かわいじょう

河合城

兵庫県小野市

別名 : 堀殿城、新部上月城
旧国名 : 播磨

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①城跡碑・案内板
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みんなの口コミ

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昌官忠

(東海&関西)遠征10日目:河合城 (2025/05/24 訪問)

小堀城から徒歩10分くらいで、石碑前(34.882527、134.923812)に着きました。

別名「掘殿城」とも呼ばれ、室町時代の播磨守護職であった赤松氏の東播磨の拠点として築城されています。
1441年(嘉吉元年)「嘉吉の乱」の時には、赤松満祐が将軍足利義教の首をもって入城したことでも知られています。

農道の交差点付近の水路脇に城跡碑・案内板があります。かつては周辺の堀井城や小堀城とこの水路でつながっていたそうです。
土塁も残っているようですがは私にはわかりませんでした。なお駐車場はありません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=小野陣屋を目指す為、河合西駅から電車で小野駅に向かいました。
河合西駅で電車の待ち時間があったので、雨でぬれた上下の服をトイレで着かえました。
待合室には女性の方がいらっしゃいましたので、トイレで着かえましたが、ここのトイレ結構立派でした。

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しんちゃん

おやまあですわ (2024/04/20 訪問)

赤い城さん、情報ありがとうございます。田村神社‥ユニークな神社だと思っていたら城址でもあったとは‥知らんかった
あたいもまだまだね!(誰?)
私もかつては城めぐりと合わせて、全国の名のある神社仏閣を周っていたのですが‥そ~んなにご利益は無かったので、今は城めぐりがメインです。また香川県に行った際には田村神社を訪れて日曜市うどんを頂きたいと思います(城跡は?)

河合城は室町時代に播磨守護職であった、赤松氏の東播磨の拠点として築かれたようです(案内の石版参照)。嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱の際には赤松満祐が将軍・足利義教の首を持って入城したとあります。主郭の周囲は宅地と畑地となっており、東西に曲輪が配され周囲を堀が巡っていたようです。かつての堀跡に沿うように側溝が元気にその姿をアピールしてくれています。

最近スマホのネット接続が非常に悪く、皆さんへの「いいね」が遅れがちになっています。そんなわけで遠出の際にはご容赦願います。

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赤松満祐 (2023/09/23 訪問)

 城域は東播磨でも屈指の規模を持った城で赤松氏が東播磨の拠点として築いた城です。遺構はほぼないと思われますが、水路脇に説明板があります。嘉吉の乱の時に、赤松満祐が殺害した将軍足利義教の首をもって立ち寄ったと伝わっています。周辺には堀井城や小堀城、金鑵城がありますが、それらの城の中で河合城が中核的な役割を果たしたとされています。堀井城、小堀城とは水路で繋がっていたようです。どのような状態であったのか、その時の風景を見てみたいですね。 

 河合城、堀井城、小堀城、金鑵城はどの城址もJR河合西駅から徒歩10~20分くらいで行くことができます。

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ぴーかる

河合城 (2020/10/25 訪問)

【河合城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>車

<感想>河合城は現地案内板に、赤松氏の東播磨の拠点として築城されています。嘉吉の乱の時には、赤松満祐が将軍足利義教の首をもって入城したことでも知られています。城域は東西約四百メートル、南北約三百メートルの大城郭でしたが、現在はほ場整備事業等により、その景観は失われています。
 かつては堀井城や小堀城と水路でつながっていたそうです。石碑案内板の奥にあるのが水路跡のようです。城跡は現在は畑や田圃・宅地のなかに埋もれてしまっていて、ぱっと見はよくわかりません。石碑案内板のある周辺は駐車スペースが全くないので、石碑案内板の前に一瞬だけ停車して4枚撮影しただけとなった。近くにある堀井城(城びと未登録)に大駐車場完備があるのでそこに駐車して散策するのがよいでしょう。

<満足度>◆◇◇

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 赤松氏
築城年 室町時代
主な城主 赤松氏
遺構 土塁
再建造物 説明板
住所 兵庫県小野市新部町字構