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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:長沢西城 (2022/07/30 訪問)

長沢東城からの転戦です。車は、富山市婦中ふるさと自然公園駐車場(36.657737、137.114464)に置いたまま、長沢西城入口に徒歩で向かいました。

詳細は不明のようですが、南北朝時代に桃井直常らの軍勢が長沢へ出兵しており、この頃に利用されたのではないかと推測されています。
また佐々成政の家臣寺島牛之助が一時在城していたとも云われています。
少なくとも、1585年(天正13年)富山の役によって越中国が平定された後には、陣城としての存在価値を失い、廃城となったと思われるようです。

長沢城はこの西城と東城を併せた名称で、便宜上長沢西城とも呼ばれています。現在は遊歩道が整備されています。
長沢城にも長沢東城と同じで、所々に現在地表示のある案内板が設置されています。
本日の予定時間オーバを取り戻す為、説明板付近で引き返しました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=富崎城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:長沢東城 (2022/07/30 訪問)

増山城からの転戦です。富山市婦中ふるさと自然公園駐車場(36.657737、137.114464)に駐車しました。

詳細は不明のようで、戦国時代に築かれたもので長沢城の家老屋敷とも云われています。

長沢東城は長沢城と谷を挟んだ東側に築かれています。
遊歩道が整備されていますが、長沢東城の入口まで、1Kmくらい歩くと東屋があり、「ここより300mほど先に長沢東城あり、また450m先に長沢西城あり」という案内表示があります。
あちこちに案内板が設置されており、しかも、縄張図に現在地が示されています。
本日の予定時間オーバを取り戻す為、説明板付近で引き返し長沢西城に向かいました。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=長沢西城に向かいます。

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浅小井四郎長家 (2022/08/27 訪問)

 JR安土駅から徒歩にて登城しました。近いかと思っていましたが30分もかかってしまいました。皆さんが投稿されているように案内板は朽ちて説明が書いてあったと思われる所は剥がれてなくなっていました。遺構らしいものもなく、周辺の水路が堀跡という情報もありましたが、よくわかりませんでした。また30分かけて安土駅に戻りました。

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観音寺騒動 (2022/08/27 訪問)

 六角義弼(義治)に滅ぼされた六角氏の重臣後藤氏の館跡です。土塁、堀の一部、門跡の石垣、が残っています。ただ石垣も堀も草木のため見にくかった。
近江八幡駅南口から近江鉄道バスに乗り羽田西バス停にて下車。徒歩5分くらいで館跡に行くことができます。

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鯰江貞景 (2022/08/27 訪問)

 織田信長に追われた六角義賢、義治父子が一時期反抗の拠点にしたこともある城です。土塁などが一部残っています。案内板は鯰江バス停前、鯰江自治会館、鯰江農業集落排水処理施設の3カ所にあります。

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お鍋の方 (2022/08/27 訪問)

 八日市駅より近江鉄道バスに乗り紅葉橋北バス停にて下車。徒歩5分くらいで案内板まで行くことができます。石垣が残されているようですが、雑草が茂っていて隠されていました。周囲にも石垣はありますが、いつの時代のものか判断できません。

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ヒロケン

水面に映る天守閣 (2022/08/19 訪問)

岡山城付近には、旭川の流域に岡山、石山、天神山という3つの丘があり、その石山にあった城を手に入れて本拠地としたのが、戦国の梟雄と謳われた宇喜多直家公です。直家公の子である、宇喜多秀家公が岡山の丘に本丸を構え、今に残る岡山城を築きました。この岡山の丘の名が市名・県名となる礎となりました。その後、の城主となった小早川秀秋公・池田氏により城と城下町が整えられさらに拡張され今に至ります。

現在の岡山城の外観は戦時焼失した天守そのままに再建されています。また、国指定重要文化財に指定されている、月見櫓・西の丸に残る西手櫓が現存し、また、旭川を挟み日本三大名園の一つである後楽園があり、岡山市最大の観光スポットとして県内外からの観光客に親しまれています。

現在、岡山城は「令和の大改修」で工事中のため、岡山城の主郭部には入れません。令和3年6月1日以降~令和4年11月の予定です。皆さんの投稿で、入れないことは分っていましたが、主郭部全域とは思いもよらず、今回は天守の遠景のみで我慢しました。(*_*)
ただ、岡山の地は自身の故郷であり、18歳までを過ごした地で岡山城には何度訪れたか数え切れません。岡山城周辺を歩いて過去を懐かしみ、ほっとする時間を過ごすことが出来ました(*^▽^*)

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朝田 辰兵衛

トイレと本丸石垣… (2020/07/24 訪問)

見どころは「出丸石垣と熊野川の眺望」ですが,実際に訪れてみると「トイレと本丸石垣」も良いんじゃね…と思いました。ある意味,現代との融合…。
この日は,突如としてゲリラ豪雨が降るという,とんでもない天候でした。赤木城登城を取り止めての新宮城でしたが,それでもゆっくりできる状況ではありませんでした。

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赤い城

磯部館 茨城県桜川市 (2022/07/30 訪問)

磯部稲荷神社が館跡です。
詳細は不明ですが神社東側に二重の堀が残っています。
かつては堀が館跡を囲っていたと思われます。
神社の浦土塁も僅かに残っていました。
手軽に拝める二重堀、意外な穴場でした。
常陸に来たらこの時季お土産はメロン、シーズンは終盤ですが美味しかったです。

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カズサン

天守閣化粧直しと大河ドラマ館建設中 (2022/08/27 訪問)

 本日午前中、4月初め桜の時期に登城して4ヶ月振りにNHK大河ドラマ館建設工事がどの位進んでるのかなと、浜松城を訪ねました。ドラマ館は二の丸跡の全体を使って大掛かりな様子で進行中です。
 駐車場に天守閣外装工事のお知らせが出て居り、今年の7月頃から始まり12月20日に完成の看板、来年の大河ドラマ「どうする家康」のドラマ館と合わせて天守閣も化粧直しの様です。天守閣全体仮設足場とテントに覆われて居ました、尚天守閣内部展示の見学は出来ますが、展望回廊には出れません。
 来年に合わせて着々と工事進行中です、年明けの大河ドラマが開始頃からお出かけ頂ければ、白くなった天守閣、どんな展示になるのか大河ドラマ館が楽しみな事です。

 ※ もふもっふさんへ・・浜松城登城ありがとうございます、富士山が見えなくて残念でした、富士山は天守閣展望階より見る事が出来ます、春の霞、夏の雲でこの時期はほとんど見えませんが秋、冬の雲が無くすき通った天候条件では見る事が出来ます、午前中早く。
 登城日が11月29日の様でしたが、写真を見ると雲が多いようでしたので見えなかったのでしょう。
 浜松城には本丸北側の石垣土塁上に富士見櫓跡が在り、富士山が見えて居た様で単層の富士見櫓が在りました、今後復元計画も有ります。
 来年の大河ドラマ館が公開された1月以降にお見えになられて天気が良かったら富士山も見えるでしょう。
 また浜松餃子にカツオの刺身で一杯、浜松名物を堪能有難うございます。
 投稿期待いして拝見しています。
 

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チェブ

「韮山代官所、江川邸」の巻。 (2022/08/14 訪問)

「韮山城」に車でお出かけする方は、こちらの「江川邸」の無料駐車場を 利用すると便利です。
「韮山城」の後、「韮山代官所」でもあった「江川邸」で目が回りました(笑)

入口に大河ドラマ『西郷どん』『篤姫』のロケが行われた写真が飾られてました。
北条 早雲さんの時代から、気分は幕末にタイムスリップして、お邪魔しました。

入口右側に説明板があり、江川氏は1156年の保元の乱で敗走し逃げついた場所が、この辺りなんだそうです。
源 頼朝さんの挙兵にも参加しました。

昔だったらVIPしか通れない玄関から土間に。
『生き柱』がありました。
この時、なんだか写真は写してはいけないような気がして写してません。
でも ご心配なく、居住を決めた時に生きてた『けやきの木』をそのまま柱にしたとの事。
早とちりしました。
そして、そのまま上を向くと天井の木材が、規則的に組まれて圧巻です。目、回りました。

建物は江戸時代初期から改築が重ねられ、現在に続きます。天災も戦争にも負けない「江川邸」です。
江川氏の敷地には、パン祖の碑がありました。
兵士の携帯食に硬いパンを取り入れたそうです。ほしいいだけじゃ、飽きちゃいますもんね。
調べてみたら、江川邸からパンの別レシピが見つかり作ってみたら、コショウがきいた ふっくらパンだったそうです。
、、、私は戦の時は、ふっくらを持って行こうっと。

『西郷どん』『篤姫』のロケ地、とミーハーな期待でお邪魔した「江川邸」。
幕末の変わっていく日本と、変わらない日本の御屋敷を見させていただきました。

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宗春

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその28 中峠城 (2022/08/27 訪問)

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその28

遂に出ました!我孫子市初の御城印!早速「アビシルベ」で御城印を購入し、そのまま攻めて来ました。

このテの城址によくある、竹藪放置。残りは宅地開発のために破壊済みという城址でした。
何となく土塁かな?もしかすると曲輪?たぶん堀?と想像するしかありません。

でも、案内板の裏手から古利根沼を望むことができたのですが、その高低差に、やはりここは城だったんだと改めて思いました。

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はなじろー

関東の城 (2022/03/06 訪問)

現存当時の姿を想像できるような堀、土塁が残っていて雰囲気があります。

ナビがないと、辿り着くのが難しいです。

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トク

紅葉の備中松山城と天空の雲海 (2020/11/18 訪問)

2年前ですが、紅葉と雲海に浮かぶ備中松山城が見たくなり訪れてきました。

駅前から観光タクシーで8合目まで行き、そこから徒歩で、紅葉や岩盤と融合した石垣を見ながら天守へ(写真①②)。明治では廃城令の対象でしたが、山の上にあったため誰も手を付けずに放置され荒れ果てたままになっていたのを、昭和初期になって地元の人々の手によって整備されたとの事です。それで運良く残り現存天守になったようです(写真③④)。

天守入口には、人気者の城主の「さんじゅーろー」がいましたが、2年前の事なので、あいつは今どうしているのだろうか?🤔(写真⑤)

この日は11月にしては気温が高く(朝の最低気温14度)雲海は残念ながら下半分しか現れませんでした😩(写真⑥⑦⑧⑨)。天守だけがぽっかり浮かぶ最高の天空の松山城を見たかったのですが残念です。朝の最低気温が10度以下で、かつ晴れた日の寒暖差の大きい日に現れるそうです(10月下旬~12月上旬頃がベスト、それを過ぎると雪で登れないらしい)。タクシー運転手の話では、10日間通っても見られなかった人もいるとか、あなたは1回で半分でも見られたので運がいい方ですよと言われました。みなさんもこの秋に運試しも兼ねてチャレンジされてみてはいかがでしょうか? (という事は、私は「小吉」ですか?)

【アクセス情報】
高梁駅(たかはしえき)から備中松山城の登城や雲海を見に行くには、「観光乗合いタクシー」と「雲海乗合いタクシー」が便利です。城へは駅から8合目のぶいご峠まで行ってくれるので、そこからは徒歩で20分程の軽い登りで天守までたどり着けます。私は、昼頃の特急列車で到着。午後の便の観光乗合タクシーで松山城を見学後、駅前のホテルに泊まり、翌朝の雲海乗合タクシーで雲海を見に行きました。(ホテルでこの時は地域クーポン券3000円をもらえたのでそれを翌朝の雲海乗合タクシーに使いました。よって雲海乗合タクシー代は実質タダでした😊(ラッキ~!なら「中吉」かな?)。

●高梁駅前→8合目ぶいご峠(1日4便)
●高梁駅前→雲海展望台(早朝2便)
いずれも前日17時までに要予約です(詳細はHPで)。

私もまたいつかリベンジの参考にしたいので、大吉の方がもしいらっしゃいましたら、投稿お待ちしております😊。
 

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キンヤ

本丸は県庁となり周囲に石垣と水堀がよく残る城 (2022/08/21 訪問)

2013年以来9年ぶりに行きました。

関ヶ原合戦後、入封した徳川家康の次男 結城秀康によって築かれ、その後、越前松平家が17代まで続き治めました。

明治維新後、外堀は埋められ、二の丸・三の丸などは市街化されてますが、本丸周囲の水堀と石垣はよく残されてます。
現在は本丸に県警本部・県庁・議事堂が建ち、市の中枢部となり、水堀と石垣で今も防御されているかのようです。

特に本丸の大規模な石垣が見応えありました。
ただ、石垣が孕んでいるように見えたり、崩れないか少し心配になる箇所が見受けられました。
小天守台は地震で歪み崩れてしまい痛々しいです。

前回行った時はなかった復元の山里口御門、前回は行かなかった藩主松平家別邸の御泉水屋敷(養浩館・庭園)を見学できて良かったです。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:増山城 (2022/07/30 訪問)

安川城からの転戦です。続100名城スタンプを栃波埋蔵文化財センター(36.635910、137.011165)で押印後、増山陣屋駐車場(36.655810、137.038762)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、戦国時代に神保長職によって築かれたと云われています。
南北朝時代に築かれたとされる和田城は、この増山城の北方にある亀山城と見られています。
1543年(天文12年)頃に神保長職は富山城を築き、新川郡の椎名氏を圧迫するようになります。
椎名氏を支援する越後の上杉謙信は1560年(永禄3年)富山城を攻め落とし、居城であった富崎城も攻め落とされ、長職は増山城に逃れましたが、上杉氏はなおも追撃して長職は再び城を捨てて逃れました。
1562年(永禄5年)頃に神保長職は上杉氏に降伏し、後に増山城に居城を移したが、1572年(元亀3年)頃に没しました。
長職没後、増山城には一向一揆が籠ったが、1576年(天正4年)上杉謙信が攻め落とし、 謙信は家臣吉江宗信を増山城に置いて拠点としました。
1578年(天正6年)上杉謙信没後、織田信長に仕えていた神保長住が織田軍を率いて越中に入国し、1581年(天正9年)には佐々成政の軍勢が増山城下を焼き払い増山城は落城しました。
1585年(天正13年)羽柴秀吉の越中征伐によって佐々成政は秀吉に降り、成政は新川一郡に減封され、砺波・婦負・射水三郡が前田利家に加増。増山城には利家の娘婿中川光重が入りました。
1615年(慶長20年)一国一城令により廃城となりました。

増山城は、富山三大山城(松倉城、守山城)の一つに数えられています。
遊歩道が整備され、堀切や竪堀、横堀が確認できます。
増山陣屋駐車場より和田川ダムを通り過ぎると冠木門が見えてきます。
そこから馬之背ゴ➡又兵衛清水➡石垣跡➡一ノ丸➡二ノ丸➡神水鉢➡鐘楼堂➡安室屋敷➡馬洗池➡三ノ丸と巡り、本日の予定時間を60分オーバしていた為、ここで引き返しました。
御所山屋敷、足軽屋敷、池ノ平等屋敷、小判清水や亀山城は時間の都合でパスしました。
個人的な見所は①馬之背ゴのL字型の大土塁、②神水鉢と安室屋敷間の大堀切、③安室屋敷南東の大土塁、④安室屋敷と三ノ丸間の大堀切といったところです。
写真はたくさん撮りましたが10枚に絞りました。
攻城時間は85分くらいでした。次の攻城先=長沢東城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:安川城 (2022/07/30 訪問)

庄城からの転戦です。登り口案内板前(36.617761、137.031933)に路駐しました。

長禄年間(1457~60年) 後花園院皇子・淳良親王が安川に滞在したときに、黒田太左衛門尉を般若野荘の荘官に任命しましたが、太左衛門尉は横暴を振るい悪党を従え安川城に籠ったといいます。
ただし、淳良親王は伝承上の人物です。当時、般若野荘を治めていたのは公家の徳大寺実淳であり、荘園経営の立て直しのため1474年(文明6年)に同地に下向しています。
また、実淳の孫・実通は、1541年(天文10年) 同地を視察中に殺害されました。背景には荘園の領主と地頭の対立があり、それが越中古城記の伝承となったと考えられます。
別の記録では、太左衛門尉は長尾為景によって落命したといいます。これらの伝承から、安川城は鬼ヶ城とも呼ばれてきました。

安川城の登り口に案内板があります。安川城到着予定時間が30分遅れの為、登城を諦め登り口で引き返しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=増山城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:庄城 (2022/07/30 訪問)

千代ヶ様城からの転戦です。弁天温泉前空スペース(36.589341、136.994385)に駐車しました。

正平年間(南朝暦1346~70年)南朝方で足利一門の有力者の越中国守護・桃井直常が壇城を築いて拠り、砺波郡一帯に越中国一乗寺城、井口城、野尻城、加賀国松根城などの支城を築き支配しました。 
応安元年(北朝暦1368年)対桃井強硬派の斯波義将が越中国守護に任じられ、能登国守護吉見氏頼らと共に桃井氏討伐を開始しました。翌年、義将の配下二宮円阿によって攻められ落城しました。
1510年(永正7年)越後国守護代長尾為景が長森原の戦いの後に一時期居住したようです。 
天文年間(1532~55年)越中国木舟城主・石黒成綱の弟、石黒与三右衛門が拠ったようです。
1576年(天正4年)上杉謙信によって攻められ落城、与三右衝門は庄ノ城を退去しました。
1581年(天正9年)7月、織田信長に近江国長浜へ呼び出された成綱や与三右衝門ら一族三十人が丹羽長秀配下の兵により謀殺されているそうです。
一説によると神保氏が拠っていた折、佐々成政に攻められ落城したとも云われているが確証はなく、廃城年代は不明のようです。

弁天温泉の東の一段高い畑となっているところが、館跡のようで説明板があります。
犬が吠えて見学できず早々に撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=安川城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:千代ヶ様城 (2022/07/30 訪問)

隠尾城からの転戦です。細道入口(36.587513、136.998007)から進入し、この場所(36.581243、136.999370)に路駐しました。

正平年間(南朝暦1346~70年)に南朝方の越中守護桃井直常によって庄ノ城と共に築かれたようです。
応安元年(北朝暦1368年)越中国守護に任じられた斯波義将が桃井直常討伐を開始しました。
これに敗れた桃井直常はそのまま北朝方の吉見氏が治める能登国末森城へと侵攻するも激しい抵抗に遭い撤退します。
直常の子桃井直和は再び転じて、加賀国守護富樫昌家が拠る加賀国富樫城を攻めました。
能登国守護吉見氏頼の救援により敗走した直和は越中国一乗寺城に籠るも追撃を退けられず、千代ヶ様城へと退きます。
吉見氏は追撃の手を緩めず越中に兵を進め、1369年(応安2年)千代ヶ様城は越中国井口城と共に落城し、直和は越中国松倉城へと落ち延びました。
廃城時期などは不明ですが、曲輪の周囲に土塁を巡らせる等戦国期の特徴も見受けられ、当時の庄ノ城の主であった石黒氏が改修して使用していた事を窺わせるそうです。
廃城時期は戦国時代末期と思われるそうです。

調査不足&スマホ通信不可で路駐予定場所に辿りつけず登城断念。付近まできたので攻城とさせて頂きました。
攻城時間の10分はウロウロした時間です。次の攻城先=庄城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:隠尾城 (2022/07/30 訪問)

井波城からの転戦です。八幡宮前空スペース(36.575528、137.013552)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、南部氏によって築かれたと云われます。
南部氏は南部遠江守宗継の弟宗治が足利直義に仕え、直義滅亡後に鉢伏山城を居城として代々続いていたそうです。
1560年(永禄3年)椎名氏は上杉謙信の援助を受けて神保氏を攻め、富山城から増山城へ逃れた神保氏をさらに追撃して五箇山に敗走させました。
隠尾城主南部源左衛門尚吉も上杉氏と戦って敗れ尚吉は討死、子の源右衛門は一時飛騨国へ逃れていたが後に戻り城跡の近くに住んだといいます。

隠尾城は鉢伏山の南中腹にある隠尾集落に築かれていたようです。
北を除く三方が急峻な地形で、北側の道路との間が堀跡と伝えられ、一部池になっています。
主郭は中央が一段高くなっています。二郭方面はやぶ状態で行けません。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=千代ヶ様城に向かいます。

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