斯波氏の大野支配において、戌山城、亥山城、小山城の三城は、軍事政治の面で重要な拠点の城であっただけあって、土木作業量の多いしっかりした縄張りです。一辺が短いL字形をした小山の尾根全体に郭、堀切が配置されています。L字の角が最高所で主郭らしく思いますが、説明板のイラストでは、近代の土取りで消滅した長い方の辺の先の曲輪の方が大きく書かれています。どうなんでしょう。
登城口の説明板に、斯波義廉が朝倉氏に攻められてこの城で討ち死にした旨が記載されていますが、しんちゃんさんのつぶやきのように疑義あり。斯波義廉は、室町幕府の管領になり、応仁の乱の一方の旗頭的存在(名目上だが)であったおおものです。調べた中には、「斯波氏が同じく守護を務めた尾張に没落したが、最後の地が尾張であったか、別の場所であったかはわからない」との記載もあり、足跡を追えないようですが、討ち死にはしないような気がします。「朝倉氏は最後まで残っていた大野郡の戌山城と土橋城(亥山城)の攻略を開始し、ついに井野部・中野の合戦で二宮氏を討ち取り、斯波義敏を京都に送り返して越前一国の平定が成し遂げられました(一乗谷朝倉氏遺跡博物館HP)」がきっと最新の調査結果なのでしょう。いずれにしても、越前の中で大野が最後まで朝倉氏支配に抵抗したのは間違いないようです。
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