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にのまる

つづき (2023/06/23 訪問)

東大通りを渡って三の丸に向かおうとしたら目に飛び込んできた石垣修理現場。
前回訪れた時も修理中、前々回訪れた時は発掘調査中でしたが、今回は通行止めでした。完成までに40年を費やしたという石垣の名城は修理にも相当の時間や技術を要するであろうことは想像に難くなく、手を止めたらそこで終わりだという事実に、歴史を未来へ伝えていくことの現実的な重さを思いました。

櫻山神社左手の鶴ケ池に沿って入城しました。烏帽子岩は櫻山神社の石段を上がって見上げると迫力が違います。南部稲荷神社や三の丸の大きな露出石も存在感を放っていました。

東門から二の丸へ上がります。
上から見てもおもしろかったのははばき石垣です。石垣を守るための石垣ですが、それ自体にデザイン性がありスタイリッシュ。城ネコさんが上でくつろいでいらっしゃいました。
庭園を再現したような石組みがありましたが城内図では御殿が目いっぱい建てられていたようなので公園化の際に設えられたのかもしれません。
本丸には戦時中に銅像が供出されたために残された南部中尉像の台座が。何もない空間が語る歴史に思いを巡らせます。
二の丸と本丸を繋ぐ赤い渡雲橋は盛岡城のアイコンとして写真でもよく見るところです。このたびは渡ることはできましたが老朽化のため欄干にもたれかかることは禁止で、石垣に崩落の危険があるため橋の下を潜ることもできませんでした。廊下橋が復元されたらいいのにとの思いもよぎりますが、石垣の状況から見ても建造物の復元は簡単に語れることではないのだろうと思います。
本丸門からカーブする坂を下りて振り返ると威厳に満ちた石垣が。今見てもかっこいいですが土塀や櫓を備えていた当時はさらに見栄えもよく引き締まって見えただろうと思います。

多目的広場(台所屋敷)には元の場所に戻る日を待つ積み石が整然と並べられていました。本来であれば日に晒されることのない小さな裏込め石も山のように積まれ、裏方の存在の大きさや、小さな石もこれだけ集まれば大きな力となるといった見本を見せてもらったような気持ちでした。頑丈な石垣として再び役目につくのは来年の秋ごろの予定だそうです。
石垣修理といえば、櫻山神社の裏から三の丸に上がる石段のところと二の丸のはばき石垣横のあたりにピンクのリボンのついたペットボトルが提げられていました。素人考えですが、これはもしかすると孕みが進んでいる現状下で、ペットボトルが落ちてきたら石垣に何らかの異変が起きているということ。その異変をいち早く知るためのものではないでしょうか。

本丸方面に戻って淡路丸へと進みます。ここには桜の木がたくさん植えられています。木の陰になって城内でいちばん古い野面積みから天守台下石垣までを一目で見渡すことはできませんが、春に訪れれば石垣と桜が織りなす美しき日本の風景を見られるのでしょう。オフシーズンであっても足元を見れば大櫓跡、下を覗き込めば帯曲輪と楽しみを見つけることができます。知育玩具にありそうな立体パズルを嵌めこんだような補修跡のある角石もおおっ!という感じでした。

最後に帯曲輪に下ります。
ここにも大きな露出石が地面から顔をのぞかせています。矢穴の下書きっぽいのがぽつんとひとつある石も。
そしてここからが石垣ビューのクライマックス。大櫓跡の下の石垣のスケールと迫力は何度見ても感動します。遠くから見ると大櫓と天守が重なって五層に見えたというのは夢の世界。(歴史文化館のジオラマで想像できます。)
見事に修復された圧巻の石垣と、移築保存されている唯一の現存建造物、彦蔵。石樋(蛇口)、積み石が抜け落ちて見えている裏込め石、四阿下の石垣を支えるはばき石垣……。最後の最後まで楽しませてもらいました。

3度目の訪問でやっと楽しみ方がわかった盛岡城。いつかきっと4度目もアリです!
お昼ごはんはいつもどおりリュックからプロテインバーを取り出して……ではなくて、ご当地グルメの盛岡冷麺をいただきました。

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しんちゃん

狛城 上狛環濠集落  京都府木津川市上狛 (2023/08/11 訪問)

木津川市上狛の通称「大里」は周囲を堀で囲まれた環濠集落です。
ここの国人領主であった狛氏の館は城域の西南側にあったとされています。
上狛小学校の南側を堀が走っていますので東から南へと移動し
そこから集落の中央部の西福寺を目指します。
この周辺は古い建物が多く個人宅の長屋門が登録有形文化財に
指定されています。
そこから西側の環濠に移動し散策していくと上狛環濠集落の
案内板が建っています。
大井戸が民家の敷地内にあるらしいので地故の方に聞き込みをしながら
訪問します。民家の壁の内側に立札があるので、わかりづらいのですが
ご自由にお持ちくださいと書いてある箱の中に資料があるので
有りがたく立ち入らせていただきました。 有難うございます。
資料によると狛氏は応仁の乱の際に大和の筒井氏と結び
畠山政長、細川勝元・政元に仕え東軍に属しました。
文明15年(1483)西軍の斎藤彦次郎の攻撃を受け
多くの犠牲を出し、狛山城守守秀は城を焼いて大和に逃れました。
ちなみに斎藤彦次郎は日野富子の従兄弟と呼ばれている人物です。
江戸時代の上狛環濠集落は大里集落と呼ばれていて周囲に八つの門を
備えていたと伝わります。

西福寺
京都府木津川市山城町上狛艮町3

案内板
京都府木津川市山城町上狛乾町
34°45'07.1"N 135°48'57.9"E
34.751977, 135.816070

古井戸
京都府木津川市山城町上狛乾町
34°45'09.8"N 135°49'01.6"E
34.752730, 135.817120

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T-Shionoya

チョッピリ芸術的な気がした狩野城 (2023/02/20 訪問)

2月後半の城郭巡り第4段は、河津からの帰りに寄った静岡県伊豆市の狩野城。

狩野川上流の伊豆半島の山間部。
狩野川に向かい西から東へ下る山裾の、柿木川と北沢川に挟まれた尾根の先端、比高60~70mの小山に築かれた城。
伊豆の南北を繋ぐ要衝で、下田街道を監視していたでしょうか。

1100年頃から1400年代末までの狩野氏の拠点で、伊勢宗瑞の伊豆侵攻の折に落城し廃城となった模様。
因みに1400年代後半から江戸の末期まで活躍する絵師の狩野派は鎌倉期の分家とのこと。
現在は生活環境保全林として遊歩道が整備されています。

訪問時は、北の駐車場から遊歩道を時計回りに散策。
印象に残ったのは堀切による激しいアップダウン。
そして本郭周辺は二重堀や土橋など小規模ながらつくりが凝っており、古い時代の城遺構としては期待以上。
それでも本丸は、広くて最高地点の中郭かなと勝手に想像したりして...

滞在時間は約1時間半。
狩野氏の城だけにチョッピリ芸術的な気がした私の城郭巡りの151城目でした。

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しんちゃん

犬田城の戦い 大阪府枚方市印田町(推定) (2023/08/11 訪問)

犬田城の戦いは大阪府枚方市中宮で発生した戦いだとされています。
文明15年(1483)畠山義就と畠山政長が河内の領有権を巡って争い
畠山義就が勝利し、河内の領有を決定づけたとあります。
犬田城の場所はいまいちよくわかっていないのですが
あるサイトで印田町あたりにあるらしいと出ていたので
寄ってみました。犬田城の推定地は丘地になっているのですが
東、西、南から開発が進み宅地が迫ってきています。
そんな中で不思議とこんもりとした丘地が残っており
城址の雰囲気は出ています。
今では数か所の小規模な郭を残すのみですが、東の
印田町ふれあい公園も気になったので訪れてみました。
この公園も周囲に対して小高い丘になっており
切岸らしき場所にはフェンスがついています。
ひょっとしたら、ここも城域だったのかなと
勝手に想像してみます。
推定地
大阪府枚方市印田町
34°48'16.9"N 135°39'59.3"E
34.804702, 135.666477

印田町ふれあい公園
大阪府枚方市印田町43−15
34°48'16.6"N 135°40'03.3"E
34.804616, 135.667573

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ぴーかる

楽田城 (2023/07/22 訪問)

【楽田城】
<駐車場他>駐車場はなし。城跡碑前に停車できそうです。
<交通手段>車

<感想>2週連続日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第2弾1城目。楽田城の築城は永正年間(1504~1521年)に尾張守護代織田久長が築城したと伝わります。1558年頃に犬山城主織田信清に攻略されて信清の出城となりますが、1562年に織田信清は織田信長から離反したために犬山城を追われて、それ以降楽田城も信長の支城となり信長の家臣を入れます。小牧長久手の戦いでは羽柴秀吉側の前線基地として使われますが戦後廃城となったようです。現在城跡碑のある場所に僅かに残る土塁があるだけで遺構は楽田小学校建造で取り壊されてしまったそうです。文献上最も古い天守(殿守)の文言が出てくる城跡で昭和55年まで小学校内にあったそうですが撤去されたそうです。見たかった。

<満足度>◆◇◇
 

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宗春

Uターンの途中で登城 (2023/08/19 訪問)

帰省からのUターンを松本経由とし、18きっぷを使って登城。
なぜか購入を忘れていた百名城カードを購入。

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宗春

新幹線コラボ御城印を求めて (2023/08/18 訪問)

JR東海とのコラボ御城印を入手するために登城しました。

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キンヤ

松倉重政が城主だった二見城と城下町の五條新町 (2023/08/13 訪問)

二見城は、1331〜1334年に二見氏によって築かれた館城を前身とし、江戸時代の1608年に大和五條藩1万石余りの城主として入った松倉重政が近世城郭に改築したとされます。
重政は、もとは戦国大名筒井氏の重臣として仕えていましたが筒井氏が改易された後、関ヶ原の戦いの功により徳川家康によって大名に取り立てられました。
大坂夏の陣の功績により、1616年に重政は肥前日野江藩4万3千石の大名として転封になった後、二見城は廃城となりました。

今は立派な説明板がありますが、残念ながら遺構は殆ど残されていません。
絵図を見ると本丸・二の丸は小規模で、東西に長い河岸段丘上に築かれた平城だったようです。
本丸は今は妙住寺の境内で、北側・東側は吉野川が流れ断崖となり、西側に埋められてますが堀跡があります。
二の丸は今は木材会社の敷地で、城風の土塀が建ち、周りより高くなっています。
本丸・二の丸は南東側から見ると、かなり高くなっており、西側の外郭も南側から見ると高くなっており、河岸段丘の地形が分かります。

二見城の北には、重要伝統的建造物群保存地区の五條新町があります。
中世からの町場の五條と、松倉重政によって新たに造成された新町の2つの地区からなり、二見城の城下町として整備されました。
江戸時代からの建物が多く残されており、風情のある良い町並みでした。
重要文化財の栗山家住宅は、1607年の棟札があり建築年代が分かる民家では日本最古だそうです
新町通り沿いにある新町松倉公園に重政を称える碑、西方寺に重政の墓碑があります。
重政は肥前国の島原では重税を課したりキリシタンを弾圧し悪評高いようですが、五條では雑税を免除し商人を集りやすくし、町をつくった殿様として慕われているようです。

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宗春

築城450年記念御城印を求めて (2023/08/18 訪問)

島田市博物館にて諏訪原城の特別展が開催されていた事もあり、築城450年記念の特別御城印を頂くために友人と登城。
久しぶりに来てみたら、写真撮影用と思しき台が設置されており、そこから馬出しを撮影。とても良い!

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宗春

「冷やし旅」 (2023/08/17 訪問)

JR東海ツアーズのEX旅のコンテンツから、名古屋城の「冷やし旅」(入場券+二の丸茶亭の冷やし抹茶・和菓子+特別御城印のセット)を申し込んで訪問しました。
とても暑い日だったので、冷やし抹茶を美味しく頂けました。

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宗春

“小牧・長久手の戦いゆかりの地をめぐる”犬山「三種の御城印」③楽田城 (2023/08/17 訪問)

前回(春)にも販売された“小牧・長久手の戦いゆかりの地をめぐる”犬山「三種の御城印」が、性懲りも無く再び発売されました。(今回は金箔入り)
今回は、前回行けなかった楽田城を訪れました。前回の御城印はえらい遠くまで買いに行かなかんかったのですが、今回は犬山城前観光案内所にて3城分を販売。でら良かった〜。

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宗春

“小牧・長久手の戦いゆかりの地をめぐる”犬山「三種の御城印」①-2犬山城 (2023/08/17 訪問)

前回(春)にも販売された“小牧・長久手の戦いゆかりの地をめぐる”犬山「三種の御城印」が、性懲りも無く再び発売されました。しかも今回は金箔入り。仕方がないので再度訪問しました。そりゃ行かなかんて。
前回『御城印はもっとお城の近くで売ってくれ』と苦言を呈しましたが、今回は犬山城だけで3城分を販売。どうも大人の事情がありそうでや〜らしいですね。

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宗春

家康公御遺訓シリーズ御城印を求めて (2023/08/14 訪問)

今年、岡崎城では令和5年限定の「家康公御遺訓御城印」を発売していますが、第3弾「夏」の御城印を入手するために訪問しました。これまで「春」「桜」を入手済みなので、もうコンプリートするしかありませんね。

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Yosihiko

大垣城 (2023/08/19 訪問)

攻城🏯20城、攻城址6

お城感より博物館って感じですね。

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シェル

大宝沼の北端に位置する南朝のお城 (2023/08/19 訪問)

関東鉄道常総線 騰波ノ江駅から徒歩約25分で到着。
南北朝時代 南朝の拠点となり、興国二年(1341)南朝の小田城が開城したことで、南朝の北畠親房が関城に入城。北朝の高師冬軍と籠城戦を展開し、興国四年(1343)に落城しています。
城はかつて存在した大宝沼に三方を囲まれた微高地にあります。
城の北西側に北朝が、関城の櫓を崩すために掘った坑道跡があります。
坑道から少し南に行くと八幡神社があり、神社の裏手に土塁が残っています。
神社を出て、西側にも土塁があり、さらに西側には、空堀と土塁が残っています。
そこから関城通りを南に行くと、城主の関宗佑の墓、その左側に北朝として関城攻めに参戦し、討死した結城直朝の墓があり、案内板と関城址の碑も立っています。
そこから、南に下った所には、なぜか大宝城の標柱が立っています。この件は大宝城跡の案内板で、理由が図示されており、大宝城の国史跡区域がかつての大宝沼一帯も含めているためだからだそうです。

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チェブ

キラキラなヒルズ。 (2023/08/15 訪問)

台風と猛暑で、旅行も遠出の計画もしてなかったお盆休み。
高速道の渋滞情報にうんざりし、港区の「太田道灌城」を目指しました。
因みに車で。
「太田道灌城」があったとされる場所は、何もありません。皆さんの投稿にある『仙石山の石碑』探しに変更しました。只今 建設中の『麻布ヒルズ』の周りを1週しましたが、見落としました。
なぜなら、麻布ヒルズがキラキラしてて、新しい建物を見上げてばかりいたせいです。

この後、銀座、日本橋方面に移動して日本銀行近くの『貨幣博物館』へ。
X線検査と金属探知機での手荷物検査がありました。館内はご家族連れが多かったです。入館料無料ですし、宿題の自由研究に良さげです。

銀座・日本橋は小さな神社や、江戸を連想させるデザインが沢山あり、歩いていてるだけで楽しかったです。
ただし、パーキング料がビックリ価格です。写真④のモンブランを食べるのと少しの買い物で、パーキング料金1000円でした。
我が家は諸事情により車で出動が多いのですが、断然 電車をお勧めします。

ヒルズって、丘ですよね。
現代の太田 道灌さんのような方々が、高い場所に屋敷を構えるのか。
意外と、昔と変わらないんだなと、ヒルズの もっともっと上を見上げた「太田道灌城」攻めでした。

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トク

62【関ケ原の26人】(23)石田三成 (石田三成と大原観音寺) (2023/07/02 訪問)

(23人目)「石田三成」の続きです。
秀吉と三成が出会った地(大原観音寺)を訪れてきました。

石田からさらに同じバスで登り坂とトンネルが続く道を5分ほど乗り、観音寺バス停で下車すると大原観音寺が見えてきます(写真⑨)。ここは三成と秀吉が出会った場所です。「三献の茶」の逸話は有名ですよね!(以下がその逸話)

ある日、長浜城主であった秀吉は、鷹狩りの帰りにここ観音寺に立ち寄り、喉が渇いたので一服の茶を所望します。その時、隣村から修行に来ていた一人の小僧が、大きめの茶碗に七~八分ほど入れたぬるめの抹茶っを持ってきました。秀吉はそれを一気に飲み干すと、もう一杯の茶を所望します。すると今度は、茶碗の半分に満たない量で、前より少し熱い茶を持ってきました。これをまた飲み干し、お茶の熱さに少し慣れた秀吉がさらにもう一杯所望すると、今度は小ぶりの茶碗に、さらに熱い茶を入れ持ってきました。この三杯目で秀吉はお茶を味わう事ができたのでした。この機転を利かせた小僧の才知に驚き、住職に懇願し家来としてもらい受けました。

この小僧の名前は「石田佐吉(後の三成)」。ここから彼の出世物語が始まります。

私は観音寺の本堂の前に立ち眺めてみました(写真②③④)。暑い日でしたが、杉木立に囲まれた静かな雰囲気の中、冷たい風が心地よく吹いていました。何やら秀吉と佐吉が今にもここに出てきそうな感じで、その時の光景が目に浮かんでしまいました。

観音寺のバス停に戻りバスを待っていると、ふと伊吹山が見えました。その右手下が関ケ原です。戦いに敗れた三成は、あの伊吹山中を敗走し、秀吉と出会った思い出のこの地を目指していたとも伝わっています(写真⑩)。

どんな思いであの山中からここを目指していたのでしょうか?

「何故自分は敗れてしまったのだろうか?・・・」
「これから一体どうしたらいいのだろうか?・・・」

これらを秀吉に、聞いてみたいと思ったのではないでしょうか?・・・

次は(長浜城)へ続きます。
 

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kao

備中松山城 (2023/08/01 訪問)

登ったかいのあるお城🏯

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kao

岡山城 (2023/07/31 訪問)

美しい烏城!

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朝田 辰兵衛

とある煩悩の登城目録さんに倣って… (2023/06/12 訪問)

とある煩悩の登城目録さんに倣って,倉敷天城高校のグランド近くの「お茶屋のあと」碑を目的地としました。移築門のある静光寺との間に,風情を感じる空間もありました。

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