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カズサン

別称梶台場 (2024/04/19 訪問)

 堀江館を終えて北陸路3番目北西約6.4km程と近いので丸岡藩砲台に10数年ぶりの再登城、以前は梶砲台の名称が脳裏には残って居ます。

 駐車場:専用駐車場(36°15'06"N 136°09'15"E)、県道7号線(三国東尋坊芦原線)沿い北側に10台位?バス1台は可能、古びていますがトイレ完備。
 参考資料:城びと各投稿、グーグルマップに依る。

 10数年前の初登城は夕暮れ太陽が沈み西のあかねに砲台の砲眼影が判る状態で懐中電灯も無く海岸は危険が有りますので上部から眺めるだけで撤退。
 今回は昼10時頃、案内解説板横の登城口より進行、海の見える海岸際を通って砲台東側より観察、内部、西側、海側と5ヶ所の砲眼、内側の石垣、砲眼の石垣、海側の土砂土塁、西側の土塁上からと眺め尽くしました。良くここまで残り保存されたなと感謝しか有りません。充分堪能しました。
 潮の匂いがムンムン、久しぶりに潮の香りを満喫しました、西側の海岸は越前松島海岸で遠目で柱状節理の岩が良く分かり、更に西には名勝の東尋坊が控えて居ます。

 ペリー来航の前年寛永5年(1852年)には砲台を築いています、石垣で5砲座を築き海側は土塁で砲弾着弾の衝撃を吸収する知恵もしっかりと施されて居り、幕末の緊張の中、学問を納めて丸岡藩、各藩が頑張った証でしょう。
 
 黄砂は酷かったですが新緑、かすみの陽光で素晴らしい日和でした。
 
 

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トク

福岡城天守論争議論に思う(作家コラム記事から) (2024/04/24 訪問)

この間から、天守論争の記事を何度か投稿させていただいてすいません。今回はまた地元新聞に、作家「澤宮優」さんの、福岡城天守議論に対する感想のコラムが掲載されていたので御紹介します。この方の著書に「天守のない城をゆく:城の楽しみ方、活かし方」という本があり、私もまだ読んではいませんが、天守のある城は天守に目が行きがちだが、天守は城の一要素に過ぎず他の部分も見て欲しい、また天守のない城にも魅力はありますと、彦根城や金沢城などを例に上げ、縄張りや石垣や現存櫓などにも目を向ける事の大切さや、それを活かした事例などが記事に語られていました(写真⑩)。なるほどな~と思い、今度その本を読んでみたいと思いました。


ここからは私の個人的意見ですいません。

福岡城は100名城なので、今まで訪れた事がある城びと諸氏はたくさんいると思います。その方々にお尋ねします。皆さんは福岡城を訪れて、その時どう思われたでしょうか? この広大な敷地に再建された下之橋御門と現存の天守台と多聞櫓、城の東側(打込接)と西側(長政時代の野面積)で異なる石垣、ぐるりと取り囲む広大な堀には梅・桜・水仙・蓮・花菖蒲などの季節の花々が咲き(現在の花写真⑤⑥)、遣唐使時代の接待施設「鴻臚館」、官兵衛隠居の地「御鷹屋敷跡」、移築中の潮見櫓などと見所はたくさんあります。しかし、どこに何があるのかわかりにくく、歴史的な品々が展示されているところもなく、確かに大きなお城に来たという実感は湧いても、何かちょっと物足りなさを感じたのではないでしょうか? 城内には「むかし探訪館」(100名城スタンプ場所)がありますが、小さな小屋に模型があるだけ(え!たったこれだけ?)という感じです(写真⑦)。城の説明や見所のパンフレットすら充実していません。だから観光客も来ては天守台に登っただけで、わけがわからないまますぐに帰り、結局は大宰府の方が喜ばれる人気スポットになっています。

福岡城から北西に2km離れた福岡タワーのそばに、「福岡市博物館」という立派な市の施設があります。ここを訪れると、福岡の歴史(金印発見や山笠の歴史など)から、福岡城の歴史や黒田家所有の数々の貴重な品々など、多くを見て学ぶ事ができます(写真⑧⑨)。ここはオススメですので是非来られたら立ち寄って下さい。しかし今までは、福岡城を訪れても博物館がある事を知っている人は、ほとんどいないのではないかと思います。また知っていてもこんなに離れていては、時間的にもなかなか行けないでしょう。

市の中心部である天神から多くの方々が徒歩で通る登城ルート、上之橋から天守台までの登城路沿いには、裁判所跡地・平和台球場跡地・少年ラクビーやテニスのグランドなどがあり、城の中でもあまり見栄えがいい場所とは言えませんでした。ここは当時「東出丸」と呼ばれたエリアで、最近「セントラルパーク構想」という福岡市の開発計画が始まって整備が少しずつ進んでいます。

その中で、先月新たに上之橋御門跡の登城路が整備され、福岡城の玄関口としてのイメージアップが計られています(写真①)。また平和台球場跡地には鴻臚館の復元整備計画も策定されています。それはそれでうれしいのですが、裁判所跡地はインバウント観光客用の数十台分の大型バスの大駐車場が現在整備され、さらに高層ホテルの建設まで予定されているようです(写真②)。

私はこのあたり一帯には、福岡市博物館を移転し、そして見所パンフレットを充実させ、その見所をめぐる遊歩道を歩きやすいよう整備して、歴史を正しく学んでかつ楽しめる博物館と一体化した城址公園にしてほしいなと思っていました。幻の天守再建や高層ホテルの建設を急ぐより、既存の見所をうまく活かす方が日本人観光客や福岡市民は喜ぶのではないかと思ったからです。しかし私の考え方とセントラルパーク構想は少し異なっていて、現在増え続けるインバウンド観光客への対応を中心に考えられているようです。福岡城はこれからいったいどう変わって行くのでしょうか? この先も見守り続けていきたいと思います。

幻の天守とライトアップイベントも5月31日まで延長されます。また5月3-4日は「博多どんたく」も開催され福岡の街はお祭りムード一色に変わります。もしお時間あれば是非訪れて、福岡城の新しい部分と現存する遺構部分を見比べて、ライトアップなどの幻想を楽しんで、できれば博物館まで足を延ばし、福岡城や黒田家の歴史を知ってほしいなと思います。そしてこれを機に、お城の楽しみ方を再度考えるきっかけになればと思っています。

また勝手な意見を長々とつぶやいてしまい、すいませんでした。
 

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赤い城

黄峰城 香川県高松市 (2024/04/14 訪問)

高松市の西側にある五色台、陰陽五行説に由来する地名です。
紅ノ峰・黄ノ峰・青峰・黒峰・白峰山という五色の名がついた峰がある台地形の山です。
休暇村讃岐五色台からは瀬戸大橋や瀬戸内の島と海を望めるビュースポットでもあります。

で、この黄峰城、黄ノ峰山頂部に築かれています。
ちなみに白峰山には白峰寺、青峰には根香寺と四国八十八霊場のお寺があります。

さぬき浜街道沿いの蓮如上人堂から登城します。
ここに説明板も立っています。
香西氏の家臣によって築かれ、勝賀城の北側を守る城だったようです。
登城路は整備されているわけではありませんが道はわかります。
しばらく登ると削平地へ、ここが三郭のようです。
二郭への虎口や基壇と思われる石積もありました。

この城、単純な造りではありますが郭部周囲を犬走りが巡り、牛蒡積みの石塁が施されています。
これにはびっくりでした。
西側と東側は切れ目無く石積が続いていました。
単純に積んでいるだけのように見えますが、良く残っていたな、と思わせるレベルでした。
これ、必見です。

主郭部は特に整備されてはいないですが喰い違い虎口や土塁が残っています。
こちらは薄くなっていて写真では表現しにくいですね。

高松にはこのような中世山城の他近世の高松城、古代山城の屋嶋城と色々な時代の城趾が残っています。
このようなエリアも珍しいとのことです。
城廻りにうどん巡り、飽きることはありません!

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todo94

近江の城めぐり⑬ (2024/03/24 訪問)

近江八幡城の北の丸からのアプローチです。降雨降雪後の足元があまり芳しくないコンディションでの攻城でしたが、近江八幡城北の丸からのろし展望台まで14分ほどの所要でした。土橋、堀切など見ごたえのある遺構が目白押しです。各展望台や七つ池などの現地表示はあるのですが、城のカラーイラストにはのろし展望台以外の展望台表記がなく、現地とイラストの照合が難しいというか結局よくわからずじまいでした。くまなく城内をめぐれたとも思えませんでしたので、整備の手が入れられることを期待しつつ、再訪を期したいと思います。

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しんちゃん

さすがに中に入るのは無理。 (2024/04/21 訪問)

郡山城は浪速少年院あたりに築かれていたとされ、門の近くに石碑と案内板、石垣石(らしい)があります。場所が場所だけに写真の掲載が出来ないので石碑と案内板の写真だけ掲載させていただきます。いろいろな意味でご容赦願います(まじめに)。
「郡氏由緒記」によると、高利(郡)平太夫が郡山城および近郷七か村を治め、高槻城にいた和田惟政に仕えていたそうです(現地案内板による)。元亀2年(1571)に和田惟政が、荒木村重や中川清秀らの池田勢と戦った際に平太夫は一人で時間稼ぎを試み、それが失敗した後は惟政に兵力差の不利から退却を進言したが聞き入れられず、やむなく奮戦するも戦死したとのことです。

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しんちゃん

戸田氏鉄によって築かれる。 (2024/04/21 訪問)

尼崎城は元和3年(1617)に戸田氏鉄が5万石で転封し築いたとされています。本丸の周囲に堀を築き、その周囲に堀を幾重にも配していたようです。本丸の北東には2重の付櫓を二棟連結した複合式の4重天守があり、他の隅部には3基の3重櫓が据えられ本丸の構造的には戸田氏にも縁の深い三河吉田城に似ている気がします。現在は西三の丸の北部分が尼崎城址公園として整備され、外観復元の復興天守が建てられています。
戸田氏鉄公は私の地元・豊橋にも縁の深い人物で、膳所城、尼崎城、大垣城と地味に名城を任され続けた人物です。天草の乱では副将として貢献し、最後の居城・大垣城には騎馬像が建てられています。地味に有名だとは思いますが、TVで大垣城を紹介していた時には「誰?」と言われていました。

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しんちゃん

まさにヒメイジング (2024/04/20 訪問)

久しぶりに姫路城に行ってきました。前回は修復工事が終わったばかりだったので大天守は屋根まで白く輝いていましたが、だいぶ貫禄が出てきましたね!これはこれで良いです。まさに「お城」って感じで貫禄たっぷりです。
これだけ多くの建築物が残っている近世城郭は国内には、ほぼ存在せず明治の廃城令や昭和の空襲を生き延びた姫路城はまさに奇跡の城です。明治時代には民間に23円50銭で払い下げられたりもしましたが、いつの間にか国有化され陸軍の中村大佐やドイツのブラント公使らの働きかけで名古屋城とともに保存が決定され、国費9万3千円で「明治の大修理」が行われています。明治の時代から令和の今に至るまで洋の東西を問わず(いろんな国の人がたくさん来てる)多くの人を魅了する城です。
まさにアメイジング、いや姫路だけにヒメイジングです。(言ってしまった‥)

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カズサン

堀江公番田館は田園の中 (2024/04/19 訪問)

 丸岡城を終えて北陸路2番目北西約8.7km程の堀江館に初登城する、えちぜん鉄道三国芦原線番田駅の近くです。
 
 駐車場:有りません、竹内農園西標柱の前のジャリ農道路駐、竹内農園東100m程の幅広道路駐(36°12'46"N 136°12'19"E)交通量は少ない
 参考資料:余湖図コレクションさん、グーグルマップに依る

 竹内農園の西、水路の西に標柱「堀江公番田館跡 南に100m」が有りジャリ農道を南へ幅は5m程ありましたので直接乗りつける事も出来ます。
 現地の堀江館は堀江公番田館跡と称されています。跡地には館名石碑、解説石盤、祠が祀られ建っています。田園、田圃の中にポツンと残されています、草も刈られて地元の方々に大事にされて居るようです。
 観察時丁度、えちぜん鉄道の電車が番田駅に入って来ました、ブルーとクリームのツートンカラーで奇麗な電車でした。
 石盤、石碑、標柱のみ観察して短時間の探訪でした。

 解説石盤によると、この史跡は中世の頃坂井郡一帯を支配した堀江公一族の居館跡、系譜は藤原鎌足の流れ、鎮守府将軍藤原利仁の子孫で堀江の地に住み、堀江を姓とした。
 代々斯波氏、朝倉氏に属して武功を以て鳴る。(石盤抜粋)
 

 

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じゅんじん

最後が険しい (2024/02/17 訪問)

光願寺から上りました。最後は結構険しかったです。下りは違うルートにしたらこちらのほうがよかった。
眺めよし。です。

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ぴーかる

尼子十砦5城目 (2024/02/23 訪問)

【三笠山城】
<駐車場他>広瀬中央公園に駐車しました。
<交通手段>車

<登城口>広瀬中央公園の体育館裏が登城口になります。お墓が1基ありますので、お墓の右手の登山道に入ります。
<見所>堀切・居館跡?曲輪
<感想>1泊2日尼子十砦の旅5城目。初投稿いただきます。三笠山城の城郭情報は少なくよく分かりません。城びとの城郭情報では築城年・築城主とも不明であり、主な城主が西村治右衛門となっています。毛利氏の月山富田城攻めでは飯梨川を挟んでちょうど富田城の正面にあたり、毛利氏の陣城群のひとつになっていたかもしれません。
 上記登山道から少し登ると道が2股に分かれています。右手に曲がり、朽ちたビニールハウス(添付写真)の横を通り、尾根に上がります。尾根に上がった所が堀切になっています。堀切から山方向の上段が広い削平地になっています。植林整備されています。広い削平地を抜けてまた尾根上に上がります。15分程登ると城びとのフラッグ位置に到達します。主要部は小さく一応段にはなっていますが細尾根の曲輪で一見気付きにくいです。奥の方に尾根曲輪と並行して土塁があり、堀切があります。

<満足度>◆◆◇

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朝田 辰兵衛

城ひとつスルーしてしまった…😱 (2024/02/25 訪問)

大宮駅方向へ進んで,駅近物件を次々とクリアしていこうと思いました。ところが,金窪城をスルーして本庄城に来てしまうという凡ミス…😱
「まぁ,シャアない。次の楽しみにとっておこう」と気持ちを切り替えました。

本庄城は変換ミスに注意です。間違うと秋田県に飛んでしまいます…✈

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刑部

桜が散り終えた城 (2024/04/15 訪問)

残念ながら桜は80%くらい散ってしまい、いつもの城址巡りだけとなりました。堀切を4箇所抜けた先の本曲輪からの眺めは良かったです!

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イオ

存続期間8年 (2024/02/18 訪問)

幕末期に大和新庄藩主の永井直壮が陣屋を櫛羅に移して築いた陣屋で、廃藩置県により建物は取壊され、現在では移築された建物がわずかに遺るのみです。

陣屋跡は私有地のため立入不可で、南側の陣屋跡に続く(と思われる)道の門も北側の道路沿いの門も、それぞれ閉ざされていました。石碑や説明板も見当たらないので、先達方の投稿にある城下の民家に移築された南門と、九品寺の移築御殿玄関をチェックしてヨシ!とします。…で、この後、山麓線を南下して佐味城に挑戦しました(あ さんも登城されたとのこと、面白い城ですよね)。
 

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todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー75城目 (2024/03/10 訪問)

1月の白石城以来、2024年3個目の続100名城スタンプです。豊臣秀次居館跡の石垣を十分に堪能してから村雲御所へと向かいました。岐阜城ですらロープウェーを使わない私ですので、当然ここも徒歩での攻城です。本丸の石垣や瑞龍寺には雪が残っていました。雛人形の展示もしっかりと拝見させていただきました。出丸を含めて一通り郭をめぐった後、北ノ庄城へと向かいました。

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ぎりょう

復元模型に在りし日を偲ぶ (2024/04/21 訪問)

恒例となった仲間との歴史旅で新潟県長岡方面を訪れました。今回も私自身の関心は戊辰戦争と「おくのほそ道」関連の史跡探訪です。
河井継之助に関して長岡市と小千谷市、「おくのほそ道」北陸路は出雲崎町を訪れました。
毎回行く先々の城館訪問も楽しみのひとつなのですが、徳川譜代牧野家の居城は現在JR長岡駅となり跡形もありません。ただ、「長岡藩主 牧野家資料館」に、広大な平城の模型と「御三階」と呼ばれ天守閣に相当した櫓の復元模型がある事を知り、一度見てみたいと思っていました。長岡市の悠久山公園には天守閣風の歴史資料館が建っています。私は長いことその姿が、かつて実在した長岡城三階櫓を模したものと勘違いしていました。「御三階」の模型は藩主家に伝えられた図面と江戸時代の姿を回顧した風景画を参考に復元されたということです。城の正面を向く西側最上層に唐破風を設けた白亜の三階櫓は、まさに天守に値する姿であり、長岡城のシンボルだったものと感じました。

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しんちゃん

あのころ君は「箱入り姫さん」だった (2013/09/21 訪問)

先週土曜日に久しぶりに姫路城に行ってきたのですが、せっかくなので最初に訪問した時の写真も掲載させていただきたいと思います。もう10年以上前の話ですが、この時は平成の大修理で大天守の解体工事をやっていました。人も今ほど多くなく、お菊井戸の周囲にも人はそれほどいませんでした。大天守は建屋の中に納まっていて通常の拝観料でエレベータで修理中の様子を見学することが出来ました。
しっかりしてらっしゃる‥。とはいえ、通常では見ることの出来ない大天守最上部をガラス越しとはいえ確認することができたのは貴重な経験でした。そういえば西の丸にあった、千姫がかるたやら貝殻合わせをしていた人形は無くなってしまったんでしょうか? ちょっと残念ではありますね。

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カズサン

現存木造独立式天守閣 (2024/04/19 訪問)

 今回桜の時期は過ぎましたが、20代初めの50数年前にJR周遊券を利用して北陸路の城廻をした思い入れのある丸岡城を久しぶりに訪ねました、プライベート、業務出張中立寄りで何回となく訪ねた城郭です。

 駐車場は本丸東下の二の丸跡辺りの丸岡城駐車場を利用。

 今回は1泊2日、0泊を北陸道南条ASで仮眠車中泊してフルに2日間を使用の北陸路未踏の城、既踏の城17城廻りでメインは加賀切山城探訪、合わせて登城の計画を企画しました。

 丸岡城の登城は朝の7時過ぎ、開場前(入場券無し)に本丸、天守閣廻り、新しく出来ていたお天守前公園も眺めて、戦前は国宝であった丸岡城の国宝霞ヶ城碑と丸岡藩誕生400年の登りも拝見、三の丸跡碑も確認して、以前あった丸岡城庭園は?確認するが再整備で丸岡観光情報センターとして新築工事中で今年2月末完成が資材人員難で今年の7月にずれ込むようです、新しい丸岡城の情報発信が楽しみです。
 
 歴史民俗資料館が開いていましたの入館をお願いしたのですが丸岡城入場券と合わさってるので券が無いと入れないとの事、断って丸岡城模型と年表の撮影とパンフレットは頂きました、お手数おかけしましたがありがとうございました。
 北東のふれあい広場は一面芝生で気持ちい、また北東面より本丸の石垣、天守閣を望めてこれまた素晴らしいビュースポット、その近くには日本一短い手紙で有名な「日本一短い手紙館」が城郭風の作りで趣有り、門は庄屋門を移築した薬医門が構えています。
 駐車場前の一筆啓上茶屋には「丸岡城天守を国宝に!」大立て看板がります、頑張れ丸岡城!

 桜は終わりましたが、藤の花、八重桜、ツツジが咲き城跡に華を添えていました、美しい、8時半前の1時間超っと散策させて頂きました。

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しんちゃん

大久保陣屋・坂崎陣屋 愛知県幸田町字御屋敷 (2024/04/23 訪問)

現在は八百富神社になっている場所には江戸時代、大久保彦左衛門家の陣屋が有りました。彦左衛門こと大久保忠教は「三河物語」を執筆したことでも有名で、大久保忠世の弟でもあります。功績が多大な割には三河国額田における石高は千石で、後に加増を受けても二千石でありました。大久保本家は江戸時代に冷遇され改易になっており、忠教もそのことに不満を持っていたらしく、死の間際に五千石の加増を打診されても断ったとのことです。
陣屋跡には八百富神社が建ち、陣屋時代の石垣が残っています。東側には土塁のような盛土もありました。境内には平岩親吉の平岩家の家名の元となったという「平岩と射割石」の一部が残っています。

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天守無しがアツい

日本最大級の弥生遺跡 (2010/09/06 訪問)

私が吉野ヶ里遺跡を訪れたのは、2010年の秋でした。福岡空港からJRで隣の佐賀県へ 吉野ヶ里駅で下車し、そこから10分ほどの場所に遺跡はありました

中に入ると、そこは弥生時代にタイムスリップしたかのような場所でした…。竪穴住居(画像1枚目)に物見やぐら、高床倉庫がいくつも点在し、広い敷地でした(吉野ヶ里訪問の後に登呂遺跡を巡った私ですが、そこと同じくらいか、もう少し広いんじゃないかな…?)

建物内には出入り自由で、竪穴のみならず、倉庫や物見やぐらにも足を踏み入れました。やぐらの展望室(?)まで登り、そこから下を除くと、「結構遠くまで見渡せるな。当時の人はこうして外敵が侵入しないか監視していたのか…」と思えました

2枚目の画像は、やぐらからの光景。こうして見ると、曇り空が何か怖い雰囲気を漂わせているようにも思えます。そしてジオラマっぽくも見えませんか…?(もちろんそうじゃないけど)

3枚目の画像は遺跡内の歩道から撮影した光景ですが、これを見ると、当時の吉野ヶ里が柵に囲まれている様子が伺えます。当時は基本、集落の周りを木製の柵で防御していたようです。

竪穴住居の他に、それより広くて大きめの住居も(私の記憶が確かならば)あり、その中にも入ってみました。そこはとても広かったです。「おそらく大家族がここに住んだのだろうな… 床は土だから裸足で歩くと汚れそうだし、当時はたき火しか暖房がないから、そこは不便そうだが、自分の家の部屋より広いことは間違いない…」と感想として思いました。

これまでに私はいくつか古代の遺跡を訪問しましたが、敷地が一番広いのは吉野ヶ里だと思います。逆にいえばその分、巡るのも時間を要するのですが、弥生気分を味わうにはいいと思います…。

自分なりにこの遺跡を見学したあと、レストランで食事を摂りました 古代米入りのランチです。そういう米を味わうのは初めてでしたが、味は美味しかったと思います ゆっくりと、現代に蘇った弥生のお米を噛みしめました…

ここでも私は(他の遺跡同様)当時の生活用具・人骨・武器。陶器などを見物し、そして竪穴に入りまくりました。竪穴は(時代によって多少造りに違いはあるそうですが)、基本どこも同じです。でも私は飽きることなく、こういう古代遺跡を訪れては毎回、そこに入ってそして、古代人の気分を味わうことにしているのでした…

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天守無しがアツい

城名は茅ヶ崎 けれど所在するのは横浜市 (2024/04/22 訪問)

(茅ヶ崎城の御城印に付いていた解説文)
横浜市都筑区にあった丘城。鶴見川の支流・早渕川を北に、南を正覚寺谷に囲まれた天然の要害になる。城は六つの郭と複数の平場からなり、東郭・中郭・西郭が東西に並んで城の中核を形成する。築城は室町時代後半と戦国時代前半の二期にわたり、戦国期以前の地域の様子を示す遺跡として興味深い。文献資料は正覚寺に天正十八年(一五九〇)の豊臣秀吉禁制が伝わる。近世になると多田山城主行綱の伝説が付随していく

センター南(横浜市営地下鉄ブルーライン)から徒歩10分ほどの場所に小高い丘の森があります🌳🌳 そこにあるのが茅ヶ崎城址。茅ヶ崎と言っても同じ神奈川県の茅ヶ崎市とは関係なく、横浜市都筑区の中にそういう地名があるのです。まず4月下旬に1度目の散策をしました

1枚目が城址入口にある案内板。城址の全体図がここに表示されてます。ここは大きく分けて…北郭・中郭・東郭・西郭の4つで構成。腹ペコで長時間の見学が厳しかったのと、「いっぺんに回るよりも後日分に分けて見学した方が面白いかもな…」と思えてきて、この日は北郭と中郭を見物することにしました🚶‍♂️

2枚目は中郭…土塁や曲輪に関する解説文が立ってました。土塁らしきものが現存しており、敵が攻めてきた際にここから弓矢を放ったりして応戦…実際に戦闘で使われたかまでは分かりませんが、防御機能の1つとして設けられたのは確かでしょう…

現在は隅にベンチがあるだけのだだっ広い芝生の生えた広場…雨が降り終えてからそれほど経過してなかったので、郭内を歩いていたら履き物に草や泥が付着してしまい、後で拭き取るのが面倒でした👟

3枚目の左が茅ヶ崎城の御城印。販売場所は横浜市歴史博物館。(他の横浜市内における城跡のと一緒に)まとめ買いしたものの1つ

2度目は6月上旬…西郭と東郭を巡ったのですが、西郭は目を見張る物は特に無く、撮影の必要も無いと思えたので、少し見渡しただけで次へ行きました。西郭→東郭の道の途中に4枚目の看板が…古代中世においてこの辺りの人々がどういう生活をしていたかが紹介されてました

現在のように甘いジュースやチョコレート菓子が無かった頃…人々は果樹を水菓子として🍓…甘みを味わい糖分を摂取していた。栗は栄養価が高く日持ちも良いことから、兵糧代わり…非常食にもなったそう🌰 一言で言えば今よりも食べ物のバリエーションがかなり少なかった時代…当時の人々はそれを当たり前として身近に生えているものを有用に活用した…と

東郭の近くになると階段になり、一度降ってまた登る…という構造でした。さらにカラスが木の上に留まっており、私のすぐ上を羽ばたきながら通過していったのですが、その衝撃に驚きました…接触したかと思えるくらい🐦‍⬛

ゴミ捨て場など人里でも見かけることはありますが、すぐ上を飛んだりはしてなかったので、初めてカラスに恐怖心を覚えましたね…「ぶつかったらどうしてくれる?😅」と

そしてとうとう着いた東郭…5枚目がその案内板。ここは茅ヶ崎城における最終防衛ライン。城の最も高い位置にあり物見櫓としての役割を果たすと同時に、戦の際にはここに逃げ込み籠城もできた

案内板とベンチ以外は何もなく、木々や雑草が生い茂っており外の景色もあまりよくみえませんでした。出入り口は1箇所しかなく、(カラスがうるさいので本当は別の道があればよかったのですが)途中までは「カラス…すぐ上をもう飛ぶな😖🐦‍⬛」と思いながら急ぎめに通過…

曲がり角で中郭・北郭ルートがあったので迷わずそっちを選んだ自分…4月の時に比べて中郭の一面に生えてる草が伸びて少し歩きづらかったですが、何とか通過…そのまま北郭も通って出口まで…こうして私の茅ヶ崎城址巡りはコンプリートしました🚶‍♂️

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