土屋惣蔵片手切跡‥ 山梨県甲州市大和町田野
土屋惣蔵昌恒は武田二十四将・土屋昌続の実弟で長篠の合戦で養父と兄が討死したため土屋家の家督を継いでいました。昌恒は落ちゆく武田勝頼に最後まで従い、勝頼らが自害する時間を稼ぐため、崖道で藤蔓を掴んで片手で追手を斬り続け「片手千人切り」の伝説を残しました。
四郎作古戦場‥ 山梨県甲州市大和町初鹿野
かつて勝頼の勘気を受け蟄居(幽閉)の身となっていた小宮山内膳友晴は土屋惣蔵の仲介で勝頼一行に加わり、四郎作の地に陣を構え、討死を果たしたとされています。四郎作古戦場の石碑は鳥居畑古戦場の石碑より西側に100mちょっと進んだ場所にあり、最期の戦いでも最前線にいたことが伺えます。
有馬晴信蟄居の跡‥ 山梨県甲州市大和町初鹿野1924
四郎作古戦場の石碑よりさらに西に数百m進んだ国道20号線沿いに有馬晴信蟄居の跡の案内板が立てられています。晴信は日野江藩の初代藩主であり日本初のキリシタン大名の大村純忠の甥にあたります。晴信も敬虔なキリシタンだったとされています。
晴信はマカオでのトラブルから発展したノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件で長崎奉行の長谷川藤広と確執を持つことになります。なおかつ本多正純の家臣・岡本大八に旧領回復のためと大金をだまし取られた上に、獄中の大八から晴信は長崎奉行である藤広に害意が有るとチクられてしまったために、当地に流され、後に切腹が申し付けられます。
晴信はキリシタンだったため、自害を拒み、家臣に自らを斬首させたとされています。また当地は晴信の最期の地でもあるようです。
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