柳川城から5分程歩いた所に「立花家資料館」と立花家別邸「御花(おはな)」があります。
資料館には、立花家の歴史や、宗茂や歴代当主の具足や秘蔵品などが展示されています(写真①②)。柳川城を訪れた際には、ぜひここにも立ち寄られる事オススメします。
また御花には、江戸期からある庭園や、明治期に建てられた洋風建物があります(写真③④)。ここにある立花の金兜は必見です!(写真⑤) 立花家にはまだ200個程の金兜が残っているそうです。これをかぶった軍勢は、さぞかし強そうに見えただろうな~🤔(実際に蔚山の戦いでは強かった)。またここ御花は、地元柳川出身の元大関琴奨菊が大関襲名披露や結婚式を行なった場所でもあります(写真⑥)。
【余談】宗茂の妻「誾千代(ぎんちよ)」物語
立花宗茂の実の父は、岩屋城で壮絶な討死をした高橋紹運ですが、その岩屋城の戦いの前に立花城を守っていた大友宗麟の筆頭家臣であった立花道雪のその一人娘「誾千代」に宗茂は婿養子として入り立花家を継ぎ、誾千代と共に立花城を守ります。ここにも女城主はいたのですね~🤔。道雪は宗麟の命で柳川城に籠る龍造寺氏を攻めますが落とす事ができず、その帰途に病死してしまいます。誾千代にとって柳川城は因縁の城だったというわけです。それから岩屋城が島津から攻められるまでの8年間、父に代わり立花城で女城主として戦いに明け暮れる日々が続きます。鎧に身をまとい、城兵を鼓舞した勇ましい女城主だったとか・・・。島津との戦も終わった誾千代は、秀吉の命により柳川城へ宗茂と共に移り住みます。そして宗茂が朝鮮出兵の留守中には再び女城主となり、家中をまとめ鎧姿で名護屋城の秀吉の元へまで行ったという逸話も。その間に不仲説などもささやかれたようですが、結局夫の宗茂が関ケ原で敗れ、疲れ果ててわずかな兵で帰還する際中、筑後川に陣を敷いて宗茂を待ち構えていた鍋島軍を破って柳川城まで連れ帰り、また城を囲んだ加藤清正とも戦っているので、実際には夫の宗茂を守り抜くほど仲むつまじかったようです。しかし宗茂は改易となり、奥州棚倉に移されると離れ離れになります。それからは神社に願掛けをし、今か今かと帰りを待ちわびたそうです。その後田中家断絶により宗茂が棚倉より再び帰還しますが、その直前に、宗茂に再び会える事なく病で亡くなったそうです。
次は、最後に柳川の近くに行きたい場所があったのでちょっとよって帰ります。
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