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ダイエティシャン

築城400年1️⃣ (2022/08/20 訪問)

築城400年。

研修会のついでに立ち寄りました。

駅のホームから見えるお城。感動しました。②③

空襲で石垣が焼け、赤くなっています。④⑤⑥

オープニング前で、天守閣には入城不可能。周辺を散策

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はなじろー

縄張りが見事 (2021/07/02 訪問)

小諸駅の南側すぐのところに三の門、駅の北側に大手門があります。
地形を巧みに生かした縄張りは見ごたえがあり、
地図とにらめっこをしながらお城を巡ると、楽しさが倍増です。

少し離れていますが、海野宿と宿の端にある白鳥神社も、
歴史好きな方にはおすすめです。

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ろっし

お城探訪 (2022/08/14 訪問)

近くまで車で行け、歩く道中も良く整備されているから山城だけど夏場でも行きやすい。
景色も良く櫓の中も見学できます
帰る時は戸締まりをしっかりと…

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はなじろー

こじんまり (2021/07/02 訪問)

雨の中、臼田駅から歩いて訪問しました。
こじんまりとしていますが、
縄張りの中に小学校があり、生活に密着している印象です。

帰りは龍岡城駅まで歩きましたが、外郭の虎口の周辺は当時の雰囲気を感じられます。

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ろっし

お城探訪 (2022/08/11 訪問)

二分あれば登れる山も、夏場は草で大変でした。

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はなじろー

一番好きな城 (2020/10/18 訪問)

何度も訪問した松山城。
松山、道後の街を含めて、いろいろな思い出が詰まった一番好きなお城です。

通常のアプローチルートである筒井門も素晴らしいですが、
圧倒的に人が少ない乾門周辺もオススメです。
門を少し出た辺りから見る天守も存在感があります。

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ろっし

お城探訪 (2022/08/11 訪問)

建物も残っていればな~石垣は綺麗に残ってます。

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ろっし

お城探訪 (2022/07/17 訪問)

山全体がお城で見て回るにはかなり時間がかかります。

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はなじろー

身近なお城 (2020/10/16 訪問)

尾根を巧みに開発して広げていったことを感じました。
同じ山城でも、春日山城には高さを感じましたが、郡山城は横への広がりを感じました。
満願寺跡は今でも荘厳な空気に包まれています。

登城口にある清神社(すがじんじゃ)の杉がとても立派です。
近所の幼稚園の遠足なのか、子どもが城に登っていて、お城が身近な存在なのだと思いました。

この日は朝イチに郡山城、夕方に新高山城の山城ダブルヘッダーでした。

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はなじろー

存在感があります (2020/10/15 訪問)

表御門、太鼓櫓等二の丸周辺は整備が進み、当時の雰囲気を感じられます。
敷地外から見ると天守が堀に浮かんでいるように見え、存在感があります。

訪問当時に開催されていた「こしらえ展」がとても興味深く、
緻密な加工技術の素晴らしさや個性を際立たせたい武士の心情を垣間見ることができました。
収集してみたくなります。

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はなじろー

眺めがよい (2020/10/16 訪問)

本丸奥からの眺めが素晴らしいです。
山陽本線から見るとそれほど高さを感じなかったものの、
城に登ると高さを感じました。

高山城と新高山城がある山を貫く新幹線を上から眺められる、
不思議な場所です。

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はなじろー

天守台以外も是非! (2020/10/17 訪問)

天守台も素晴らしいですが、街中に見どころが散在しています。
船入櫓、本丸中門、駅東側の新幹線ガード下の石垣、等々。
駅北側のマンション前の石垣も史跡?
大鳥神社周辺も雰囲気があり、天守台だけではもったいないです。

三原の中間醸造さんのテングソースは絶品です!
我が家のお好み焼き、揚げ物には欠かせません。

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イオ

とことん江戸城(小石川門~柳原土手) (2022/06/24 訪問)

(続き)

神田川に架かる小石川橋の南詰が門跡で、交差点の北東側に説明板が建てられています。JRの高架のあたりに枡形があったようですが、明治に撤去されて常磐橋の石材に転用されています。高架の南側、新三崎橋の西詰に大量に転がっている石は小石川門の石材とも考えられるようです。

小石川後楽園にも行きたいところでしたが、開園前なので諦めて先を急ぎます。かつて水道橋の下流には神田上水の巨大な懸樋が神田川をまたいで架けられており、跡地には石碑が建てられています。そしてお茶の水坂を上って、聖橋から仙台濠と中央線・総武線・丸ノ内線が交差する光景を楽しもうと思っていたのですが……外堀通りは聖橋の下を通っていて、聖橋へ直接には上がれないんですね!? まわり道してまで聖橋に上がる気力も時間もなかったので、聖橋の下からの眺めで我慢です。それでも神田山を開削して台地を断ち切り、神田川を東に付け替えて外堀とした壮大な土木量は感じることができました。さすがに仙台藩の土木技術は伊達ではありませんね。

湯島聖堂や神田明神にも行くつもりでしたが、時間がなくなってきたので寄り道せずに筋違門へ。旧万世橋駅のあたりが門跡で、門の遺構は消滅していますが、駅舎西側の旧中山道沿いに説明板があります。将軍が上野寛永寺や日光東照宮に参詣する際に通る門のため、御成門とも呼ばれたようです。

筋違門と浅草橋門の間の神田川南岸には水害に備えて土手が築かれ、柳が植えられていたことから柳原土手と呼ばれていました。土手沿いの柳森神社には桂昌院(徳川綱吉生母)が創建したと伝わる福寿社があり、タヌキの狛犬(狛狸?)が配されています。また、富士講の石碑群や力石など、江戸の習俗を感じさせるものがいろいろと見られます。

さて、外郭めぐりもあとは浅草橋門を残すのみですが、ここで時間切れ。和泉橋で神田川を渡って秋葉原駅からホテルに戻り、キャリーを引きながら出張3日目の仕事に向かいました(続く)。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:太田本郷城 (2022/07/30 訪問)

布市城からの転戦です。浮田家住宅駐車場(36.659080、137.243885)に駐車して、城址碑と説明板前(36.660064、137.243298)に向かいました。

1572年(元亀3年)加賀・越中の一向一揆が東進して火宮城を攻め落とし富山城を占拠すると、1573年(元亀4年)上杉謙信の配下で越中方面の総指揮官であった越中国松倉城主河田長親によって築かれたようです。
1578年(天正6年)上杉謙信が急死した後、織田信長に仕えていた神保長住が越中に入国すると、長住は津毛城に入り、斎藤新吾利治が太田本郷城に陣を構えました。
月岡野の戦いを経て今泉城を落とした織田勢は、一時的に越中国攻略の足場を築きました。
その後の太田本郷城の動向は不明のようですが、1578年(天正6年)12月に椎名駿河守(椎名景直)なる者が上杉方から織田方へと寝返って、その見返りとして信長より越中国太田保を賜り、彼が太田本郷城へ入った可能性もあるようです。
斎藤利治(新五)が治めたという説もあるようですが、彼は以後本能寺の変に至るまで織田信忠に付き従っています。
なお、江戸時代の越中国今泉の十村に利治の後裔を称する斎藤家があったそうです。

円光寺の西の交差点付近に「太田本郷城趾」の石碑及び「説明板」が建てられています。
また南方に、1690年(元禄3年)加賀藩より禄高500石にて代々奥山廻役を任されていた豪農浮田家の住宅があります。
浮田家住宅は時間的に閉まっていたので見学できませんでした。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かいました。

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ろっし

お城探訪 (2022/08/27 訪問)

小さい城跡ですが深い堀切には見応えあり。
入り口には虎口もあり、高い土塁に囲まれ立派な城跡でした。

只、奥の方は藪化しておりクモの巣が凄かった

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:布市城 (2022/07/30 訪問)

蜷川館からの転戦です。小柴家墓所入口付近(36.641626、137.238692)に路駐後、興国寺駐車場(36.640857、137.235951)に向かいました。

1334年(南朝暦興国5年)に越中守護となった桃井直常が築いたと云われ、周囲に桃井氏菩提寺の興国寺や同氏祈願所の龍高寺、幕府が諸国に作らせた越中国安国寺(廃寺)がありました。
足利一門の斯波高経と桃井直常が覇権を巡り数十年にわたり激しい抗争を繰り広げられていましたが、1370年(応安3年)に、南朝方の桃井直和(直常の子)が長沢城に籠もります。
越中国守護斯波義将(高経の子)はこれを攻め、両者は長沢にて戦い直和は討死し、桃井勢は飛騨国へと落ち延びました。
桃井氏が越中を去った後、戦国時代に畠山播磨守長光が入城したそうですが、室町期の大田保は守護畠山氏と対立する管領細川家領であり、疑問が残るそうです。
その後、1600年(慶長5年)につちかた雄久が徳川幕府から布市以南10,000石を与えられ、布布藩が成立すると、その陣屋がおかれたという伝説もあり、同藩廃藩とともに廃城となったようです。

大田保の南部に築かれた平城で、興国寺の北東の水田内にある小柴氏の墓所が城跡とされます。
興国寺に直常と奥方の位牌が安置され、境内に直常の墓と伝えられる五輪塔があるようですが、確認していません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=太田本郷城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:蜷川館 (2022/07/30 訪問)

津毛城からの転戦です。最勝寺付近の空スペース(36.645332、137.207457)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、蜷川氏によって築かれたと云われています。
蜷川氏は山城国氏軍の大領宮道氏の後裔とも云われ、1180年(治承4年)の越中国砺波郡・新川郡を領し、新川郡蜷川郷に住んで蜷川氏を称したといいます。
1505年(永正2年)蜷川治部少輔は月岡野で戦死したと伝えられ、1506年(永正3年)守山城主神保氏に攻められ蜷川城は落城したそうです。
アニメ「一休さん」(懐かしい!)に室町将軍足利義満の側近として登場する蜷川新右衛門は、蜷川館主であった蜷川新右衛門親当がモデルだそうです。

蜷川館は南北二郭であったといい、南郭が現在の最勝寺境内、北郭は富山県健康増進センターになっているようです。
現在は、最勝寺境内にわずかに土塁が見られるのみです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=布市城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:津毛城 (2022/07/30 訪問)

猿倉城からの転戦です。福沢小学校校門前(36.602845、137.256477)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に桃井直常が籠もったとも伝えられています。
戦国時代には越後の上杉氏の家臣で村田秀頼、河田長親などが在城して守ったようです。
上杉謙信が没すると飛騨より神保長住が織田軍の先陣として越中へ侵攻し、増山城を攻め落とし、さらに斎藤新五郎が援軍として加わると、上杉勢の河田・椎名らと月岡野で戦い大勝したそうです。
その後、上杉勢は津毛城から今泉城へ退き、津毛城には神保長住が入城しましたた。

城址は福沢小学校などが建っている付近のようですが、遺構は消滅しており、案内板や石碑らしきものも何もありません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=次の攻城先=蜷川館に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:猿倉城 (2022/07/30 訪問)

城生城からの転戦です。猿倉展望台駐車場(36.556073、137.225214)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、1571年(元亀2年)飛騨の塩屋筑前守秋貞が猿倉山に登って城の普請をしており、この頃には城が築かれていたようです。
秋貞は1578年(天正6年)に佐々成政に下り越中国岩木城に拠ったが、秀頼によって飛騨へ追い返されたようです。
その後、猿倉城は再び越中へ侵入した秋貞が家臣を入れて支配したが、1583年(天正11年)上杉方の斎藤信利が拠る越中国城生城を攻撃中に上杉景勝の援軍が到着して敗退し、追撃する上杉軍に追いつかれて射殺されました。
その後、猿倉城は飛騨国国司姉小路自綱の勢力下に入り、1585年(天正13年)に起こった富山の役で金森長近に落とされたようです。
また、一説には越中国弓庄城に拠っていた土肥氏が一時治めていたともいいます。

猿倉城は猿倉山山頂に築かれており、現在は「風の城」として公園整備されていて、その一角に石碑がたっています。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=津毛城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:城生城 (2022/07/30 訪問)

井田主馬ヶ城からの転戦です。本丸ルート入口付近(36.574779、137.177985)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、斎藤氏によって築かれたと云われています。
斎藤氏は南北朝時代の斎藤左衛門大夫入道常喜が、婦負郡楡原保一帯を所領として以来の豪族で、戦国時代末期に斎藤信利が織田信長の武将佐々成政によって追われるまで、この辺り一帯に勢力を持っていたそうです。
1552年(天文21年)上杉氏に属していた願海寺城主寺崎民部左衛門盛永と天神林付近で戦って敗れ、井田館はこのとき落城したようです。
その後、上杉氏に属していましたが1578年(天正6年)に上杉謙信が没すると、飛騨から侵攻した織田氏に従い、上杉方の今泉城攻めなどで戦功を挙げました。
しかし、1581年(天正9年)には弓庄城主土肥氏とともに上杉氏と結び織田の武将佐々成政に敵対します。
1583年(天正11年)佐々成政と神保氏張の軍勢によって城生城は攻められ落城、城主斎藤信利は姉小路頼綱を頼って飛騨へ逃れ、後に徳川家康に仕えて江戸時代は旗本として続いたそうです。
斎藤氏の後は、佐々成政の家臣佐々與左衞門、前田氏の家臣青山佐渡・篠島織部と続きますが、慶長年間には廃城となったようです。

県道25号線横に案内板があり、本丸ルート入口があります。
本丸ルート入口付近に路駐しましたが、長時間路駐できそうにないので、入口付近の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=猿倉城に向かいます。

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