽本線・山陽新幹線「新山口」駅前から高速バス萩行きに乗り65分(予約不要並んだ順に乗車、待合室に券売機あり)、萩バスセンターまたは東萩駅で下りて100円ループバスに乗れば萩城まで最短で行く事ができます(JR山陰本線は本数少なので鉄旅マニア向けです。また萩の西側下関方向の山陰線・美弥線は7月の大雨の影響で長期不通区間があるようです、運行情報を確認されて行かれて下さい)。

まず萩城入口に着くと、毛利輝元の銅像が出迎えてくれます(写真①)。そして大手門桝形(写真②)を抜けると、ここがベストショット! 萩城石碑・内堀・天守台・指月山が1枚に入ります(写真③:辰兵衛さんに先を越されましたが、ここは思わずカメラを向けてしまう場所ですね!)。天守台は「扇勾配の石垣」で天守の礎石も実によく残っていました。かつては五重の望楼型天守があり、明治の廃城例で破却されるまで天守は残っていたようです(写真④⑤⑥⑦)。何か見てみたい幻想にかられました。

本丸内には、毛利家代々の藩主が祀られている「志都岐山神社」(写真⑧)や、幕末最後の藩主「毛利敬親(たかちか)=そうせい公」が家臣たちとこれから一戦交える幕府軍にどう対抗するかの密談に使ったという「花江茶亭」(写真⑨)もありました。

私は(写真①)の輝元の銅像の表情を見ていると、この萩に来た時の輝元の無念さが、何やらひしひしと伝わってきたように感じました。詰城(要害)があった指月山に登ると、この時の輝元の気持ちがもう少し分かるのではないかと思ったので、次は指月山に登ってみる事にします。
 

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しんちゃん

深ぼりするといろいろ出てきそうです。 (2023/07/18 訪問)

茨木城は13世紀中ごろからこの地方に台頭していた茨木氏の城で
戦国時代には織田信長方に属していましたが、荒木村重に攻められ
城主重明が討死、茨木城も落城し茨木氏は滅びたと伝わります。
現在は市街地化していますが、搦手門が茨木神社に移築され
旧本丸の茨木小学校の前には櫓門が復元されています。
この櫓門、オリジナルとは少々異なりますが(屋根が瓦葺、
オリジナルは茅葺)なかなか良い雰囲気をしています。
かつては東西を流れる川が天然の堀の役目を果たしていたと
思われますが西の川跡がそのまま道路の形状(川瀬通り)に残っています。
車で散策していて思ったのですが北西の田中稲荷大明神周辺の土盛りは
かつての土塁の名残だったのではないでしょうか。
他にも茨木神社周辺の石垣を眺めていると、このあたりに城の
遺構が残っていないかな‥と思ったりもします。


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しんちゃん

旧幕府軍を狙い撃った藤堂藩の砲台。 (2023/07/18 訪問)

淀川沿いの堤防の脇にある観音堂(薬師堂)の近くに説明の書かれた
石碑が建っています。
慶応二年(1866)幕府の命により対岸の楠葉砲台と共に築かれたと有ります。
高浜は藤堂藩の管轄で、対岸の楠葉砲台は酒井藩の管轄になるようです。
慶応4年正月、楠葉まで退いていた幕府軍に対し、新政府軍についた
藤堂藩が攻撃を仕掛けたと有ります。
堤防には階段がついていてすぐ登れます。
いささかうっそうとしていますが対岸も望めるでしょう。

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しんちゃん

三好方の大阪攻撃のための平城(小城) (2023/07/18 訪問)

黒丸城は淀川べりに築かれた平城で、大阪方面への攻撃の際の
三好方の前線基地として機能していたと城址碑近くに設置された
案内板にはあります。
ざっくり周囲を散策してその場を後にします。
暑い夏場は大阪近辺を回っている方も多いようで
投稿もかぶり気味ですね。

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しんちゃん

遺構は無いが石碑や案内板を回ってみる。 (2023/07/18 訪問)

三宅城の築城の時期については二説あるようです。
14世紀ごろ三宅氏の居城とされていたという説と
永正元年(1504年)に三宅国政が細川高国に命じられ
築城したという説です。
案内板のある公園から東域一帯、石碑のある東罐興業株式会社
に至るまでが城址と推定され本丸・二の丸を構え周囲には
堀を構えていた可能性があると推測されています。
城郭放浪記の情報に沿って石碑や三宅出羽守国村公碑、防風庵を見て
回ります。管理人様、有難うございます。
東罐興業株式会社の敷地内にも案内板と石碑があるようですが
あっちの方向を向いていて内容が見えません。
せめてこっちを向けてくれ‥と思いつつも
フェンスの下側からよいしょと撮影しますが雑草が伸びてきていて
写真がピンボケです。

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しんちゃん

工事完了は令和6年2月29日。移築表玄関と城門あり。 (2023/07/18 訪問)

麻田陣屋はは元和元年(1615年)、外様大名の青木一重によって築かれた
麻田藩の陣屋です。
現状工事中で中は確認できず。
また工事かい‥ボヤきつつも
報恩寺に移築されているという麻田藩主邸表玄関と城門を見にいきます。
有りました。やはり木造の建物は良いな‥
工事の完了は来年の2月いっぱいまで続きそうです。
また石碑を見に立ち寄りたいと思います。

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しんちゃん

長い塀と立派な門を持つ屋敷 (2023/07/18 訪問)

今西家土居屋敷は各サイトの情報を確認すると
地頭の役割も果たしていた神官(荘官)で
戦国期には明智方に属して、山崎の合戦の後に秀吉に所領を没収され
江戸時代に持ち直したとのこと。
現状、子孫の方が住まわれていて門の中は確認できませんが
「春日大社南郷目代今西氏屋敷」として大阪府の史跡に登録されています。

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しんちゃん

茨木城の支城。 (2023/07/18 訪問)

新庄城は茨木城の支城とされています。
明教寺周辺が城址のようですが、
遺構らしきものは見当たらないのですが、明教寺を含め
周辺の住宅の塀が、まるで城郭の塀の用に連なっています。
当時の縄張りは不明ですが、かつての城の縄張りが
道路や街道の形状に残っているのは良くあることなので
想像を巡らしながら散策してみます。
やはり城址付近が周囲に比べ幾分か小高くなっているようです。
明教寺の門は本日も閉じられているのですが、開いている時も
あるようですね。時と場合次第といったところでしょうか。

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しんちゃん

江口の戦いの舞台になった城。両側の真ん中の狛犬に注目。 (2023/07/18 訪問)

江口城は他の城の口コミでも名前が出てくる江口の戦いの
舞台となった城で、ここで三好長政が討死を遂げています。
大隅神社周辺が城址と推測されますが
狛犬の台座に江口とかかれている狛犬が江口城の遺構と伝わっています。
両側にいる狛犬の真ん中のやつがそうみたいですね。
後で知った情報なのですが、なんとなく気になったので
写真を撮っておいてよかったです。

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しんちゃん

太鼓楼と築地塀が良い感じ。近くに大塩平八郎ゆかりの書院跡あり。 (2023/07/18 訪問)

守口城は難宗寺周辺が城址と伝わります。
応仁の乱の際に大内義弘の家臣の杉九郎がここを守っていたという話や
明智光秀が砦を築いたなどの情報が検索すると出てきます。
難宗寺は周囲を築地塀で囲み北側に太鼓楼と長屋門を配し
なかなか良い雰囲気を漂わせています。
すぐ近くのマック(大阪ではマクド)に大塩平八郎ゆかりの
書院跡の案内板と石碑がたっていますので
合わせて訪問してみると良いと思います。

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しんちゃん

10年に及ぶ石山合戦を支えた重要な拠点。 (2023/07/18 訪問)

葱生城は本願寺の支城の一つです。
榎並庄に築かれ、ここの稲田で刈られたコメが本願寺の
軍糧として送られていたようです。
常宣寺の周辺が城址のようで、北に淀川が流れます。ここから
米を送るルートの途中に毛馬城があります。
なるほど食料補給路を守る城塞の関係性が見えてきました。
米→葱生城→毛馬城→川を南下して本願寺

10年に及ぶ石山合戦の籠城を支えるための重要な城だったのですね。
毛馬城、ポチるための城と言ってゴメン。

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しんちゃん

ポチるための城 (2023/07/18 訪問)

石山本願寺の51の支城の城の一つと伝わりますが
毛馬町の由来として、天正年間に織田氏がこの地に毛馬城を
築き布陣したという説もあり、はっきりしたことはわかりません。
城址とされる善福寺は周囲よりわずかに高地にあるようですが
それ以外に城跡を彷彿させる要素は見当たりません。
ここはポチるための城と割り切り先に進みます。

来た見たポチった ‥‥シーザーさんみたいですね。

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しんちゃん

三好政長の息子、政勝の城。 (2023/07/18 訪問)

榎並城は三好長政が築城し、息子の政勝を入れたと伝わります。
江口の合戦で長政が戦死し、政勝も瓦林城に退いたとされています。
城址は榎並小学校から野江水神社あたりとされ、小学校には
城址を示す石碑があります。

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しんちゃん

本願寺派の城塞都市と一体化した城 (2023/07/17 訪問)

久宝寺城は久宝寺寺内の北の区画に築かれていたとみられます。
寺内の中心には顕証寺(けんしょうじ)があり
連如上人により西証寺として建立されました。
後に顕証寺(久宝寺御坊)と呼ばれ、周囲に二重の堀と
土塀をめぐらし、今でも街路にその形状が残っており
西の池がかつての堀跡で周囲との境でもあるようです。
寺内の支配権は御坊が握り、久宝寺城主 安井氏がこの権を
任されていたようです。
中世末期浄土真宗本願寺派境内に発達した城、集落、寺院が一体化した
城塞都市と呼んで良いのではないでしょうか。



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しんちゃん

城址碑のみの大阪市のポチ城。歴史は侮りがたし。 (2023/07/17 訪問)

柴島の地はかつては神崎川と中津川に囲まれた中州であり
現在残されている石碑の周辺が「柴島城跡伝承地」とされています。
十河 一存の築城とされ、天文18年(1549)の江口合戦では
三好政長派の細川晴賢が籠る柴島城を三好長慶の大軍が攻め、
柴島城は落城、この時江口城も落城し政長は戦死しています。

伝承地とはいえ完全に市街化し、かつての面影はありません。
大阪市の城跡で遺構を探すのは無駄に近いので
周囲を散策し、飛行機が飛んでいくのを眺め退散します。

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しんちゃん

大阪市のポチ城。歴史は侮りがたい。 (2023/07/17 訪問)

三津屋城は現在 本願寺流光専寺及び、ひかり保育園となっております。
かつては楠木正行の築城とされ、三好政長や長慶が拠点とした中島城
の跡と案内板には出ています。
さすが大阪の城、小城でも歴史は深いですね。
私は大阪市街を回っていくつかこういう小城を回って
勝手にポチ城と呼んでいました。
簡単に探索できて、「いった」をポチれるので暑い夏の城跡めぐりには
うってつけです。
動物のポチや、ポテチのようにお手軽につまめるからというわけではありません。
あくまで簡単にポチれるからポチ城です。
とはいえポチ城にはポチ城なりの苦労があります、
道がせまかったり、駐車場がなかったり、中に入れなかったり‥etc‥
特に奈良市の辰市城には閉口しました‥‥

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しんちゃん

遺構はないが歴史は深い城。 (2023/07/17 訪問)

堀城は西国街道筋に当たる十三渡(じゅうそうのわたし)
北岸の要地にあった城と伝わります。
十三渡といえば荒木村重が一揆の軍勢を押し返した所ですね。
元禄元年(1570)の織田信長による野田・福島攻めの際に
将軍・足利義昭が入場したと有ります。
城址は現状 武田薬品工業の敷地となっており、周囲を
愛車で散策してみますが特に遺構はありません。
北側の通路が堀のような雰囲気を醸し出していますが
縄張りとは異なるようです。

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しんちゃん

小学校が城跡。北側の門の中に城址碑がある。 (2023/07/17 訪問)

大和田城は石山本願寺の支城であったと伝わり、現状は大和田小学校です。
一度は荒木村重の軍を敗走させるも
逆襲にあい、落城したそうです。
門のところに城址碑があるとのことで学校の周囲を回ってみましたが
どうやら北側の門のところにあるようです。
最初に見たとき見落としていました。
案内板にある城の想像図はなかなか素朴な絵ですが
ここの生徒さんが書いたのでしょうか?
だとすれば、なかなか将来有望ですね。

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