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宗春

夏休み城攻め重点ウィーク その4 岐阜城 (2022/08/15 訪問)

会社の夏季休暇で名古屋に帰省したのですが、帰省途中やUターン途中を含めて、いくつか城攻めをしました。

名古屋から岐阜は近すぎるので、青春18きっぷは利用せず訪問しました。今年発売された百名城カード第4弾を入手するとともに、「とんかつ倶楽部よこ家」で味噌カツを食して御城印を頂きました。

今回は金華山には登らず、山麓から写真を撮りました。まあ、これも登城と言う事で。

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トク

【鹿児島城と西南戦争の遺跡巡り②】御楼門と私学校(弾痕跡) (2022/08/11 訪問)

「① 鹿児島城(鶴丸城)」からの続きです。

1877(明治10)年4月、田原坂の戦いに敗れた西郷は、今度は九州を東側(宮崎側)から北上するも、8月15日「和田越の戦い」(延岡)に敗れ、九州山地を逃げ隠れしながら再び鹿児島に戻ります(この時薩軍は350名にまで減っていました)。

9月1日、再び鹿児島に入り鹿児島城と私学校を占拠しますが、すぐに4万の官軍に囲まれてしまいます。鹿児島城の御楼門の石垣や、私学校の石垣にはこの時についた無数の弾痕跡が今でも残っています。追い詰められた西郷は、9月20日最後に残った40名とともに背後の城山の洞窟に潜み身を隠しました。

私は御楼門の前に立ってみました(意外と大きい😲!)。門の先(桝形正面の石垣)には無数の弾痕跡がありました。つまり私の立っている位置に官軍の鉄砲隊が並び、城から討って出る薩軍めがけ、一斉射撃をしていた事になります(写真①②)。そこから東に200m程の私学校でも激戦があり、その石垣にも無数の弾痕跡が残っていました(写真③④⑤)。

官軍に囲まれた西郷は、城を出て裏の城山へ向かいます(写真⑥)。もはや絶体絶命の西郷は、どんな思いで城山を最期の地に選んだのでしょうか?

(補足写真⑦~⑩は鹿児島城と御楼門の説明板です)

次回、「③城山と西郷洞窟(西郷隆盛の最期)」へ続きます。
 

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朝田 辰兵衛

これで,日本100名城の書き込み完了です。 (2020/12/04 訪問)

この城で一番記憶に残っていることは,しりとりで「『お』で始まって『び』で終わる…」という,短絡的で芸のない表現でアプローチを依頼したこと。ま,無事に平戸城でつないで,47都道府県制覇のきっかけになった城ということで,印象に残っています。
城下であちこち廻ろうかと画策しておりましたが,宮崎市内で食べたチキン南蛮が胃袋を征服しており,飫肥天すら食べていません。
もし,次に行く機会があれば,食べ歩きしたいと思います。クーポン満載の「あゆみちゃんマップ」をダウンロードして。

にのまるさんへ。
姫路で,同じ時間に同じ景色を見ていた可能性大ですね…。

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くらのり

竹田城 (2014/03/29 訪問)

虎が臥せているように見えることで「虎臥城」と呼ばれる。永享~嘉吉年間(1431ー1443)、山名宗全の有力被官であった太田垣氏によって築かれたが、当時の城は土塁をめぐらせただけであり、現存の完成された城郭に整備されたのは天正~慶長初期と推定される。
標高353.7mの古城山の山頂に築かれ、天守台を中央に置き山の地形を巧みに利用した縄張りは南北約400m、東西約100m。天守、三の丸、北千畳、南千畳、花屋敷など堂々たる石垣が築かれている。石垣は穴太流石積技法を用いた野面積みで、我が国屈指の山城として、今なお偉容を誇っている。

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くらのり

犬山城 (2011/09/18 訪問)

木曽川南岸にそそり立つ日本最古の桃山風の望楼型天守は国宝に指定。最上階は高欄と廻縁がつく望楼となっている。木曽御岳・濃尾平野などが一望でき、眼下には木曽川の清流が陽に映え見事な眺望である。
室町時代の1537年(天文6年)に建てられ天守は現存する日本最古の様式です。織田信長の叔父である織田信康が、砦を改修して築いた城で別名「白帝城」。現存12天守のひとつです。
城跡は「犬山城跡」として、国の史跡に指定されています。また、日本で最後まで個人が所有(成瀬正肥氏)していた城(2004年まで所有)の城としても有名です。現在は犬山市が管理。

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宗春

夏休み城攻め重点ウィーク その3 旧二条城 (2022/08/12 訪問)

元離宮二条城から徒歩で向かいました。
暑かったので、これ以上の城攻めは無理と判断し、帰路につきました。

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宗春

夏休み城攻め重点ウィーク その2 元離宮二条城 (2022/08/12 訪問)

夏休み城攻め重点ウィーク その2、
青春18きっぷで城攻めしよう その2 元離宮二条城

会社の夏季休暇で名古屋に帰省したのですが、帰省途中やUターン途中を含めて、いくつか城攻めをしました。

青春18きっぷを利用すると特急や新幹線に乗れないのですが、名古屋から京都は意外に近い事に気づき、京都まで足を伸ばしました。ただ二条城周辺以外の観光は全く出来ませんでした。

唐門や二の丸御殿は一度観たかったので、観られて満足でした。名古屋城本丸御殿のように煌びやかな感じたったらもっと良かったです。古いから仕方ありませんね。

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宗春

夏休み城攻め重点ウィーク その1 山中城 (2022/08/11 訪問)

夏休み城攻め重点ウィーク その1、
青春18きっぷで城攻めしよう その1 山中城

会社の夏季休暇で名古屋に帰省したのですが、帰省途中やUターン途中を含めて、いくつか城攻めをしました。

名古屋には青春18きっぷを利用して帰省しました。途中三島駅で降りて、バスで山中城を訪問しました。静岡県の百名城・続百名城のうち唯一未攻略でしたので、待ちに待った訪問でした。噂の障子堀と富士山をひとつの写真に収める事が出来て大満足でした。

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カズサン

【備後・尾道城】広島県尾道市 男たちの大和・戦艦大和オープンセット (2006/02/25 訪問)

 尾道城は尾道駅を降りると北の尾根に聳えていて尾道市のシンボル、賛否色々有ったようでなんちゃって天守閣とか言われますが、城好きの私としては、問題無く大変ありがたく嬉しい事です。史実では東側の尾根千光寺山城が在ったそうで尾根続きの西端ですから地続きで良いのでは?史実として天守閣が無かったとしても観光用でOKです。熱海城も同様です。
 尾道城は昭和39年に千光寺公園尾根の西端に「全国城の博物館」として建設されました、平成4年には閉鎖され老朽化が進み、令和2年頃解体の話が進み、残念ですが解体され現在は見る事が出来ません。新しく千光寺公園視点場として令和4年3月リニューアルオープン、2階は24時間無料利用可のとの事、眺望は最高でしょう。ロープウェイで千光寺に登り徒歩で西端の新名所へ。

 16年前の平成18年2月下旬尾道駅を降り、前年17年の12月に劇場公開された「男たちの大和」の戦艦大和のオープンセットが公開されてる、期限は平成18年3月末との事、九州出張の帰りに寄り見学しました。
 尾道駅から海岸に出ると木製デッキで綺麗に遊歩道が出来ている、尾道水道の南向こうに向島が有り、水上バスで渡海、日立造船向島工場跡地にオープンセットが造られてる、入場料を払い戦艦大和のオープンセットを見学、艦首の菊の御紋、主砲砲塔、高射砲、質感はビックリするほど戦艦、護衛艦にそっくり、触るとなるほどと違いが分かりますが見た目は圧巻の造りです、戦艦セットのデッキより尾道駅、その上に聳える尾道城が良く観えました。
 呉の大和ミュージアムで1/10の戦艦大和模型を観て居ましたが、実物大のオープンセット模型は迫力が有りました、お昼に同会場で海軍カレーを頂きました。
 大勢の人で賑わって居ました。関心度の高さが窺えました。
 

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おっちゃん

江戸時代の人吉城・城下町を表した模型の写真 (2017/11/05 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

佐敷城跡縄張り図 (2017/11/04 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

古麓城跡縄張図 (2017/11/04 訪問)

現地案内板より抜粋

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イオ

とことん江戸城(赤坂門) (2022/06/22 訪問)

(続き)

出張1日目の仕事を終えて赤坂見附のホテルに荷物を置き、着替えたら赤坂門へ。永田町駅9a出口の南西部が赤坂門の枡形で、南半分(櫓門側)は青山通りになっていますが、北半分には高麗門と枡形の石垣が現存しています。また、東京ガーデンテラス紀尾井町の弁慶濠沿いに設けられたテラスの小道からは、赤坂門の弁慶濠に面した高石垣が間近に見られ、刻印や矢穴がはっきりと確認できました。

テラスの小道をたどって紀尾井町通りに出たところに、紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡の石碑と説明板が建てられています。そして、弁慶濠に架かる弁慶橋を渡ってホテルに戻り、この日の城めぐりを終えました。ところで、弁慶橋や弁慶濠の「弁慶」は、江戸城普請を担った大工の棟梁・弁慶小左衛門に由来するものらしいですが、てっきり「武蔵坊」にちなんだものかと思ってました。武蔵坊弁慶ゆかりの史跡は全国各地に伝えられていますので…。

さて、翌朝は早起きして仕事前に赤坂門より南の外堀跡をたどるため、早めに寝ることにします(続く)。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:屋島城 (2022/07/25 訪問)

前田城からの転戦です。山頂観光駐車場(34.358943、134.102640)に駐車しました。

663年(天智天皇2年)白村江の戦いで、倭国(日本)・百済復興軍は唐・新羅連合軍に大敗しました。大和朝廷は、唐・新羅の侵攻に備えて、対馬~九州の北部~瀬戸内海~大和に至る要衝に様々な防御施設を築きました。
664年、対馬・壱岐・筑紫などに防人と狼煙台を配備し、後の大宰府の西方に水城を築きました。
665年、長門に城を築き、筑紫に大野城と基肄城を築きました。
667年(天智天皇6年)大和に高安城、対馬に金田城、讃岐に屋嶋城を築きました。

南の城門地区の城門と石垣を確認しました。
右ひざ痛でしたが、本日、最後の攻城なので頑張って歩きました。
攻城時間は60分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かいました。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:前田城 (2022/07/25 訪問)

向城からの転戦です。JA香川前田支店駐車場(34.300675、134.111238)に駐車し、宝寿寺(34.301723、134.112369)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、文明年間(1469年〜1487年)前田頼母頭宗存によって築かれたと云われています。前田氏は十河景滋の分家で前田氏を名乗ったそうです。
1582年(天正10年)3代前田宗清のとき長宗我部氏の侵攻により落城しました。

前田城は法寿寺のある古代丘陵を利用した平山城です。
南北に二つの曲輪があり法寿寺があるのが南の曲輪、標柱が建っているのが北の曲輪となっています。
北の曲輪は墓地ですが、北東隅の土塁があり、北背後にはやや低くなった空堀が残っています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=屋島城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:向城 (2022/07/25 訪問)

室山城からの転戦です。向城城址南側入口(34.318655、134.077940)に路駐しました。駐車場所に苦労します。

真鍋氏数代の居城で、1500年(明応9年)頃に築城されたようです。
城名は初め奥城と云われたが、対立する十河方の神内城と白山神社を挟んで向かい合っていたので向城と呼ばれるようになったそうです。

現在は水田にある所に説明板が建っているだけです。入口がわからず、フェンス際から写真を撮りました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=前田城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:室山城 (2022/07/25 訪問)

築城城からの転戦です。登城口付近空スペース(34.322813、134.035091)に駐車しました。
駐車付近の登城口は2か所あり、①南西側登城口(34.322797、134.035308)と②南東側登城口(34.322517、134.039098)です。

築城年代は定かではないようです。
はじめ真鍋権之頭が城主であったともいわれるが、戦国時代には勝賀城主香西氏に属した太田犬養が城主でした。
太田氏は香西元定が三谷景久の籠る三谷城攻めに参加したが、天正年間(1573年〜1592年)に長宗我部氏が香西氏を攻めた時に、長宗我部氏と戦い戦死し、廃城となりました。

城は栗林公園の西にある紫雲山の南の峰の室山に築かれています。
右ひざ痛の為、登城を断念して2か所の登城口を確認して引き返しました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=向城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:築城城 (2022/07/25 訪問)

芝山城からの転戦です。説明板付近(34.330702、134.0053)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、築城(つづき)氏によって築かれたと云われています。
築城氏は代々勝賀城主香西氏に属し、初代築城縫殿助は1508年(永正5年)三谷城攻めに加わり、三代清左衛門は1582年(天正10年)長宗我部元親が香西氏を攻めた時、伊勢神宮の馬場で奮戦したといいます。
1585年(天正13年)豊臣秀吉の四国征伐で香西氏は滅亡しました。
香西氏滅亡後は、1587年(天正15年)讃岐の大名として赤穂から生駒親正が着任し、清左衛門は200石で召し抱えられました。

遺構はありません。説明板の写真を撮ったら速攻で撤退です。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=室山城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:芝山城 (2022/07/25 訪問)

藤尾城からの転戦です。石垣下の駐車スペース(34.351354、133.998051)に駐車しましたが駐車禁止場所でしたので、石碑の写真を撮って速攻撤退です。。

築城年代は定かではないようですが、勝賀城主香西氏の出城の1つで、水城であったそうです。
天正年間(1573年〜1592年)頃には香西氏の家臣で円座城主の渡辺市之丞が守将となっていました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=築城城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:藤尾城 (2022/07/25 訪問)

勝賀城からの転戦です。宇佐八幡宮参拝者用駐車場(34.345864、133.997324)に駐車しました。

1575年(天正3年)香西佳清によって築かれました。
香西氏は長宗我部氏の讃岐侵攻に備えて、宇佐八幡宮の鎮座する藤尾山に藤尾城の築城を開始し、1577年(天正5年)には佐料城から移ったといいいます。
1581年(天正10年)長宗我部氏の侵攻にさいして開城、その後、1585年(天正13年)羽柴秀吉の四国征伐の後には廃城となりました。
1602年(慶長7年)城跡には再び宇佐八幡宮が遷座されました。

宇佐八幡宮本殿が建つ最高所が本丸跡で、西に一段下がった「八幡宮氏子会館」の敷地が2の丸跡とされています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=芝山城に向かいます。

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