おがわじょう

小川城

群馬県利根郡


旧国名 : 上野

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西側空堀
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朝田 辰兵衛

長期運休中の,新潟~高崎 高速バスに復活メドが立たないので…🚌 (2024/02/23 訪問)

冬期間,上越新幹線はガーラ湯沢駅行きの便が増便されるため,上毛高原駅のインターバルによるストレスが解消されます。よって,このタイミングで,小川城に行っておこうと思いました。上毛高原駅に下車するのは初めてで,ワクワクしました。
小川城に関しては,本丸の南側斜面の崩落がとても気になりました。大地震がきたらグシャリです…。

バスに関しては,慢性的な運転手不足。長期運休中の,新潟~高崎 高速バスに復活メドが立たないばかりか,運転手の労働環境改善の取り組みが全国的にスタートし,土日祝の運行が大幅に減ります。新潟市内は最終便の繰り上げ程度で済みましたが,長野市内は善光寺口のバスターミナルで日曜日に1本も運行しなくなったと報じられていました。GW後半のスケジュール組み直しだ…<泣>。西東京バスと神奈中バスは大丈夫だろうか…?

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ぴーかる

小川城 (2023/11/25 訪問)

【小川城】
<駐車場他>城跡前歩道奥に3台分ほどあり。
<交通手段>車

<見所>空堀
<感想>2泊3日松本・佐久・吾妻の山城攻めの旅3日目ラストの13城目。現地説明板によると小川城は1492年に沼田荘田城主沼田景久が築城したとあります。景久は2男の景秋を住まわせ小川城初代城主となります。その後4代目が戦死して断絶しますが播磨の赤松則村の末裔と称する浪人が後家と婚姻して上杉謙信の後ろ盾を得て小川可遊齊と名乗ります。真田昌幸が名胡桃城進攻時には協力して戦います。武田氏滅亡後は可遊齊は越後に浪人し、門葉の北能登守が居城します。秀吉の北条攻めの前には北条氏の家臣が城代として入ります。江戸時代には上野沼田藩4代当主の真田信澄(信利)が三の丸陣屋に沼田城主になるまでの18年間過ごしたとされます。
 本丸と本丸周囲の堀が残っており、二の丸跡・三の丸跡は国道や畑に変わってしまっています。本丸部分は利根川の河川丘陵の断崖部分に造られ北と南側に深い大堀切を備えています。構造的には名胡桃城とよく似ています。二の丸跡と本丸跡を仕切る空堀は深く見応えがあります。本丸の東側土居やささ曲輪との曲輪壁には一部石積みが残っています。丸っこいので利根川河岸からの物と思われます。

 これにてこの旅終了、松本市にある行きたかった山城群に大満足、また小諸城・名胡桃城、この小川城のような河岸段丘に築造された、関西ではあまり見慣れない城跡に触れられてまた1つ勉強になりました。走行距離1200㎞無事走破。

<満足度>◆◆◇

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92

小川城 (2023/09/23 訪問)

小川城
旅の途中に立ち寄り

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しんしんちゃん

本丸の前の堀は見ててワクワクするほど深い (2023/04/30 訪問)

小川城は小川氏の城ですね。五代小川可遊斎は武田勝頼滅亡後
上杉を頼り落ちのび、城代は真田家家臣で小川家門葉の北能登守が居城したと有ります。
その後、豊臣秀吉の斡旋で沼田は北条のものとなり、城代が入りますが
北条は滅び城が真田に帰ってきます。北能登守は吾妻の奉行になり、
寛永15年(1638)真田伊賀守が小川城三の丸陣屋に住みついて
明暦3年(1657)沼田城五代城主真田信利となり、小川城は空き城になったとのことです。
城は国道291号線により東西に分かれ東に本丸があり、二の丸との境を
深い堀が渡っています。
二の丸の大部分は国道西側に残り、堀は消滅していますが標識が立てられています。
かつて真田伊賀守が住んでいた三の丸にも標識が建っているので把握はしやすいです。

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城郭情報

分類・構造 丘城
築城主 沼田景久
築城年 明応元年(1492)
主な城主 小川(沼田)氏、真田氏
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財 町史跡(小川城址)
再建造物 石碑、説明板
住所 群馬県利根郡みなかみ町月夜野1125(小川城跡公園)
問い合わせ先 みなかみ町役場
問い合わせ先電話番号 0278-62-2111