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しんちゃん

土屋惣蔵片手切り・四郎作古戦場 /有馬晴信蟄居の跡 (2017/12/17 訪問)

土屋惣蔵片手切跡‥ 山梨県甲州市大和町田野
土屋惣蔵昌恒は武田二十四将・土屋昌続の実弟で長篠の合戦で養父と兄が討死したため土屋家の家督を継いでいました。昌恒は落ちゆく武田勝頼に最後まで従い、勝頼らが自害する時間を稼ぐため、崖道で藤蔓を掴んで片手で追手を斬り続け「片手千人切り」の伝説を残しました。
四郎作古戦場‥ 山梨県甲州市大和町初鹿野
かつて勝頼の勘気を受け蟄居(幽閉)の身となっていた小宮山内膳友晴は土屋惣蔵の仲介で勝頼一行に加わり、四郎作の地に陣を構え、討死を果たしたとされています。四郎作古戦場の石碑は鳥居畑古戦場の石碑より西側に100mちょっと進んだ場所にあり、最期の戦いでも最前線にいたことが伺えます。

有馬晴信蟄居の跡‥ 山梨県甲州市大和町初鹿野1924
四郎作古戦場の石碑よりさらに西に数百m進んだ国道20号線沿いに有馬晴信蟄居の跡の案内板が立てられています。晴信は日野江藩の初代藩主であり日本初のキリシタン大名の大村純忠の甥にあたります。晴信も敬虔なキリシタンだったとされています。
晴信はマカオでのトラブルから発展したノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件で長崎奉行の長谷川藤広と確執を持つことになります。なおかつ本多正純の家臣・岡本大八に旧領回復のためと大金をだまし取られた上に、獄中の大八から晴信は長崎奉行である藤広に害意が有るとチクられてしまったために、当地に流され、後に切腹が申し付けられます。
晴信はキリシタンだったため、自害を拒み、家臣に自らを斬首させたとされています。また当地は晴信の最期の地でもあるようです。

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キンヤ

石垣で見所が多く、模擬天守が立派な城 (2024/05/06 訪問)

佐々成政の城ということで、さらさら越えも有名で、行きたかった富山城に初めて行きました。

天文12年(1543)に神保長職が築城し、天正10年(1582)に佐々成政、慶長10年(1605)に前田利長が城主となり、明治に至るまで富山前田家の居城となりました。 

成政は羽柴秀吉軍の討伐を受け中世富山城は破却され、現在見られる近世富山城は前田利長が改修・整備したとされます。
残念ながら成政時代の遺構は見られませんが、発掘調査で中世の富山城の堀跡などが見付かり、模擬天守内の富山市郷土博物館に出土した戦国期の茶臼やかわらけなどが展示されてました。

本丸・西之丸があった所は富山城址公園として整備されており、模擬天守(富山市郷土博物館)が建てられています。鉄門枡形・多聞櫓の石垣の上に附櫓と小天守が附属し建ってますが、結構しっくり来て綺麗で、国の登録有形文化財にもなっています。

1番の見所は、本丸の鉄門枡形・多聞櫓の石垣で見応えがあります。富山城の石垣の多くは野面積みですが、鉄門枡形内では布積みが見られ、鏡石が6つと多くあり珍しいです。刻印を探すといくつか見付かり楽しいです。西側の石垣は概ね当時の姿のようですが、東側の石垣は模擬天守工事の際に積み直しがされているようです。

本丸の搦手門周辺にも石垣がありますが、多くは明治時代以降に積み直しがされているようです。石垣の上には天守風の佐藤記念美術館が建てられています。

搦手門の南側には唯一の現存建物の千歳御門が移設されています。

思っていた以上に石垣で見所が多く、模擬天守はなかなか立派で楽しめました。

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しんちゃん

ちょこ城にも五分の魂 (2024/03/09 訪問)

小田井城です。ちょこ城ですね。尾張の石碑ばっかりの城をまわっていると、お墓参りをしているような気になってきます。あたたた‥
最近、ますますヒザが弱って来ているんで、ちょっと山城はきついですねー。とか言いながら元気になったら、また行きたいです。
個人的には比高が低くて、遺構がいっぱいある山城が好きです!(正直すぎ)

小田井城です。(また言った)現状・公園で石碑ぐらいしか見る物はありません。遊んでいる子供なんか写ったらアウトです。織田大和守家の織田敏定の築城で清須城の支城とされています。敏定の弟・織田常寛が城主となると織田藤左衛門家の代々の居城になったようです。ちょこ城ですが歴史は深いです。城郭大系にも記載がありました。
ちょこ城にも五分の魂。

現状おつかれモードで、ぴーかるさんのリクエストにはなかなか答えられそうもないです(しばしのご猶予を‥)。体調が戻ったら、また山城にトライしたいですね。実は結構行っているんですよ。八王子城の詰めの城はマジお勧めです。城びとの投稿を見ると、にのまるさんが訪問されてますね。

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ぴーかる

佐味城お礼と追記

 しんしんちゃんさん、佐味城登城祝辞ありがとうございます。貴殿をはじめ皆様のおかげで登城することができました。また難関がありましたら頼りますんでよろしくお願い致します。
 追記で、駐車で利用させて頂いた高鴨神社の本殿は室町時代の再建で重要文化財に指定されていて、ものすごく趣のある神社ですので、併せて見学されても良いかと思います。また室町時代の再建ということで、少し低地にある神社と高地にある佐味城(城郭寺院か寺院跡地かの説のある城跡)の相関関係も考察する楽しさがあります。

 直近の投稿記録で、しんしんちゃんさんがちょこ城について述べられていました。私も4/13を最後に今シーズンの山終いをしまして(最終日は虫がすごくたかってきて大変な目に。)先週からちょこ城巡りをしています。移築城門や歴史資料館を見たりしながら夏場のルーティンをしております。確かにちょこ城は登城数を稼げますよネ。(≧▽≦)

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しんちゃん

近世城郭としての遺構が残る。 (2019/08/12 訪問)

相馬中村城は中村藩6万石の政庁ですが、起源は平安時代初期に坂上田村麻呂が築いたものとされています。南北朝時代には中村氏がこの地に築いた中村館を中心に勢力を振るい、戦国時代には相馬氏が変わってこの地を支配しました。慶長16年(1611)に相馬利胤は本城を小高城から中村城に移転し近世城郭としての改修がなされたようです。
戦国期から抗争があった伊達氏に備えるため、北側の守りが特に堅くなっており、かつて北側の堀の役目をしていた蓮池は今も健在で、かつてはその北側に北三の丸と岩崎塁が配され、出丸の役割を果たしていたようです。本丸南側の切岸は険しく、石垣も一部残っています。本丸には相馬神社が祭られ土塁も一部残っています。東二の丸と本丸の間には深い堀が有り、赤い橋が架けられています。
西二の丸の南側の高地には相馬中村神社が祭られ、信仰の場所としての荘厳な雰囲気を漂わせています。相馬中村神社の祭神は天之御中主大御神で造化三神の一柱とされ妙見様と呼ばれることもあります。本丸に鎮座する相馬神社は相馬氏の始祖・師常公を祭っています。

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トベシュン

甲府城・武田氏館・諏訪高島城三城巡り (2024/05/09 訪問)

甲府城・武田氏館・諏訪高島城三城巡りしました。

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トベシュン

甲府城・武田氏館・諏訪高島城三城巡り (2024/05/08 訪問)

甲府城・武田氏館・諏訪高島城三城巡りしました。

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トベシュン

甲府城・武田氏館・諏訪高島城三城巡り (2024/05/08 訪問)

甲府城・武田氏館・諏訪高島城三城巡りしました。

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姫街道

社山を歩きながら考える事 (2024/05/11 訪問)

二俣城を巡る武田対徳川の戦いで、元亀3年には武田信玄が、天正3年には徳川家康が陣城としてそれぞれが築造した縄張りを想像しながら巡るのがおススメ。
個人的には、長篠の戦いに勝利した徳川軍が二俣城攻め時に築造した部分が多いのかなぁと思ってます。
以前に比べたら、伐採や整備が進んで見やすくなってきてます!

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まさお

山口 萩城 (2013/05/02 訪問)

11年前に中国地方を旅行で訪れた時の萩城
付近の写真です。

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まさお

震災前の熊本城 (2011/09/29 訪問)

熊本震災前に九州旅行で訪問した時の熊本城の写真
見つけたのでアップします。
2027年には復活する予定との事。
また行きます。

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イオ

小さな良城 (2024/03/09 訪問)

多くの山城が点在する中村川沿いの丘陵地に位置する城で、鎌倉期に三浦氏が築いたと伝わり、戦国期には大多和氏を称して北畠氏に仕え、織田信長の伊勢攻めにも籠城して耐え抜きましたが、和睦後に北畠具教が謀殺されると大多和氏は帰農し、八田城も廃城となったと思われます。

カズサンさんに倣って登城口前に駐めさせてもらい登城開始。防獣柵の扉を開閉して城内に入ると、右側に城跡碑と説明板が、左側奥に丸太を組んだ「砦門」があります。砦門の並びの東屋にはテーブルと椅子が設置され、東屋の隣の小屋は物置とトイレになっているようです。

登城道を進むと道は切通状となって東曲輪の麓を北側から半周し、その間、逃げ場のないまま東曲輪から横矢を受け続けることになります。東曲輪の南側に回り込んだところに裏登城道への分岐があり、そちらに下りて行くと井戸跡と北東方向に下る竪堀がありました。この竪堀が裏登城道にあたるようです。

分岐に戻って主郭に向かう前に、まず東曲輪から。東曲輪は周囲を高さはないものの厚みのある土塁で囲み、灌木越しながら切岸の下には先ほど登ってきた登城道が見渡せます。そして主郭へ。東虎口は枡形状に設けた土塁によって動線を屈曲させています。主郭は北東辺を除いて分厚く高い土塁で囲まれ、南東隅の南虎口脇のひときわ高い部分は櫓台と思われます。北西隅の土塁上には丸太組みの櫓が建てられていますが、老朽化しておりトラロープが張られていて登れませんでした。櫓の脇から土塁を北に下りたところが北曲輪で、西辺に土塁が続いています。土塁の西下には帯曲輪が設けられていました。

主郭に戻って南虎口を出たところには堀切があり、丸太組みの橋が架けられています。こちらもトラロープが張られているので渡るのは控えて、堀底まで下りて堀切を越えるとなだらかな自然地形の尾根が東にのびていて、尾根の南西側を堀切で遮断していました。尾根の東側にも浅い堀切が見られ、出曲輪的な位置付けだったのかもしれません。

30分あまりでひとめぐりできる小さな城ながら遺構はなかなか見応えがあり、砦門も櫓も橋も老朽化してはいるものの、城内はよく整備されていて地元から大切にされていることが感じられる良い城でした。
 

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todo94

金谷城特別公開前日の城めぐり③ (2024/04/13 訪問)

座間城からの転戦で献血前の攻城です。とある煩悩の登城目録さんに倣って海老名氏記念碑、有鹿神社、海老名氏霊堂とまわってみました。その後、予定通りに海老名献血ルームにて献血を済ませ、昼食には昔ながらのオムライスをいただき、ロマンスカーミュージアムにも立ち寄ってから、海老名を後にしました。

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赤い城

大きな病院が建っている (2024/05/02 訪問)

別府から高千穂を経由し宮崎入り(この日は城なし)。
目的はチキン南蛮と地鶏の炭火焼です。
おぐらさんのチキン南蛮で満腹になった後の鶏でしたがやっぱり美味しい!が、もう動けない。

で、恒例の翌朝相方睡眠中の朝駆け城めぐりです。
近場を探し、曽井城に行ってみました。
todo94さんのレポートにあるように城趾には大きな病院が建っています。
早朝だったので駐車場まで登ってみました。

敷地内には縄張図のついた説明板が設置されていました。
南北朝時代からの城で伊東氏の居城です。
隣を流れる古城川に沿った丘陵上に築かれています。

大きな城だったようですが遺構はほとんど見ることは出来ません。
かろうじて曽井公民館の裏手にある登城路の一部が確認できたくらい。
発掘調査では堀跡も見つかったそうです。


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鎌倉たっちさん

大坂城乾櫓公開 (2024/05/02 訪問)

大坂城の乾櫓内部が9年ぶりに公開された。L字型の重箱櫓で珍しい形をしているが、壁や石落としなどの造りは千貫櫓と共通する部分が多い。梁や柱の木材は修復されて新しいものが多いように思ったが、床板の手斧痕は千貫櫓よりもくっきりしている。

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しんちゃん

甘草屋敷 お江戸の将軍様の薬草担当 (2017/12/17 訪問)

旧高野家住宅は、徳川吉宗公の時代に薬用植物の甘草(カンゾウ)を栽培して幕府に収めており、「甘草屋敷」とも呼ばれています。今でも当時の建物が残り、9棟の建物が重要文化財に指定されています。幕府のお墨付きだけあって切妻造りの屋根の中央には二段の突き上げ屋根が設けられており、見た目も実に立派です。310円の入館料でひとしきり見学することが出来、コスパもかなり良いと思います。
甘草の根や根茎に含まれるグリチルリチンは普通の砂糖(スクロース)の150倍の甘みを持つと言われています。甘味料として欧米では多くの食材に使用されていますが、副作用の懸念が有るので国内では一日の摂取量を200~300mgまでとしています。
生薬としての効果は緩和作用、止渇作用があるとされ、喉の痛みや咳を和らげる効果があるようです。

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じゅんじん

2回目 (2024/03/29 訪問)

天白城や横尾城、砥石城など見えます。

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しんちゃん

武田氏終焉の地 甲州市田野 (2017/12/16 訪問)

甲州市田野は武田氏終戦の地でなんだか物悲しい場所が各地にあります。先に投稿させていただいた景徳院には武田勝頼一家の墓所があり、南に流れる小川沿いに勝頼、信勝父子の首を洗ったとされる首洗い池の跡地があります。その近くには北条夫人の侍女16人が川に身を投げたという姫ヶ淵があり慰霊碑が建っています。今の日川の流量は発電用水として取水されているためかなり減少しており、かつてはもっと水量が多かったようです。
そこから西へさほど離れていない場所に最後の戦いの場所となった鳥居畑古戦場の石碑が建っています。攻め手の織田方 滝川一益・
河尻鎮吉らの軍勢4000に対して勝頼方は100名にも満たず(50名とも)駒場口から押し寄せる敵を秋山紀伊守光継、阿部加賀守、小宮山内膳友信、土屋昌恒らはよく防ぎますが衆寡敵せず、勝頼父子をはじめとして生き残った者はいないようです。
景徳院の境内には元服を済ませていなかった十六歳の信勝のために武田家に伝承される「小桜韋威鎧(楯無の鎧)」を着せて元服の儀を執り行ったとされる伝承が残っており、そのさいに「御旗」を立てたとされる場所が残っています。

「御旗」「楯無」は代々武田氏に伝わる家宝で、武田家の当主が「御旗・楯無も照覧あれ」と誓約を交わすと、その言葉は絶対のものとなり、長篠の合戦の際にも、諸将が撤退を申し出るも、勝頼が誓約を立てたため誰も異論を挟めなくなってしまったそうです。
まさに「御旗」「楯無」は武田氏の栄枯盛衰を最期まで見届けたと言えると思います。

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じゅんじん

2回目 (2024/03/29 訪問)

歴史館にもいけました。

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じゅんじん

小牧山 (2024/03/28 訪問)

堀や土塁の復元が進んでいます。

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