うえのはるやかた

上原館

大分県大分市

別名 : 大友館、西山城
旧国名 : 豊後

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20250921上原館(大分県大分市) (2025/09/21 訪問)

大友館から転戦。館敷地の大半は宅地化されているものの、天満社に城址碑・案内板があり、土塁の一部が残る

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トク

【大友宗麟】(1)上原館(二階崩れの変) (2025/12/18 訪問)

大友宗麟の生涯を追ってみました。その様子を13回くらいのまたマイペースで、これから投稿させて頂こうと思います。もし御興味あれば、またよろしくお願いします。

大友宗麟と言えば、戦にとても強い戦国大名だというイメージを持たれている方が多いと思います。しかし実は、本当は戦を好まず、平和な争いのないキリスト教の理想郷を追い求めた、そういう別の素顔も持っていた人物だという事は、意外と知られていないのではないでしょうか?

大友館から南へ1kmほどの、大分市街が見渡せる丘の一角に、ひっそりと残る石碑があります。ここにはかつて、大友家の別宅「上原館」(うえのはるやかた)がありました。実はこの場所で1550年に起きた「二階崩れの変」が、当時まだ20才だった大友義鎮(後の宗麟)にとって大きな心の傷となり、それが原因で彼はキリスト教に没頭するようになったのです。


【二階崩れの変】とは
大友義鎮には二人の弟がいました。次男は「晴英」(後に大内家へ養子に入り、陶晴賢に討たれた大内家最後の当主「大内義長」)、三男は「塩市丸」(後妻の子)でした。義鎮の母は幼い時に亡くなります。後妻として入った継母は、塩市丸とともにこの上原館に住み、父の第20代当主「大友義鑑」は、毎晩大友館から上原館に通っていたそうです。そしてだんだんと前妻の子である義鎮を嫌うようになり、塩市丸の方を溺愛し跡取りにしようと考えるようになりました。それにより家臣も義鎮派と塩市丸派の二つに割れてしまい、武力抗争にまで発展してしまいます。そこで重臣の戸次鑑連(後の立花道雪)の一派は、義鎮は関わらぬよう別府の浜脇館で湯治をするように勧め、その間の深夜に上原館を襲撃! 二階で寝ていた当主の義鑑と継母と塩市丸の三人を、何と惨殺してしまいまいました。これが「二階崩れの変」です。そしてその翌日には義鎮(後の宗麟)が、第21代当主の座に据えられたのでした。

次は、その義鎮(宗麟)が湯治をしていたという「浜脇館」(宗麟隠し湯)に行ってみたいと思います。
 

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朝田 辰兵衛

この子は完全バーターです。 (2023/07/08 訪問)

JR大分駅で1時間空けば,行って帰って来れます。南口から徒歩約20分。周囲は住宅街となっていますので,かなり近づかないとわからないかと思います。

にのまるさんへ。
「るの門」へ,人の流れに逆らって向かうという「変態プレイ」(←私が命名)を満喫されたようで,楽しい攻略レポートありがとうございました。他人まで誘(いざな)い,「をの門跡」を見せないという…<笑>。まさしく「悪魔の所業」…。
『チケットを買って,悪魔に心を売ったのだから,差し引きゼロだ。ぐわっはっはっはぁ~!』(←キングボンビー風に。デーモン閣下風とも言う。キングボンビーは,デーモン閣下がモチーフとなったという説アリ。当時はデーモン小暮)

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しんちゃん

高台に土塁を残す館跡。 (2023/01/09 訪問)

上原館は大友氏の居館跡で国の史跡になっています。
かつては大規模な空堀や土塁で囲まれていたそうです。
今でも幅約17m、鷹さ4mを越える土塁と堀跡の一部が残されているそうですが
ひょっとしてこの史跡公園のことなのでしょうか。
調べてみると石碑のある個所がそうらしいです。
かつての館の敷地は東西130m、南北156mあったらしいです。
守護の館だけあってスケールもでかいですね。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 大友氏泰
築城年 鎌倉時代後期
主な城主 大友氏
廃城年 慶長2年(1597)
遺構 土塁、横堀(空堀)
指定文化財 国史跡(大友氏遺跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 大分県大分市上野丘西
問い合わせ先 大分市文化財課
問い合わせ先電話番号 097-537-5639