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金ヶ崎城 (2022/06/18 訪問)

国史跡

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玄蕃尾城 (2022/06/18 訪問)

続日本百名城

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佐柿国吉城 (2022/05/18 訪問)

続日本百名城

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美濃金山城 (2022/05/07 訪問)

続日本百名城

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増山城 (2021/08/09 訪問)

続日本百名城

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ひろ

甲府城 (2022/06/19 訪問)

甲府城

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零汰

初ウネウネ (2019/11/09 訪問)

城跡の訪問を始めて2.3か月程経った頃に奇妙な言葉を知る。「畝状竪堀」普通に読めなかった、畝で調べると「畑で作物を作るために(何本も間隔を空けて)細長く直線状に土を盛り上げた所のこと」とある。「畑・・・・・。」

数多くの畝状竪堀があるという評判の城跡、訪問した時点では城跡入口に行く林道が崩壊していて近くにバイクでは行く事が出来ませんでした。(現在の状況は分かりません)長野緑化公園の南側の広くなった道路にバイクを置いて歩いて行きました。そこからだと城跡入口まで約1.6km、片道20分程度かかります。

城跡の入口から直ぐに二重竪堀があります。垂れ下がっているロープを伝って登っていくと直ぐに二の丸に到着します。そこから本丸を目指して進んで行くと何やら左手の地面が波を打っている。果たしてそれが初ウネウネでした。確かにサツマイモの畝の巨大版だ、これなら1mを超えるサツマイモが出来るかもしれない。連続して同じ形状の畝が並んでいる姿は美しい、たちまちウネウネのファンになる。残念ながら写真に撮るのは難しく形状を正確に捉えた写真は数が少ない。

本丸には自然石の上に石像が有ったり土壇があったりとする。本丸の側面のウネウネは雑草で隠れている場所もあったが、整備されていても200以上もあるウネウネを全て見ることは出来やしない。相当数のウネウネを見ることが出来たのでとても満足できました。

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朝田 辰兵衛

伝本丸の標柱,折損中! (2022/06/10 訪問)

姫路駅北口(17番のりば)から,51,52,53番系統のいずれかの路線バスで,最寄りのバス停「宮置(みやおき)」まで約30分。姫路城へとまっすぐ向かい,次第に近づくキャッスルビューを堪能できます。姫路城からは向かって左側を山間へと。宮置バス停からちょっと戻って南東側(左折)に折れます。橋を渡ったら北側(左折)に進むと登城口。徒歩約15分です。
登城道は,1丁~18丁まで分割されていて,標柱が建っています。休憩の目安になるかと思います。しかし,18丁は城域の入口ですのでご注意を。伝二の丸は庭園が造られていたとのことでやたら広く,伝本丸へはさらに登ります。18丁へは徒歩約40分。
予想以上に滞在時間が長く,帰りのバスを1本遅らせたら姫路城付近で渋滞にはまりました…。最終の鳥取行の高速バスへは,2分遅かったです。予約制でなくてよかったです。JRに切り替え,上郡経由で向かいました。鳥取へのアクセスは姫路かな…と判断したのは正解だったと思います。

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赤い城

外環道に沿って (2022/06/05 訪問)

埼玉高速鉄道の新井宿駅から徒歩で20分。
公園ですが曲輪の部分は畑に。
主郭に石碑と説明板があり、生垣で守られた空堀が残っています。
二の丸の空堀は整備がゆるく草が伸びていました。
主郭西側の空堀は竪堀のように下っていてちょうど紫陽花が見頃でした。
北側には外環道が走り、その先に出丸があったようです。
伊奈氏が江戸幕府直轄地を治めるために築いた陣屋です。
都心からも近い場所で遺構も残っているのは嬉しい限りです。

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刑部

日本最大級の城郭 (2022/04/30 訪問)

戦国武将オールスターの城郭、全ての陣所を回るとしたら1日では足らないでしょね!主郭部だけでも凄い。ここから見る壱岐島その先の朝鮮半島【見えないが】朝鮮出兵の頃を思い描く事ができるようなそんな場所です。曲輪事の石垣もよく残されてます。グルメはお刺身定食・茶所で抹茶とお菓子とても美味しかった!

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まるび

日本アルプスと黒い城 (2022/06/13 訪問)

ツアー旅行の一環で登閣。黒くてかっこいいお城でした。
内部の階段の角度は最高で61度(!)もありとても滑りやすい為、ゆっくり進むことになるから平日でも修学旅行等団体とぶつかると混雑気味に。
HPに団体の来訪予定や混雑時は天守入口待ち時間の表示あり。

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小城小次郎

福本陣屋か福本藩陣屋か (2022/01/10 訪問)

現地の石柱は「福本藩陣屋」。江戸時代の大半を交代寄合として過ごした福本池田家だが、始まりと終わりだけは確かに福本藩だったので福本藩陣屋の方が正しいのだろう。池泉回遊式の大きくて立派な庭園が残る。

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新ろくべえ

騎西城に行ってきました (2022/05/04 訪問)

騎西(私市)城は1400年前後に太田氏が築いたとされる城です。
そして色々な戦国大名がここを中心に戦に臨みました。

《北条、上杉時代》
元々は足利氏の領土でしたが上杉氏、北条氏などが城主を務めました。 
 1560年に、小田助三郎が城主の時上杉謙信が関東征伐に来た時に、
一度は上杉方になりますが、兄の忍城主成田長泰が謙信に鶴岡八幡宮で、
辱められ(はずかしめられ)、北条側に離反し、助三郎も離反しました。
1563年(永禄6年)には、武田、北条連合軍に松山城を攻められ、
報復に騎西城を攻略しました。
さらに、1574年(天正2年)には北条氏照が関宿城を攻撃した際には、
騎西、古河、栗橋、舘林、菖蒲、岩付の埼玉、群馬、茨城三県の城を焼き払いました。
 その後は主だった戦はありませんでしたが、1590年に豊臣氏による北条征伐が始まると、
落城しました。

《徳川時代》
その後は徳川領となり、松平康重が二万石を拝領しおさめました。
その松平康重が1599年(慶長四年)に亡くなると、大久保忠常が2万石をおさめましたが
祖父の大久保忠隣(ただちか)が改易になると、忠常も閉門に処せられてしまいました。
その忠常は1625年(寛永2年)に赦免されると元の通り2万石を拝領し
1632年(寛永9年)に美濃国加納城に転封するまで、城主を務めました。
転封後は廃城になり、代官所がおかれました。

《現在》
近くにある郷土資料展示室は、一見天守のように見えますが、
ここには天守が築かれておらず模擬天守であり場所も昔の堀の中です。
展示室には騎西城についての展示がありますが、滅多にあくことはありません。
入りたいのでしたら、事前に調べることをお勧めします。
唯一の遺構は天神曲輪あとの土塁しかなく、それ以外は何もありません。


【城情報】
・形式       ❙平城(沼城) 
・築城年      ❙1400年前後
・廃城年      ❙1632年(寛永9年)
・築城者      ❙はっきりとしていない
・最後の城主    ❙大久保忠隣
・廃城理由     ❙大久保忠隣が美濃国加納城へ転封になったため
・主な城主     ❙足利氏→佐々木氏→小田氏→成田氏→小田氏→松平康重→大久保氏
                   ❙    北条氏    ❙ ❙  徳川氏   ❙
・遺構       ❙土塁
・主な建築物    ❙郷土資料展示室
・説明看板、石碑  ❙両方有
・駐車場、トイレ  ❙両方有 (トイレは資料展示室横の生涯学習センターで)
・天守       ❙模擬天守(郷土資料展示室)
・保存状態(自身判断)❙遺構が少なく、模擬天守と思われる展示室が堀の中にあるため
          ❙普通
・備考       ❙・沼を利用した城
          ❙・すべての曲輪が、何処なのかよくわからない

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チェブ

模擬天守があっても、、、。 (2022/04/30 訪問)

藤田氏が築いた「天神山城」です。
北条 氏邦さんが、100名城の「鉢形城」に移るまで「天神山城」に居城してました。
藤田氏を調べたら、北条 氏邦さんは藤田氏の娘婿にあたります。
藤田氏は居城を移します。
嫡男は、氏邦さんに毒殺されました。弟の信吉さんは北条家を離れます。
なんだか、自分も危ないと感じたのでしょうか?
信吉さんは、武田 勝頼さん→滝川 一益さん→上杉 景勝さん→徳川 家康さん→徳川 秀忠さん、と主君を代えました。どの家中でも重宝される人材です。
、、、脱線しました。

「天神山城」は白鳥神社の裏山を登ります。
車は、向かいの集会場に駐車しました。
写真⑥から出陣。ここが正解か分かりませんが、他に入口が見つかりません。
途中に小さな祠がお祀りしてました。
が、その先に続く山道が急です。
昭和の遺構の模擬天守が廃墟化してるとの情報に、楽に到着するのではと、楽観視してしまいました。
退陣です。

もし、模擬天守が観光スポットになっていたら、どこから入城させるつもりだったのかなぁ?
悩む「天神山城」です。

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城とマスク

愛知のお城巡り (2020/11/03 訪問)

遠征最終日の朝清洲城に寄ってきました、味噌カツ定食を食べて帰りました。
マスクはローリン製スパンコールでした。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:古池城 (2022/06/10 訪問)

菊之城からの転戦です。浦田墓地石碑付近(32.951747、130.802209)に路駐しました。

築城年代は定かではないようです。菊池十八外城の一つとされ、出田氏累代の居城と伝えられています。出田氏は菊池氏三代経頼の孫経信から始まるそうです。
天文年間(1532年〜1555年)に城親賢、天正年間(1573年〜1592年)に城親冬が在城したとも伝えられています。

主郭の中心に古墳状の土壇と祠があるのみで、遺構はよくわかりません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=神尾城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:菊之城 (2022/06/10 訪問)

戸崎城からの転戦です。道路脇(32.969539、130.806347)に路駐しました。田んぼの小高い所(32.970089、130.806635)に説明板と城碑があります。

築城年代は定かではないようです。延久年間(1069年〜1074年)に菊地則隆によって築かれたと伝わります。
十六代菊池武政のとき菊池城に居城を移した後は、菊池十八外城の一つとして利用されました。

田んぼの小高い所に石碑と案内板が建っています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=古池城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:戸崎城 (2022/06/10 訪問)

城林城からの転戦です。林道入口(32.971560、130.820233)から進入し、200m先にある弁財天入口付近(32.972573、130.821530)に駐車しました。

築城年代は定かではないようです。菊池十八外城の一つとされ、鹿島氏累代の居城と伝えられています。

駐車した道路脇付近に城址碑があり、ここを東側に上がって行ったところが物見です。(攻城した時は、こちらが戸崎城と勘違いしていました)
駐車した場所から西側に上がっていったところに、弁財天が奉られている高土塁のような土台があります。
弁財天が物見だと勘違いして引き返してしまった為、主郭はみていません。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=菊之城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:城林城 (2022/06/10 訪問)

隈府城からの転戦です。「木庭城址 この上」道標前(32.981409、130.829033)に駐車しました。そこから主郭まで100mくらいです。

築城年代は定かではないようです。菊池十八外城の一つとされ、城主は城武顕と伝えられています。城氏は菊地一族で山鹿郡城村発祥とのこと。

城林城は別名=木庭城と云います。
本丸近くまで車道が延びていますが、「木庭城址 この上」に至るまでの道はとにかく狭いです。
本丸の東側に堀があり、畑になっています。撮った写真はピンボケが多く、投稿写真が少なくてすみません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=戸崎城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:隈府城 (2022/06/10 訪問)

隈部氏館からの転戦です。菊池神社駐車場付近(32.987925、130.8164651)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、正平年間(1346年〜1370年)に菊池氏によって築かれたと云われています。
菊池氏は太宰府官藤原政則の子孫とされ、藤原則隆のときに肥後に下向し菊の池城を築いたそうです。十六代菊池武政のとき、菊の池城から隈部城へと居城を移しました。
南北朝時代には、南朝の有として肥後国を中心に九州全土にその勢力をのばしましたが、北朝方の今川了俊が九州に下向してくるとその勢力は衰退しました。
兼朝の時、肥後国守護職を回復し戦国時代に続きますが、大友氏に破れ嫡流が途絶えました。
菊池氏が滅亡すると赤星氏の勢力下になりますが、隈部氏によって追い出され、隈部館から隈部氏が移り居城となりました。
隈部氏は北侵する島津氏に降伏しましたが、豊臣秀吉による九州征伐で秀吉に降伏し本領を安堵されました。
しかし、熊本に入封した佐々成政が検地を行うとこれに反発して挙兵し、成政が菊池城に押し寄せると城村城に籠もってこれに対抗しました。
これが、きっかけとなって肥後国衆一揆が広まり、成政は謹慎の後に切腹、隈部氏もまた嫡流は断絶しました。

菊池城は現在の菊池神社の境内に築かれていました。
菊池城の遺構の大半は消滅してしまっているようですが、神社の北側に巨大な空堀と高土塁が残されています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=城林城に向かいます。

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