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トク

67【関ケ原の26人】(23)石田三成 (石田三成と大垣城)

(23人目)「石田三成」の続きです。
関ケ原の前哨戦で陣を敷いた、「大垣城」を訪れてきました。
入口には、関ケ原後に入った戸田氏鉄の銅像が出迎えてくれます(写真①)。

石田三成はここ大垣での決戦を当初考えていました。(大垣城-岐阜城-犬山城)で防衛ラインを構築し、清州城に入るであろう家康をここで迎え撃とうと考えていたようです(説明写真⑥)。しかし、織田秀信が守る岐阜城がわずか1日で陥落し、犬山城の竹中重門などの守備隊もあっけなく城を明け渡し東軍へ寝返ったため、目算がくるってしまいました。さらに翌日、今度は家康は深夜の内に清州から岐阜を迂回して移動、翌朝に大垣城の北方の美濃赤坂に陣を敷きます。朝になり、赤坂に家康の馬印が見えた東軍諸将は驚きます。そしてその動揺を鎮めるべく、島左近が杭瀬川で一矢を報います(写真⑤)(詳細は(5人目)島左近と(21人目)徳川家康を御参照下さい)。

私は、大垣城にいた三成から、家康がいる赤坂の陣や一矢を報いた杭瀬川がどのように見えたのか? それを知りたくて大垣城を訪れ、天守に立って眺めてみました。しかし・・・? ビルなどが立ち並び眺望はあまりよくありませんでした(ん~よく見えん😎:写真⑧)。しかし当時は建物などはないので、ここからならよく見えたと思います。岐阜城も遠くにほんのかすかに見えました(写真⑦)。

その後、家康は今から佐和山城へ向かうとうわさを流し、東軍は赤坂から関ケ原へ移動します。赤坂で十分腹ごしらえをした後、寝返った吉川広家の前を悠々と余裕で行軍します。

それを見た西軍(三成・秀家・行長・義弘ら)は軍議を開き、三成の妹婿の福原直高(大分府内城主)に大垣城の守備は任せ、急ぎ関ケ原へ移動し迎え討つ事に決しました。しかしこの時とるものも取らずに出陣したため(空腹のまま)、また東軍に見つからないようかつ東軍より先回りしようと、遠回りの南宮山南側の伊勢街道を雨の中に深夜駆け足で行軍したので、体力の消耗もかなりあったようです。

三成はなぜそこまでして、急ぎ関ケ原へ移動しようと考えたのでしょうか?(まさに家康の思うツボ!)。 関ケ原の西の大津には立花宗茂ら2万の精鋭の軍勢がおり、あと1日で関ケ原へ到着する所まで来ていました。翌朝ゆっくり出立し、背後から行軍すれば挟み撃ちにもできたはずです。またそのさらに西の背後の大坂城には、毛利輝元本隊の軍勢も控えています。中山道を行く秀忠の軍勢がどこまで迫っているのかも気になったからなのでしょうか?(しかしこの時、秀忠軍はまだ信濃で立ち往生の真最中)。

私は大垣城の天守に立ち、関ケ原の方向を眺め考えてみました(写真⑧)。関ケ原の西の端には秀頼が出陣した時のための陣城として玉城を築いていました。「玉城を家康に奪われれば、秀頼様や輝元殿が出陣できなくなってしまう!🤔」そう思ったからなのでしょうか? 

いやそれだけではないと思いました。この時、その玉城の麓の山中村には大谷吉継がいました。「このままだと吉継が危ない!!!😲」 本当は、この無二の親友を・・・守りたかったのではないでしょうか?・・・

次は、関ケ原(石田三成 陣跡)を訪れます。
 

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ぴーかる

溝口秀勝生誕地 (2023/07/22 訪問)

【西溝口城】
<駐車場他>駐車場はなし。農道の<35.219001, 136.765061>ポイント辺りは停車しやすい。
<交通手段>車

<感想>2週連続日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第2弾13城目。承久の乱で功のあった溝口氏は美濃国大桑に領地を与えられたが、応永年間(1394~ 1428年)にここに移り住んだ時に築城したとされます。築城者が溝口勝政となっており、子孫の初代新発田藩主である溝口秀勝の父も溝口勝政となっていることから150年以上生きてたはずもなく時代がずれています。築城年代や他が間違っているか、または秀勝の父勝政は先祖と同名を名乗ったかと考えます。
 現在は遺構は残っておらず、民家みたいな成願寺の正面入った所の植え込みの中に古い城跡碑があるのみです。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

遺構はそんなに‥ とりあえず土塁登る。 (2023/05/04 訪問)

石岡城は外城(とじょう)とも呼ばれ、府中城の外城と
されています。札掛神社の背後に土塁が残り、林の中に
その姿を留めています。周囲には堀の跡も残っているようです。
建保2年(1214)常陸大掾を継承し、常陸国衙にて政務をとっていた
大掾資幹は鎌倉幕府から府中の地頭職に任じられ、この地に
居館を構えたのが石岡城の始まりとされています。
大掾詮国の代に府中城に本拠を移したので石岡城は「外城」と
呼ばれるようになり、城主には石岡氏・札掛兵部之助・田島大学などの名が残り、
天正18年(1590)大掾氏滅亡の際に廃城になったということです。
札掛神社はかつての城主、札掛氏を祀っているようです。

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しんちゃん

堀の一部は道路に、郭は神社、公園、学校に (2023/05/04 訪問)

下館城は東の五行川に面する台地に築かれています。
八幡神社が本丸跡とされ、南の下館小学校が二の丸、三の丸のようです。
本丸と二の丸の間は道路が深い堀切のようになっています。
西の下館公園は出丸である西城の跡で、西城の南に位置する
御殿跡は宅地化しています。八幡神社の北にある本丸堀切は
実訪問です。調べが足りなかったですね‥。
かつて藤原秀郷が平将門討伐のため上館・中館・下館を築き、
下館を伊佐氏が領有した後に、結城氏の家臣、水谷伊勢守が下館に
城を築いたとあります。
江戸時代は城主(氏族)がたびたび変わり、享保17年(1732)
石川氏が2万石で入り、明治まで続いたとのことです。

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しんちゃん

常陸一千有余年 (2023/05/04 訪問)

府中城は石岡小学校が三の丸跡とされ、本丸は市街地化
されているようです。かつては常陸国国府が置かれ学校内に
石碑と「常陸のみやこ一千有余年之地」の碑が建っています。
小学校には陣屋の門があり、南側には土塁が残っています。
府中城は大掾詮国によって築かれたとされています。
小田原攻めで豊臣秀吉に従わなかった咎で、天正18年(1590)
佐竹義宣に攻められ大掾清幹は自害し、一族も滅亡したとあります。
江戸時代には陣屋となり、六郷政乗が一万石で入封、その後皆川氏が
入りますが嫡子無く除封、天領となりますが元禄13年(1700)
徳川光圀の弟、松平播磨守頼隆が二万石で入り、明治維新まで続いたと
いうことです。

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しんちゃん

主郭周辺の土塁が良く残る。 (2023/05/05 訪問)

那珂西城は国道123号線の東側の宝幢院が本丸跡とされています。
立地的に那珂川の西岸に位置する台地上に築かれており、西には
西田川が流れています。天然の川に囲まれた台地上に築かれている
この地方では良くみられるタイプの城跡です。
本丸の周囲は高い土塁で囲まれ、南に中城、西に兵庫坪(郭とみられる)
が配置され、国道沿いに兵庫坪の土塁が一部残っているようです。
秀郷流藤原氏の6代の孫、通直の子、通資は那珂郷に居住して那珂氏
を称したとされます。孫通泰は弟能通に戸村を譲り、那珂西に築城し
共に那珂川中流を支配して豪族になったとされています。
しかし南北朝の争いの際には南朝方に属し、北朝方の佐竹氏に敗れ
時の当主、通辰は太田城近くの増井勝楽寺境内で一族とともに自決し
那珂西城には一時、佐竹一族の真崎兵庫介が入ったと伝わります。

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能登守利信

けの汁 (2023/07/18 訪問)

弘前駅下車、観光案内所より自転車をレンタル、約10分。駅西口より、県道260号を北上、和徳稲荷神社の鳥居が左手に見えてきますので、そこから城址に入ります。推定土塁と『けの汁起源』案内板を確認できます。

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じゅんじん

城址碑 (2023/06/03 訪問)

鎌倉殿おなじみの長沼宗政さん一族のお城になります。
城址碑のみでした。

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じゅんじん

住宅街 (2023/06/03 訪問)

片隅に説明板が建っていました。多摩ニュウータウン造成で切り取られました。

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じゅんじん

この辺り? (2023/05/27 訪問)

太田道灌城と西久保城あたりになります。痕跡が見つかりません。

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イオ

延暦寺(滋賀県大津市坂本本町) (2023/07/15 訪問)

延暦寺(城びと未登録)は、平安初期に最澄が比叡山に開いた天台宗総本山の寺院で、平安中期に円仁派と円珍派が対立すると、追放された円珍派が南麓の延暦寺別院の園城寺(三井寺)に入って独立、園城寺と抗争を繰り返す中で武装化し、多数の僧兵を擁する城郭寺院となりました。最盛期には寺領6万石を数え、白河法皇や鎌倉・室町の武家政権も意のままにできない権勢を誇りましたが、戦国末期に織田信長の焼き討ちを受けて全山焼亡し、後に羽柴秀吉から復興が認められるも、武装放棄を条件とされたことにより城郭寺院としての延暦寺は終わりを告げました。江戸期には上野の寛永寺が天台宗の中心地となりましたが、幕末の上野戦争で寛永寺が焼亡すると延暦寺が地位を回復し、現在に至っています。

延暦寺は東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)の三つの地域に大別され、東塔は延暦寺の総本堂にあたる根本中堂を中心に、大講堂、文殊楼、戒壇院、法華総持院東塔などの主要な堂塔の建つ延暦寺発祥の地です。現在、国宝の根本中堂は改修中(令和8年度まで)のため外観は見られませんが(拝観はできます)、仮設の修学ステージからは根本中堂や廻廊の修理状況を屋根の高さから見学することができます。これはこれで貴重な機会ですね。
西塔は東塔の北約1㎞の釈迦堂(転法輪堂)を中心とする区域で、武蔵坊弁慶が両堂をつなぐ渡り廊下を天秤棒として担ったとの伝承のある常行堂・法華堂(にない堂)のほか、北側に少し離れたところ(徒歩7分)にある瑠璃堂は、信長の焼き討ちを逃れた唯一の建物と云われます。瑠璃堂に向かう道中に山の斜面を見おろすと階段状に削平地が設けられていました。僧坊跡でしょうか?
横川は横川中堂を中心とする区域で、魔除けやおみくじ発祥の地とされる四季講堂(元三大師堂)や恵心堂などがあります。舞台造りの横川中堂は現在の建物は昭和の再興ですが、江戸初期の改築は淀殿によるものと伝わります。
また、比叡山・奥比叡ドライブウェイには多くの展望台が設けられていて、登仙台展望台からは京都方面が、びわ湖展望台から堅田方面がよく見渡せました。琵琶湖水運と琵琶湖から京都に至る峠道を掌握し、京都に睨みを効かせる……城郭としても絶好の位置であることを実感します。

この日に延暦寺を訪れたのは、直接的にはニッポン城めぐりのイベントのためですが、昨年に高野山を訪れた際に、いずれ比叡山にも…と思っていたので、ちょうど良い機会でもありました。比叡山はたぶん2回目(前回は小学生の頃?)なんですが、今回訪れてみて新たな気付きがいくつもあり、中でも大講堂での説明で高野山を仏教の専門大学、比叡山を総合大学と評していたのには、なるほどと得心がいきました。山上に独自の密教世界を現出させた高野山と、仏教各宗派の源流として日本仏教の母山とも呼ばれる比叡山。どちらが優れているとかでなく、いずれも違った意味で日本の仏教にとってかけがえのない存在なんだなぁ、と。大講堂の本尊の両脇には、比叡山で修業した各宗派の宗祖(日蓮、道元、栄西、円珍、法然、親鸞、良忍、真盛、一遍)の木像が居並び、特に仏教に詳しくない私でも知っている(教科書で見かける)顔ぶればかりなのは凄いことですよね。また、参詣者は本尊を見上げるのが通常ですが、根本中堂ではわざわざ本尊のある内陣を一段低くして本尊と参詣者の視線を等しくしています。これは人はみな仏となり得るのだから仏と人は等しい関係にある、という最澄の教えを形に現したものなんだとか。不滅の法灯や「一隅を照らす」の教えとともに、特に印象的でした。こういう教えがあるからこそ、日本仏教の母山となり得たんでしょうね。この日は4時間あまりをかけてじっくり延暦寺をめぐりましたが、それだけの価値はありました。
 

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能登守利信

呟き (2017/04/08 訪問)

2度目の攻城。 弘前駅からレンタサイクルで道の駅ねぶた村に。 ここから堀に沿って追手門から城内へ。 石垣工事現場と移転中の天守を見学しました。

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能登守利信

呟き

葛西駅より徒歩15分。長島町交差点バス停より徒歩12分。
東京都道10号東京浦安線東葛西五丁目北交差点を北に
清光寺墓地の交差点東まわりの正門前に案内板があります。また、墓地の交差点を左折しての香取神社に長島高城の記述がある長島之碑があります。

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todo94

帰省時の攻城② (2023/08/14 訪問)

中条氏館からの転戦です。此処の前の道は一方通行になっていますのでお気を付けください。城址碑と標柱が建つのみで遺構はありませんが、成田氏ゆかりの地ですので、忍城に行く前に立ち寄れたのはよかったなと思っています。

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赤い城

知波夜比古神社 (2023/08/15 訪問)

実家から高松に戻る途中で立ち寄りました。
この日は台風が接近してましたが影響は少なかったです。
城趾には知波夜比古神社が建っています。
神社の駐車場から鳥居の方に周り、入城。
入口の脇に土塁が残っています。
まずは外周、ということで土塁に沿って進みます。
土塁は主郭を囲み、よく残っていました。
北側から東側にかけては土塁の外側に堀も残っています。
駐車場前の道路も恐らく堀跡なのでしょう。
安芸武田氏の一族、祝氏の居城。
単郭の城のように見えますが、城域はもう少し広かったともされています。

この後無事に帰陣できましたが風の影響を受ける瀬戸大橋での運転は少し怖かったです。

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しんちゃん

四半世紀におよぶ佐竹氏の居城。 (2023/05/05 訪問)

太田城は本丸は太田小学校、二の丸は若宮八幡宮になっているようです。
城址碑は本丸跡にあり、近くにいた人にお断りをして写真をとらせて
いただきました。ここはヒット&アウェイ方式で若宮八幡宮に移動です。
二の丸は神社ですのでゆっくり散策できます。城址全体が丘地の上に
築かれていて、二の丸周辺からの眺めはなかなかのものです。
この地に最初に館を築いたのは秀郷流藤原家の通延で天仁年間と
されています。後に佐竹氏の居城となり、源頼朝の攻撃を受けた際には
金砂山城に籠城しています。室町時代から永正元年(1504)まで
役100年に及び、主家佐竹氏と有力家臣山入氏との対立が続き、
一時期、山入氏が太田城を占拠しますが、佐竹義舜は岩城氏の支援を
受け、太田城を奪還、逃走した山入氏義を高部でとらえ処刑しました。
太田城は関ヶ原合戦後の佐竹義宣の出羽秋田転封に伴い廃城になったとのことです。

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しんちゃん

本丸と二の丸の間の大堀切が凄い。 (2023/05/05 訪問)

額田城は小川に面した広い低湿地に面した丘陵の南側の
先端部周辺に築かれていて、主郭の北に二の郭、三の郭と
続き、西の阿弥陀寺周辺もかつては阿弥陀寺の郭として
城域を形成していました。三の丸は宅地化していますが、
本丸、二の丸はかつての遺構を残しており、本丸と二の郭の間の
大堀切は最大の見せ場でもあります。
遊歩道が続いており本丸から二の丸に渡って、城域を散策することが
可能です。案内板は二の郭にありました。
建長年間(1249~1256)佐竹氏5代義重の次男義直が、この地に城を
築き、額田氏を称したとあります。
10代義亮の時に佐竹宗家と対立、応永30年(1423)佐竹13代
義人に攻められ落城。額田氏は滅んだとあります。
その後、佐竹氏家臣小野崎氏が城主となりますが、天正19年(1591)
七代照通の時代に野心ありとされ、佐竹義宣に攻められ落城したとされています。

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能登守利信

呟き (2023/07/18 訪問)

青森駅にてバスに乗車、羽黒平バス停にて下車、徒歩15分。西館から内館、猿楽館、東館、北館と散策しました。さすがによく整備されており、板塀による建物跡や土塁跡などが素晴らしく残っていました。案内所が敷設されてるので、休憩等も出来ます。発掘品等がある青森市中世の館は些か離れてるから、先に立ち寄った方が良かったです。

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しんちゃん

オバQが出るんだって? そんなの関係ねえのオッパッピーですわ。 (2023/05/05 訪問)

多良崎城です。なんか後から調べたら、有名な心霊スポットらしいですね。
地縛霊がいっぱいいるらしいけど。
私はそういった予備知識ゼロで訪城しているので、
なーんも感じなかったですよ。むしろ空気がすがすがしくて余計に
気持ちが良かったくらい。そもそも熊のウン〇が3個も落ちている城に
突っ込んでいくくらいだから霊感なんぞ無いに等しい‥。
熊や幽霊が怖くて城めぐりはできないでしょう。 ‥いや熊は怖いな‥
山城めぐりに備えて熊対策をしておかねば‥。
 多良崎城は遺構も良く残っている素晴らしい城です。一の木戸跡、
二の木戸跡を越えると大手門跡があり、本丸に到達します。
本郭の周囲には土塁が残り、北側には二の郭があります。遺構は二の郭
三の郭の方が良く残っており、状態の良い土塁を拝見することができます。
いやあ実に良い城だ。こんな良い城を見れるのならオバQの
一つや二つ‥ でも、ご城主の多良崎殿の御霊がいるのであれば
お話してみたいですね。大霊界どうなってるんでしょうね。(古いな~)

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しんちゃん

台地上周辺には他にも、いくつかの城郭があり。 (2023/05/05 訪問)

小野崎城は周囲を河川に囲まれた楔状台地の先端部に築かれています。
城跡は瑞竜中学校の敷地内になっていて、中には城址碑があります。
GWの最中ですが家族連れが何組かきているので、お断りをいれて
城址碑を撮影させていただいてます。
昭和44年の調査では単郭の館様式の城郭らしいとのことですが
特に遺構はみあたりません。
台地上周辺には他にもいくつか城郭が存在していたようで
南西側近くの白鷲神社は今宮館として土塁などの遺構が残っています。
他にも八百岐館(現状は竹藪)小野館(瑞竜小学校?)などの館跡が
あるようです。城郭放浪記さん余湖コレクションさんの情報を参考に
させていただき訪問させていただきました。ありがとうございます。
いずれの城も小野崎城と何らかのかかわりがあるようで、一体となって
防衛ラインを築いているように見えます。
小野崎城は秀郷流藤原通延の孫、通盛が久安年間に小野崎に進出して
館を築き小野崎新太夫と称し、これが小野崎氏の始まりとされています。

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