川手城は革手城とも呼ばれ斉美高校の敷地内の道沿いの一角にひっそりと城址碑が立っています。最初はその存在になかなか気づかず、周囲を二周してようやく解りました。すでに不審者予備軍になりかけているので、すぐに退散です。
川手城は美濃守護となる土岐氏3代・頼康によって築かれて以後11代まで歴代守護職土岐氏の居城となったようです。近くには正法寺跡と守護代館である加納城があり、これらはセットになっているイメージです。
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2024/05/11 13:13
かつての守護館あと (2024/04/14 訪問)
川手城は革手城とも呼ばれ斉美高校の敷地内の道沿いの一角にひっそりと城址碑が立っています。最初はその存在になかなか気づかず、周囲を二周してようやく解りました。すでに不審者予備軍になりかけているので、すぐに退散です。
川手城は美濃守護となる土岐氏3代・頼康によって築かれて以後11代まで歴代守護職土岐氏の居城となったようです。近くには正法寺跡と守護代館である加納城があり、これらはセットになっているイメージです。
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2024/02/12 20:47
遺構なき城 (2023/12/31 訪問)
岐阜市内の蕎麦屋さんで少し早い年越しそばを食べてから城址へ。
守護土岐氏の居城。学校に隣接する一画に石碑、案内板があるのみで、遺構らしきものは確認できなかった。5分で撤収。
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2024/02/12 09:11
正法寺町と大仏町。 (2024/01/03 訪問)
「長森城」を後にし、「川手城」へ転戦しました。
美濃国守護の土岐氏も、「長森城」が手狭になった為に「川手城」を築城し移りました。
『正法寺町33』と「川手城」の所在地を入力した時は、御寺さんが城跡だと思いましたが、済美高校の敷地内に到着しました。
道路がアスファルトと違っていて石畳(?)。躊躇しましたが、他の車も通行していたので「川手城」の石碑がある小さな公園の前に路駐して写真をパチッ。退陣です。
近くに「加納城」があります。
徳川さんの世になると「川手城」の土塁を「加納城」に使ったんだとか。
遺構はありません。
住所の『正法寺』が気になり、どこにあるか調べてみたら、「岐阜城」のお膝元、大仏町にありました。
『正法寺』には大仏様がいらっしゃいます。で、大仏町かー。
土岐氏の足取りと同じように、大仏様の足取りも気になる「川手城」攻めでした。
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2023/11/29 11:22
西美濃未踏の城廻Ⅴ土岐源氏の居城 (2023/10/21 訪問)
鷺山城主館址を終えて、稲葉山に聳える岐阜城天守を望み、岐阜駅繁華街を通り、加納城を横目に済美高校内に在る川手城に初登城。
駐車場:無し、川手城跡の在る校内道路の南側の西に学校関係者駐車場が有り邪魔に成らない範囲で路駐。一時停止。
参考資料:古城盛衰記さん、グーグルマップ、現地案内板「手城の由来」による。
川手城は革手城とも称し、現在は済美高等学校の校内に遺跡が石碑、案内板、神明神社、遊具と共に土壇上に遺っている。現在地は案内板によると川手城城域のほぼ北隅の地と推定されると記されてる。
高校の校内に在り見学できるとは大変ありがたい事です。
土岐氏は清和源氏の一族で美濃を中心に栄えた、3代美濃国守護職土岐頼康の時代に美濃国・尾張国・伊勢国守護職に成ったおり、手狭になった長森城(川手城より約3km東)から文和2年(1353年)川手城を築き、以降11代土岐頼芸まで居城し頼芸は斎藤道三に美濃を追われた。
道三の時代には革手の町屋は庇護され、信長の時代町屋は岐阜に移り、江戸期には加納城が築城されて残って居た土塁等も使われて遺構は消滅した。(革手城の由来抜粋)
西美濃未踏の城廻の残りが4~5城有りましたが暗くなり車中泊でもと思っていたのですが荒れて気温が下がる予報で5℃までの寝袋では心もとなく日帰りとし後日挑戦とした。
帰りは少し暗くなっても大丈夫な隣300m程の加納城を門限前までにと10年振り2度目の立寄り探訪しました。
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分類・構造 | 平城 |
---|---|
築城主 | 土岐頼康 |
築城年 | 正平8年〔南朝〕/文和2年〔北朝〕(1353) |
主な城主 | 土岐頼康 |
廃城年 | 享禄3年(1530) |
遺構 | 消滅 |
再建造物 | 石碑、説明板 |
住所 | 岐阜県岐阜市正法寺町33(地図は石碑の場所を示す) |