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しんちゃん

素晴らしい遺構を残す山城 そして‥ (2023/11/19 訪問)

山家城は「小笠原氏城跡」の一つで長野県の史跡に登録されています。個人的には林大城よりよほど山城としての遺構が優れており、国の史跡にふさわしい山城だと考えております。見る目が無い‥いやいや、いずれ国の史跡になると思いますよ。山城のメッカともいえる長野県ですがその中でも山家城はこの地方を代表するすごい城です。城は二段構造になっていて、見事な石垣を残す中の城(山家城)と、それと同規模かそれ以上の規模を誇る奥の城があり非常に見ごたえがあります。
まずは中の城を紹介したいと思います。城をじっくり見たいので徳運寺の背後から尾根沿いに登っていきます。すると‥ありました。
クマ公のウ〇コです。久々に見ましたね‥青森の尻八館以来です。
やつら虎口や土橋など必ず通る所にしていくんですよ。縄張りアピールしてくれてます。賢明な方はここで引き返していただきたい。私は自己責任で進みます。熊スズが頼りですが案外落ち着いています。政府が熊対策に本腰を入れないので今日日そこいら熊だらけですからね。いくつか堀切をすぎると主郭にたどり着きます。見事な石垣で土塁も残っています。主郭の背後は堀切で遮断されその奥に城域が続きます。凄い堀切が見えます。次に続きます。

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イオ

私の兵糧丸

城びと6周年おめでとうございます! 城びとの記事も皆さまの投稿も、いつも興味深く拝見しております。今後ともよろしくお願いいたします。

さて、新規登録された横浜のお城EXPO城には今年も行けそうにないので(日本100名城かるたのサンプルと石垣バトルが気になる…)、せめて「私の兵糧丸」に参加させていただきます。

山城歩きの携帯食としては「カロリーメイト」をザックの中に常備しています。高校の登山部の頃からの定番で、当時はチーズ味とフルーツ味しかありませんでしたが、今はバニラとチョコレートとメープルの3種類からその時の気分で選んでいます。飲み物は「ペットボトルのお茶」と「ゼリー飲料」が定番で、夏場は凍らせたペットボトルだけでは足りないので、「2リットルの保冷水筒」に麦茶と氷を入れて車に積んでいます。

飲食物以外の持ち物では「スマホ」や「カメラ」は当然として、(続)100名城以外にもスタンプが設置されているお城も多いので「スタンプ帳」を、自転車での城下町めぐりでは「首提げスマホケース」、山城では「ストック」「手袋(スマホ対応)」「熊鈴」のほか、プリントアウトした縄張図を入れて首から提げる「登山用マップケース」、防寒・汗拭き・首筋の保護用に「マフラータオル」、昨年ヤマビルにやられてからは「登山用スパッツ」、ヤブに突入した際に灌木や竹の枝から目を保護する「ゴーグル」などを持って行っています。

…ありきたりで面白みに欠けますが、だいたいこんなところで。
 

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カズサン

段丘に連郭式の造りしかし草に覆われてる (2023/11/13 訪問)

 真木城を終えて県道30号線を南下し約3km程で県道沿いに鳩ヶ城の登城口が有る、此処は真木城と同じく9月中旬宮城県福島県未踏の城廻り3日目、土砂降りの雨と雷で探訪中止した城郭で2ヶ月振りの挑戦初登城。

 駐車場:県道30号線西側の広い路肩三角コーナー(36°53'46"N 139°54'23"E)、GoogleMapの史跡マーク「鳩ヶ森城跡案内板」の前
 参考資料:余湖図コレクションさん、那須塩原市HP、グーグルマップ、城びとの投稿者「いんげん丸虫さん、赤い城さん」

 登城口に鳩ヶ森城跡の案内図が簡易縄張り図で掲示されてる、大変ありがたい、案内解説板は無い、登城路は草が刈られ登りやすいが、本丸側への登城路は草刈の後に伸びた草が茂って進入躊躇し二の丸跡へ進行、虎口辺りは草が刈られてるが二の丸跡の標柱辺り人が踏み込んだ痕は有るが草が茂り進入断念、二の丸の南側の土塁の一部は草が刈られて居り土塁歩き、南の下に三の丸が見える、三の丸導入路は草が刈って有り進入し、内部と二の丸南側の切岸を観察、本丸へは二の丸から奥に虎口が在りそうでしたが草に覆われてる二の丸を踏破は出来きず、二の丸と三の丸のみの探訪でした。

 鳩ヶ城は、鳩ヶ森城、宇都野城とも称されて、箒川の西に北に連なる河岸段丘に東西に堀切を設けて連郭式に築い城郭。
 
 歴史:那須塩原市のHPによると、寛治3年(1089年)に山本上総介家隆によって築かれた、山本氏は白鳳時代に創建された嶽山箒根神社の別当職を代々務めた家系で、後三年の役の際、当時別当職にあった隆珍は、源義家に従い軍功をたて、山本上総介家隆と名を改め、箒川沿岸8か村、伊佐野郷15か村を支配した。鎌倉、室町時代にかけて塩谷郡は宇都宮城主に従う豪族山本氏、氏家氏、塩谷氏が支配した。天文2年(1533年)城主山本伊勢守資宗の時代、大田原備前守資清に攻略され鳩ヶ森城は落城し、28代440年余続いた山本城主の歴史は終焉した。
  

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イオ

とことん岡山城(中の段) (2023/08/13 訪問)

(続き)

門扉が鉄板で覆われていたとされる鉄門跡を抜けて中の段へ。中の段には藩政の場である表書院が建てられていました。表書院の建物は遺っていませんが、発掘調査に基づき建物の位置や間取りを平面表示し、中庭の泉水が復元されています。

中の段の北西隅には月見櫓が現存しています。下の段から見上げると迫力のある武骨な隅櫓でしたが、中の段側は縁側を廻らせた優美な造りで、月見櫓の名に相応しく感じました。月見櫓の脇の石垣には銃眼石が見られ、非常時の食糧貯蔵用の石造りの穴蔵も設けられています。

月見櫓のほか、北東部には廊下門と小納戸櫓、西辺は数寄方櫓から伊部櫓を経て南西隅の大納戸櫓まで多聞櫓が続いていて、南東部には下の段からの鉄門、本段への不明門が設けられていました。建物は現存の月見櫓、外観復元により再建された廊下門と不明門があるだけですが、跡地にはそれぞれ説明板が設置されています。東側は本段の西辺石垣で、鉄門脇の石垣には土塀に上がるための合坂が見られました。

中の段は小早川期に西へ、池田期には南北に拡張され、その際に宇喜多期の石垣は埋められてしまいましたが、発掘調査により発見された宇喜多期の西辺石垣と北東石垣が露出展示されています。埋め戻すだけでなく、一部であってもこうして発掘調査の成果を見学できるのはありがたいことですね。

さて、中の段をひとめぐりすると不明門から本段に向かいます(続く)。
 

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todo94

難読城名 (2023/11/23 訪問)

これで「ささのくま」と読むのですね。知らなければ読めませんよね。静修小学校側の尾根を攻め上りました。途中、笹が生い茂っている部分で若干の藪漕ぎ、その先の岩場を越えると山城遺構が次々と現れます。ただ、何の表示もなかったのは少し寂しい気分。帰路は今回の但馬城攻めで初めて迷ってしまいました。麓の道場城辺りに出たのかなと思います。常光寺から攻めるのが正解のようですね。

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しんちゃん

本丸石垣と三の丸テラス。森可成や明智光秀の眺めた絶景が広がる。 (2023/12/03 訪問)

宇佐山城は織田信長が家臣の森可成に命じて築かせた城で本丸には見事な石垣が残り、三の丸からは琵琶湖やその周辺一帯が一望できます。浅井・朝倉連合軍の侵攻を受け森可成が坂本で戦死した際には駆け付けた信長が入城したと考えられています。その後、明智光秀が守将となり延暦寺攻略を行ったとされています。
宇佐八幡宮から登城道が続いていて地元の小学生が設置した案内に従って城を目指します。小さい子供を連れた親子もおり、地元では眺望の良い山として結構人気があるようです。木の根道を登っていくと途中に尾根を利用した大きな竪堀が有ります。明らかに人為的なものでこの城を死守しようとする森可成の本気が伝わってきます。本丸には見事な石垣が残り、その上にはNHKの施設が鎮座しています。南には二郭があり本丸の北側には空堀が配され土橋がかかっています。その先が三の丸ですが見事な眺望で琵琶湖と滋賀の街並みが一望できます。
自分にとってはこの城は森可成のイメージが強いので「これが森可成の眺めた景色か」と思うと感慨深いです。もちろん織田信長や明智光秀もこの眺望を見ているはずなので感慨もひとしおと言ったところです。

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とばつびしゃもん

シンプルな中世山城 (2020/12/13 訪問)

紀宝町ふるさと歴史館の駐車場に車を駐車し登城開始。
城址は熊野灘をのぞむ小高い山、ふるさと歴史公園にあり、津波避難場所に指定されている。山の頂上に周囲をぐるりと土塁で囲まれた曲輪がひとつ。展望台からは熊野川河口と熊野灘を一望。

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小城小次郎

山崎氏のお城でいいんじゃないかな (2023/04/16 訪問)

在地領主の山崎氏のお城と思って発掘したら思いのほか立派な石垣が出てきたので織田政権が直接作ったのではとも考えられているが冷静に考えるとこの程度の石垣は近江には沢山あるので山崎氏の城でもよいのではとも思う。

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しんちゃん

ほぼ単郭だが見事な石垣が残る。 (2023/12/02 訪問)

佐生日吉城は瓜生川の南にある丘陵上に築かれています。東端の墓地の脇から登城道が続いていてなだらかな坂道をしばらく進むとやがて石垣を備えた主郭にたどり着きます。主郭以外には登城道の途中に会った扁平地ぐらいしか郭が見当たりませんが、主郭の南側から東西に幅広く高石垣が残っています。一部は風化していますが見事な石垣で特に南西部は算木積の石垣がしっかり残っています。
観音寺城の支城とされ、主郭には後藤但馬守城址の石碑が建っています。

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しんちゃん

朽木氏岩神館・名勝旧秀隣寺庭園 滋賀県高島市朽木岩瀬 (2023/12/03 訪問)

朽木城とされているのは陣屋のあたりなのですが、朽木氏と言えば興聖寺こと朽木氏岩神館を外すわけにはいかないでしょう。
陣屋からほど遠くない場所にあり、かつて足利将軍を慰めるために作った庭園は旧秀隣寺庭園として国の名勝に指定されています。
佐々木信綱によって承久年間に築かれたとされ、その流れを汲む朽木氏を頼って室町幕府将軍がたびたびこの地にやってきたそうです。12代将軍足利義晴が朽木稙綱を頼ってきた際に稙綱は大納言宣下を受け、管領細川高国の力によって浅井亮政・朝倉孝景の助力を受けて蓮池池泉観賞(回遊式)庭園を作庭したとのことです。庭園は往時の姿を保っているといわれ住職の話では庭園周辺の最も高い木が当時から残っているとのことです。墓地の背後から南側にかけて土塁が残っており、その外側に堀跡らしき跡が続いています。

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くうくう

巨大迷路南九州型シラス台地の山城

詳細不明ながら築城は南北朝期以前と推定される。およそ400年で救仁院氏、楡井氏、畠山氏、新納氏、肝付氏、島津氏と城主は変遷。また志布志城は、内城、松尾城、高城、新城の総称。見学コースのある内城を歩いたが、南北600m東西300m、大きく分けて6つの曲輪があり広大でとりとめのない大城郭だった。南九州型の切岸の鋭い堀。そんな堀底を歩き薮に覆われた曲輪を眺める。本丸だけは木々や草が伐採されてた。迷わないための配慮か案内板(位置図)が多く設置されていた。

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くうくう

薩摩・大隅・日向、三国の交通の要衝を押さえた

保元3年(1158)太秦元衡によって築城された。時は移り、城主菱刈氏(北薩に勢力をはった国人)時代を経て、島津氏重臣新納忠元が入城、島津氏の外城として機能した。大口小学校が行政所としての御仮屋、その裏山が城。大手口から主郭へと道があり登れる。曲輪、土塁、切岸が見られる。まだ整備中なのか部分的な遺構で全体の縄張はよくわからない。素朴な簡素な丘城に感じた。

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しんちゃん

南に最上川、広大な尾根上に城が築かれている。 (2021/05/02 訪問)

左沢楯山城は南に最上川が湾曲して流れる丘陵の尾根上に築かれています。尾根が湾曲してつながっているので、ひとしきり訪問することが出来るようです。南側の尾根が主要な部分らしく城山公園となっており、駐車場を備え南に最上川が良く見えます。
東端の千畳敷のあたりが二の丸のようで堀切を隔て西に三の丸、さらに西に駐車場があり、西端に八幡平があります。そのまま尾根沿いに北から東に広大な城域が広がっており中心に位置する八幡座が本丸とされています。北の郭群からは南尾根を見渡すことが出来ます。
国の史跡に登録されており、古くは大江氏の庶流・左沢氏の城とされ戦国期には最上氏に従いますが、最上氏が改易の後は左沢藩主・酒井直次が小漆川に城を築くまで入ったとのことです。

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しんちゃん

魅力はやはり天守台に尽きる。 (2021/05/02 訪問)

永禄・元亀(1558~72)年間、伊達家の家臣・中山弥太郎により築かれたとされ、最上領との境目に位置しているようです。三の曲輪、二の曲輪、本曲輪の三段の曲輪から構成され、本曲輪には石垣を備えた天守台が築かれており、城址碑が建てられ眺望もなかなかです。
登城道の麓に駐車場があり、案内板が立っています。

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しんちゃん

遺構は少しわかりにくいが一通り残っている。 (2023/12/02 訪問)

和田山城は標高180mの和田山の山頂に築かれ、比高は約80mです。築城は佐々木義弼によるもので守将は田中治部太夫とのことですが詳細は不明です。永禄11年(1568)織田信長の近江侵攻の際、箕作城が落城した時に和田山城の守備勢は戦わずして甲賀に敗走したそうです。麓の天満宮から和田山登山道が続いていて道標もしっかりしており、スイスイ上まで行けますが道は城址の南側を西に迂回していくので適当なところで城址にダイブしました。道なりに西北まで回り込んでいくと虎口から主郭に入り込んでいくことが出来るようです。
主郭内に空堀があり土橋がかかっています。東が高所になっており櫓台の可能性もあるようです。東側には扁平地が続きますが城址ではないようで、北側に浅いですが空堀が幾つか配されています。主郭の西側には謎の張り出しがあり、小型の馬出しのようになっているようでした。

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しんちゃん

天守台は小林さん状態。 (2023/12/03 訪問)

大溝城は織田信澄(信長の甥で同母弟の信行の長男)によって築かれたとされています。琵琶湖に面した水城でしたが本丸の天守台以外遺構は残っておらず二の丸と三の丸は病院の駐車場と老人ホームになっています。一応市の史跡なのですが天守台の荒れ具合がひどい。何本木が生えているかわからないほどです。せっかくの文化財が破壊されてしまうのは忍びないので、正しい方法で保全に努めていただきたい。
東側にはかつての堀代わりの内湖・乙女ケ池がありますが橋は破損がひどくて渡れません。派手さはありませんが、せっかくの歴史のある城址なので合わせて整備していただけると有り難いですね。古い方の案内板によると信長の甥・信行は明智光秀の娘を妻にしていたので織田信孝と丹羽長重が謀って大阪城二の丸千貫櫓を攻めたて自害に追い込んだそうです。ホンマかいな‥酷い話だなあ。
織田氏も源氏と同じく同族同士の争いで弱体化していったということですか。滅亡しなかっただけ良かったということですね。

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しんちゃん

土塁が残っていた (2023/12/02 訪問)

近くまで寄ったのでまた肥田城に行ってきました。前回大きな方の城址碑と土塁を見損ねてしまったので、もう一度行かねばと思っていたのです。肥田城の土塁跡は石碑の南東約250mあたりにある住吉神社の近くにありグーグルマップにも記載されています。
最近城びとの城がグーグルマップに出ていることが多く助かるのですが、グーグル関係にマニアでもいるのでしょうか。肥田城の土塁なんてよほどのマニアじゃないと興味はないはずですが‥。肥田城は六角氏の命により高野瀬隆重が築いたとされています。
高野瀬氏は秀隆の代に浅野氏に通じて六角氏に攻められますが浅野氏の援軍によってこれを打ち破っています。一度目は永禄2年(1559)の「肥田城の水攻め」で二回目は永禄3年の「野良田表の合戦」になります。(by現地案内板)

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いんげん丸虫

小栃砦(ことち) 長野県根羽村 (2023/11/25 訪問)

小栃集落にある砦跡。伝承不明です。
青木峠に接しています。
主郭とか曲輪は無く、100mほどの2つの尾根が
土塁状にあります。
南面に4段の平坦地がありますが、近年の耕作地跡のような。。
看板等はありません。

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シェル

本郭は住宅地 (2023/10/06 訪問)

JR常磐線(各駅停車) 北小金駅側から登城。
 北小金駅から県道280号沿いに進むと小金大谷口城跡の碑と説明板があります。碑の前にある花壇のお花の成長が著しく、城址碑は少し見づらかったです。この周辺に本郭があったようですが、現在はマンションや住宅地に変貌しています。
 そこから北の道を下ると、大谷口歴史公園があります。公園内にはトイレが北側の麓にあります。公園の西側の階段を昇ると旧金杉口。金杉口には虎口門がありました。小規模な公園でしたが、土塁や障子堀跡、畝堀跡など見どころ盛りだくさんでした。
 お昼の時間帯に訪問しましたが、午前中に除草作業が行われていたようで、除草したばかりの畝堀を見学することができました。
 大谷口歴史公園を出て、南東へ進むと、達磨口の跡があります。ここには石碑や説明板も設置されており、階段を登ると、かなり高い土塁が残存していました。

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カズサン

河岸段丘の崖城 (2023/11/13 訪問)

 9月中旬宮城県福島県未踏の城廻り3日目福島を終わって栃木県那須塩原市の未踏の城を攻めようと企画して居ましたが、土砂降りの雨、雷で探訪中止した真木城を2ヶ月振りで初登城しました。

 駐車場:無し、無理やり県道30号線から灯籠間の参道に路駐(36°55'07"N 139°54'11"E)、県道30号線は交通量が多く且つ近くに路肩の広い所が有りませんでした、行ったり来たりし3度目に無理やり突っ込んだ形です。
 参考資料:古城盛衰記さん、余湖図コレクションさん、グーグルマップに依ります。

 箒根神社参道から石段を登る、左脇に城名石碑と案内板がある、東に比高約20m程の崖、切岸を登り、本丸には箒根神社が鎮座、北奥、西奥に土塁が有る、北西角に虎口、西側に二の曲輪、その間に浅い堀が有る、一部墓場に成っている、その堀の北側に本丸北下に降りる坂道が有る、余湖図コレクションさんは本来の大手筋か?と記していましたが。本丸、二の曲輪の北側には広い大堀切が有るが樹林で良くは判らない。
 本丸、二の曲輪の連郭式、南に野沢川、北は大堀切で崖、切岸で孤島状態の要害です、野沢側は北から流れる箒川に合流している。

 真木城は野沢城とも称されて、歴史は案内板によると、塩谷氏の居城の川崎城の支城として、寛正2年(1461年)大舘弾正義則が築城したと伝わる。天正12年(1584年)大舘義行の代に大田原綱清に攻められ落城した。
 

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