新たな発掘調査で話題の吉野ヶ里へ行ってきました。新規展示は次週からなんですが。
環濠集落という分類で、城より遺跡、というイメージで行きましたが、中を見てみると中世城郭に通じる防御の造りが感じられ、城の分類に入れているのは間違いないんだと思いました。
また、北墳丘墓の発掘現場をそのまま展示する施設は一見の価値があるものでした。
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2023/06/19 15:50
やはり城 (2023/06/17 訪問)
新たな発掘調査で話題の吉野ヶ里へ行ってきました。新規展示は次週からなんですが。
環濠集落という分類で、城より遺跡、というイメージで行きましたが、中を見てみると中世城郭に通じる防御の造りが感じられ、城の分類に入れているのは間違いないんだと思いました。
また、北墳丘墓の発掘現場をそのまま展示する施設は一見の価値があるものでした。
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2023/06/19 00:12
幕府に言われて何とか作った台場だけど、これじゃ弾が届かない。 (2023/06/18 訪問)
米津台場は安政2年(1855)幕命により、浜松藩が武士や現地の農民を動員して
築かせた台場です。
米津浜に東・中・西の三基が築かれ、現在は中の高さ6mほどの高まりが残されています。
いまでは林が連なり、かつての雰囲気を醸し出していますが
中以外の土塁は削り取られています。
かつては高さ二十数メートルあったといいますが真偽のほどは定かではありません。
ただ当時の幕府には日本の広い沿岸部に完全な状態で砲台を設置するだけの
財力も工業力も無かったと思います。
現在の海岸線からはいささか離れていますが、当時も海岸線からは
けっこう距離があったようです。
現在の海岸線には津波対策で高さ15メートルの日本最大級の防潮堤が連なっていて
こちらの方がかつての台場のイメージに近いです。
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2023/06/18 22:56
シラス台地に築かれた独特の構造の城。兵は各城を死守するべし。 (2023/01/05 訪問)
知覧城は平安時代末期の郡司、知覧忠信によって築かれたと伝わります。
室町時代、足利尊氏の指示で島津氏三男、佐多忠光が城主となります。
城は11代当主の時代に謎の出火で焼け落ち、城としての機能を失っていたようです。
佐多氏は江戸時代に入ってからも、そのまま知覧を治め16代の時に島津性の使用を認められます。
知覧麓には国指定名所の武家屋敷庭園が多数あります。
佐多氏の私領であるはずですが代官所である知覧麓仮屋があります。
そのあたりの経緯も知りたいですね。
知覧城はシラス台地が雨による浸食で削られ各郭が完全に独立した構造になっています。
城域に入ってすぐに大堀切が通路の役割をしていて
本丸の西に蔵の城、本丸の南に今城、その西に弓場城と城の各郭がほぼ
完全に独立しています。本丸から蔵之城へ行くことはできるのですが
各郭同志の連携はほぼ不可能です。
城を構成する郭に城の名がついているのは薩摩の国の特徴ですが
援軍を期待せず、ここを死守しろという意味合いにも取れます。
死ぬまでここを守れということでしょうか。
薩摩藩各地に存在した麓の城は本城を守るために時間を稼ぐのが、
お役目だったのかもしれないですね。
さて、ここまできたら知覧特攻記念館に行かない手はありません。
私は登城前に訪問しました。
時間があったら国指定名勝の知覧麓もぜひ訪れてください。
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2023/06/18 22:22
2023/06/18 22:02
建物できてからお初 (2023/06/11 訪問)
常陸の城は沢山行きましたが水戸城は久しぶりです。
しかも大手門や隅櫓が復元されてからは未訪。
小幡城のあと訪問しました。
弘道館の駐車場に車を置き、まずは大手門へ。
立派な門でした。
奥の二の丸にある水戸二中には土塁が残ります。
安心してください、入ってませんよ。
また、小学校と女子高の間の道を進むと復元された隅櫓にたどり着きます。
この日は日曜なので気楽でしたが平日はハードル高いかも?
二の丸と本丸の間の堀はお馴染みの水郡線。
この日も列車は通りませんでした。
本丸の水戸一高は進学校だそうです。
薬医門のほか土塁も見ることができます。
徳川の城ですが佐竹のテイストもよく残っていました。
三の丸の空堀や土塁も整備されています。
時間があれば街中遺構ハントもしたい広域にわたる城です。
水戸市も観光資源として力を入れてそうなので今後にも期待です。
でもやり過ぎないでね。
朝田さん、コメントありがとうございます。
高松への移住初転勤ではなくって転職なんです。
役職定年を機に思い切りました。
地元も出雲市ではなく奥出雲町、さすがに仕事はありません(城で言うと三沢城)。
縁の無い地ではありますが瀬戸内の城のレポートをしていきたいです。
心残りは伊豆大島ですが登城の機会を伺っています!
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2023/06/18 20:58
調査の結果は性格不明の館跡 (2023/06/11 訪問)
紫波町からの帰路、奥州市衣川の接待館跡に立ち寄りました。ここは平成22年2月に国指定史跡「柳之御所・平泉遺跡群」としてに追加指定されています。この館には過去に二度来ているのですが、遺構の再確認をと思い立ち寄りました。この地はかつては仙台藩領であり、藩の官選地誌『風土記御用書出』には安永6(1777)年、膽澤郡下膽澤下衣川村の古館の項に「セツタヤ(接待)館 東西三拾壹間 東西六拾四間 秀衡朝臣御母公居館之由申傳候當時畑ニ罷成居候事」と記載されています。平泉藤原氏三代秀衡の母の館であったと伝わり、安永6年当時は畑地となっていたようです。
奥州市教育委員会のパンフを参考にすれば、館は中尊寺の北の衣川の対岸に位置し、東西120m、南北65mの楕円形、河に向ってコの字型に堀で区画された平場で構成され、さらにその中ほどには東西40m、南北20mの溝で囲まれた曲輪がある。堀跡、溝跡からは12世紀後半のかわらけが大量に出土しており、儀礼や宴会が行われた場所であることが判っています。また発掘調査の結果区画外の東側には12世紀の四面庇の掘立柱建物跡が1棟確認されていますが、区画内部には建物跡や井戸跡は無いことから、「館の可能性は低い」とのこと。しかし残された遺構を見れば、館の南側は衣川で、北、東、西側は柳之御所に匹敵する規模の堀、土塁で防御しており館の要件は充分満たしていると感じます。
近隣には平泉藤原氏以前の安倍氏に関連する史跡もあることから、安倍氏の政庁跡、また源義経が自害した藤原基成の屋敷「衣川館」の可能性も指摘されているようです。
この日は館跡に立ち、南の中尊寺の山を見ながら、平泉前史に想像をめぐらせることが出来ました。奥州平泉の遺跡群を訪問される機会があればぜひ立ち寄っていただきたいと考えます。
東北自動車道 平泉前沢ICより5分、平泉スマートICからは25分。
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2023/06/18 19:38
中野陣屋から徒歩圏内。 (2023/05/03 訪問)
高梨氏館は公園として地元住民に親しまれているようでした。うれしい反面,撮影タイミングには苦慮しました…<苦笑>。
おぉっ,赤い城さん,転勤ですか?
お互いの年代からすると,単身赴任?
先日のにのまるさんの「松江城クイズ」で,ご出身が出雲市と伺いましたので,ほぼ中間地点という中途半端な感があります。
どっちへ行くにも遠いという…。
新天地でのご活躍をお祈り申し上げます。
今後は「石垣」にも進化をとげるのでは…と推察します。
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2023/06/18 19:02
2023/06/18 18:58
津屋城 (2023/05/03 訪問)
【津屋城】
<駐車場他>本慶寺駐車場
<交通手段>車
<感想>日帰り木曾三川ちょこ城南下の旅4城目。津屋城の築城年代は定かではないが、現地説明板によると関ヶ原の戦いの時の城主は高木八郎左衛門正家の居城であったが、縁者の高須城主高木盛兼と共に西軍に従ったため東軍の攻撃を受けて落城しました。1603年に美濃高須藩領主の徳永寿昌の許しを得て移された本慶寺となりました。
本堂のある辺りが二の曲輪だったようです。山門の長屋門は当時の城門を転用したものと伝えられています。南側から西側にかけて空堀がありますが見落としました。
<満足度>◆◇◇
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2023/06/18 18:05
2023/06/18 11:43
白石城探訪 (2023/06/09 訪問)
木造復元天守閣の白石城を訪問しました。
白石駅から徒歩約10分で東口門跡に着きました。
まず、歴史探訪ミュージアムにて白石城の歴史を学習。ここでは、食事もでき、白石名物の温麺を堪能しました。
城内の見どころは、復元された大手二門と天守閣です。天守閣は木造で復元されていますので、鉄筋コンクリート造りとは異なる雰囲気があります。
ただ、雨の中での訪問でしたので、天守閣最上階からの景色は残念でした。
二の丸跡には白石市出身の横綱の銅像がありました(第18代横綱 大砲萬右衛門)。お城を背景に写真を撮りました。
また、城外には武家屋敷があります。時間があれば訪問するのも良いと思います。
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2023/06/18 04:38
2023/06/18 04:28
2023/06/18 04:21
恩智城址公園 (2023/06/17 訪問)
近鉄大阪線恩智駅にて下車、徒歩約10分で城址碑のある恩智城址公園へ行くことができます。遺構はないと思われます。近くに恩智左近の墓がありました。
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2023/06/18 04:18
古代と中世の城 (2023/06/17 訪問)
古代と中世戦国時代の両方の城が存在しています。
西信貴ケーブルに乗り高安山駅で下車して、まずは信貴山城の出城として築かれた中世の城址へ行きました。途中に高安山気象レーダー観測所があり、そこに説明が彫られている石碑があります。その先に城址はありますが、城域が道で分断されています。主郭とされる高安山周辺は土塁と思われる遺構がありました。道を隔てた反対側の遺構は空堀や土塁がよく残っています。時期的なこともあるかもしれませんが、かなり藪になっていて倒木もあり散策に難渋しました。
その後、古代高安城の倉庫跡を見に行きました。1号、2号、3号は見ることができましたが、4号、5号、6号は道が草でわかりにくくなっていましたので散策はしていません。来た道を戻り高安山駅からケーブルカーに乗って下山しました。
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2023/06/18 02:36
主郭はサクッと。あとはひたすら藪レンジャー。 (2023/01/05 訪問)
頴娃城は伴姓頴娃氏の居城であったと伝わります。
ポルトガル人商人 ジョルジ・アルヴァレスにより宣教師
フランシスコ・ザビエルを介してヨーロッパに最初に紹介された山城と伝わります。
かつては三層五階の建造物(天守と思われる)があったとされるが定かではありません。
いまでこそ主郭以外は藪に覆われ判別がしずらいのですが
土塁や虎口はしっかり残っていて、高い防御能力を備えた
堅固な城塞であったと思われます。
城跡に向かう道は未舗装の林道ですが近くまで来ることが出来ます。
南から北上する方法で城跡を見て回ります。
本郭の南 大堀切が郭を回り込むように続いています。
その次はいきなり本郭を攻めます。ここはきれいに整備されていて問題なく
散策できますが堀切をまたいで2郭を見に行くと、すでに藪に覆われています。
それでも周囲の土塁を確認することが出来ました。
次は虎口と6郭を経由して4郭を見に行きます。
急斜面をよじ登り藪漕ぎしながら侵入。土塁遺構がしっかり残っています。
次は8郭。崖のような斜面を登っていきます。
自分も3000以上の城を回ってきて、山城に直登するようなことをさんざん
やって来ているので、登れそうなところはカンでわかるのですが
はたから見ればただの変態です。
この城は本郭と大堀切を見たら、そのまま退散するのが正解でしょう。
8郭によじ登って扁平地を確認。やはり酷い藪で散策はそれほどできません。
このたびはここで引き上げることにしますが
地元の方が藪を刈って、整備してくれたらまた来るかもしれません。
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2023/06/18 01:42
削られつつも何とか残った加世田城 (2023/01/05 訪問)
加世田城は平安時代、平氏の流れをくむ別府五郎忠明によって築かれました。
加世田城(別府城)は福寿城・尼ヶ城・中之城の三城で構成されていましたが
明治36年に地ならしがされ、尼ヶ城の一部を残し削り取られてしましました。
現在城址碑の建っている城址公園はその尼ヶ城の残された部分になります。
加世田城は島津氏に吸収されたので当然麓が存在します。
一国一城令で薩摩は各地に残った城の麓に地頭を置き、いざという時に備えました。
加世田城も江戸時代は加世田麓として存在していたはずです。
まずは加世田城の残遺構を確認したのち、加世田麓の地頭仮屋に向かいます。
現在は加世田幼稚園になっているようです。
石垣のようなコンクリートブロックの奥にいかめしい門柱がたっていて
たしかに地頭が住んでいてもおかしくないような雰囲気を漂わせています。
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2023/06/18 00:14
元寇防塁② オール九州大土木工事。報酬ゼロ、お疲れ様でした。 (2022/12/31 訪問)
先ほどは生の松原と地蔵松原の元寇防塁を紹介しましたので、今回は残りの3つの
元寇防塁を紹介したいと思います。
③西新元寇防塁 国指定史跡 建治2年(1276)建造
所在地‥福岡市早良区西新7
④今津元寇防塁 国指定史跡 建治2年(1276)建造
所在地‥福岡市西区今津
⑤今宿元寇防塁 国指定史跡 建治2年(1276)建造
所在地‥福岡市西区今宿駅前1
西新元寇防塁は西南学院大学体育館の南側にあり、石碑が建っているので見つけやすいのですが
駐車場が無いので苦労します。堀を設ける形で石塁を露出しているので
かつての遺構がそのまま展示されているのかもしれません。
今津元寇防塁は長浜海岸の松林の中にあります。こちらも200mにわたって
堀を設けて遺構を展示してあります。そこから先は土中に埋まったままですが
わずかな高まりがあり表面に石が露出しています。
工事を担当したのは日向の国と大隅の国の御家人です。
今宿元寇防塁は道路沿いの長垂海浜公園の中にありました。
石塁の遺構は土に覆われ、今では高さ50cmほどの土塁状の遺構が連なっていますが
石がところどころに露出しています。
この2kmほどの防塁は豊前の国が担当しています。
こうしてみると工事を担当したのはすべて九州の御家人たちですね。
薩摩からすれば周防の方が近いんじゃないかと文句をいいたくもなるでしょう。
しんどい工事を延々続けて報酬がゼロじゃたまったものではありません。
この日はららぽーとで実物大νガンダムの立像を見てテンションが上がりました。
実はけっこうガンダムとかガンプラも好きなんですよ。
雨とか猛暑で城めぐりがきついときは家でクーラーかけてこつこつ作っていたりします。
あくまでも余談ですが。
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2023/06/17 23:38
元寇防塁① 生の松原と地蔵松原 (2022/12/31 訪問)
元寇防塁は鎌倉時代に博多湾一帯に元軍の襲来に備えて築かれました。
大隅国の石築地賦役文書によると田一反あたり一寸の割合で各国の御家人たちに労役が課され
鎌倉幕府が滅亡する前年まで工事は続けられたと伝わります。
かつては西は福岡市西区今津から東は福岡市東区香椎まで長さは20kmにも及んだといいます。
城びとの元寇防塁は生の松原のものですが、今回は5か所訪問しているので
一緒に紹介させていただきたいと思います。
①生の松原元寇防塁 国指定史跡 建治2(1276)建造
所在地‥福岡市西区生の松原1
②地蔵松原元寇防塁 国指定史跡 建治2(1276)建造
所在地‥福岡市東区筥松4
生の松原元寇防塁は当時の防塁が再現されています。実際の防塁は地中に埋められている模様。
この地は弘安の役の激戦地で「竹崎季長」が先駆けを務めたと伝わります。
肥後の国の御家人が工事を担当しました。
地蔵松原元寇防塁は現在公園になっています。国の史跡に指定されていますが
遺構はまったく見当たりません。地中に埋められているものと思いますが
すこし物足りなく感じますね。大正9年、平成5年と12年と3回にかけて発掘調査が行われて
それぞれ遺構が発見されています。
薩摩の国の御家人が工事を担当したと伝わります。
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2023/06/17 22:13
小早川隆景が大改修。博多湾に築かれた大水軍城。 (2022/12/31 訪問)
名島城は豊前の国の大友氏の庶流、立花艦載によって立花山城の出城として
築かれたと伝わります。
九州平定を果たした豊臣秀吉によって小早川隆景に与えられ、水軍の本拠と出来る
城に大改修されました。
コインパーキングに駐車して名島神社から城域に入ります。
名島神社への参道がその高低差を持ってこれから城域に入るのだと教えてくれます。
名島神社の背後に城址公園、周囲の宗栄寺、住宅地に至るまで丘陵地一帯が城址のようです。
神社も寺も宅地に至るまで全部郭だと考えると城の全体像がイメージできますね。
佐竹義宣の家臣、平塚滝俊がこの城を、島に構築された水軍城で城下町が形成され
直接大船を接岸できる上、石垣も天守も立派だったと伝えています。
小早川隆景が精力を尽くして素晴らしい水軍城を作り上げたのだと想像を掻き立てますね。
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