みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:大津山城 (2022/06/08 訪問)

女山神籠石からの転戦です。大津山公園駐車場(33.069161、130.550184)に駐車しました。

1396年(応永3年)に大津山資基によって築かれたと伝えられ、その後代々大津山氏の居城であったと云われています。
豊後の大友義鑑は肥後の菊池義武を鎮圧すると、1555年(天文23年)に小原城主の小原鑑元を城代として置きますが、1556年(弘治2年)謀反の疑いで鑑元は討たれ、再び大津山氏が城主となりました。
薩摩の島津氏の勢力が北上すると、小代氏とともに大津山氏も島津氏に降りますが、1587年(天正15年)の豊臣秀吉の九州征伐では開城して出迎え所領を安堵されました。
しかし、その後、肥後に入封した佐々成政によって所領を奪われ、一揆を起こしたが滅亡しました。
佐々成政に代わって加藤清正が北肥後に入封すると、加藤直政、加藤正次が城代として小代城より入りますが、1600年(慶長5年)鷹ノ原城を築いて移り廃城となりました。

大津山公園駐車場から遊歩道を登って行きました。遊歩道を少し甘く見ていました。段木あれど急こう配箇所が多く、汗びっしょりになりました。。
見所は巨大な竪堀と堀切です。主郭の先に堀切に架かる資基橋➡家稜橋➡新蔵橋➡鑑元橋が続きます。
鑑元橋に行く途中に大きなハチに遭遇してしまい、怖くて引き返した為、鑑元橋は見ていません。ビビりです。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=田中城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:女山神籠石 (2022/06/08 訪問)

蒲池城からの転戦です。女山神籠石入口付近(33.162689、130.519584)に路駐し、女山神籠石を確認した後、九州オルレみやま駐車場(33.163305、130.510459)に向かい、水門を確認しました。

遺構は南山腹部分に伸びる列石と土塁、そして西山麓に残る水門です。
水門は以下の4つがありますが、時間の都合で2つ(①横尾谷水門、②長谷水門)のみ見学しました。
①横尾谷水門(33.165450、130.512737)
②長谷水門(33.164320、130.512730)
③源吾谷水門(33.163300、130.512388):消滅
④産女谷水門(33.160896、130.512598)

詳細は不明です。663年(天智2年)に唐・新羅軍と対峙した日本と百済の連合軍は白村江の戦いにおいて大敗しました。
その後、大陸からの侵攻を恐れ西日本各地に築かれた古代朝鮮式山城の一つと考えられています。

九州オルレみやま駐車場の先に八楽会教団の立派な模擬天守がありました。
山麓の水門は入口に道標が出ています。
攻城時間は移動時間を含めて50分くらいでした。次の攻城先=大津山城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

高野山(和歌山県伊都郡高野町高野山) (2022/05/24 訪問)

高野山は平安初期に弘法大師空海が開創した真言密教の聖地で、標高1000m超の峰々に囲まれた東西5km、南北1kmの盆地に総本山金剛峯寺を中心とする数多の寺院が建ち並んでいます。高野山は戦国期には寺領17万石、3万の僧兵を擁し、根来寺や粉河寺と並ぶ紀北地方の一大宗教勢力であり、高野山自体は城郭ではないものの、周辺に小規模な城をいくつも配して防衛していたと考えられます。織豊期には織田信長の侵攻を受け(本能寺の変で頓挫)、羽柴秀吉の紀州攻めでは根来寺や粉河寺は焼亡しましたが、高野山は木食応其の仲介により武装解除して降伏し、その後は秀吉や徳川幕府の庇護を受け、江戸期を通じて寺領2万1000石が維持されました。

この日は高野山での仕事が思いのほか早く済んだこともあり、高野山霊宝館の企画展「鎌倉時代の高野山」を見学しました。一番のお目当ては一昨年に約80年ぶりに再発見された「承久記絵巻」で、承久の乱を描いた現存唯一の絵巻物であり、「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時の肖像を伝える絵画はこれだけなんだとか。江戸前期の作とのことで、本人に似ているかどうかは疑問ながら、精緻な筆致で色彩も鮮やかに描かれており、なかなか見応えがありました。その他、高野山だけに仏像が多く展示されていますが、仏像に全く疎い私でも快慶作の四天王立像(重文)には流れるような動きと迫力を感じました。

撮影禁止のため霊宝館内の写真はありませんが、まだ少し時間があったので、壇上伽藍から金剛峯寺までぶらりとひとめぐり。壇上伽藍は開創当初からの高野山の中心地で、開創1200年記念事業で再建された中門、高野山の総本堂たる金堂、日本最初の多宝塔とされる巨大な根本大塔、根本大塔と二基一対として建立された西塔、国宝の不動堂、空海が高野山の地主神として丹生明神と高野明神を祀った御社などが建ち並び、高野山町石道の起点として一町の町石が建てられ、空海が唐から帰国する際に真言密教布教の地を求めて投げた三鈷杵が架かっていたと伝わる三鈷の松(そのためこの松葉は三鈷杵のように三又に分かれています)や、落雷で焼失した大塔の再建を任じられた平清盛が空海と対面したと伝わる対面桜、西行手植えの西行桜など様々な伝承にちなんだ史跡が見られます。

蛇腹路を抜けて金剛峯寺へ向かう道中の石垣の上に建てられている鐘楼は福島正則が父母の菩提のために建立したもので、現在も午前6時から偶数時に撞かれることから六時の鐘と呼ばれています。金剛峯寺は秀吉が大政所の菩提のために建立した青巌寺を前身とし、主殿の柳の間は豊臣秀次が自刃した部屋として知られます(この日は外観だけで主殿には入っていませんが)。

他にも徳川家霊台や金剛三昧院、奥之院にも行きたいところですが、寄り道し過ぎるわけにもいかず、この日はここまで。近場ではあるので、休みの日にでもまたじっくりと訪れたいと思います。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:蒲池城 (2022/06/08 訪問)

生津城からの転戦です。石碑付近(33.186560、130.405008)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、天慶年間(938年〜947年)藤原純友の一族によって築かれました。
その後の蒲池氏の代々の居城となり、蒲池治久の時に支城として、柳河城が築かれ、後に本城が移されました。
蒲池氏は1581年(天正9年)蒲池鎮漣の時、龍造寺隆信に猿楽の催しに誘われ佐嘉に赴いた所を謀殺されると、龍造寺氏によって滅ぼされました。

遺構はなく、 国道385号線から崇久寺の西側の道路に入った所に石碑があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=女山神籠石に向かいます。

+ 続きを読む

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:生津城 (2022/06/08 訪問)

城島城からの転戦です。八幡神社入口横の空スペース(33.234595、130.459340)に駐車しました。

天正7年(1579年)西牟田家周によって築かれたと云われます。
西牟田氏は初代家綱が地頭職として入部以降、西牟田城を居城として大友氏に属して代々続きますが、耳川合戦の後は佐嘉の龍造寺氏に従い、生津城を築いて移りました。
その後、大友氏によって攻められ家周は城島城へ落ち延びたそうです。

八幡神社に城内にあったという大神宮と銘の付いた自然石があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=蒲池城に向かいます。

+ 続きを読む

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:城島城 (2022/06/08 訪問)

海津城からの転戦です。城島天満宮鳥居手前の空スペース(33.257211、130.428362)に駐車しました。

1583年(天正11年)西牟田家周によって築かれました。 西牟田家周は大友氏に属して生津城主でしたが、大友氏が耳川合戦で大敗した後、筑後に侵攻した龍造寺隆信に降り、城島城を築いて移りました。
1586年(天正14年)島津氏の勢力が北上した際に攻められ落城。西牟田氏は城を捨てて肥前へ逃れました。
1587年(天正15年)豊臣秀吉の九州征伐の後は、筑前国立花山城主であった立花宗茂が柳河城へ転封、その支城として重臣の薦野三河守増時が薦野城から城島4,000石を賜り城主となりました。
関ヶ原合戦で立花宗茂は西軍に属して改易となり、代わって筑後に入部した田中吉政は家臣の宮川讃岐を置きました。

城島小学校の北西側に城島天満宮があり、その境内に城島城の石碑と説明碑があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=生津城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:海津城 (2022/06/08 訪問)

江迎城からの転戦です。石碑&説明板前(33.291356、130.466841)に路駐しました。

1508年(永正5年)安武安房守鑑政によって築かれたと云われます。
安武氏は河内国より茨木重政が、大友義鑑に仕えて安武荘に下向し海津城を築いて、安武鑑政、後に鑑教と名乗ったことに始まるようです。
以後、代々安武氏の居城であったが、1576年(天正4年)龍造寺隆信が横岳下野守頼続を将として海津城を攻め、城主安武式部少輔鎮教は降伏、弟仲馬介政教は黒木氏を頼って落ちたそうです。

遺構はなく、田畑の中に石碑と説明板があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=城島城に向かいます。

+ 続きを読む

昌官忠

2022(対馬/五島/福岡/佐賀/熊本)4日目:江迎城 (2022/06/08 訪問)

蓮池城からの転戦です。江迎公民館駐車場(33.309778、130.431747)に駐車しました。
江迎公民館駐車場からウォーターランド江迎公園入口(33.309846、130.431120)に向かいました。

詳細は不明ですが、発掘調査によって鎌倉時代後期の遺物や掘立柱建物跡が見つかり、当時の在地領主(豪族)の館跡とされています。

公園内を一回りし、城址碑、説明板と水堀を確認。公園に三連水車がありました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=海津城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:蓮池城 (2022/06/08 訪問)

直鳥城からの転戦です。城址は西側の蓮池神社と佐賀江川を渡った蓮池公園です。
蓮池公民館駐車場(33.245878、130.359916)に駐車しました。

1429年(応永34年)小田常陸介直光によって築かれた小曲城がその前身です。 小田氏は常陸国小田城主であった小田氏の庶流だそうです。
1434年(永享6年)横武頼房が少弐の勢力を回復するために挙兵したときには、小田貞光もこれに参戦して渋川満直と戦いました。
1530年(永享3年)大内の軍勢を田手畷で敗った少弐氏でしたが、家臣の龍造寺家兼が勢力を伸ばすと、1530年(天文5年)少弐資元は大内義隆の家臣陶興房に攻められ自刃して果てました。
資元の子冬尚が頼ったのが蓮池城主の小田資光です。
少弐冬尚が再興すると小田政光はこれに仕え、1545年(天文14年)には水ヶ江城、1551年(天文20年)には村中城を攻めています。
しかし、1553年(天文22年)小田政光が城番を務めていた村中城が龍造寺隆信よって奪われると、政光の居城である蓮池城も攻められ、政光は龍造寺氏に降りました。
1558年(永禄元年)小田政光は龍造寺隆信の要請によって、少弐冬尚の家臣江上武種を攻め長者林で戦いました。
苦戦した政光は隆信に増援を求めたが隆信は援軍を送らず、政光は討死してしまいました。政光戦死の報を聞いた隆信は小田氏の居城である蓮池城を急襲して攻め落としました。
蓮池城を脱して落ちていた政光の子小田鎮光・朝光・増光は、その後帰参が許され龍造寺氏に従いましたが、1568年(永禄11年)小田鎮光は梶峰城へ移され、龍造寺長信が多久から蓮池城に移りました。
長信の後は龍造寺家晴、鍋島信生(後の直茂)、江上家種の居城となりました。
江上家種は龍造寺隆信の次男で鍋島直茂の嫡男勝茂を養子に迎えていました。
家種は1593年(文禄2年)文禄の役で渡海し釜山で討死しており、その後は鍋島氏が城主となった。
この時代の蓮池城には天守が存在し、一つ目は1590年(天正18年)に名護屋城に移しています。
その後天守が再建され、元和の一国一城令により廃城となったときに佐賀城へ移されたと云われています。
1654年(承応3年)鍋島直澄が蓮池城跡地に蓮池陣屋を構え蓮池藩となりました。
蓮池藩は1639年(寛永16年)佐賀藩初代鍋島勝茂の三男鍋島直澄が35,000石余りを分与され、その後に52,625石の所領を分与されたもので、蓮池陣屋を構えるまでは佐賀城三ノ丸に居住していました。

蓮池城は現在の蓮池神社(老朽化の為、解体済)と蓮池公園一帯に築かれていたようです。
蓮池神社の東側に公民館があり、ここに蓮池城の説明板が設置されています。
ナビで蓮池公民館駐車場のGPSを入力して向かったところ、細い道に誘導され、なかなか辿り着かなかった為、蓮池公園駐車場経由にして、やっと辿り着けました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=江迎城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:直鳥城 (2022/06/08 訪問)

姉川城からの転戦です。城址は直鳥環濠集落クリーク公園です。
直鳥クリーク公園駐車場(33.273658、130.370624)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、永正年間(1504年〜1521年)頃に犬塚家久によって築かれたと云われています。犬塚家久は蒲池氏の庶流崎村城主犬塚家貞の四男です。
犬塚氏は筑後国三潴郡犬塚郷発祥で、犬塚城を居城としていましたが、明応年間(1492年〜1501年)頃に肥前国神埼郡に移ったようです。
1560年(永禄3年)犬塚家清は嫡男尚家とともに大友氏に従って筑紫氏を攻めますが敗れ、宝満岳で戦死し、家督は鎮家(盛家)が継ぎました。
1570年(元亀元年)大友氏に属して今山の戦いで龍造寺氏と戦いますが敗れ、その後、龍造寺氏の攻撃を受け、犬塚鎮家は筑後に敗走し直鳥城は廃城となりました。

直鳥城はクリークを利用した平城で現在直鳥クリーク公園として整備されています。
平日の昼間からクリークで釣りをする人が、結構いらっしゃいました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=蓮池城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:姉川城 (2022/06/08 訪問)

高木城からの転戦です。入口前(33.226866、132.554942)に路駐しました。
城跡入口前(33.292960、130.349572)に路駐し、水掘り&姉川天満宮を確認。その後、農村公園入口前(33.291903、130.347376)に路駐して、公園遊具付近にある配置図を確認しました。

築城年代は定かではないようですが、1360年(正平15年)に菊池武安によって築かれたと云われています。
その後は菊池氏の庶流という姉川友安、姉川惟安、姉川信安などが城主でした。
姉川氏は戦国時代には少弐氏に、さらに龍造寺隆信に従属していました。隆信の勢福寺城攻めの際には、本陣として使われました。

クリークに広がる城ですが、どこまでが私有地なのか明確でなく、また藪が生え茂っており現地は天満宮あたりしか確認出来てません。
本丸入口である天満宮の入口に説明板、農村公園に配置図が設置されています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=直鳥城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:高木城 (2022/06/08 訪問)

水ヶ江城からの転戦です。高木八幡宮駐車場(33.282356、130.295586)に駐車し、入口市道側の説明板を確認。
その後、民家前にある城址碑と堀を確認する為、民家前城址碑(33.282618、130.294413)に向かいました。

久安年間(1145年〜1151年)に高木貞永によって築城されました。
高木氏の祖は藤原氏で、鎌足12代の後裔藤原隆家が大宰権師として赴任したことに始まります。
南北朝時代には、足利氏に属して豪族として強大な勢力を持っていたが、龍造寺氏との戦いに破れて衰退しました。

民家前に城址碑と堀があります。その他の遺構はないようです。
攻城時間は移動時間を含めて10分くらいでした。次の攻城先=姉川城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:水ヶ江城 (2022/06/08 訪問)

神代氏芦刈館からの転戦です。乾享院駐車場(33.242685、130.305363)に駐車しました。
龍造寺隆信公誕生碑(33.242814、130.305161)は駐車場横の「中の館児童遊園」の中にあります。

築城年代は定かではないようですが、文明年間(1469年〜1487年)に龍造寺康家によって築かれたと云われています。
村中城主龍造寺康家が文明年間(1469年〜1487年)に村中城を嫡男胤家に譲り隠棲して新館に移ったのが水ヶ江城の始まりだそうです。
康家が没すると龍造寺家兼が継いで西館・中館・東館などと呼ばれる周囲に堀を巡らせた五館の曲輪群を構え、水ヶ江城と呼ばれました。
この家兼の曾孫にあたるのが龍造寺隆信で、分家である水ヶ江龍造寺氏から出て本家である村中龍造寺氏も継承し戦国大名として勢力を伸ばしました。
水ヶ江城は現在の乾亨院一帯に築かれていて、乾亨院の西側にある小公園が龍造寺隆信誕生の地として市指定史跡となっており、ここに隆信公胞衣塚があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=高木城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:神代氏芦刈館 (2022/06/08 訪問)

千葉城からの転戦です。芦溝地区農村公園説明板前(33.238737、130.211814)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、神代氏によって築かれました。
山内の雄として龍造寺隆信と争った神代勝利が隆信と和議を結び、その所領は山内から平野部へと移されました。
1590年(天正18年)頃には芦刈・川久保・納所・松瀬などで約10,000石を領し、その所領を当地するために芦刈館が築かれました。
神代氏は佐賀城内の屋敷とは別に川久保にも館があったようです。

路駐の為、農村公園にある、ほとんど読めない説明板の写真を撮って、速攻で撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=水ヶ江城に向かいます。

+ 続きを読む

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:千葉城 (2022/06/08 訪問)

肥前国庁跡(城びと未登録 佐賀県佐賀市)からの転戦です。千葉公園駐車場(33.303321、130.206935)に駐車しました。
そこから、出城の展望台まで50mくらいです。展望台の先に千葉城石碑(33.302887、130.206365)が建っています。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代頃に千葉氏によって築かれたと云われています。
千葉氏は桓武平氏で下総国に住し、代々千葉介を称して千葉氏を名乗った一族で、千葉常胤が源頼朝の挙兵や奥州合戦で戦功を挙げ、肥前国晴気荘を与えられました。
千葉頼胤のとき、元寇で九州へ下向したが討死し嫡男の宗胤も下向しました。この宗胤の次男千葉胤泰が肥前千葉氏の祖となりました。
肥前千葉氏は小城・佐賀・杵島三郡に及ぶ勢力を振るったが、文明年間(1469年〜1487年)頃には千葉氏は内訌により分裂、少弐氏に属した晴気城の千葉胤資と大内氏に属した千葉城の千葉興常が敵対しました。
1497年(明応6年)大内義興は少弐政資を攻めると筑前を破棄した政資は晴気城へ逃れますが、さらに追い立てられ政資と千葉胤資は滅亡しました。これによって千葉興常は肥前守護代に任ぜられました。
大内義隆が討たれ、龍造寺隆信が台頭してくると千葉氏はその支配に組み込まれるようになります。
龍造寺隆信が有馬・島津連合軍と戦って敗死すると鍋島直茂が執政となり、近世佐賀藩の家臣として千葉氏は続きました。

主郭は城山山頂にあったようで、現在は無線中継施設や金毘羅社が祀られているようですが、時間の都合で行っていません。
千葉公園にある案内板と石碑を確認しました。展望台もあります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=神代氏芦刈館に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:肥前国庁跡(城びと未登録 佐賀県佐賀市) (2022/06/08 訪問)

帯隈山神籠石からの転戦です。肥前国庁跡駐車場(33.316978、130.274774)に駐車しました。

肥前国(現佐賀・長崎県)を統治するため国庁跡は8世紀後半に創建されました。
9世紀前半に国庁域が拡大して築地塀となり、後殿が造られ、東西の脇殿が長棟化して、すべての建物が掘立柱建物から、礎石建物に建て替わります。
更に9世紀後半には正殿に小翼廊が付き、南門に取り付く築地塀も特殊な構造となり、大宰府政庁とよく似た形状の建物配置となりました。
10世紀後半には国庁の役割を終えたそうです。

南門と脇の築地塀が復元され、前殿、正殿、脇殿の石垣と礎石の一部が残っています。
肥前国庁跡資料館(9:00~16:30)が隣接しています。古代山城や神籠石式山城の説明板があります。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=千葉城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:帯隈山神籠石 (2022/06/08 訪問)

堤土塁からの転戦です。列石付近(33.331770、、130.335091)に路駐しました。

663年(天智2年)に唐・新羅軍と対峙した日本と百済の連合軍は白村江の戦いにおいて大敗しました。
大陸からの侵攻に備えて大宰府を置き九州や瀬戸内各所に城を築きます。
この帯隈山神籠石もこの頃に築かれた朝鮮式山城の一つ神籠石型の山城と考えられているそうです。

帯隈山神籠石は帯隈山一帯に築かれた神籠石です。
土塁と列石が見学でき説明板もあります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=肥前国庁跡(城びと未登録 佐賀県佐賀市)に向かいます。

+ 続きを読む

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:堤土塁 (2022/06/08 訪問)

綾部城からの転戦です。石碑付近(33.347401、130.423752)に駐車しました。

土塁が造られた時期は7~8世紀と考えられているそうです。
農業用水を蓄える灌漑施設説、大宰府などの防衛施設説、または古代の道路説などの諸説があるみたいです。

現在は、堤土塁跡歴史公園となっており、幅広の土塁が東西に伸びています。
東側には空堀があり、木橋が架かっていますが、立入禁止になっており、中にはいれません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=帯隈山神籠石に向かいます。

+ 続きを読む

todo94

県内の城めぐり2022㉗ (2022/05/28 訪問)

城びと登録物件でJR長野駅最寄りの城となりますかね。ちなみに善光寺口ではなく、東口側です。周辺の道は入り組んでいて細いので鐵道でのアプローチがお薦めです。日吉神社の境内の一角に説明板と城址碑がありました。

+ 続きを読む

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:綾部城 (2022/06/08 訪問)

柳川城からの転戦です。
宿泊ホテルから西鉄柳川駅➡西鉄久留米駅に電車で向かい、西鉄久留米駅でレンタカーを借り、綾部八幡神社駐車場(33.360465、130.441806)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、1159年(平治元年)頃に藤原通良によって築かれたと云われています。
1159年(平治元年)藤原通良は平氏に対して蜂起したて籠りますが、平氏の大軍に包囲され落城しました。
鎌倉時代に通良の子通俊が綾部荘を賜わり、綾部氏を名乗って居城としました。
その後は九州探題方の拠点として利用され、永正年間(1504年〜1521年)には九州探題渋川氏を追って大宰少弐武藤氏の居城となりましたが、大宰少弐武藤氏は1571年(元亀2年)滅亡しました。
その後は筑紫氏の城となっていましたが、天正年間(1573年〜1592年)頃には龍造寺氏の家臣綾部鎮幸が城主となっていました。
綾部城は別名=宮山城とも呼ばれるそうですが、一般的に綾部城はこの辺り一帯の城郭群(少弐山城、白虎山城、臥牛城など)を指しているそうです。

綾部城は綾部八幡神社の北西背後にある宮山に築かれおり、綾部八幡神社境内北西側から遊歩道があり、そこから登っていきます。
登り口から北少し行くと、南西側に曲がりその道を進むと折り返しになって、北側に進むと「城ダン」と呼ばれる3郭の虎口に着きます。土塁の側面部に岩があります。
3郭虎口の脇から上に登ると2郭、さらに進むと主郭です。主郭は山頂にあり中央に一段小高い土壇があって宝塔が祭られています。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=堤土塁に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ477