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上和田城(愛知県岡崎市) (2023/09/07 訪問)

 大久保忠世、大久保彦左衛門等で有名な大久保氏の城です。城びとには未登録の城址です。上和田公民館の一角には大久保一族発祥地の碑があります。100m程南西民家のフェンス内に和田用心濠の碑が立っています。遺構はないと思われます。
JR岡崎駅より徒歩約15分です。

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小川城(愛知県安城市) (2023/09/07 訪問)

 石川数正生誕の地として伝わっています。城址は本城公園となっていて遺構はありません。城びとには未登録の城址です。東屋の壁に説明板がありました。近くには初代の石川政康の墓所があります。的場公園付近は小川城の出城、砦があった、もしくは的場があったとされています。
名鉄桜井駅より徒歩15分くらいです。

 隣の岡崎市の名鉄美合駅より徒歩5分くらの所にある本宗寺には石川数正の墓があります。本宗寺は三河一向一揆の戦場となった寺でもあります。

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しんちゃん

平忠常後裔、千葉氏が千葉城に移るまでの本拠。 (2023/05/06 訪問)

大椎城には城山の北側からアクセスするのが正解のようです。
北東側に山に通じる道があり、特に入山禁止の
標識も無いので散策させていただきました。
登城道が尾根の南側に回り込んで東から西に
一郭、二郭、三郭、四郭(本郭?)と続いているようです。
西の郭が本郭であれば、この並びは逆になるのがわかりやすいと思います。
郭の間は堀で区切られているようですが、大半の郭は
竹藪に覆われています。
大椎城は平安時代中期に平忠常が築き、忠常の後裔千葉氏が
大治元年(1126)千葉城に移るまで、千葉氏の重要な
拠点だったとされています。

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岩根城(愛知県安城市) (2023/09/07 訪問)

 賤ケ岳7本槍のひとり加藤嘉明の生誕の地として伝わる城址です。城びとには未登録です。説明板が公民館の近くにあります。また、近くの広場の看板に岩根城の跡地との記載がありました。
今回は行っていませんが、お隣の西尾市にも加藤嘉明生誕の地と伝わる場所があります。

 名鉄桜井駅から徒歩20分くらいです。

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移築門 (2023/09/07 訪問)

 安城市にある誓願寺の山門が豊田市の寺部城の移築門と伝わっています。近くへ行ったので行って来ました。名鉄桜井駅より徒歩5分くらいです。

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しんちゃん

駐車場にいる整備の方から情報をいただきました。 (2023/05/06 訪問)

万喜城は中心部が展望台になっていて、駐車場も郭跡の
ようですが、その駐車場にいた整備の方に声をかけられました。
「この城はすごいんですよ」とのこと。
東尾根先の遺構のことを教えてもらい訪問してきました。
まるで石垣のような切岸がありますね。天然のものなのでしょうか?
この御人、赤い靴さんの投稿に出てくる方と同一人物かもしれません。
ちょっとした有名人ですね。ありがとうございました。
応永19年、土岐時政がこの地に移り、築城したと伝わります。
土岐為頼は里見氏から後北条氏に鞍替えし、里見氏の攻撃を受けたが
これを退けたとあります。
天正18年8月、徳川家康関東入封後、本田忠勝から攻撃を受け、
為頼は小浜から小舟で脱出したとも、自刃したとも言われています。

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しんちゃん

遺構の中心は二の丸以東にあり。 (2023/05/04 訪問)

真壁城の本丸は体育館などの建設により遺構の大半は消失して
いますが、周囲を囲む二の丸の一部(本丸の東)、中城、外郭周辺に
遺構が残っており、今でも発掘調査が行われています。
二の丸周辺の土塁は復元された物のようですが、外曲輪の東端にある
鹿島神社周辺に現存の土塁が残っているようです。
築城は承安2年、常陸大掾多気直幹の四男の六郎長幹が築いたとされ
長幹から真壁氏を名乗ったとされています。
戦国期は弘治2年(1556)結城政勝について小田氏春と戦い、
天正13年(1585)には2300騎を率いて北条氏直と戦っています。
慶長7年(1602)19代房幹の時代、主家の佐竹氏の出羽移封に
伴い角館に移封になりました。
それ以降も浅野氏、稲葉氏が入りましたが寛永5年(1628)
天領になりました。

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朝田 辰兵衛

ここにもいました“れんたろー”。 (2023/07/07 訪問)

岡城だけでなく,ここにもいたんですね,滝廉太郎さん。二の丸館の向かいに見つけました。ここの滝廉太郎画像をアップされていた方は,意外にもカルビンさんおひとりでした(←ビックリ)。
城址碑は,日出小学校の入口に低い位置で存在しておりますので,見落とし注意です。しかも,別名の「暘谷城」表記です。
7月の遠征も,雨スタート。この数日後,災害級の大雨となりました…。

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ぴーかる

蜂須賀城 (2022/07/22 訪問)

【蜂須賀城】
<駐車場他>蓮華寺駐車場
<交通手段>車

<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第2弾14城目。蜂須賀城の築城年は定かではないが、鎌倉時代より土豪の蜂須賀氏がこの地に住んでいました。戦国時代、蜂須賀正勝の父蜂須賀正利の時に織田信秀との対立で土地を奪われてしまい宮後城に移り住みます。
 現在遺構は残されておらず、蜂須賀小六正勝公碑と右横に蜂須賀城址の石碑があるのみです。

<満足度>◆◇◇

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織田晃司

田んぼの中にぽつんと一軒家 (2023/09/03 訪問)

稲穂が実る田んぼに蒲の穂生える横堀と樹木の茂る土塁。

賀陽氏館の主郭にはぽつんと民家が有り、私有地なので入れません。近くまで行って外から眺めるのみ…

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能登守利信

呟き (2023/07/18 訪問)

大湊駅からバスに乗車、合野バス停にて下車。麓の登城口旧蠣崎小学校が西郭で、その横を登城します。主郭までは遺構は特にありませんが、主郭に城址碑や土塁が見受けられます。

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能登守利信

呟き (2017/09/04 訪問)

駅から徒歩で攻城。 やはり高楯城の認識でした。 山の名前が高楯山なのですね

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イオ

続・移築門めぐり (2023/07/15 訪問)

関ケ原の戦いの翌年に、大津城に代わる京都・大坂への備えとして、徳川家康が藤堂高虎の縄張により天下普請で築いた城で、琵琶湖に本丸が突出する梯郭式の水城であり、日本三大湖城のひとつに数えられます。完成すると戸田一西が入って膳所藩を立藩しましたが、戸田氏鉄が尼崎に移封されると本多氏、菅沼氏、石川氏と譜代大名が次々と入れ替わり、本多俊次が再封されると本多氏が13代続いて明治を迎え、最後の藩主・本多康穣の明治政府への廃城願いにより廃城となりました。

膳所城を訪れるのは約5年ぶり。前回は膳所城公園と近隣の移築門をめぐりましたが、離れたところには行けずにいたので、今回はその続きです。また、4年ほど前に泉大津市の移築門を訪れていますので、そちらもあわせて。

御霊神社高麗門(大津市鳥居川町)
社殿左手に膳所城のお倉門(本丸黒門とも)が移築されています。高麗門の説明板あり。

近津尾神社表門(大津市国分)
表門として膳所城の米倉門が移築門されています。本多氏家紋の立葵の瓦が見られる薬医門です。

鞭崎神社表門(草津市矢橋町)
表門として膳所城の南大手門が移築されています。右側に潜戸を設け柱や扉に鉄板を打ち付けた重厚な高麗門で、国重文です。

新宮神社薬医門(草津市野路)
鳥居の左手奥に膳所城の水門(本丸北手水門とも)が移築されています。説明板はありませんが、整備略暦の石碑に水門解体修理の記載があります。

芭蕉会館(滋賀県大津市秋葉台)
茶臼山公園に膳所城の本丸東隅櫓が芭蕉会館として移築されています。大幅に改修されているようですが、破風と鯱瓦を備えたいかにもな外観です(時季的に木々が茂っていて見づらいですが)。

六体地蔵堂(滋賀県大津市昭和町)
膳所城のお椀倉が六体地蔵堂として移築されています。立葵の鬼瓦が往時を感じさせます。

大養寺山門(滋賀県大津市本丸町)
膳所藩武家屋敷の長屋門が移築されています。膳所神社のすぐ近くですが、前回は見落としていました。

旧細見家住宅高麗門(大阪府泉大津市松之浜町)
膳所城の南(瀬田口)総門が移築されていましたが、平成30年の台風21号で倒壊しました。4年前に訪れた時点では倒れたままブルーシートがかけられていましたが、今はどうなっているんでしょうね。再移築されるという噂もあるようですが…。


なお、前回めぐった移築門は下記の通りです。

膳所神社表門・北門・南門(滋賀県大津市膳所)
膳所城の本丸大手門(表門)、本丸土橋の門(北門)、城門(南門)が移築されています。表門は国重文です。

篠津神社表門(滋賀県大津市中庄)
膳所城の北大手門が表門として移築されています。国重文です。

若宮八幡神社表門(滋賀県大津市杉浦町)
膳所城の本丸犬走門が表門として移築されています。両端には鯱瓦も見られます。

和田神社表門(滋賀県大津市木下町)
膳所藩藩校・遵義堂の門が表門として移築されています。

響忍寺表門(滋賀県大津市木下町)
膳所藩家老村松家の長屋門が表門として移築されています。

これらのほか、勢多口総門の番所が近隣の民家に移築されていましたが、解体されてしまったようです。
 

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todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー70城目 (2023/08/14 訪問)

のぼうの城の舞台であり、「陸王」という人気小説もコンテンツとして持っている行田市ですが、さきたま古墳群が何と、特別史跡に指定されたと知ってさきたま古墳群とさきたま史跡の博物館も見てきてしまいました。行田市郷土博物館のテーマ展「描かれた忍城」も良かったですよ。しっかり行田市を楽しんだ後は、リニューアルオープンした渋沢栄一の生家「中の家(なかんち)」へ向かいました。途中、凄まじい土砂降りに遭ってしまいました。

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にのまる

⑧本丸 (2023/06/24 訪問)

搦手から竹之丸東側の平櫓台、二重櫓台石垣をかっこいいなーっと見上げながら藤門へ向かいました。石垣ばかり何時間も眺めているのに全然飽きないのは、このお城が駆け抜けてきた歴史をいくらかでも知っていることに加えて、波打つような石垣模様が醸し出す温かみの故でもあるかと思います。

竹之丸、前御門を通って本丸へ。
今日もまた三重櫓を拝める幸せと安心感。
この景色が120年ぶりによみがえったということがどういう風に歴史に刻まれていくのか、100年後の人たちは“平成の復元ブーム”をどう評価するのか、そして令和の復元は如何に……などさまざまのことを考えさせてくれます。

三重櫓内を見学したあと、富士見櫓跡、雪見櫓跡へ行きました。
少し前に歩いた帯曲輪、だいぶ前に歩いた蛇頭堀を見下ろし、今日もよく歩いたなぁと思うと同時に、小峰城の魅力をたくさん知れてよかった!と満足度Maxになりました(・∀・)/ 

桜之門から退出し、見学終了。最後に駅向こうの大手門跡をさがしに行きました。
歴史館前に平成5年の発掘調査で発見され位置が特定された大手門の礎石が移設されていたので、ぜひその場所を確かめたいと思ったのです。大体の場所はわかりましたが期待していた「大手門跡」の碑などは見あたりませんでした。しかし、大手町で大手門通りに接していたし、何かを探して歩くこと自体が楽しいのでOKです!

白河駅に戻ったのは午後4時。なんだかんだで6時間の城さんぽでした。

<おわり>

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しんちゃん

秀逸な遺構を残し、手軽に訪問できるパフォーマンスの高い城。 (2023/05/05 訪問)

石神城は城址公園として整備がされていて、主に3つの郭で
構成されています。南側に登城道がついていて、二の丸から
東の本丸(御城)に土橋がかかっていて、本丸の東側に
遠見城が配されています。
本丸と二の丸の間には広大な堀切が存在し、写真で確認する限り
深さの度合いが異なるようです。言われてみればってやつですね。
二の丸は主に西側に土塁が残り、本丸の周囲は高い土塁で囲まれ、
堀切を含めた高低差はかなりの物になります。水戸城のような
別格の城を除けば、北関東でも屈指ではないでしょうか。
群馬、栃木、茨城などの北関東を周った感想ですが、比較的
訪問しやすい台地などに、状態の良い土塁や堀などの遺構を
良く残す城が多いのが印象的でした。いわばパフォーマンスの
高い城が多いのだと思います。これらの城の遺構を残してくださった上に
整備をされている地域の方々に感謝の意を表したいと思います。

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しんちゃん

南大手口の土塁が見事 (2023/05/04 訪問)

大宝城は糸繰川の東側の台地上に築かれていました。
関城の南2~3kmほどの位置にあり、かつては南朝方の拠点として
互いに連携し、舟で行き来出きたそうです。
西側と北側は断崖状になっており、本丸周辺は大宝八幡宮となり
遺構の大半は失われているものの、かつての大手の南側には
立派な土塁が残っており、ほかにも堀などの遺構が残っているようです。
かつての断崖の下には大宝沼が開け、沼を挟んで関城と対峙していたと伝わります。
下妻修理権亮長政が貞永元年に居城したのが始まりとされ、南北朝の争いの頃
下妻政康は南朝側の北畠親房の味方をし、親房が関城に入ると、春日中将顕国が
興良親王を奉じて大宝城に入ったとあります。足利の攻め手、高師冬は大宝城と
関城の連携を絶ち、康永元年(1342)3月、両城は敵の総攻撃を受け、
翌年の11月11日 大宝城と関城は同日に落城し、幼い城主、下妻正泰も
城と運命を共にしたとのことです。

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しんちゃん

古河公方の本拠 (2023/05/04 訪問)

古河城を散策したく、古河歴史博物館と渡良瀬川周辺を
散歩してきましたが、郭跡の石碑以外は特に遺構を見ることは
出来ませんでした‥が、肉球さんや他の方の投稿を見ると
まだ、いろいろ見るべきところは有った様子。
グーグルマップにも門跡や櫓跡などいろいろ出ている。
これ、前からあったっけ?
なんにせよ、古河城もう一度行かねばなりませんな。
何気なしに歩くのと、どこに何があったのか分かっていて
歩くのでは視点が違ってきます。
古河歴史博物館では特別展をやっていて、刀剣乱舞の堀川圀廣との
コラボをやっていました。刀剣の展示もいっぱいあったのですが
堀川圀廣といってもいろいろあるようです。古河城の模型もありました。
博物館自体が出城の諏訪原曲輪跡に建てられています。

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トク

67【関ケ原の26人】(23)石田三成 (石田三成と大垣城)

(23人目)「石田三成」の続きです。
関ケ原の前哨戦で陣を敷いた、「大垣城」を訪れてきました。
入口には、関ケ原後に入った戸田氏鉄の銅像が出迎えてくれます(写真①)。

石田三成はここ大垣での決戦を当初考えていました。(大垣城-岐阜城-犬山城)で防衛ラインを構築し、清州城に入るであろう家康をここで迎え撃とうと考えていたようです(説明写真⑥)。しかし、織田秀信が守る岐阜城がわずか1日で陥落し、犬山城の竹中重門などの守備隊もあっけなく城を明け渡し東軍へ寝返ったため、目算がくるってしまいました。さらに翌日、今度は家康は深夜の内に清州から岐阜を迂回して移動、翌朝に大垣城の北方の美濃赤坂に陣を敷きます。朝になり、赤坂に家康の馬印が見えた東軍諸将は驚きます。そしてその動揺を鎮めるべく、島左近が杭瀬川で一矢を報います(写真⑤)(詳細は(5人目)島左近と(21人目)徳川家康を御参照下さい)。

私は、大垣城にいた三成から、家康がいる赤坂の陣や一矢を報いた杭瀬川がどのように見えたのか? それを知りたくて大垣城を訪れ、天守に立って眺めてみました。しかし・・・? ビルなどが立ち並び眺望はあまりよくありませんでした(ん~よく見えん😎:写真⑧)。しかし当時は建物などはないので、ここからならよく見えたと思います。岐阜城も遠くにほんのかすかに見えました(写真⑦)。

その後、家康は今から佐和山城へ向かうとうわさを流し、東軍は赤坂から関ケ原へ移動します。赤坂で十分腹ごしらえをした後、寝返った吉川広家の前を悠々と余裕で行軍します。

それを見た西軍(三成・秀家・行長・義弘ら)は軍議を開き、三成の妹婿の福原直高(大分府内城主)に大垣城の守備は任せ、急ぎ関ケ原へ移動し迎え討つ事に決しました。しかしこの時とるものも取らずに出陣したため(空腹のまま)、また東軍に見つからないようかつ東軍より先回りしようと、遠回りの南宮山南側の伊勢街道を雨の中に深夜駆け足で行軍したので、体力の消耗もかなりあったようです。

三成はなぜそこまでして、急ぎ関ケ原へ移動しようと考えたのでしょうか?(まさに家康の思うツボ!)。 関ケ原の西の大津には立花宗茂ら2万の精鋭の軍勢がおり、あと1日で関ケ原へ到着する所まで来ていました。翌朝ゆっくり出立し、背後から行軍すれば挟み撃ちにもできたはずです。またそのさらに西の背後の大坂城には、毛利輝元本隊の軍勢も控えています。中山道を行く秀忠の軍勢がどこまで迫っているのかも気になったからなのでしょうか?(しかしこの時、秀忠軍はまだ信濃で立ち往生の真最中)。

私は大垣城の天守に立ち、関ケ原の方向を眺め考えてみました(写真⑧)。関ケ原の西の端には秀頼が出陣した時のための陣城として玉城を築いていました。「玉城を家康に奪われれば、秀頼様や輝元殿が出陣できなくなってしまう!🤔」そう思ったからなのでしょうか? 

いやそれだけではないと思いました。この時、その玉城の麓の山中村には大谷吉継がいました。「このままだと吉継が危ない!!!😲」 本当は、この無二の親友を・・・守りたかったのではないでしょうか?・・・

次は、関ケ原(石田三成 陣跡)を訪れます。
 

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ぴーかる

溝口秀勝生誕地 (2023/07/22 訪問)

【西溝口城】
<駐車場他>駐車場はなし。農道の<35.219001, 136.765061>ポイント辺りは停車しやすい。
<交通手段>車

<感想>2週連続日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第2弾13城目。承久の乱で功のあった溝口氏は美濃国大桑に領地を与えられたが、応永年間(1394~ 1428年)にここに移り住んだ時に築城したとされます。築城者が溝口勝政となっており、子孫の初代新発田藩主である溝口秀勝の父も溝口勝政となっていることから150年以上生きてたはずもなく時代がずれています。築城年代や他が間違っているか、または秀勝の父勝政は先祖と同名を名乗ったかと考えます。
 現在は遺構は残っておらず、民家みたいな成願寺の正面入った所の植え込みの中に古い城跡碑があるのみです。

<満足度>◆◇◇

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