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赤い城

少しだけ残る土塁 (2022/12/25 訪問)

登城口から登っていくと民家があり、その脇に説明板が立っています。
その先に石碑があり、主郭跡のようです。
畑になっている感じですが土塁が残るとのことなのでちょっとだけお邪魔しました。
高さもさほどでも無い土塁が少しだけ残っていました。
他に遺構は無さそうです。
あまり探索も出来ないので早々に退陣しました。

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新ろくべえ

国宝五城・松本城に行ってきました!②惣堀編 (2023/01/03 訪問)

松本城の掘は、内堀、外堀、惣堀のみっつあり、
その中で、惣堀はとても大きいです。
今回は惣堀を紹介します。

『東側』
惣堀の中で、唯一残っているのは東側の一部だけです。
東側の掘は水が張られ、当時の歴史を馳せています。
はじに、昔の石垣が少し残っていて、見えます。
とても大きく、川のようです。

『南側』
大手門のあたりには、今は公園となっていて、説明板があります。
大手門にも惣堀が巡っていたようです。
 
『西側』
西側には、土塁が残っており、公園となっています。
昔の土塁がきれいに一面だけ残っています。
土塁は昔とても広かったようで、とても大きく感じます。

『北側』
北には遺構がありませんが、北門大井戸のあたりに、北門馬出跡の説明看板があります。


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イオ

尼崎市立歴史博物館と尼信会館 (2022/12/10 訪問)

(続き)

廃城後、本丸跡は学校用地となり、戦前に建てられた市立高等女学校の校舎が整備されて歴史博物館になっています。歴史博物館の北東部が天守跡にあたり、玄関前の植込みに尼崎城天守閣遺蹟の石碑が建てられています。また、北辺の道路沿いの植込みには大量の石垣の石がならべて展示されており、矢穴のある石も見られました。

館内に入ると、2階は古代から現代までの常設展示エリアになっていて、尼崎城の絵図や本丸の復元模型、鬼瓦や鯱瓦、桜井松平氏の具足、発掘調査の成果の展示など、尼崎城に関する展示が特に充実しています。中庭にも尼崎城石垣の石が数多く展示されていました。
なお、尼崎城とは無関係ながら現代の常設展示の最後に現下のコロナ禍に関する展示があったのが印象的でした。まだまだ歴史どころか現在進行形ですが、いつか歴史の一ページになった時に後世の人が指針とし得る資料をひとつでも多く伝えていく、それこそが歴史という学問に携わる者の後世に対する責務ですよね。

歴史博物館を出て城下をあちこち散策した後、今度は西屋敷跡の尼信会館に行きました。その名の通り尼崎信用金庫が開設した博物館で、城下町尼崎展として尼崎城と城下の絵図や資料、桜井松平氏に伝わる大旗、太刀や具足が常設展示されています。併設のコイン・ミュージアムもなかなか面白く、ちょうど時期的にFIFAワールドカップ各大会の公式記念コインが展示されていました。ついでに南隣にある尼信本店別館の世界の貯金箱博物館にも行くつもりでしたが、閉館時間が迫っていたため断念しました…。

…ということで、歴史博物館も尼信会館も入館無料ながらなかなかに見応えがあり、尼崎城への理解を大いに深めることができました。さて、歴史博物館で知識を仕入れたら城下を散策します(続く)。
 

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チェブ

公園再生で成長(?)するお城。 (2023/01/03 訪問)

1148年、小山 政光さんが築城した「小山城」。
1576年、小山氏は北条 氏照さんに降伏し「小山城」は大改修されます。
秀吉さんの小田原征伐で、北条方だった小山氏は滅亡しました。
因みに、「小山城」が落城したのが7月7日。小山市は七夕を祝わないんだとか。
織姫もがっかりです。

関ヶ原の戦い後は、本多 正純さんが入城。「宇都宮城」に移ると「小山城」は廃城しました。
と、ざっくり いろんな事がありましたけど『小山評定』が「小山城」を印象深くしたのではないでしょうか?

栃木県小山市城山町1丁目1。小山市の中心です。
なのに、ナビは「小山城」の裏手の駐車場に案内しました。、、、間違ってはいませんけど。
なにやら工事が始まるようです。
発掘!
と、期待しましたが、公園を憩いの場に再生工事するそうです。
駐車場から橋を使い堀を渡ります。曲輪ではバトミントンをしてる子供達。
馬出しには趣のある赤い橋。
でも、工事準備するのか、橋は通行止めでした。
憩いの公園は良いけど、遺構を削る事が無いようお願いしたいです。

前回、投稿した渋滞の原因は『須賀神社』の初詣の駐車場待ちでした。
調べたら『須賀神社』は「小山城」の守護神なんだそうです。
『須賀神社』お願いしましたよ。
東京の端っこから「小山城」のこれからを、見守ります。
東京の端っこ、、、、!
いらっしゃいませ、朝田 辰兵衛さん。

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トク

⑤【関ケ原の26人 】(2)吉川広家 (吉川広家と岩国城) (2022/09/04 訪問)

(2人目)は「吉川広家」です。
広家の関ケ原当時の居城は「米子城」ですが、今回は関ケ原後の居城「岩国城」を訪れてきました。

関ケ原の敗戦により毛利輝元は120万石から周防・長門の二か国36万石に大減封されてしまいます。岩国城はその時、毛利の重臣であった「吉川広家」が米子からここに移り築城を始め1608年(慶長13年)に完成した城です。しかし、その後の1615年(元和元年)に一国一城令で廃城の命を受け泣く泣く破却、天守はわずか7年しか存在しませんでした。

現在ある天守は、昭和37年に観光目的で50m南に移動した位置に再建されています。天守からは、錦帯橋や岩国城下(岩国市街)、米軍基地や瀬戸内海まで遠望でき、とても気持ちのいい眺めでした(写真⑥⑦)。また桃山風南蛮造りの天守はとても美しく感じました(写真③)。当時の天守台も残っており、広家が築いた野面積の石垣も見ることができました。その横には同じく広家時代の空堀もありました(写真④⑤)。

吉川広家は、関ケ原では毛利輝元の名代である毛利秀元(元就の四男で輝元の養子)を補佐すべく、南宮山の麓に陣を構えました。南宮山の頂上にいる秀元はやる気満々でしたが、広家が動かないため山を下りる事ができません。そこで石田三成は広家に再三の出陣要請をしますが、今は飯を食べているので出陣できぬと答え、後の「宰相殿の空弁当」の言葉で有名となりました。実は黒田長政との密約で東軍に寝返へれば毛利120万石の所領は安堵されるとの約束があったようです。広家は父の吉川元春の教えに従い、誰よりも毛利家の行く末を案じていました。よって、このような決断をしたのだと思いますが、結局は家康から反故にされてしまい、この決断は裏目に出てしまいました。最大の過ちは、家康から直接お墨付きを取っていなかった事ですかね🤔?(そんな時間もなく長政を信じたのでしょうが・・)。家康は長政が勝手にやった事として反故(ほご)にしたようです(これも口実でしょうが・・)。

私は岩国城の天守に立ち、そこから城下を眺めて見ました(写真⑥)。岩国城を築城したものの、結局は自分のせいで毛利家を没落させてしまう事になった広家は、どんな思いでここから城下を眺めていたのでしょうか? そして、どうすれば毛利家を元のように再興できるのか? 日々ここで悩み、そして苦しんでいたのではないでしょうか?


【余談:ハローキティ号】
新岩国駅から博多行の山陽新幹線こだま号に乗った時、たまたまでしたが、それがカズさんと同じ「ハローキティ号」でした。おじさんがビール片手に乗るには、ちょっとはずかしい列車でした😊(写真⑩)。


次は、「吉川広家陣跡」を歩き「南宮山」を眺めます。
 

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城とマスク

夜の駿府城 (2022/01/02 訪問)

掛川城から駿府城に移動してきました、真っ暗でしたがライトアップされてたので見学出来ました。

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肉球

泉陣屋・福島県いわき市 (2022/09/07 訪問)

平藩内藤氏から分知された陣屋跡です。
内藤氏の後は板倉氏本多氏と続き戊辰戦争で官軍に攻められ落城。
跡地は公園になり石碑が建つのみです。
近くに裏門が移築されてます。

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城とマスク

去年のお正月は掛川城からスタート (2022/01/02 訪問)

去年は掛川城からスタートしました、東名高速が大渋滞で到着が大幅に遅れた記憶があります。お正月らしく金色のマスクを被ってみました。

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肉球

湯長谷陣屋・福島県いわき市 (2022/09/07 訪問)

今年もよろしくお願いします。
昨年投稿していなかったぶんです。

1670年平藩内藤氏から分知され築かれ幕末まで続いた陣屋跡です。
跡地は磐崎中学校となっていて学校敷地内に立派な石碑が建っています。
学校の南東に堀跡が残り表門がその付近にあったもよう。

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todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー55城目 (2022/12/10 訪問)

この日の4城目は、続100名城の大和郡山城。極楽橋が出来てから、そして国史跡に指定されてから初めての攻城です。これだけの城が今まで国史跡でなかったことの方が驚きです。スタンプを頂いて柳沢文庫も拝見して参りました。柳沢吉保が悪役で描かれている葉室麟の「影ぞ恋しき」を読み進めている最中でしたので、特別展の「大名家の日記-柳澤家当主四代の記憶と記録-」は、実にタイムリーでした。

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しだみゅう

備中松山城 (2023/01/03 訪問)

日本三大山城、3つ目❗

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しだみゅう

リニューアル、岡山城🏯❗ (2023/01/03 訪問)

独特な出で立ちで、素晴らしい❗

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朝田 辰兵衛

そろそろ東京の端っこでも。 (2022/11/28 訪問)

得意の途中下車。今回は,JR金子駅で。埼玉県から東京都青梅市に入りました。コインロッカーはなく,キャリーバッグを転がしながら。この駅で降車した乗客は私だけでした…。それなりに住宅はありましたが,ほとんどマイカー所有でした。都心で感じる風とは違います。
さて,ここは何といっても空堀が魅力的な城です。少年だったころに発見していたら,間違いなく「仮面ライダーごっこ」をしていました…<笑>。

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赤い城

近づいてはいけない (2022/12/25 訪問)

熊野神社背後の山に遺構も残っているらしいですが私有地につき立入禁止。
色々と話を聞くと安易に立ち入らない方が賢明です。

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小城小次郎

再建なった御楼門 (2022/07/10 訪問)

かつて古写真でしかその雄姿を拝めなかった御楼門が2020年に再建された。西南戦争で燃えたものと勝手に思っていたのだが、実は西南戦争が始まる4年前の明治6年に焼失していたのだということを初めて知った。

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ぴーかる

富田松山城 (2022/12/04 訪問)

【富田松山城】
<駐車場他>登城口前駐車場<34.742528, 134.198876>8台程度可能
<交通手段>車

<見所>堀切・土塁・石垣跡
<感想>1泊2日城びと美作・備前山城攻めの旅2日目ラスト7城目。富田松山城の築城年は定かではないが、文明年間(1469〜1487年)に浦上氏によって築城され、主な城主に当主浦上政宗の幼いころの後見人・重臣であった浦上国秀がいます。
 上記駐車場に城の説明板があります。説明板横の道を進むと左手に山に入る道があります。遊歩道になっているので苦労なく登れます。中腹の少し上くらいに分岐地点があり右手に行きます。この分岐点も広い削平地になっていますが、道以外は藪化しています。最初の山のピークが東の丸になっています。山頂部をきれいに水平に切り取ったような円形の曲輪で、美しく片上湾が望めます。鞍部を隔てて本城の山が見えます。本城の方に進んで鞍部を越えた所に岩盤を削った大堀切があり見応えあります。
 城跡は主郭を中心に辰巳~戌亥の方角まで方円状に段曲輪・帯曲輪が広がっています。内部に大手曲輪や大手腰曲輪の看板があり大手道もしっかりと残されています。各曲輪内部に大量の転落石が転がっており一部には石垣が残されています。当時は曲輪壁全面が石垣だったようでもし残されていたなら相当な見応えなのだろうけれども、ほとんどが崩落してしまって非常に残念です。主郭・二の丸・三の丸は整備されており芝生化しています。崩落した石は除かれているようです。主郭は広い土塁囲みで土塁が削れ、曲輪内の土の堆積で腰くらいの高さになってしまっていますが、ここも石積みが少し残されています。主郭からの眺望も抜群です。崩落石垣が少し残念でしたがいい遺構が残る城跡です。
 今回の旅はこれにて終了。メインの天神山城は攻略できなかったものの、浦上氏の築城・改修した城々が宇喜多氏によって落城していった様子が少し勉強になりました。城びと未登録の城も含め北から南に流れる吉野川・吉井川流域には点々と数多くの山城跡があり国道374号線を南下していると山々の山頂全部が城跡に見えてきます。(実際その多くが城跡なのですが・・)美作・作東は山城攻めに魅力的な所です。走行距離449㎞無事走破。

<満足度>◆◆◇
<グルメ>この辺の地域はリアス式海岸で海には多くの牡蠣養殖筏が見えます。虫明牡蠣が有名です。殻付き2㎏買って帰りました。

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新ろくべえ

藤岡城に行ってきました 城レベル→3 (2023/01/06 訪問)

 高い土塁が残る城・藤岡城(芦田城)に行ってきました。
この城は、秀吉の小田原征伐後の1591年に築城されました。
築城したのは、元武田家家臣である依田信蕃の次男・依田康勝です。
依田康勝は德川家に仕え,家督を継いだ兄・康国と共に活動していましたが、
康国は小田原攻めの際、上野石倉城攻めで戦死してしまい、康勝が跡を継ぎ、
康国の遺領の小諸領春日城をつぎ、家康が関東に移ったことにより、
藤岡に三万石をもらい藤岡城を築きました。
しかし、1600年1月に、大阪の旅宿で同僚の小栗三助と囲碁をしていたとき、
小栗が囲碁に負け、小栗が康勝を罵ったことにより喧嘩口論になり、小栗を斬り殺してしまいます。
そのため、反省し大阪を出奔し、高野山に謹慎し、藤岡を改易されました。
その後、藤岡城は廃城となりました。


【城情報】
・形式       ❙平城
・築城年      ❙1591年
・廃城年      ❙1600年
・築城者      ❙依田康勝
・最後の城主    ❙依田康勝
・廃城理由     ❙康勝が改易されたため
・主な城主     ❙依田康勝
・遺構       ❙ 土塁
・主な建築物    ❙なし
・説明看板、石碑  ❙土塁下に芦田城と書かれたところあり
・駐車場、トイレ  ❙なし
・天守       ❙なし
・保存状態(自身判断)❙高い土塁が残り、城のイメージがつきやすい
・城レベル     ❙3(詳しくは新ろくべえのプロフィールへ)
・備考       ❙・藤岡第一小のちかくにある、
          ❙・昔は、土塁の下に堀があったらしい(今はない)
          ❙・駐車場がないため注意

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京都一周トレイル道 (2023/01/03 訪問)

京都一周トレイル道は、京都盆地南東の伏見桃山から東山・比叡山を経て、大原に北上。西進して、鞍馬・高雄・嵐山へ。南下して上桂駅というルートです。盆地を囲む山城を訪れる際に、結果的に、このトレイル道を利用することが多いです。
静原城は、大原を通る敦賀街道と鞍馬を通る鞍馬街道を結ぶ道(かつトレイル道)沿いにあります。城びと先人、おっちゃんさんとtodo94さんのレポートを参照して、静原神社脇から登城。谷沿いから尾根に上がるつずら折れを登りきると、本丸まで急で真っ直ぐな尾根道。ここまで、滋賀県坂本から比叡山越えでかなり歩いてきたのできつかったです。
山深い場所と思ってましたが、南の低い山越しに、本丸から京都市街地が望めました。北へ向かう二つの街道の押さえもあり、三好長慶や明智光秀が、利用・増強したのも宜なるかな。

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刑部

強風の中登城 (2023/01/04 訪問)

狭い道の先に小高い所にある城址、公園になっていましたが遺構を残していました!

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刑部

雪積もる城址 (2023/01/04 訪問)

トイレ、駐車場完備の整備された城址。
雪が積もっていて歩く所でないところ歩いてしまい足を取られてしまいました。ちゃんと入り口から入れば良かった!

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