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しんちゃん

コンパクトだけど、防御は完璧。枡形虎口に庭園まで備えた館跡。 (2023/01/02 訪問)

隈部館は標高340mほどの平坦地に築かれています。
城主は隈部氏で隈部親永が天正8年(1580)に隈府城に移るまで隈部氏の
居城でした。コンパクトな造りで、それほど大きくは無いのですが
南側の馬場はしっかりと土塁で固め主要部との間に堀切を設けています。
さらに入口には石垣で固めた枡形虎口があり今でもほぼ完ぺきに
その姿をとどめています。これだけでもテンションはあがりますが
主要部内部には建物跡礎石群と庭園跡があり、今でも庭の石を見ることができます。
さらに小高い箇所が神社になっておりますが、これはかつての
物見の場所だったのでしょうか?
神社の背後にもはっきりと形のわかる堀切があり、
背後の守りも完璧なようです。
さらに二つも詰めの城を持っていたようなので
大軍に攻められたら、そこに籠城するつもりだったのでしょう。

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しんちゃん

見事な磨崖仏が守護する和仁氏の城 (2023/01/02 訪問)

田中城は肥後の国衆、和仁氏の城です。
佐々成政と地元の豪族がもめた時(いわゆる国衆一揆)、和仁氏もそれに
加わりました。小早川隆景、安国寺恵瓊らに加え鍋島直茂、立花宗茂などそうそうたる
大名の軍勢が田中城を包囲します。
40日の籠城の末、内部の裏切りで田中城は落城しました。(現地案内板)
城の総面積は約8万m2(平方メートル)で主郭は約1700m2です。
今回は北部から直接攻めたのですが、なかなかネイティブな遺構が残り、
縦長の郭、段々の郭、大堀切が待ち受けます。
主郭に突入すると雰囲気はごろっと変わり、まるでよく整備された公園のようです。
ですが主郭を出ると、すぐにネイティブな遺構が現れます。
南側の降り口ははっきりしており、登城は南側がおすすめのようです。
城の西側の道を歩いて、城の岩肌をながめながら戻るのですが、
高さ3mくらいのところに磨崖仏を発見しました。
どうやら田中城の守護仏のようです。敢え無い最期をとげた田中城ですが
国の史跡として恥じない見事な遺構であったと思います。


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じゅんじん

公園 (2023/05/14 訪問)

団地の中の大きな公園でした。遺構は見当たりませんでした。

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しんちゃん

菊池氏の元城。十八支城。看板がちょっと読みにくい。 (2023/01/02 訪問)

菊の池城は別名を菊池古城といい太宰府の府官だった藤原則隆が
館を構えたところで、南北朝の時代に菊池氏が守山城の本拠を移し
菊の池城はその十八支城の一つになりました。(現地案内板)
広い畑地の中に明らかに他とは違う高まりがあり
城の形状は非常にわかりやすいです。
方形の広い敷地を持つ城で、かつてはいろいろな防御設備を備えていたと
考えられます。
肝心の城跡は枯草がぼうぼうでいささか歩きづらい‥。
説明の書かれた立札が立っているのですが字が消えかかっています。
貴重な情報源が‥。
もう一つの看板に申し訳程度に紹介が張り付けてあるのですが
こちらの看板も書き直してくれると有り難いです。

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カズサン

上越市未踏の城廻Ⅰ (2023/06/17 訪問)

 3年位前から越後直峰城探訪を願って居ましたが季節タイミング又天気の模様が中々合わずうずうずしてましたが、先週の初めに週間天気予想で3日程晴れる17、18、19日を狙ってホテルを2泊予約し、念願の直峰城と周辺の未踏城郭登城を企画。

 車を飛ばし新東名、中部縦貫道、中央道、長野道、上信越道経由箕冠城へ。
 情報ガイドは、古城盛衰記さん余湖図コレクションさんグーグルマップにて林道入口、駐車場にナビを合わせる。

 駐車場:箕冠城登城口前にアスファルト舗装駐車場完備、10台以上可能(37°01'27"N 138°18'18"E h=190m) 要所要所に案内板が出ています、林道は約900m程で駐車場へ、道は林道脇に夏草が茂ってますが問題なくアスファルト舗装です。

 登城口からクヌギ林の道を登り比高は約40~50m、木漏れ日と小鳥の囀り風が心地よい、程なく鎧井戸へ道を降りて見学、周辺に土塁跡、戻り曲輪下には笹ゆりの群生、開花は終わったのかなと、よく見ると小さな蕾があり開花前、咲けば素晴らしい光景でしょう。  
 程なくして二の丸下に箕冠清水と称される池が水と睡蓮が咲いてる、登り二の丸上に横堀が長く伸び、土橋から上段の帯曲輪へ馬出を経由し堀、竪堀を渡り本丸へ、眺望は絶景、少し霞んでいましたが上越市市街地日本海が見えます。
 余湖図コレクションさんの縄張俯瞰図では箕冠清水の南側に土塁横堀東西に長く伸びて居るようですが草も茂っており、踏み込みませんでした。トイレは二の丸城名碑の横奥に在ります。
 整備はされており上越市でも関心をもって保全されている、夏場は草が茂り踏込み躊躇しますが登城路は問題ありません。

 歴史は、上杉謙信の武将、大熊備前守朝秀の居城、川中島合戦当時は前進基地の飯山城との関係から重要な城であったが謙信が川中島合戦から引いた後は、あまり必要なくなり廃城と成った。(案内板抜粋)

 箕冠城はこじんまりと山頂に曲輪、馬出、横堀、土塁、空堀、竪堀、水の手の箕冠清水、鎧井戸など戦国時代の遺構がよくまとまってる。比高も低く私の体力脚力で十分楽しめました。
 当日2名の方が訪ねられていました。
 
 

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しんちゃん

空にそびえる白銀の城ってこれは!? ららぽーと編 (2022/12/31 訪問)

元寇防塁をひとしきり回るついでに、ららぽーとの実物大のν(ニュー)ガンダム
を見てきました。
通常のガンダムが18m位の大きさに対してνガンダムは22~23m位の大きさがあるんですね。
すぐ近くにビルがあるので対比で余計にでかく見えます。
ここのGUNDAM SIDEーFでは限定のガンプラを販売しております。
北へ数kmのキャナルシティにも行ってきました。
ラーメンスタジアム すごい行列ですが
本場の豚骨ラーメンうまかったです。
このあと虹の松原の元寇防塁に向かいました。

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赤い城

竜ヶ井城 茨城県桜川市 (2023/06/11 訪問)

モトクロス場が登城口になっています。
手作りの案内板が設置してあり、それに沿って登って行きます。
この城の見所は常陸名物の堀底道です。
郭の下を長めの堀底道が走っています。
主郭からさらに進む百貫石のあたりにも堀底道があるようですが時間の都合で向かわず下山。
今度は神社方面に下って行きました。
下りて行くとここにも堀底道が。
竪堀のようになっていました。
結構深いです。
真壁城とか行かれた際にはお立ち寄り下さい。

朝田さん、コメントありがとうございます。
優秀でもないですし引き抜かれた訳でもなさそうかと。
とりあえず讃岐で家探してきました。
折角なので四国コンプしたいですね。

その前に伊豆大島、機会を伺っています。

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ぴーかる

高須城 (2023/05/03 訪問)

【高須城】
<駐車場他>駐車場はないが、城跡公園の横の道は広いです。
<交通手段>車

<感想>日帰り木曾三川ちょこ城南下の旅6城目。高須城は南北朝時代の1338年に美濃国石津郡の地頭となった氏家重国が館を築造したのが始まりとされます。1592年には豊臣秀吉に仕えた高木盛兼が1万石を与えられて領主となりました。関ヶ原の戦いでは高木盛兼は西軍に付き東軍の徳永寿昌に攻められて城を退却します。関ヶ原後は功により徳永寿昌が入封し約5万石で高須藩を立藩します。第2代藩主徳永昌重の時に改易になり一旦廃藩となったりしますが、江戸時代中期以降は名古屋藩の支藩として幕末を迎えます。水害が多い地域だったようです。現在遺構は残っていないようで城跡公園に寄りました。

<満足度>◆◇◇

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朝田 辰兵衛

せっかく,鴨ヶ嶽城まで来たなら…~鎌ヶ嶽城~ (2023/05/03 訪問)

せっかく,鴨ヶ嶽城まで来たなら,鎌ヶ嶽城までどうぞ。鴨ヶ嶽城主郭に到着するとパネルがあり,さらに背後の堀切を超えると鎌ヶ嶽城まで行けます。鎌ヶ嶽城は整備の手が回っていない様子でした。主郭は石積みで方形に囲っていた模様。ところどころ痕跡が伺えます。せめて碑かパネルぐらい欲しかったです。

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朝田 辰兵衛

中野陣屋,高梨氏館まで来たなら…~鴨ヶ嶽城~ (2023/05/03 訪問)

中野陣屋,高梨氏館まで来たなら,ためらわず鴨ヶ嶽城までどうぞ。主郭に到着するとパネルがあり,さらに背後の堀切を超えると鎌ヶ嶽城まで行けます。鎌ヶ嶽城は整備の手が回っていない様子でした。主郭は石積みで方形に囲っていた模様。ところどころ痕跡が伺えます。せめて碑かパネルぐらい欲しかったです。

赤い城さんへ。
てっきり出雲と伺って「出雲市」と勘違いしておりました。また,大阪府内を散策されていましたので,さすがに四国の高松とは予想だにしませんでした。てっきり関西エリアかと…。
大変に失礼いたしました。
とても優秀な人材ということで,一本釣りで引き抜かれたのかな…という印象を受けました。
新天地でのご活躍をお祈り申し上げます。
さて,四国は回るのが大変なイメージがつきまとっています。
高松からはとくに,宇和島城や河後森城は遠い気がします。
それでも,赤い城さんはクールにコンプリートしそうな予感…。

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10Q-Nobu

強引に来て良かった。 (2023/06/19 訪問)

別府旅行の帰り道、近くまで来たので、予定にない杵築城を訪れてみました。
オススメスポットは城下町らしいのですが、最寄り駅から結構距離があり、帰りの時間が迫っていたので天守だけでも見て行こうと向ったら、海に面した段丘に建つ天守が映えて何枚も写真撮ってしまいました。
城下町含め改めてゆったり見て回りたい城でした。

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todo94

天草の城① (2023/05/03 訪問)

ゴールデンウィーク後半の連休前夜は広島のネットカフェでの前泊。同じことを考えている人は多く、最後の1ブースに何とか潜り込んだ次第です。始発のさくらで熊本に向かい、レンタカーを借り受け天草へ。宇土半島から渋滞に巻き込まれてしまい、久玉城は断念しました。世界遺産の構成資産である崎津集落を散策した後、河内浦城へ。訪れる人は少なそうですが、しっかりと公園として整備されている城でした。麓には資料展示館があり、崇圓寺は館跡とのことです。富岡城が圧倒的な存在感を放つ天草の城ですが、河内浦城もおすすめです。

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トク

㊽【関ケ原の26人】(19)藤堂高虎 (藤堂高虎陣跡(藤堂高刑と湯浅五助)) (2022/12/01 訪問)

(19人目)「藤堂高虎」の続きです。
関ケ原の藤堂高虎陣跡と大谷吉継の墓を訪れてきました。

藤堂高虎は、脇坂・朽木・小川・赤座の4諸将を調略し、大谷吉継を追い込みました。しかし、ここで美しい話があったのでそれを御紹介します。

大谷吉継は「もはやこれまで」と最後に自刃します。その時、家臣の「湯浅五助」に介錯させ、「我の病み崩れたこの醜い顔を敵にさらしてはならぬ!」と命じて死にました。五助は山中をさまよい、ある場所に吉継の首を埋めます。その時、その場所を通りがかったのが高虎の甥「藤堂高刑(たかのり)」です。高刑は「それは吉継の首であろう」と問い正します。五助は吉継の言葉を伝え、「私の首と引き換えにここに埋めた事を秘してほしい」と頼みます。高刑は約束し五助の首を取りました。

高刑は五助の首を高虎に差し出し報告します。その詳細を高虎から聞いた家康は、高刑を呼び出し「吉継の首が埋められた場所を知っているであろう」と問い正しました。しかし、高刑は約束を守り頑として言いません。最後に家康は、言えば大手柄になるにもかかわらず、言わない高刑を褒め称え、自分の槍と太刀を与えたという秘話がありました。

しかしその15年後、高刑は大坂の陣で長宗我部盛親と戦い討死してしまいます(何と皮肉なものです)。今ある大谷吉継の墓は、その翌年の1616年に藤堂高虎によって首が埋められていた場所に建てられたものです。そしてその傍らには湯浅五助の墓もありました。これで五助は永遠にこの地で吉継に仕える事ができたのでした。高刑もあの世で安堵した事でしょう。

私は高虎の陣跡から吉継の陣跡へ行き、そして吉継の墓まで行く途中でだんだんと日が暮れてしまい、薄暗い不気味な山道を迷いながらも(だいぶ遠回りして)、歩いて何とかたどり着き(しかもその間、またまったく誰にも会わず)、そして着いた所にこの説明が書かれていたのを読んで、しばらく吉継と五助の墓の前で呆然とし、あまりにも美しい話だったのでちょと感動して座り込んで泣けてしまいました(歩き疲れと重なりしばらく動けなくなってしまいました(泣笑い😭))。

次は、高虎最後の居城「津城」へ続きます。
 

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しんちゃん

頭陀寺城② 出世城の出世魚、豊臣秀吉青春立志編 ※許可を得て掲載しています。 (2023/06/18 訪問)

浜松城付近のもう一つの出世城、頭陀寺城「重箱の隅編」です。
頭陀寺城の南東部は、かつて若き日の豊臣秀吉が奉公した松下氏の屋敷です。
公園のあたりには堀、土塁が築かれていたようですが、中心部はその東の
かっぱ寿司頭陀寺店になるようです。
昼食をとりに寄らせていただきましたが、せっかく天下人ゆかりの最初の城跡に
来たのだから、出世魚をいただこうと思います。
出生魚といえばスズキ、ハマチ‥やはりここはハマチで行きましょう。
後日、かっぱ寿司さんにお伺いしたところ、快く掲載をご了承いただきました。
ありがとうございます。
さてこのあたり、若き日の秀吉の怪しげな伝承地が残されています。
①鎌研池‥若き日の秀吉が鎌の切れ味を試すために葦の片葉ばかりを斬っているうちに
 池には片葉の葦ばかり生えるようになったと言います。遠州七不思議の一つとして
 語り継がれているそうです。
②目刺橋‥若き日の秀吉がメダカを松葉で狙って手裏剣の練習をしていたそうです。
 その後池には片眼のメダカが現れるようになったと言います。

 若き日の秀吉さん。あなたは忍者か妖術使いですか?
 秀吉が松下家を去った時の逸話は諸説ありますが、之綱からもらった金子を
 元手に行商をして尾張まで来て、信長に仕えたのかもしれません。
 松長之綱はのちに秀吉に取り立てられ1万6000石の所領を与えられます。
 そして秀吉が亡くなる5か月前に亡くなります。
 豊臣氏の衰退を見ずに亡くなったのは之綱さんにとっては幸いだったのではないでしょうか。
 
 

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しんちゃん

頭陀寺城① 頭陀寺、松下屋敷編 (2023/06/18 訪問)

頭陀寺はかつて天竜川下流にあった広大な「川匂荘」の現地荘官として
四十六所明神とともに荘園の中核を成していたと言います。
頭陀寺から南にかけ多くの塔頭寺院をかかえ、南東には土塁と堀を構えた
今川氏に仕える飯尾氏の寄子(与力のようなものだと思われる)、松下之綱の屋敷(館)もあり
このあたりを総称して頭陀寺城と呼んだそうです。
松下屋敷には木下藤吉郎(豊臣秀吉)が天文20年から3年にかけて
奉公していたと伝わり、周囲には藤吉郎ゆかりの地が残っています。
屋敷跡の石碑が建つ公園はおもに堀、土塁があったところで
うっすらとした高まりがかつての土塁を感じさせます。
土塁の右手がかつての屋敷跡の中心地になるようですが
いまは某有名回転ずしチェーン店が建っているようです。
まだおなかがすいていないので、浜松城へ行ってから寄ってみようかな。

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しんちゃん

浜松城② 浜松の元の城、引間城 椿姫(お田鶴)編 (2023/06/18 訪問)

引間城は徳川家康が浜松に侵攻してきた際に、浜松城を築くまで滞在した
浜松城の元の城で、浜松城が完成した後も城の一部として機能しました。
元は今川方、飯尾氏の城で、4代飯尾連龍(つらたつ)が家康との内通を疑われ
駿府で殺害されました。その後 妻のお田鶴の方が城主となり
家康と戦い討ち死にします。
このあたりはドラマでご覧になられた方が多いとは思いますが
他にも二人、有名な女城主がいますね。
井伊谷城の井伊直虎と岩村城の おつやの方(信長の伯母)ですが
城主として壮絶な討ち死にを遂げたのはお田鶴の方だけです。
正直、大河での最期は少しあっけなかった。個人的にはもっと大暴れしてほしかったですね。
お田鶴の方はそこから少し西へ行った椿姫観音に祀られています。 
  所在地‥静岡県 浜松市 中区元浜町 133
引馬城は今は元城町東照宮となり境内には若き日の徳川家康と木下藤吉郎(豊臣秀吉)の
銅像が立っています。家康31歳 藤吉郎16歳のころですが
このふたり下手をすると親子かそれ以上に歳の差を感じます。
東照宮の周囲を歩いてみると、なんと土塁らしきものが周囲を囲っています。
まさかこんな都市部の真ん中で土塁など残っているとも思えないのですが‥。
東照宮から浜松城の方へ少し下ると浜松に入城したときの家康の館のあとがあります。
まさに浜松城の重箱の隅的なスポットですが、なかなか味わい深いところです。
浜松城の元本丸跡に建つ大河ドラマ館にはお田鶴の方の展示も行われていますよ。

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しんちゃん

浜松城① 浜松城現代編 ※許可を得て掲載しています。 (2023/06/18 訪問)

浜松城はおなじみ徳川家康によって元亀元年(1570)に引馬城より改修をうけて
現在の形の基礎が出来ました。
1590年ごろに堀尾吉晴によって今の石垣の城に改修されました。
明治以降は三の丸、二の丸の宅地化が進行し
昭和33(1958)鉄筋コンクリートの天守が完成します。
当時の公費で1400万円のうち900万円が寄付で賄われています。
予算が足りなかったのか現在の天守はかつての2/3程度の大きさしかなく
二の丸から天守にリフトを通す時の工事で本丸は大きく削り取られています。
現在はリフトは無いのですが、ちょうどかつての本丸のあたりに
大河ドラマ館が公開されていて、かなりの賑わいを見せています。
浜松城の写真は許可をいただいて、掲載しております。
天守内部は基本写真撮影自由とのことです。


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ぴーかる

駒野城 (2023/05/03 訪問)

【駒野城】
<駐車場他>駐車場はなし。大橋農園たまご直売所に購入がてら駐車しました。
<交通手段>車

<感想>日帰り木曾三川ちょこ城南下の旅5城目。駒野城は正暦年間(990~995年)に瀬戸道明寺が初めて城を構えたされます。鎌倉時代には土岐氏の城となっていたが戦国時代斎藤道三の家臣高木氏に攻略され高木氏の居城となっていたとされます。その後高木氏は織田信長⇒織田信雄に仕えますが信雄改易後は美濃を退去します。関ヶ原合戦の時には西軍の池田伊予守秀氏が籠城していましたが徳永寿昌が攻めて開城させます。城はその後廃城となったようです。
 城跡は城山小学校となっており無断で入ることは出来ないので遠慮して外から見ただけにしました。

<満足度>◆◇◇

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10Q-Nobu

何か他のつかい方 (2023/06/18 訪問)

大分県庁のそばで広い面積を占める立派な城ですが、中に入るとほぼ駐車場になってました。 
高い天守台があるだけに、お城好きには少し残念。

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10Q-Nobu

今も街を護る城 (2023/06/18 訪問)

臼杵駅を降りるとすぐに大きな高台が見えてきて圧倒される。
かつては海によって隔たれた島を城にするロマンの塊のような臼杵城ですが、津波の際は近隣住民の避難場所になっており、登りやすいスロープが設置されている箇所もありました。
今は別の用途でも住民に必要とされ、残っていくのは良いですね。

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