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しんちゃん

重箱の隅 唐沢山城 (2023/05/03 訪問)

唐沢山城は戦国期は佐野氏の城で、越後の虎(龍の説もあり)
上杉謙信が10回も攻めた城です。
大手を進んでいった先に堀切があり、太鼓橋がかかっており
その先の左手に和合稲荷神社があるのですが、おそらく
この神社は「あること」が日本一だと思います。何がかというと
本社と奥社の距離が、ものすごく近いんですよ。
おそらく狙っているんでしょうね。ネタ的な感じですね。
本当にどうでも良い話なんですけど、結構好きです。こういうの。
あと食い違い虎口がありますね。最近は食い違い虎口的なものも
枡形と呼ばれることがあり、どう表現してよいか困るときがありますが
ここの場合、本当の枡形がその先にあるので、「くい違い虎口」と
表記があるのはうれしい限りです。

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小城小次郎

キラーコンテンツ (2023/01/23 訪問)

東条吉良氏が拠ったこのお城には模擬櫓や模擬城門も設けられたが老朽化で撤去され朽ちかけた柵のみが廃城の趣を湛えている。せっかく吉良というキラーコンテンツがあるのだからもう少し上手く活用できなかったものか。

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しんちゃん

石好きの マニアもうなる 鏡石 (2023/05/03 訪問)

唐沢山城は標高247mの唐沢山一帯に築かれています。
平将門の乱で功績のあった藤原秀郷が天慶3年に築いたのが始まりと
され、その子孫は小山氏、藤姓足利氏などに分れ、足利氏から
分家した佐野氏が唐沢山城を居城とし、戦国期に修築しています。
人気のある城(神社)で山上まで車で行けますが、駐車場は比較的混んでいます。
右手に天狗岩のある虎口は食い違い状になっていて、その先は枡形になっています。
東に参道が続きますが左手に大井があり、ここの井戸は水が枯れたことが無いと
伝わります。堀切に橋がかかり大手が東に続きます。そのまま南城と呼ばれる
蔵屋敷まで行くと展望所があり、そのまま北上して本丸まで上がります。
本丸の東西北側に郭が配され、西側に二の丸、三の丸(帯廓)が段階状に続きます。
本丸には唐沢山神社があり、西側に鳥居から二の丸への階段が続いて
いるのですが、少し降りて振り返ると左右に石質の異なる鏡石があります。
左がチャート(主な成分・二酸化珪素)で右が石灰岩(同・炭酸カルシウム)
を使用しているとブラタモリでやってました。さすがに視点がマニアですね。


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能登守利信

呟き (2017/04/01 訪問)

本八戸駅から徒歩の範囲なのが助かりますね。 霞神社が内丸で三八城公園と合わせて見るとよいです。 そのまま南に南部会館があり角御殿表門が有るから必須です。 ちなみに八戸藩や八戸城の資料は根城の八戸市博物館の方が充実してます。

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しんちゃん

城域が鎌倉時代のままなら、かなりの広さを持っている。 (2023/05/03 訪問)

中村城は遍照寺を中心に築かれており、周囲を土塁と堀で囲まれた
単郭の城郭で、鎌倉時代に築かれた居館型城郭としては、
かなりの大きさを持っています。私見ですが城域が鎌倉時代のままだとしたら
足利市の足利氏館に次ぐ規模の大きさがあるのではないかと思います。
中村城は鎌倉時代初期、摂関家領中村荘を支配した藤原(中村)朝宗が築いたと
されています。中村氏は後に宇都宮氏の家臣となり、
天文13年(1544)下館城主、水谷出羽守正村に攻められ、城主
中村日向入道玄角は討死、その子小太郎時長は城に火をかけ、米沢に
逃れ伊達政村の家臣になったとされています。

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しんちゃん

整備ありがとうございます。堀も土塁もすばらしかったです。 (2023/05/03 訪問)

児山城は栃木県の史跡に指定されていて、所有者の方々が管理されているようです。
遺構の状況も素晴らしく、散策しやすいよう整備が行き届いており、
訪問させていただく者からすれば、非常に有り難く、感謝の意を申し上げたいと思います。
主郭は東西約50m南北約70mの方形で、周囲を高い土塁で囲みその周囲を
堀で囲んであります。その周囲にも郭がありますが、畑地になっている
ようです、城郭体系によれば、北方に西城・中城・北城・西木戸
南方には稲荷城・馬場という地名が残っているようです。
宇都宮頼綱の四男・多功宗朝の次男朝定が建武年間に築城したとあります。
多功城・上三川城とともに宇都宮氏の南方の支城として重きをなしたが
永禄元年(1558)上杉謙信が多功城を攻撃した折に、児山兼朝が討死し
児玉城は廃城になったとされています。

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ぴーかる

中島城 (2023/07/22 訪問)

【中島城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>車

<感想>2週連続日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第2弾11城目。1221年に嵯峨天皇の末裔、嵯峨源氏がこの地に土着し中島氏を称します。築城年は定かではないですが鎌倉時代に中島宣長が築城したとされます。戦国時代には斯波氏・織田氏に圧され衰退しますが中島氏種という武将は秀吉に仕え秀吉死後も関ヶ原では石田三成軍に属し、大坂夏の陣では大坂方の遊軍として兵2000を率いて最後自刃します。現地は遺構は残されておらず古い城跡碑があるのみです。

<満足度>◆◇◇

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びーこ

絶景の日本海を堪能! (2023/08/12 訪問)

朝から小雨が降り、その後も局地的に雨が降っていたので登城するかどうか迷ったが、せっかく男鹿まで来たのだから、とりあえず行ってみようということになった。

城の入り口は国道に面しており、大きな看板が目印である。そこから車1台しか通れない細い道を登り、案内所まで進む。殆ど人がいないにも関わらず、行きも帰りも途中で車と出くわしてしまい、お互い譲ったり譲られたりしながらなんとか往復することができた。

案内所には続100名城のスタンプやパンフレット、登城者を数えるカウンター、登城者名簿などが置かれており、しっかり管理されているようだ。

案内所からしばらくは舗装されている道が続いている。雨あがりでもここまでは楽勝である。土塁全体は芝生が植えてあり、これを管理するのかかなり大変であろう。数日前に草刈りをしたような感じではあったが、もうすでに20センチほど草が伸びており、井戸跡には近づけない状態であった。

内館地区の大土塁を歩いていくと、日本海の海岸と城下町が一望できるスポットが!絶景である!西側に移動するとこれまた絶景が!こちらは戦国時代と全く変わらない風景だとのこと。いつまでも見ていられる風景である。

雨の後で靴の中までグチョグチョにはなったが、そんなことも忘れさせてくれる素晴らしい景色であった。案内所でスタンプを押しただけで帰る人を見かけたが、勿体ないな〜上まで行った方が良いよ〜と心の中で念じてしまった(笑)

替えの靴と靴下に履き替え、いざランチへ!地元の人も集う観光案内所に併設されているレストランは、そのレトロでのんびりとした雰囲気とは裏腹に、味は確かであった。しょっつる焼きそばは具沢山で盛り付けもカワイイし、ハタハタ丼は身がフワフワで、甘辛味のタレは登城で疲れた体に染み渡る美味しさ。追加注文した、きりたんぽ味噌焼きもオススメだ。

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能登守利信

呟き (2019/06/21 訪問)

四稜郭からバスで攻城。 五稜郭裏門から外堀1,8キロメートルを周り、再び裏門から入城、土塁や稜堡を確認し、一ノ橋、二の橋をまわった後に函館奉行所を見学しました。 五稜郭タワーで全体像を俯瞰出来たのは楽しめました。 夕方に旧イギリス領事館の地図で『御稜郭』と表記されていたのは興味深かったです。

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能登守利信

呟き (2019/06/21 訪問)

函館駅からバスで赤川入口バス停で下車して攻城。 駐車塲を抜けると稜堡の土塁があります。 土塁に沿って歩き、虎口から内部に入り1周。 外郭からも1周して下城しました。 コンパクトな陣城ですが、特異な形を楽しめました。

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能登守利信

函館 (2019/06/21 訪問)

函館空港から徒歩20分程で到着。 最初に慰霊碑を見学後に虎口の階段を登るとボランティアの方が草刈りをしていました。 館跡の維持に感謝です。 土塁をまわってるとあずま屋があり、続百名城スタンプが設置してあります。 パンフ等はなかったです。 さて、空堀や土塁が予想以上に整備されていたのには驚きでした。 建築物跡の整備も含めて観光都市函館の面目躍如だと思います。 惜しむらくは志苔館跡に対する観光案内がまるで無いことでしょう。 函館に訪れた際には是非観に行って欲しい穴場スポットでした。

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城好きのメガネ

「難波田氏館」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★★☆☆☆
難波田氏館は、武蔵七党村山党の難波田氏の居城とされる。難波田憲重の時に、河越城を奪われた主君・上杉朝定を武蔵松山城に迎える。両上杉氏に古河公方・足利晴氏を加えた連合軍が後北条氏の河越城を包囲するが、河越の夜戦において戦死し、難波田氏は没落する。後北条氏の傘下に入る。小田原征伐の際に、武蔵松山城の落城と共に廃城となった。現在、土塁等が遺されている。

<アクセス>
東武東上線 志木駅 東武バス「難波田城公園南口」 徒歩10分

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城好きのメガネ

「中山氏館」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
中山氏館は、武蔵七党の1つで鎌倉時代に中山の地に移り、代々居城とする。戦国時代には、後北条氏・北条氏照の家臣として中山家範が活躍する。中山家範は小田原征伐の際に狩野一庵・近藤助実とともに武蔵・八王子城に籠城する。豊臣方の激しい攻勢により自害する。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
JR東飯能駅 徒歩20分

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城好きのメガネ

「今井城」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
今井城は、舌状台地上に築かれた今井氏の居城とされる。戦国時代には後北条氏の傘下に入る。小田原征伐の際に廃城となる。現在、堀、土塁等が遺されている。※住宅地内にあるため見学の際は注意が必要。

<アクセス>
JR金子駅 徒歩20分

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城好きのメガネ

「藤橋城」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
藤橋城は戦国時代には後北条氏・北条氏照の傘下に入ったとされる。小田原征伐に伴い廃城となる。現在、曲輪・土塁等が遺されている。

<アクセス>
JR河辺駅 徒歩30分

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カズサン

【遠江杉谷城・遠江青田山砦】静岡県掛川市 家康掛川城包囲戦南側の城跡 (2023/08/28 訪問)

 杉谷城と青田山砦は家康が今川氏真の籠る掛川城包囲戦の付城、砦の中で南側を守る城跡に成ります、杉谷城は東名掛川IC開設の工事に伴う東名南側山稜の住宅地商業地開発により消滅しています。

 埋蔵文化財センター企画展、天王山砦、仁藤山砦の見学探訪を終えて、消滅して跡形も無いのですが、城郭放浪記さん杉谷城跡の印マークがグーグルマップに記されて居ましたので、城郭放浪記さんに連れられてポイントに出掛け暫し周辺を眺めてきました。
 
 杉谷城跡の住所:静岡県掛川市杉谷南2丁目8-6のケアホームの辺り(城郭放浪記さんグーグルマップ指図による)
 駐車場:周辺特に無し、指図から南に50m程の杉谷3号公園(さんかく公園)の西路肩土塁下に路駐(交通量少ない)

 杉谷城跡の紹介は埋蔵文化財センターの企画展にも紹介されて居り、参考資料として掲載しました、『歴史群像』4月号、戦国の城連載で【遠江】掛川城攻め付城群が文・監修=加藤理文氏、イラストレーション=香川元太郎氏。2023/2/25開催の掛川市生涯学習センターホール講演「徳川家康の掛川城攻め」加藤理文氏講演レジメ(掛川市HP公開)。
 双方で詳しく発掘調査計測図、発掘調査写真で解説説明されています。

 杉谷城跡は掛川城から南に約2km程の標高約82mの小山頂上部に本丸、北に二の丸、西に三の丸、堀切、竪堀を控え尾根筋との連絡路、退出路、南西約500m程の所に「青田山砦(陣場峠)」を控えて、双方で補完するように連携し南側の高所より今川方は良く見えており、一方が攻められれば応援し、総力戦に成る前には一方は引いて今川方の退却を待ち、無駄な兵力損傷を抑えていたのでは、加藤理文氏の文面で見られます。掛川城包囲戦以後は使用されていない様子で永禄時代の山城遺構が残る城郭とか、しかし開発で消滅していますので、掛川市教育委員会の発掘調査資料が杉谷城の姿をとどめています。

 青田山砦(陣場峠)跡の住所:静岡県掛川市杉谷734(グーグルマップ史跡マーク跡地)
 杉谷地区に在る掛川東病院の進入路の南、約100m程の山部に在ります、よく掛川ICを使っており掛川ICから出るときに山稜部が城の遺構らしいかな?と思っておりましたが杉谷城、青田山砦の残りだったのかな?と思ってる処です。

 路駐して、杉谷城跡のポイントを眺めて、遺構を知らしめるものは無し、ピントに在るケアハウスを確認し、周囲を眺め確認するが周りは住宅地、民家、マンション、商業地で掛川城を望むが建物に阻まれて確認できない、杉谷の名前は住所の杉谷南2丁目、南に登ってさんかく公園の杉谷3号公園看板は(さんかく公園)、掛川ICに繋がってる道に出てグーグルマップの史跡マークに載ってる「青田山砦陣場峠」を見上げる距離400m程、青田山砦は更に南側にまわって茶畑からアタックすれば行けそうですが、地図を見ただけです、詳しい情報も無いので今回は遠くから眺めるだけでした。

 杉谷城の展示パネル(埋蔵文化財センター)を先に掲載しましたが、今回の参考に再掲載します。
 


 

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イオ

堅田城・堅田陣屋(滋賀県大津市本堅田) (2023/07/15 訪問)

堅田城(城びと未登録)は、下鴨社と延暦寺の庇護の下に琵琶湖水運の権益により繁栄した自治都市・堅田が城塞化した城で、延暦寺との関係から志賀の陣では朝倉方につくも、織田方に内応したことにより朝倉方の攻撃を受け、前波景当や坂井政尚らが討死する激戦が繰り広げられました。その後、羽柴秀吉が琵琶湖水運の拠点を大津に移したことにより堅田は衰退しましたが、江戸中期に下野国佐野から入封した堀田正高が堅田陣屋(城びと未登録)を構え、水運の権益を再び認められて六代・約130年にわたり堅田を治めました。江戸後期に堀田氏が下野国佐野に戻ると天領となり堅田陣屋は廃されています。

堅田大宮と呼ばれる伊豆神社が堅田城の推定地とされますが、石碑も説明板もなく明瞭な遺構は見られません。ただ、伊豆神社を囲む堀は堅田陣屋があった頃には存在していたもので、堅田城の堀の名残と思われます。

堅田陣屋は伊豆神社の北東部に位置し、跡地は宅地になっていますが、表御門の位置に説明板が立てられ、説明板の南側には舟入が湖畔まで続いています。湖畔に出ると湖岸沿いに陣屋の石垣が遺っていました。南側には琵琶湖の名勝として名高い浮御堂も望めます。陣屋跡にある料理店の駐車場の境界に並べられた石材は陣屋の石垣石でしょうか。

この日はニッポン城めぐりのイベント「元亀争乱450年」にあわせて訪れました。堅田城と堅田陣屋に登城するには伊豆神社東隣の参拝者駐車場が最寄りですが、カーナビにとても進めそうにない細い道を案内され、伊豆神社の手前の堅田観光駐車場(無料)から登城しました(徒歩2分)。
 

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にのまる

⑦尾廻門・和党門 (2023/06/24 訪問)

修復された本丸石垣を鑑賞しながら帯曲輪をひとまわりし、矢之門から退出、搦手門(尾廻門)へまわりました。
緑に覆われひっそりとした枡形はここまで見てきた高石垣とは一変、秘密の抜け道のような空気が漂っています。
歴史館のジオラマ解説に「外から見ると二階建てに見えるが、二階のように見える部分は板塀」とあり、寄せ手を撃退するくふうがちりばめられているようでした。
門を抜けると、約2時間前に蛇頭堀の外から渡りかけた土橋にようやくたどり着きました。ここから城外に出てしまってはまたぐるっと一周しなければなりませんので戻ります。
(堀の近くにお住まいの方は駅へ出るのにこの土橋を通って城内を抜けていらっしゃるのではないかしら?)

搦手門の近くには和党門があります。ジオラマの説明には「花畠」ともあり、平場になっているところがお花畑だったのかなー?という感じもしましたが、和党門は未だ修復の途次にあるようでした。立ち入り禁止ギリギリのところから石垣を見上げると草に覆われた天面は崩れたままのように見えます。土塁に見えたところにも石が覗いており、復活までの長い道のりを思いました。

まだ本丸へ行っていないので藤門へ向かいます。
長寿院から移された薩摩藩士の墓所、鎮護神山へ行くのを失念してしまったのですが、おつかいをお願いしたピクミンがポストカードを持って帰ってきてくれました。次回は真っ先に行こう。

<つづく>

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スティクラ

序盤が勝負の有子山城へ (2023/09/02 訪問)

出石城を見学した後に有子山城へ。
熊注意の看板があったため、ラジオをつけながら登山開始。

とにかく最初の登りがきつい。平坦なところがなく、登り続ける。
直線的な登りのため、先がある程度まで見えるため、精神的にやられる。
滑りやすい箇所もあり、濡れている状態ではかなり危険と感じた。

最後までこの登るが続くかと思ったが、きついのは半分くらい。
残りは比較的平坦なところが多く、一安心。
途中、道が分かれ石切り場へ。
頂上が近くなると道が開けて、曲輪や石垣を見ることができ、
頂上につくと本丸跡は眺めも良く、当日は曇りで風があったので心地よかった。

時間は往復で1時間45分。
晴天でなく、曇りでよかった。

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能登守利信

小樽市 (2019/06/19 訪問)

小樽築港駅からバスで攻城。 こおろぎ公園バス停から住宅街をまっすぐ抜けると、坂道になっている望洋東公園の入口に到着。 坂道を降りてチャシ跡に降ります。 まあ、お城と違い交流の場と考えれば当然なことながら、お城的遺構等はありません。 看板も以前は有ったそうですが現在は無いらしく見つかりませんでした。

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