(高城①からの続きです)
高城本丸跡から眺めた合戦場の写真を元に、よければ私が作った解説図を見ながら読んでいただければと思います。
日向を追われた伊東氏の要請を受け、豊後の大友宗麟は全軍をもって出陣します。しかし、宗麟は途中の日向(ヒムカ)の地で、キリスト教の理想郷(ムシカ)を作る事に没頭し始め、そこから動きません(これが大友家臣団の不協和音を作ってしまいました)。
大友軍本隊はその南25kmにある山田有信とその援軍の島津家久らがわずかな兵で守る高城を攻撃します。しかし、なかなか簡単に落ちません。そうしているうちに、島津本隊が到着。根白坂に陣を構えたため、大友軍(3万5千)と島津軍(3万)が、高城川(現:小丸川)を挟み対峙します。そして、
① 島津義久(総大将)の旗印を初めて見た大友軍は、敵総大将が自ら出陣してきたのを知り、血気にはやる佐伯宗天・田北刑部は、もはやじっとしていられず、宗麟が制止命令を出していたにもかかわらず川を渡り突進して行きます。
② 義久隊は応戦しますが、ひるんだと見せかけ兵を引きます(ここが罠!)。佐伯・田北両隊は、義久の首を上げる最大のチャンスとばかりに、競うように敵陣奥まで深追いします。
③ すると、山の両側に隠れていた島津以久・島津義弘が山を下り佐伯・田北両隊を取り囲みます(三方から囲まれる)。
④ これを見て両隊が危ないと悟った後詰めの田原紹忍が助けに行きます。
⑤ それを見て高城に籠城していた島津家久・山田有信が城から下り討って出て背後より攻め、大友軍全軍は四方から島津軍に完全に囲まれてしまいました。これにより、大友軍は大敗北を喫してしまいます。😩~
この後、傷を負った大友軍の生き残りの将兵は豊後へ逃げ帰ろうとしますが、途中の日向の耳川まできたところで雨により水位が増して川を渡れず、そこへ島津軍が追ってきたため、ある者はそこで討たれ、ある者は川で溺れて、戦死者の数は膨大に増えてしまいました。高城川と耳川で合わせてその死者数は1万とも2万とも言われています。この負戦により、九州六ケ国の大大名であった豊後大友氏は、この後、没落の一途をたどる事になってしまいました 😱~。
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