名張藤堂家の陣屋建物の一部を残す。名張藤堂家初代の藤堂高吉は丹羽長秀の実子にして豊臣秀長の養子となった後に藤堂高虎の養子になったが、どの家の跡継ぎにもなれなかったというなかなかレアな人生を辿った人物だ。
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2025/12/11 22:17
2024/10/24 05:23
公共交通のみで(東海&関西遠征)6日目:名張城 (2024/09/27 訪問)
名張駅から徒歩5分ちょっとで、藤堂家邸門前(34.622160、136.091284)に着き、その後、移築太鼓門がある寿栄神社鳥居前(34.622254、136.090202)に向かいました。
1585年(天正13年)松倉勝重によって築かれた名張城が始まりとされています。 上野に転封となった筒井定次は家臣松倉勝重に8,000石を与え名張城を築かせました。
1587年(天正15年)松倉重政は家禄を捨て定次との主従関係を切り奈良興福寺成自院に入りました。これは酒食に溺れる定次を勝重・重政が父子が諌言したが聞き入れられなかった為ともいわれるが定かではないようです。
重政は後に豊臣秀吉、徳川家康に仕え肥前国島原60,000石を得ました。
1635年(寛永12年)伊予国今治から藤堂高吉が領地替えで名張に入り陣屋を築きました。
名張藤堂家は独立した大名とはなれず、伊勢国津の藩内領主という位置付けであったそうです。
現在の名張小学校・中学校一帯が城域だそうです。
名張小学校の向に藤堂家屋敷、その隣の寿栄神社に移築された太鼓門があります。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=滝川氏城を目指す為、名張駅から電車で美旗駅に向かいました。
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2024/05/25 07:35
藤堂分家・名張藤堂家邸 (2024/02/18 訪問)
名張城は筒井定次の重臣・松倉勝重によって天正13年(1585)に築かれたとされています。その後一国一城令により廃城になりますが、丹羽長秀の三男で藤堂家の養子となった藤堂高吉が寛永13年(1636)伊賀名張に移封され名張藤堂家の祖となりました。
本家藤堂高次と分家藤堂高吉の関係は決して良好とはいえず、江戸期に本家からの独立の動きが有ったとされ、本家からの圧力は江戸期を通じて有ったようです。宝永7年(1710)名張の大火によって屋敷は全焼し、新たに一回り大きな屋敷の建造が行われました。かつては大名屋敷並の大きさを誇っていたようで東の名張小学校は二の丸跡とされ寿栄神社には太鼓門が移築されています。
かつての名張城跡は藤堂高吉の建てた最初の屋敷跡とともに、藤堂邸の下に眠っています。
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| 分類・構造 | 丘城、(陣屋) |
|---|---|
| 天守構造 | なし |
| 築城主 | 松倉重政 |
| 築城年 | 天正13年(1585) |
| 主な城主 | 松倉氏、梅原武政(藤堂氏家臣)、名張藤堂氏 |
| 遺構 | 屋敷、移築門(寿栄神社) |
| 再建造物 | 石碑(名張藤堂家邸跡)、説明板 |
| 住所 | 三重県名張市丸之内54-3(名張藤堂家邸跡) |
| 問い合わせ先 | 名張藤堂家邸 |
| 問い合わせ先電話番号 | 0595-63-0451 |