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城とマスク

栃木のお城巡り (2021/05/03 訪問)

宇都宮城に行った後宇都宮餃子を食べて帰りました。
マスクはHAYASHI製金旧ラメ5色革です。

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tt

小田原城

何度行ってもいい城

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:古麓城 (2022/06/09 訪問)

黒淵城からの転戦です。県道158号春光寺入口(32.491785、130.635013)から進入し、春光寺横を南東に100m進むと駐車場があります。
今回は時間の都合で、駐車場から400m先にある新城のみ攻城しました。

築城年代は定かではないようですが、内河義真によって築かれたと云われています。
隠岐を脱した後醍醐天皇を伯耆国船上山に迎え、倒幕の兵を挙げた名和長年は、鎌倉幕府が滅亡すると、その功により嫡男義高に肥後国八代庄の地頭職が与えられました。
1335年(建武2年)一族の内河義真が代官として八代に下向し、南北朝初期の争乱により城を築きました。これが八代城で現在古麓城と呼ばれています。
1459年(長禄3年)名和義興が十六才のときに殺害されると、幸松丸は元服して名和顕忠と名乗りました。
文明年間(1469年〜1487年)になると名和氏は相良氏と敵対するようになります。
1482年(文明14年)名和顕忠が高田に侵攻するが相良為続に撃退され、1483年(文明15年)には相良為続が逆に八代へ攻め入り古麓城は落城しました。
相良氏は一度退いたが、1484年(文明16年)に再び八代に侵攻してくると名和顕忠は古麓城を捨てて逃れました。
1499年(明応8年)相良氏は豊福で菊池能運と戦って敗れると、勢いに乗じて八代へ侵攻した菊池軍に追われ、八代の地は再び名和氏が復帰しました。
1504年(文亀4年)相良長毎が八代へ侵攻すると、名和顕忠は古麓城を明け渡し、木原城を経て宇土古城へ移りました。
1534年(天文3年)には相良義滋(長唯)によって城の拡張と城下町の整備が行われ、自ら移って居城としました。
豊臣秀吉の九州征伐の後、肥後に入封した佐々成政は肥後国人一揆により改易となり、代わって加藤清正と小西行長が入封します。
八代は小西行長の所領となり、古麓城は廃され麦島城が築かれました。

古麓城は近世の八代城が築かれる前の中世の八代城で、八町嶽城・鷹峰城・鞍掛城・丸山城・新城・勝尾城・飯盛城の総称と云われています。
1334年(建武元年)~1484年(文明16年)までの名和氏時代は、飯盛城を主城として丸山城(新城の尾根続きの西)・鞍掛城(新城の尾根続きの南)・勝尾城・八丁嶽城(八丁山山頂)の五城にて構成されていました。
1484年(文明16年)~1581年(天正9年)までの相良氏時代は、新たに主城の鷹峰城(新城の尾根続きの鞍掛城の南)とこの新城を築き、七城にて構成されていました。
全て古麓山(八丁山)の尾根筋に点在していて、2つの堀切で隔たれる北の勝尾城と、球磨川に面した小高い山の上にある南の飯盛城、山深い最頂部にある八丁嶽城を結ぶ三角形が、おおよその古麓城の位置となるそうです。


ピンクのテープを頼りに登っていきます。方向音痴の自分はピンクのテープがなければ確実に迷子になっていました。
登城路に石積がありましたが、遺構かどうかは不明です。遺構として堀切は確認できました。
攻城時間は55分くらいでした。次の攻城先=田川内城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:黒淵城 (2022/06/09 訪問)

堅志田城からの転戦です。黒渕河川自然公園駐車場(32.533990、130.719230)に駐車しました。

黒渕城の詳細は不明ですが、南北朝時代に少弐頼尚と恵良惟澄で争奪されたと伝わります。

現在城址には郭・櫓台の遺構を確認することができ、山頂の主郭部に説明板が設置されています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=古麓城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:堅志田城 (2022/06/09 訪問)

御船城からの転戦です。梅村神社標識林道入口(32.631326、130.797108)から進入し、神社前を道なりに1Km進むと城跡Ⅰ郭下の駐車場に着きます。

築城年代は定かではないようです。
阿蘇惟長(菊池武経)は弟の阿蘇惟豊に敗れて本拠を失い、惟長の子・惟前は1523年(大永3年)に当城に入りました。
惟前は相良氏と結んでいましたが、1543年(天文12年)に落城し、当城は惟豊方の支配下となりました。
1582年(天正10年)に島津氏が八代城まで進出した後は阿蘇領の最前線となりました。1585年(天正13年)に甲斐親直が死ぬと当城は攻め落とされて島津氏の番城となりました。
1587年(天正15年)豊臣秀吉による九州征伐がおこなわれると、島津氏は堅志田城を放棄して薩摩に撤退しました。

連続堀切は草が多く&深くて、よく見えません。時期が悪かったです。
皆さんの投稿通り、Ⅰ-②郭やⅡ郭方面への案内表示はありますが、道が崩落していて行くことが出来ませんでしたので、遠景の写真を撮って撤退しました。
堅志田城を車で下山中に野生の鹿に遭遇し、一瞬ドキッとしました。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=黒淵城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:御船城 (2022/06/09 訪問)

愛藤寺城からの転戦です。城山公園駐車場入口(32.714417、130.800272)から進入して、城山公園駐車場に駐車しました。

築城年代は定かではないようです。 阿蘇惟長によって日向国に追われた阿蘇惟豊は、甲斐親直(宗運)の助けで惟長を追って復帰します。
その後、阿蘇惟豊の命で御船城主御船房行を討った甲斐宗運は、御船城主となりました。
宗運は御船城を居城として勢力を持ち、大友氏と阿蘇氏の間に立って重要な役目を果たしますが、耳川の合戦で大友氏の勢力が衰えると、島津氏の命で攻め寄せた相良義陽を響ヶ原で討ち取るなどの戦功をあげました。
宗運が亡くなると島津氏が北上して益城郡の諸城を落とし、御船城主甲斐親英は城を捨てて退散しました。
1587年(天正15年)の九州征伐で島津氏が去ると佐々成政が肥後に入り、肥後国人一揆が起きました。一揆に参画した親英が処刑され、甲斐家は滅亡しています。
一揆鎮圧のため御船城には1588年(天正16年)3~5月頃まで黒田孝高が城番として入り、続いて小西行長の支配下に入りました。
関ヶ原の戦いの後は加藤清正の領地に組み込まれ、清正は城の石垣を御船川の改修や若宮堰の建設に使ったとされます。
その後、一国一城令発令の時点で御船城の原形は既になく、1651年(慶安4年)に江戸幕府が肥後国内の古城を調査した際、曲輪250間と記されているそうです。

現在は城山公園となり一画に城山天満宮が建っていますが、 甲斐宗雲の居城跡としては、些か寂しいですね。
ちなみに、「信長の野望」に出てくる甲斐親直(宗運)は僧侶姿で能力が高かった。息子の甲斐親英は無能でしたが。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=堅志田城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:愛藤寺城 (2022/06/09 訪問)

高森城からの転戦です。県道180号の林道入口(32.651431、130.988031)から進入し、林道上の空スペース(32.646410、130.988157)に駐車しました。
林道上の空スペースに行く途中に城門標柱、二の丸(32.647599、130.988702)があります。本丸はこの位置(32.646563、130.987628)です。

築城年代は定かではないようですが、1222年(貞応元年)に阿蘇大宮司惟次によって築かれたとも云われています。
阿蘇氏の後は豊臣秀吉の家臣で佐々成政、さらに宇土城に入った小西行長の所領となり、その家臣結城弥平次が城代となりました。
この小西氏の時代に大規模に改修されたとも云われ、城内から出土したクルス瓦(十字架と聖旗が描かれたキリシタン瓦)は、この弥平次がキリシタンであったからとも考えられています。
関ヶ原合戦後に小西氏が改易となると熊本城主加藤清正の所領となり、加藤氏の家臣長尾豊前守善政、加藤正直が城代となりました。
この加藤氏の時代にも城が大改修され三重の天守が聳えていたといわれています。

県道180号から入る林道はかなり狭いですが、進んで行くと広くなります。
本丸は畑で、その北東の土壇の上に説明板と標柱があります。
本丸の西に空堀を隔てて西にあるのが三の丸、本丸の北が二の丸のようですが、二の丸へ続く道には鎖があり進入禁止のようです。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=御船城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:高森城 (2022/06/09 訪問)

長野城からの転戦です。城址碑&標柱付近(32.816235、131.138172)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に高森惟直によって築かれたと云われています。
1586年(天正14年)に島津氏によって攻められ落城しました。

城址碑&標柱は高森側から国道325線を走ったとすると高森4号随道の出口山側にあります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=愛藤寺城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:長野城 (2022/06/09 訪問)

木山城からの転戦です。長野公民館駐車場(32.862054、131.018720)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、戦国時代に長野氏によって築かれたと云われています。
天正年間(1573年〜1592年)に島津氏が南郷に攻め寄せた時、長野城主長野惟久は南郷城へ入り島津軍と戦ったが敗れて討死しました。

城は長野阿蘇神社の所にあり、拝殿裏側に堀と土塁が残っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=高森城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:木山城 (2022/06/09 訪問)

千葉城(城びと未登録 熊本県熊本市)➡宿泊ホテルからの転戦です。木山城跡公園駐車場(32.788636、130.821349)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、木山氏によって築かれたと云われています。
木山氏は阿蘇氏の一族で六ヶ荘木山郷の地頭職を得て代々続きました。
1547年(天文16年)に木山惟久は赤井城を築いて移り、木山城は家老竹崎筑後を城代としました。
1585年(天正13年)島津氏によって攻められ赤井城とともに落城しました。

現在は木山城跡公園となっていますが、朝の渋滞に巻き込まれて到着が予定より20分遅れました。
説明板によれば周囲に空堀、竪堀らしき遺構が残っているとのことですが、わかりませんでした。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=長野城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:千葉城(城びと未登録 熊本県熊本市) (2022/06/09 訪問)

熊本城からの転戦です。加藤清正公像から千葉城公園石碑前(32.806050、130.709385)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、応仁・文明年間(1467年〜1487年)頃に出田秀信によって築かれたと云われています。
その後、鹿子木氏が熊本古城を築いて居城を移した為に廃城となり、加藤清正が熊本古城と千葉城を含む広大な敷地に近世熊本城を築きました。

熊本城の東側にある小高い丘が千葉城跡で南東側に千葉城公園がありますが、千葉城跡への階段は進入禁止になっていました。
加藤清正公像から千葉城公園に向かう途中に高橋公園に寄り、横井小楠をめぐる維新群像などの像を見ました。
千葉城公園の道路を隔てた反対側の空地に復旧用の石垣が置かれていました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=木山城を目指す前に、一旦ホテルに帰り朝食を取ります。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:熊本城 (2022/06/09 訪問)

朝早く起きて、ホテルの朝食前に散歩がてら熊本城と千葉城(城びと未登録 熊本県熊本市)を攻城しました。
熊本城の攻城は2回目です。今回は復興した熊本城を確認する為に来ました。
1回目(2018/10/22)の攻城は「クラブツーリズム九州7県日本の名城13制覇4日間」のツアーでした。
2016年4月に発生した地震から2年半経過した時で、大天守は復興中、戌亥櫓の石垣は崩れたままでした。

朝早いので天守には入れませんが、宿泊先のホテル➡加藤神社鳥居(32.807093、130.704548)➡行幸坂経由➡清正公像(32.802638、130.704820)➡千葉城公園石碑前のルートで廻りました。
前回、倒壊した姿を見ているだけに復旧された天守閣(大天守&小天守)を見ると感無量ですが、まだまだ石垣など復旧半ばなものも多く、復旧完了までは時間がかかりそうです。
ホテルから熊本城が正面に見えたので、こちらの写真も併せて投稿します。
攻城時間は移動時間も含めて40分くらいでした。ホテルに戻る前に千葉城(城びと未登録 熊本県熊本市)を確認して戻ります。

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todo94

県内の城めぐり2022㉘ (2022/05/28 訪問)

4月30日にパスしてしまった横山城。この日はまだ、午前中の早い時間だったので、恐る恐る向かってみました。善光寺御開帳開催中で、カーナビには善光寺の北側にかなりの渋滞表示。横山城の周辺は大丈夫でした。健御名方富命彦神別神社(水内大社)あたりは、城の遺構らしさも感じることが出来ました。説明板は道路となっている堀切の対岸、城山公民館側にあります。

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城とマスク

雪の白石城 (2018/02/20 訪問)

雪国なので雪の白石城に行きました。
マスクはラゴーシャン製

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城とマスク

兵庫のお城巡り (2020/02/03 訪問)

明石城を見学した後明石焼きを食べました。
マスクはラゴーシャン製

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城とマスク

山形のお城巡り (2020/07/24 訪問)

2年前に行って来ました。
マスクはラゴーシャン製で絶版のチェーンラメを使用してます。

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城とマスク

長野のお城巡り (2020/09/22 訪問)

松本城の帰りに寄りました。
マスクは世界のHAYASHI製でヴィトンの革を使ったマスクです。

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城とマスク

千葉のお城巡り2 (2021/06/21 訪問)

去年の6月に大多喜城の後に行きました。
マスクはメキシコ製です。

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城とマスク

千葉のお城巡り (2021/06/21 訪問)

去年の6月に行ったお城です。
マスクはメキシコのローリン製虹色メタルジャージ生地

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ぴーかる

箸尾城 (2022/05/08 訪問)

【箸尾城】
<駐車場他>駐車場はなし。近鉄箸尾駅前にコインPあり。
<交通手段>近鉄箸尾駅より徒歩

<感想>日帰り列車で奈良盆地1周ちょこ城巡りの旅ラスト6城目。現地説明板によると箸尾城はほぼ二町(220m)四方にわたる環濠集落の平城であったといわれている。城主の箸尾氏は室町時代の大和国土豪で興福寺一乗院方に属し大和四家の一つといわれた豪族である。
 遺構はほとんど残っていないようで城跡碑、説明板がある場所と北側に回って畑になっている城びとポイント、大福寺を巡りました。

<満足度>◆◇◇

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