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しんちゃん

島津義弘陣跡 強いだけでなく薩摩最高のカリスマ性を持った武将 (2020/01/03 訪問)

島津義弘陣跡 佐賀県唐津市名護屋井樋田(薩摩陣・薩摩山)
島津義弘陣跡は波戸地区の海に突き出した丘陵上に築かれています。陣所の中ではかなり広大で
一つの城と言っても差し支えないほどの容積と規模を持っています。主郭周辺にもいくつも
曲輪があるようで海に向かって延々と石塁が続いており島津氏の本気が伝わってきます。やはり
この人たちは本当に戦が好きなのではないでしょうか? 文禄・慶長の役では義弘氏1万、息子
久保1千と合わせて11000の軍勢で名護屋に参陣しています。薩摩から船が到着せず壱岐には
借り船で渡るなど苦労はしたようですが大陸ではサチョンの戦いで明・朝鮮の大軍を破るなど
大暴れをしています。息子の久保や家臣の多くを失うなど代償は大きかったようですが義弘氏
自身は高いカリスマ性を持った名君として多くの人々から慕われていたようです。

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しんちゃん

海上に 佇む天守の 美しさ (2020/01/03 訪問)

唐津城は唐津湾に面する満島山に築かれています。江戸時代以前から城塞は有ったようですが
不明な点が多く慶長7年~13年(1602~1608)にかけて寺沢氏によって本格的な城郭となり、
九州の大名たちの協力があったようです。満島山の山頂部一帯が本丸で西側の早稲田佐賀中高
周辺が二の丸で唐津市役所周辺が三の丸になるようです。本来天守は築かれていなかったの
ですが昭和41年5層5階の模擬天守が築かれました。駐車場から南の城内橋を渡っていくと
宝当桟橋があり宝当神社に向かう船が留っています。宝当神社に向かう船には時間の制限が
あるので訪問は余裕をもって行かれると良いと思います。

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しんちゃん

田島神社 太閤祈念石  佐賀県唐津市呼子町加部島3965 (2020/01/03 訪問)

田島神社は佐賀県唐津市の加部島にある神社で、かつての国弊中社です。呼子大橋を渡って
車で行くことが出来ます。大陸への航海上の要所であり主な祭神は宗像三女神とされています。
境内には太閤ゆかりの太閤祈念石があります。柳生一刀石のようなものですね。参道の下に
立っている鳥居は源頼光が寄進したと伝わり、源頼鳥居と呼ばれています。

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しんちゃん

黒田長政陣跡  佐賀県唐津市 (2020/01/03 訪問)

黒田長政陣跡 佐賀県唐津市呼子町殿ノ浦字ミツシリ
黒田長政陣跡は名護屋大橋を東に渡った国道204号線の南側の丘陵に築かれていました。案内板によると、三つの曲輪からなり、北側の大きな曲輪が主郭で、南西と南東にも曲輪があり石塁が一部残っています。黒田長政は文禄・慶長の役では黒田官衛が縄張りした名護屋城の普請奉行を担当し、5000騎を従え朝鮮に渡り平譲(ピョンヤン)城攻めやチンジュ城攻めの戦闘に参加したとのことです。機張(キジャン)城を築城し蔚山(ウルサン)城の戦いでは加藤清正や浅野幸長の救援に活躍したとされています。

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カズサン

平沢城は平沢コミュニティセンター (2023/09/18 訪問)

 宮沢遺跡と東北道沿い未踏の城探訪、多賀城の復元南門を両翼版築塀工事中でしたが見学周辺探訪の後、未踏の平沢城へ、東北道田村ICからは3、4km程の近さ、ぎりょうさん刑部さん投稿で車で主郭まで行けるとの事で選択し初探訪しました。

 駐車場:平沢コミュニティセンター駐車は十分な余裕です。
 参考資料:古城盛衰記さん、余湖図コレクションさん、グーグルマップ、城びと

 田村ICから黄金色の田園を通り平沢地区へ、周り角の平沢小学校の北東角の高石垣が要害を訪仏させて登城ワクワク、狭い集落の道を抜けて、ナビ目的地平沢コミュニティセンターへ到着。
 当日は月曜日でコミュニティセンターは閉まって居ました、開いていれば資料、トイレの活用と思っていましたが儘ならず。
 平沢コミュニティセンターは本丸、一段下がって二の丸かな?コミュニティセンターの隣に真新しい平沢要害跡の解説板、小高い所に「勝岡城跡碑」が立っている。平沢城には別称が有り、平沢要害、勝岡城、平沢館、寝牛館、臥牛館とも言われてる。仙台藩伊達家支配の藩政時は平沢要害としてこの地区支配の要でした。
 主郭の西側には広いグラウンドが有り城域は開発されているのでしょうが、主郭の切岸、開発されてグラウンドの名残切岸、城塁、堀の名残が見受けれます。
 内屋敷などの名前も残り一部グラウンド、児童遊戯に成っており、主郭周辺は桜の木が植えられて春には見事な景観と成るでしょう。
 歴史、概要は平沢要害跡解説板を写真掲載しますのでよろしければ見てください。
 人もいなく静かな初登城探訪でした。
 

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todo94

【城びと未登録】黒木御所(島根県隠岐郡西ノ島町) (2023/10/07 訪問)

大学2年の夏休み、研究室の山陰旅行以来、41年ぶりに西ノ島に行ってきました。黒木御所もその時以来です。公方様の御所ならば城びと登録物件になりますが、皇族の流罪の地ではそうはいきませんね。でも、黒木御所跡は土塁で囲まれていて城としての趣に満ちています。皮をむかない黒い木で作られた粗末な御所だったから黒木の名がついたこと、御所の前には幕府の見張り番所・見付島があるため別の浜から後醍醐天皇は脱出したとのこと、途中休みを取って腰かけた石が残っていることなど、碧風館にて教えていただきました。大学時代に見ることができなかった摩天崖も見てくることができました。

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にのまる

移築の歴史 (2023/09/20 訪問)

8年ぶりの明石城は城外東のエリアからスタートしました。
はじめに明石城の移築門があるという月照寺へ。
“明石といえば日本標準時”、の明石市立天文科学館のすぐ近くです。
坂道をあがると重厚感のある山門が出迎えてくれました。明石城の切手門を移築したそうですが、元々は元和4年に小笠原忠政が徳川秀忠から拝領した伏見城薬医門だったとのこと。明石城は、坤櫓も伏見城からの移築と伝わっています。各地で生き続けている伏見城、すごいです。
近くの伝・宮本武蔵作庭の本松寺や300年以上湧き続ける亀の水にも寄ってみました。

続いて明石神社に展示されている太鼓を見に行きました。明石城太鼓門(現在の明石公園正面入口)に置かれていた太鼓(とき打ち太鼓)です。外からガラス越しに見られるようにしてくださっていてありがたかったです。

城内へは東の丸入口から入りました。左手に箱堀、右手に薬研堀の登城口です。食違いの石垣に東の丸跡へ誘われ、どっちに行こうか迷いましたが、一旦南へ下りて、二の丸の石垣沿い、松平直明公遺愛お茶の水碑のある細い道を巽櫓へ直進しました。二つの櫓をほぼ真横から見る感じがよかったです。
メインの石段と合流して本丸へ。現存三重櫓二基をじっくり味わいました。駅から見える姿も好きですが、近くで見ても立派でかっこいいです。天守台からちょっとだけ見下ろしたアングルがよかったです。

艮櫓と乾櫓はイメージ再建し、桜堀の方へ下りてみました。石垣で堅められてはいますが、お城の堀というよりのどかな公園の池といった雰囲気です。しかし、水面に映る石垣と幻想的な空気感はやっぱりお城の堀でした。

巽櫓と坤櫓のツーショットも素敵だけれど、天守台と坤櫓の並んだ姿もいいものだなぁなど思いながら広場に下りて、公園管理事務所で三重櫓シリーズの城カードを購入し、太鼓門から退出しました。

最後に大通りをはさんだ駅側の「織田家長屋門」へ。
船上城からの移築と伝わるとあり、びっくりでした。
というのも、今回の城旅、1カ所くらい新規ポチしたくて、がんばれば行けそうな船上城を狙っていたのですが、時間切れで行けなかったのです。
最後の最後で船上城と縁のある長屋門にも巡り合えて、よき城旅でした。

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しんちゃん

真田昌幸陣跡 生駒親正陣跡  佐賀県唐津市 (2020/01/03 訪問)

真田昌幸陣跡  佐賀県唐津市鎮西町名護屋字永田
真田昌幸陣跡は名古屋城の北西に築かれています。九鬼嘉隆の陣の東200mあたりに位置し、石垣が残っているようです。(確認していません)真田親子で700人ほどを率いており扁平地は墓地となっており、「サエモンサマ」と呼ばれる石碑(墓)が残っており真田信繁(幸村)の墓と伝えられています。
生駒親正陣跡 佐賀県唐津市鎮西町波戸字田中
生駒親正陣跡は玄界国定公園の中の丘陵に築かれていて標高は35.3m、主郭の広さは約60×80mで虎口や石塁を残します。文禄・慶長の役では5000騎を率いて参陣しています。

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ぴーかる

勝山城 (2023/08/19 訪問)

【勝山城】
<駐車場他>勝山市役所駐車場
<交通手段>車

<感想>越前ちょこ城巡りの旅ラストの11城目。勝山城は1580年に柴田勝家の甥(のち養子)の柴田勝安によって築城されます。江戸時代には結城秀康の子らが入封されますが、移封されると廃城になり勝山藩は天領となり陣屋が置かれます。1691年に小笠原氏が2万2千石で入封し築城許可が出て再び築城を開始します。小笠原氏は明治維新まで続き維新後に建造物は取り壊しや払い下げられました。勝山城の位置は現在の勝山市役所の辺りで昭和40年頃まで天守台と石垣が残っていたようで、市民会館建設に伴いその時取り壊されたそうです。
 先に城跡の位置・形状も全く異なる模擬天守のある勝山城博物館に行って御城印購入、入館しようかと思ったら入館料1000円の高さ(重文でもないのに)に驚き止めました。しかし模擬天守の巨大さには驚かされ、お金かかっているなあと感じます。一応一見してもよいかと。
 次に勝山市役所に城跡碑を撮影しに行ったら、なんと満車!?市民会館で荻野目洋子さんのコンサートを開催していたそうで、駐車もできず道路脇に停車しダッシュで撮影して終了しました。帰路は頭の中でダンシングヒーローがグルグル回っていました( ;∀;)。

 これにて今回の旅終了、各御城印の購入(open時間帯)に合わせてちょこ城を北から南下していくルートで巡り、小丸城で終了予定でしたが時間が相当余ったので急遽、伊自良氏館と勝山城を入れ込みました。蓮如の城郭寺院始まりの地である吉崎御坊や府中三人衆という単語も初めて知ったので新鮮でした。631㎞無事走破。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

上杉景勝陣跡 織田秀信陣跡  佐賀県唐津市 (2020/01/03 訪問)

上杉景勝陣跡 佐賀県唐津市鎮西町名護屋字永田
上杉景勝陣跡は丘陵上に築かれ、いくつかの曲輪を配し、今でも石垣が残っています。主郭は約110×50mほどの広さでヤブ化が進んでいますが見学が可能です。五大老の一人として5000騎を率いて文禄・慶長の役に参陣しています。
織田秀信陣跡 佐賀県唐津市鎮西町名護屋
織田秀信陣跡は上杉景勝陣跡の南200mほどの小丘に築かれています。特に遺構は見当たりませんが扁平地が広がります。織田秀信は織田信忠の嫡子にあたり幼名は三法師です。岐阜13万石、岐阜城城主となり正式に織田家を継ぎ、秀信の名代として家臣の百々綱家が朝鮮に渡り美濃衆らを率いて晋州城攻防戦に当たったとのことです。

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朝田 辰兵衛

安居城(富山県南砺市) (2023/10/08 訪問)

【やすい じょう】ちょうど1年前に,福井県の安居(あご)城を登城しました。福井と富山のW安居城で,「しりとり」では赤穂城アプローチ手札。ようやく攻城することができました…。提案はにのまるさんで,攻城は雨の中をtodo94さんが…。ほぼ命がけだったように思えました。あらためて感謝申し上げます(富山弁では感謝の言葉を「きのどくな」と言います)。
JR福野駅から,約4km。平日だと,1日2往復しかないバスに片道をまかせることも可能。その際,安居南口バス停が有効です。
todo94さんは,パネルのワキから攻城されたのでしょうか…?
私は,JR福野駅から往復徒歩で攻めました。登城口はパネルから約100m先あたりに登れそうなところを見つけたので,そこから攻めました。粘土質の土壌がところどころむき出しになっており,とくに下山時には注意かな…と思いました。が,約15分くらいで城域に入りました。
とにかくヤブで,写真を撮ってもさっぱりわからないくらいです。おそらく主郭単郭と思われます。切岸と堀切はかろうじてわかるものと期待します。

時系列では飛んでおりますが,久々の「しりとり攻城」ということで速報いたします。

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しんちゃん

伊達政宗陣跡 九鬼嘉隆陣跡   佐賀県唐津市  (2020/10/03 訪問)

伊達政宗陣跡 佐賀県唐津市呼子町殿ノ浦
 伊達政宗陣跡は文禄の役の際に築かれ国道204号線沿いの北側に築かれ土塁が残っています。
 石垣も見受けられますが後世の遺構かどうかは不明です。
九鬼嘉隆陣跡 佐賀県唐津市鎮西町名護屋
 九鬼嘉隆陣跡は波戸岬地区の標高33.4mの丘陵上に築かれ曲輪や切岸が残ります。文禄・慶長の役
 では水軍の中心として15000人で参陣したと案内板に書かれています。大安宅舟「日本丸」以下50船
 あまりの船団で朝鮮に渡海し、安骨浦(アンコルポ)海鮮や熊川(ウンチョン)沖で李舜臣の水軍と
 戦ったとあります。嘉隆は慶長2年(1597)家督を守孝に譲り慶長の役には参陣しなかった
 とのことです。

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じゅんじん

お犬様登場 (2023/09/23 訪問)

城址碑の前に飼い犬がいますが人懐こかった。

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じゅんじん

甲府城 (2023/09/23 訪問)

城門や櫓が復元されています。信玄公や信虎公もごあいさつ。

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AJ

有事の門 (2023/10/05 訪問)

箕輪や館林、大多喜などに徳川四天王が配されたという事実は今日関東で暮らしている人たちにとっても、さほど強く印象付けられてはいないかもしれません。一方、城持ちにはなれなかったにもかかわらず、数百年経ってなお、東京のど真ん中でその名を轟かす御仁がいます。

写真は江戸城・半蔵門。定説によれば、服部家当主の世襲名を冠しています。そして有事の際、将軍はここから甲府城へ避難する段取りだったといいます。そう考えると、甲州道中の真の起点は日本橋ではなく、この江戸城西門ということになるでしょうか。

もちろん、そもそも五街道の旅の初日を日本橋で迎えようとしたのはよほどの物好きだけだったらしく、多くの人は品川、内藤新宿、千住あたりで盛大に飲み明かしてから送り送られしたとの指摘もあるでしょう。

甲州道中の防衛体制はトップシークレット。参勤交代での使用も譜代三藩に限るという徹底ぶりだったそうです。さらに、現在の東京都新宿区周辺の旧道中沿いには甲賀、伊賀、根来などの鉄砲精鋭部隊が配置されました。

このうちJR新大久保駅を含む「百人町」は伊賀百人組の屋敷があったことに由来。甲府城を目指す将軍は彼ら“特殊部隊”の護衛で西へ向かう計画だったわけですね。

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トベシュン

近江城巡り (2023/09/30 訪問)

近江城巡り 小谷城址、彦根城、安土城址、観音寺城址、長浜城址、佐和山城址、龍胆寺を巡りました。

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トベシュン

近江城巡り (2023/09/30 訪問)

近江城巡り 小谷城址、彦根城、安土城址、観音寺城址、長浜城址、佐和山城址、龍胆寺を巡りました。

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トベシュン

近江城巡り (2023/09/29 訪問)

近江城巡り 小谷城址、彦根城、安土城址、観音寺城址、長浜城址、佐和山城址、龍胆寺を巡りました。

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トベシュン

近江城巡り (2023/09/29 訪問)

近江城巡り 小谷城址、彦根城、安土城址、観音寺城址、長浜城址、佐和山城址、龍胆寺を巡りました。

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トベシュン

近江城巡り (2023/09/28 訪問)

近江城巡り 小谷城址、彦根城、安土城址、観音寺城址、長浜城址、佐和山城址、龍胆寺を巡りました。

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