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イタさん

岡部氏館跡 深谷市普済寺 (2023/06/07 訪問)

岡部氏は武蔵七党の猪俣党で、猪俣六太夫忠綱が岡部に移り岡部氏を称したとする。源頼朝の挙兵に参陣し功績のあった岡部六弥太忠澄は、忠綱の孫にあたる。

岡部氏館跡は菅原神社辺りに記されているが、南西300メートル強に普済寺があり、寺域が館跡とも言われる。普済寺は台地末端のように見え、菅原神社は台地下でかなり低地にある。参道の鳥居右には堀状の遺構があり、先で北に向かい東の堀状になり、さらに先で西に向かって北側の堀状(幅広な水路)になる。鳥居奥に菅原神社の社殿、鳥居斜め右に厳島神社が建ち、社殿の西から北にかけて堀状の遺構があるが、厳島神社が水に関係するため東の堀状を含め池跡かも知れない。内側には土塁跡らしきものも確認出来ない。館としてみれば、おおよそ西側半分以上の敷地は畑地になっている。

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七口之門など (2023/06/10 訪問)

 大垣城の七つの門があり七口之門(①大手口②南口③柳口④竹橋口⑤清水口⑥辰之口⑦小橋口)と呼ばれていました。他にも東西総門の跡もあります。市内には城門の跡に案内板や石碑が立てられています。そこを歩いて巡ると城の規模が把握できます。

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イタさん

東の外堀跡が微かに残る (2023/06/07 訪問)

深谷城の主郭周辺は城址公園と文化会館等の市の施設が建っている。室町時代中期の康正2年(1456)に上杉房憲が古河公方の侵攻に備えて築城したと伝わる。秀吉の関東攻めで開城するまで134年間、北武蔵における上杉方の拠点であった・・・。冨士浅間神社(智形神社)の社殿を巡る池と水路に往事の姿を留めるのみである、と案内に載る。

公園の入口は何カ所もあるが、南と西の大きな入口は石垣、土塀などが公園設備に伴い模擬復元されている。唯一案内の通り浅間神社入口に、外堀跡の標柱があり浅い溝が確認出来る。

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笑い積み (2023/06/10 訪問)

 久しぶりの大垣城へ行って来ました。昔から大垣は水が豊富で河川や沼沢を利用した平城でした。古大垣輪中の中に位置する低地に築かれた城で徳川家康は水攻めも検討したようです。在りし日の城は10を数える櫓があり水堀を幾重にも巡らせた堅城であったと伝わっています。開発により多くが壊され堀も埋められてしまい、残っていた天守閣なども空襲で焼け落ちてしました。それでも今は東門として移築されている内柳門、復元された天守閣(外観)等があり、また街には多くの水路があり少しは面影を感じることができます。この城で初めて笑い積みという石垣を知りました。「東海の名城を歩く」(岐阜編)には「天守石垣に見られ、」と記載されていましたが、今一つよくわかりません。関ヶ原の戦いの時にたらいに乗って城を脱出した「おあむ物語」も興味深いエピソードです。

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イタさん

遺構は本堂裏に僅かに残る (2023/06/07 訪問)

国済寺の境内が城跡になる。黒門(総門)・三門は市指定文化財、裏に上杉氏歴代の墓所がある。説明板には13世紀末、関東管領の上杉憲顕が新田氏を押さえるため、六男・上杉憲英に館を築かせた。以後3代にわたり居住。一辺170メートルの方形で、外郭を含めると28ヘクタール(東京ドーム20数個以上か)ある。康応2年(1390)に高僧峻翁令山禅師を招いて館内に国済寺を開山する。本堂裏には築山と土塁が残っています・・・。

館としての遺構は本堂裏に土塁と土塁状の築山が残る程度。庭の手入れ中で築山近くに寄れなかったが、北側のスーパー境に残る土塁より高い。築山の北側に窪んだ地形があり、堀跡ではとの意見もあるが、築山に伴う池ではと想像する。

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イタさん

堀・土塁が良好に残る (2023/06/07 訪問)

説明板の概要は、平安時代から室町時代におおける別府氏の居館跡であり、東西約100メートル、南北約90メートルの規模。跡地には建立年代不詳だが東別府神社がある。別府氏(藤原氏)の氏神、春日神社を勧請、明治42年に榛名神社を合祀し現在名になる。成田助隆の次男・行隆が別府氏を名乗り、その長男・義行が東部に居住し東別府氏となり、次男・行助が西部に館を構え西別府氏を名乗ると伝わる。

西別府館跡が西1㎞にあるため、城と言うより館の呼称が相応しい。神社鳥居がある南の堀跡はないが、東・北・西は良好に残り、土塁はほぼ残る。虎口が南・東・西と三ヶ所あり、改変されているだろうが南は左右の土塁がずれ、短い土塁が直角に残り特異な形状をし、枡形を思わせる。西は堀を渡り土塁下を南に10メートル行き虎口になる。東は平虎口だが、西虎口を含め当時の遺構か分からない。

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カズサン

模擬復元二層櫓 (2023/05/31 訪問)

 宇都宮在住の孫の運動会観戦の為に高速移動途中に家内と13年振りに3度目の逆井城登城を致しました。
 専用駐車場に着き、桜の木が大きく成り葉が茂り模擬二層櫓はすぐには見えませんが大手口に至ると木造復元模擬二層櫓が見えてきます、逆井城のシンボルで存在感が有ります。
 木造模擬復元櫓の走りで宮崎県の綾城、茨城県の逆井城が中世城郭の建物想像復元の先駆者、よく地元の方々は頑張って復元してくれました、約30年は経ちますが今日でも楽しく城たび、城探訪が出来る事に感謝です。
 二層櫓、平櫓、土塀、井楼矢倉と外から眺めて、井楼矢倉には補強工事が施されて登れる湯に成っており登って周囲を見渡し、二層櫓も登れましたので二階まで登り廻縁高欄を廻りました。
 二層櫓の内部、外観、眺め等の写真投稿致します。
 
 続きを、一曲輪編、逆井城点描編と後ほど順次投稿させて頂きます。
 

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シャンシャン

現存12天守4城目!! (2023/06/03 訪問)

瀬戸大橋を渡って香川に上陸、丸亀城へ。
ここはやはりなんと言っても石垣がすごい!
昔の人はこんなに高い石垣をよく築いたものだと感心する。
下から見上げると天守は立派に見えるけど、間近に来るとこじんまりとして可愛らしい。
崩れた石垣の修理完了予定は5年後。そのとき是非また来たい。

割と近くにある四国水族館とゴールドタワーも観光のついでに訪問。
両施設とも見応えあって大満足。
そして合間に食べた讃岐うどんもコシがすごくて美味い!

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カズサン

登城3度目逆井城一巡 (2023/05/31 訪問)

 下総栗橋城を終えて時間も若干あり、栗橋城探訪は消化不良気味であり、東方約11~12km程先に逆井城が在り地道を使い3度目の登城をしました。
 駐車場は大手口に専用駐車場が有り利用しました。

 前回2度目登城は平成22年11月で13年振りです、前回も家内と一緒で土浦城復元西櫓東櫓探訪見学の帰りでした。
 
 登城ルートは、大手口から大手橋、城門、二層櫓には登る、平櫓、井楼矢倉には登る、薬医門、主殿、観音堂、一曲輪馬出、内堀、鐘堀池、一曲輪内部、櫓門、櫓橋、東二曲輪、外堀、外堀橋、西二曲輪の事務所で係りの方にパンフレットと若干会話。
  会話中に今年の桜開花桜まつり前に、井楼矢倉に登れ様に改修補強したと、二層櫓も一時登れなかったようでしたが登れました、復元建物群も昭和60年県の史跡に指定された頃から発掘調査結果をもとに建てられており、補修の時期に成っているようです。
 逆井城の建物群はよく戦国などの時代劇などにセットとして利用されており、放映の度に行った思いの有る城郭で一層親近感がわいてきます。
 東二曲輪では地元の方がグラウンドゴルフをプレーされて居り、城跡の芝生広場でのプレーは羨ましい限りです。
 今回も家内と一緒に廻りました、栗橋城、中山家範館は車で待ってもらい急ぎの探訪でした。
 歴史は省略します。
 
 続きを、二層櫓編、一曲輪編、逆井城点描編と後ほど順次投稿させて頂きます。
 
 

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yoda 1253

世界遺産 (2019/02/17 訪問)

白漆喰が塗りたてで真っ白で荘厳でした

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小城小次郎

感状の名を冠する山城 (2023/01/07 訪問)

武家にとって感状とは武功を賞する名誉のしるし。新田の大軍を足止めにした功により足利尊氏から受け取った感状を城名に冠するその山城は、赤松氏にとって他のお城とも一線を画する名誉の象徴だったのではなかろうか。

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yoda 1253

山全体が城 (2023/04/16 訪問)

トレッキングでした

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yoda 1253

信長の天下城 (2023/04/16 訪問)

無数の石垣を使った要塞

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yoda 1253

犬山城 (2017/06/17 訪問)

木造最古

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えの

遠いけど一度は行っておきたい城郭 (2023/05/03 訪問)

熊本市内から車で2~3時間ほど。訪れた時期がGWというのもありかなり混んでいました。
しかし、道中の景色は大変良く、天草の海を見ながらドライブ出来ます。

島原・天草一揆の戦場となった城で、石垣にはその痕跡も残っていました。

天領時代の代官、鈴木重成公に関する情報など、江戸時代の様々な時代の富岡城の歴史が学べます。

駐車場上がってすぐにある、発掘・復元された三つの時代の石垣は見所です!

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ぴーかる

綾井城 (2023/04/30 訪問)

【綾井城】
<駐車場他>専稱寺参拝者駐車場
<交通手段>南海電車

<感想>大詰め大阪府の城びとの旅4城目。現地説明板によると綾井城は鎌倉期の城で南北朝時代には足利氏に属していました。戦国時代の城主沼間任世は信長の元で活躍(沼間水軍)しました。沼間氏の子孫は旗本として存続しています。
 南海電車高石駅より徒歩で来城しました。現地は専稱寺というお寺さんになっていて、南東面の堀だけが現存しているそうです。境内の本堂左手の寺務所内に御城印が販売されています。

<満足度>◆◇◇

<追記>todo94さんとのランデブーせずは、私は9:00頃に淡輪城、11:00前に眞鍋城でした。この綾井城は11:40に訪城です。淡輪城の時間帯は結構な雨で古墳も見たかったのですが早々に退散しました。この綾井城も投稿されておられないようなのでもしかして…3000も城びと城があるのに奇遇ですね。
 朝田辰兵衛さんこの旅で私、大阪コンプリートするか、せーへんかはまだ内緒です。

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うさ

仙台城 (2023/05/27 訪問)

ツアー中、お願いして少し抜けさせて頂きました。時間との戦いではありましたが、石垣堪能しました。

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畿内の火薬庫、大和 (2023/05/21 訪問)

呉座勇一著「応仁の乱」の第一章は、「畿内の火薬庫、大和」です。室町幕府は、大和に守護をおかず、興福寺が事実上の守護でした。室町幕府成立後そうおかず1351年から30年以上にわたり、興福寺内の一乗院と大乗院が、大和の豪族を巻き込んで争いました。当初の摂関家分裂の余波から、南北朝の対立も入り込みます。1400年代になり、親幕府的で一乗院衆徒の筒井氏と反幕府的で大乗院衆徒の越智氏との対立を軸に展開しました。応仁の乱前に、大和では、激しい抗争が、長らく続いていたのです。
越智氏に限らず大和の反幕府的な豪族は、将軍が停戦命令などを出しても言うことを聞きません。中でも越智氏は、領地が、奈良盆地南端、吉野も近く、強者です。貝吹山城は、御屋敷の越智城の詰めの城の位置付けですが、後には、更に、高取城も詰めの城としたと。
私の少し前に登城されたイオさんの投稿にない写真を中心にアップします。

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todo94

ニアミス・その2 (2023/04/30 訪問)

びーかるさんの2城目・畠中城はスルーして、私は淡輪城から直行しました。「村上海賊の娘」の主人公の好敵手・真鍋七五三兵衛の居城は絶対に落としたくなかったので、最優先したということです。びーかるさんもチェックされている伯太藩渡辺家墓所にも脚を伸ばすことができました。

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イオ

大規模山城ではあるものの… (2023/02/26 訪問)

築城時期は不明ながら、越智氏が居城である越智城の詰城として築いた城で、戦国後期には筒井氏や松永氏との争奪戦が繰り広げられましたが、織田信長の大和一国破城令により廃城となりました。

駐車場はありませんが、与楽カンジョ古墳の南側道向かいの道が広くなったあたりに路駐して登城開始。古墳の前を東に進み、防獣ケーブルを越えたところに案内表示が設けられています。ここが登城口です。登城道に入ると竹林の中の土橋状の道沿いに土塁っぽい盛土や平坦地が見られますが、遺構かどうかはよくわかりません。

さらに登って行くと、道の両側に曲輪群が階段状に展開されており、登城口から15分ほどで貝吹山頂の主郭部に到着。主郭の南側には三段の曲輪を配し、主郭には城址碑が建てられ、主郭北下の広い曲輪には貝吹山城や越智城、越智氏についての手書き資料を掲示した説明板がありました。最高所だけに眺望も開けています。

貝吹山城は主郭から放射状にのびる支尾根に曲輪群を配していますが、北尾根はなかなかの藪で下りて行くルートが見出せず、遊歩道が整備されている北西尾根に下りて行くと、小さな段曲輪の先に堀切が設けられていました。堀切で引き返して、今度は南東尾根へ。手持ちの縄張図によれば南東尾根には多数の曲輪と土塁や櫓台がある…はずですが、道を外れて南東尾根に向かおうにも、凄まじい竹藪と倒竹でとても足を踏み入れられる状態ではありませんでした…。

…ということで、多くの曲輪群を擁する大規模な山城ではあるものの、普通に見て回れる範囲は限られるため、やや消化不良感が残りました。なお、貝吹山城とは直接関係ありませんが、登城時は登城口手前の与楽カンジョ古墳の整備工事が行われており、麓には見学者用の駐車場ができるのかもしれません。そうなれば車を駐める場所に困らずに(以下略)
 

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