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しんちゃん

比較的住宅地に突如出現する中世城郭遺構 (2022/01/04 訪問)

小長井城は小長井氏の城で地元では小長谷城とも呼ばれています。
小長井氏はかつて今川氏に属していましたが、後に武田氏に下り
武田氏の指揮下に城を大改修したと案内板には書かれています。
馬出しなどは無いものの、周囲を徹底して堀や土塁で強化してあり、
特に主郭背後の防御の念の入れようは驚異的ですらあります。
比較的住宅地に近い神社一帯に遺構が残り、北側の海洋センターもかつての
城域に含まれるようですが、ここは南に集中して散策するだけで
十分な遺構を確認できます。
神社北側を走る整備された農道を東に移動すると、いきなり大きな
堀切が口をあけています。主郭背後を走る一号堀と二号堀です。
これだけでこの城址が只者でないことが伝わってきます。
私は二号堀から侵入し、堀切群を確認したあと、主郭周辺を
攻めています。
よくこれだけの遺構がのこっているものです。失礼ですが田舎万歳ですよ。

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しんちゃん

良く整備された、台地に築かれた城。散策も容易 (2021/10/24 訪問)

設楽城は設楽弾正の城であったとされています。鎌倉時代初期の
形式を良く残していると駐車場近くの案内板には記されていますが
堀切や土塁、竪堀など良く残されていて散策もしやすく
お勧めできる城跡です。
周囲を湾曲した大千瀬川に囲まれた台地に築かれ
南から城域に入り二の丸を経て本丸に至ります。
二の丸の手前には大きな堀切があり城域を守っています。
それほど大きな城ではありませんが戦国期にも使用されて
いたのではないでしょうか。

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ヒロケン

黒船来航 (2023/07/22 訪問)

寺中御台場は黒船来航に備え、城下町防衛のため、加賀藩が築いた寺中のお台場を部分復元したものです。御台場は寺中神主の屋敷跡に築かれています。当時のお台場は、ほとんどが、海岸線にそって築かれていますが、この寺中御台場は、長州の下関事件など外国艦隊との装備の差を考慮し、上陸後の対応を図ったものと考えられています。

現在の寺中お台場は大野湊神社脇の緑地公園に整備されており、公園内に、北前船で大儲けした銭屋五兵衛記念館もあり、神社と合わせて見学することをお勧めします。

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にのまる

思い出いっぱいの列車旅 (2023/05/28 訪問)

午前中に宇和島城見学後、宇和島発12:18のJR予土線窪川行きで「松丸」へ向かいました。
今回の四国ツアー、往路最終目的地です。

実は今年の年始に高知から河後森城・宇和島城・大洲城と四国の西側をまわれないものかといろいろ画策してみたのですが、列車の本数の関係でロス時間が大きく、年始の休館日もあって断念していました。(かわりに徳島方面へ行きました。)
今回、(まだ幾分)行きやすい大洲から逆回りで攻めたのですが、先日、トクさんのご投稿を拝読してびっくり(゚д゚)!
高知から宇和島へ列車移動されたのですねー!すごい👏

宇和島駅のホームで待っていたのは
『かっぱうようよ号』でした。
個性が突き抜けている四国の列車は、旅を何倍も楽しいものにしてくれます。
列車やバスはお城めぐりのための移動手段であって、特別好きだとか思い入れがあるとかもなく詳しくもないのですが、気づけばお城とセットで「思い出」になっているところも多く、特に地方の駅は二度三度訪れると懐かしく、郷愁を誘うことさえあります。


本日の写真↓

① 海洋堂ホビートレイン「かっぱうようよ号」
② 同上
③ 東京→松丸の乗車券(宇和島→北宇和島は別途購入)
④ 帰りの列車。山の向こうからやってきてくれました。
⑤ 松丸駅で。「かっぱうようよ号」の2本後の列車。(約3時間半後)
⑥ 松丸駅。ぽっぽ温泉は改修中(5/22~8/9)でした。
⑦ 帰りの松山までの切符。松丸駅で発券してもらいました。
⑧ 今月の誕生日(18歳になりました😊)に自分にプレゼントしました。

河後森城訪問記はまた明日(・∀・)/

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しんちゃん

かなり攻めた造りの城郭風陣屋。 (2022/01/01 訪問)

小島陣屋は宝永元年(1704)松平信治が陣屋を構えたことが小島藩の始まりとされています。
一万石の大名では城を構えることを許されないのですが
かなり攻めた感じの陣屋を作っています。
比較的高地に、まるでマチュピチュのような段々の石積か築かれ
表門はなんと枡形になっています。
しかも大手石垣は部分的に4mを越える高石垣が築かれています。
どうも無駄に石積みが多いような‥悪い意味でのマチュピチュです。
夕暮れになるとこの辺は完全に日影で写真も暗いものが多いのですが
早朝に訪れると全く違った雰囲気を味わえるのかもしれません。

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しんちゃん

日本平 (2022/01/01 訪問)

2022年の元旦に日本平に行ってきました。
日本平に行く途中の橋の上から見る富士山が絶景で
近くに駐車場があります。
私の生まれ故郷、清水の港を背景に富士山がそびえたつ様は
まさに絶景です。
日本平には赤い靴を履いてた女の子の母子像や
富士山を眺めるための周回路、ちゃっきり節の碑などがあります。
赤い靴‥と言っても外国人に連れ去られたというわけではなく
養子にもらわれていったということらしいです。
ここからロープウェーで久能山東照宮にもいけますが
今回はここまでとします。

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しんちゃん

武田に殉じた裏切り者の凄惨な末路。 (2022/01/01 訪問)

複数のサイトを確認させていただいたところ
庵原山城は庵原氏の城で
武田の支城になった後は、今川から武田についた
朝比奈氏が城代となったが武田家滅亡の際に庵原館で自刃したとあります。
徳川につくといった選択肢は無かったのでしょうか?
主郭あたりは果樹園らしいのですが、かなりの藪でした、
周辺もかなりヤブ化が進んでいて
かろうじて南側の郭がなんとか確認できる状態でした。
いまではどうなっているのかわかりませんが
看板が立てなおされたらしいですね。
補足‥
城主の朝比奈信置という人物、朝比奈泰能や泰朝父子とは別系統とされていますね
甲陽軍艦によれば山本勘介を義元に推挙した人物とされています。
ひょっとしたらこの人は最初から武田に通じていて、武田の最期に際して
武田に殉じた人物なのかもしれません。
元今川家臣でありながら朝比奈駿河守信置と名乗っている時点であまり好感は持てませんが。

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ぴーかる

相羽城 (2023/07/15 訪問)

【相羽城】
<駐車場他>相羽公民館に駐車しました。
<交通手段>車

<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第1弾1城目。相羽城の築城は鎌倉時代の前期に土岐光行の子光俊が饗庭姓を名乗り築城しましたが承久の乱で討死します。その後一時廃城となりますが戦国時代には土岐頼芸の家臣長屋景興が修築します。1545年に斎藤道三に攻められて落城し、その後鷹司氏が城主となりますが1549年に織田信秀に攻められて落城し廃城となったようです。
 現地は八幡神社になっていて、本殿の本丸跡は少し高台(土塁かも)になっています。近隣の川の流れが現在と変わらなければ、東に根尾川、西に三水川が流れ東西の川を堀代わりにしていたと思われます。戦国時代、織田信秀は稲葉山城の更に北西方の濃尾平野の最北の城まで攻略していたのが凄いです。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

周囲に土塁を残す鎌倉の御家人屋敷 (2022/01/03 訪問)

国指定史跡 高田大屋敷は鎌倉時代の御家人内田氏の居館とされています。
現地案内板がカピカピですこし読みづらいですが
四方に土塁をめぐらせ、西側は堀、北・東側は上小笠川に囲まれていると
あります。広さは東西93m、南北70mあったと推測されています。
東側に高い土塁、西側から北側にかけて低い土塁が残っていたと思います。

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しんちゃん

マイナーな城だけど北条・今川 / 武田で、ガチの争奪戦。 (2022/01/08 訪問)

蒲原城は今川方の城ですが武田信玄が駿河に侵攻した際に
救援の北条勢がこの城を拠点とし、武田勢を撤退させています。
永禄12年(1569)武田方が再侵攻し、落城して武田方の拠点になりました。
主に散策できる郭は北の帯曲輪と北の曲輪(善福寺曲輪)と南の本曲輪です。
北の曲輪には西から南にかけて土塁が残され
南の本曲輪には神社がまつられています。
訪城は一年半前になるのですが、どうやらそのあと逆茂木が設置されたらしく
もう一度訪問してみようかなと考えています。
しかし逆茂木とは‥ マイナーなもん置きよってからに‥


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しんちゃん

穴山梅雪ゆかりの城 (2021/03/07 訪問)

天正6年(1578)江尻城の城将であった穴山梅雪は城を大改築して
高層の楼閣「観国楼」を建てたとされますが
天正10年(1582)徳川家康に降伏し慶長6年(1601)に廃城になったと
されています。
本丸は江尻小学校あたりで二の丸は市街地になっているようです。
かつての本丸であった小学校の南東部の駐車場のフェンス越しに
案内板を確認できるようです。

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織田晃司

メェ~ (2023/07/22 訪問)

田畑の北側と東側に土塁が残る

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しんちゃん

散策容易な天方氏の城。 (2021/01/31 訪問)

天方城は今川側の武将 天方通興が戦国期に築いたと伝わります。
天方城は本城と新城があって、城びとの天方城は新城のほうです。
道興は最初徳川家康に敵対するも降伏し臣従します。
息子の道綱は二俣城で服部半蔵正成にかわって松平信康の介錯を
務めたと伝わりますが諸説あるようです。
二年前の訪城の話なので記憶をたどりながらになりますが
ご容赦ください。
天方城は駐車場を備えた城址公園になっていて山上まで車道が続いています。
主郭北側に駐車場があり二の郭を経由しながら主郭へ向かいます。
主郭は南東側を除く周囲を土塁で囲まれその外側を堀切が巡っていますが
東側の工事が終了していません。どうやら未完の城のようです。
南東部は切岸になっており、やや南西の箇所に展望所があってここから
浜松市街がよく望めます。
目の良い者なら浜松城の軍勢の動向を確認することも可能でしょう。
西側に鉄塔設備のようなものがありますがその近くに土橋が残ります。
車さえあれば比較的容易に訪問と散策が可能です。

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ヒロケン

漆黒の天守 (2023/07/23 訪問)

岡山城は梯郭式の平山城で、岡山平野を流れる旭川の西畔にあり、城下町を含めた範囲は南北約3.5km、東西約1.3kmで旭川に沿って南北に細長く、水堀が五重に巡っていました。本丸の位置は北東に偏っており、南から西には五重の堀と曲輪を巡らせているのに対し、北から東方向は、旭川が流れるとはいえ、軍事上の弱点となっています。(北側には、日本三名園の一つ後楽園があります。)
岡山城の見所は何と言っても、1966年に鉄筋コンクリートで再建された漆黒の望楼型天守だと思います。漆黒の天守は格調高い意匠が特徴で、見る角度によって大きく外観が変わります。不等辺五角形の高石垣の上にそびえる天守は、五重六階で高さは22mもあります。
カラスのような黒さを表した烏城との別名もあり、漆黒の壁に金の鯱は映え、何とも恰好が良い(*^▽^*)

国の重要文化財に指定されている、月見櫓と現在は廃校となった内山下小学校西隅にある西の丸西手櫓も見所です。また、石垣も宇喜多期の天守台の石垣・小早川期の大納戸櫓の石垣・池田期の月見櫓の石垣と石垣好きを喜ばせてくれます。

2022年11月3日で令和の大改修が完了し、リニューアルされた天守内を見学するため岡山を訪れました。入場料400円ですが、2割のJAF割引で320円で入城することが出来ます。

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しんちゃん

桑名城おまけ。蟠龍櫓 (2023/06/24 訪問)

蟠龍櫓は桑名城跡の九華公園の北側、揖斐川沿いに
外観復元されています。
一階は管理室になっているようで立ち入りはできませんが
二階はフリーで入れます。
これまで長いこと入ったことが無かったので期待していたのですが
まああくまでも外観復元なので過度な期待はせずに
気楽に入った方が良いでしょう。
七里の渡しに面した位置に建っているので、最も多くの人が目にする
桑名のシンボル的な役割を果たしていたようです。
蟠龍とは天に昇る前のうずくまった状態の龍を指すようですよ。

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しんちゃん

本多忠勝の水城。 (2023/06/24 訪問)

関ヶ原の合戦後、慶長6年(1601)本田忠勝が10万石で桑名に入り
忠勝は揖斐川沿いに城郭を築き、それは四重六階の天守と51基の櫓、46基の多聞が
並ぶ壮大なものだったそうです。
現在は九華公園として整備され往時の面影は薄れましたが
広大な池に本丸と二の丸が浮かぶ(本丸は半分)水城のイメージは
そのままです。
本丸の北東部に天守台があり、南東部には辰巳櫓の跡があります。
二の丸を経由して西側の縦に長い郭の途中に刻印石と設営板が設置されています。

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臨済寺、浅間神社など (2023/07/29 訪問)

 駿府城公園の隣には今年(2023年)1月にオープンした静岡市歴史博物館があります。静岡市の公式アカウント「駿府城」さんが投稿されていましたが、7月22日から9月3日まで「東海の名刹 臨済寺 ~義元、家康ゆかりの禅寺~」という企画展が開催されていたので行って来ました。
臨済寺は今川義元の兄氏輝の菩提寺で、2代目住職が太原 崇孚雪斎です。若き日の徳川家康もここで文武両道学びました。静岡駅からバスに乗り臨済寺前バス停下車、乗車時間は約10分です。臨済寺から徒歩約15分の所には静岡浅間神社があります。「どうする家康 静岡 大河ドラマ館」は静岡浅間神社内にあります。臨済寺、静岡浅間神社とも徳川武田の戦で焼けてしまいますが、後に家康が再建しています。静岡浅間神社の裏には賎機山城址がありますが、以前に登城したこともあり今回は行っていません。(暑かったので低山でも山登りする気になれませんでした)
 静岡市はプラモデル産業が盛んですが、静岡市歴史博物館近くには家康が着用したとされる「金陀美具足」のオブジェがありました。

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駿府城公園 (2023/07/29 訪問)

 静岡県に住んできたときは時々登城していた駿府城ですが、今回は約2年半ぶりになります。近くへ来る機会があったので登城しました。夏休みも始まった土曜日ということもあるのかもしれませんが、駿府城公園はそれなりの人出でしたね。
天守台発掘調査現場をメインにさらりと散策してきました。

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しんちゃん

椿尾城、登城道東側 本丸。 (2023/07/16 訪問)

椿尾城のレポートですが、先ほどは石積と畝状竪堀の話しか
していなかったような気がします。
登城道を右手方向(東側)に進むと主郭に向かっていくのですが
たしか三の郭の手前の堀切が一番深かったと記憶しています。
ここは岩石が露出していてなかなか迫力がありました。
北側方向を道沿いに進んでいくと三の丸と二の丸を横目に、そのまま
主郭にたどり着いたと思います。
主郭の背後は土塁で守られ、今は五社大明神が祀られています。
そのあとは南側の郭を経由し斜面を移動しながら、元の堀切の
所へ戻ってきました。
登城道の周辺は居住には適していなくて
西側のエリアが居館スペースになっているようです。
本来、こんな山の中に偉い人は住んだりはしないのですが、
筒居氏が松永久秀に追われた時に家臣ともども、ここに仮の住居を
定めたのかもしれません。
西側の扁平地の切岸や土塁が崩れないよう石積や石垣で補強してあったのも
居住区を自然の驚異からも守る必要があったのかもしれません。
ここの土はサラサラしていて崩れやすいです。今は植物の細かい破片が混入して
なおさら滑りやすくなっています。戦国期の近畿の石積は石垣として
利用するだけではなく土塁の形状保持のために内側に埋め込んでいる
ケースもあるようです。
6月に訪れた亀山市の小川城は個人宅を通らないと確認できないのですが
住民の方が親切に案内してくれました。
外観は土塁のみですが、崩れた土塁の中から立派な石積がのぞいていたのが
印象に残っています。

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しんちゃん

畝状竪堀に固執するも‥ (2003/07/16 訪問)

椿尾城は椿尾山城と呼ばれ筒居氏の筒井城の詰めの城とされています。
国道25号から城址方面に進んでいくと林道の入り口付近が進入禁止に
なっているので付近に駐車し、脇から続く登城道を進みます。
しばらく行くと分かれ道がありそこから城址に入っていけるのですが
実は、そのずっと手前にも椿尾城の出城の雰囲気を醸し出している
一角があって登城道の左手に 数は少ないものの畝状の竪堀が見られます。
登城道の左手側に畝状竪堀を配置するのは筒居氏の山城の特徴のようで
先の椿尾城、南西の椿尾下城(椿尾氏の城だが筒居氏の影響下にあり)にも見られるようです。
城域はやや西上側に傾いた二等辺三角形のような形状をしており
西の郭から西に向かって段々に扁平地が続いており
土塁の周囲を堀切が巡っていてなかなか壮観です。
外側から見ると崩れた土塁の中から石垣が露出しているようです。
(落ち葉が土化している可能性もあり)
私が周った近畿の城跡では時々、崩れた土塁の中から石積が露出しているのを目にすることがあり
土塁の形状保持のために石積を利用していると推測しているのですが
椿尾城では意匠的に石垣を露出させているように思える部分もありますのではっきりとは言えません。
西側にさらに進むと西の出丸に突き当たりますが、そこに至る途中の南西側の斜面に
畝状の竪堀群があるはずなのですが、なかなか見当たりません。
ココの土は崩れやすいので、浅い畝状竪堀は真っ先に遺構が消滅しても
おかしくはありませんが‥なにやら倒木が整然と並んでいる一角がありますが
まさか畝状竪堀を倒木を固定するのに流用しているんじゃないでしょうか?
数十分探しても、はっきりとした畝状竪堀の遺構をみつけられないので、
本状と出城(らしき)の左手に見える畝状竪堀で我慢します。
登城道を上がって右手側は三の丸、二の丸を経て主郭に至ります。

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