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イタさん

親子連れが多く遊ぶ公園 (2023/11/29 訪問)

公園説明板には、長野氏発祥の地であり、地域に分散する環濠遺跡群は、14世紀後半から16世紀中頃の長野氏成長期の遺産である。12世紀初め、浅間山の噴火により壊滅的打撃を受けるが、長野氏が主導的立場となって・・・。やがて長野氏は15世紀中頃に箕輪城を築き、16世紀中頃に武田氏に攻め落とされるまで、西上州の盟主として君臨していた、とある。

約75メートル四方の郭で、砦と言うより館跡の方が似合う。周囲の堀は埋まり、僅かに段差がある程度。南虎口部には突出部があり、土橋に横矢が掛かる。公園としてはよく整備されており、南東には長屋門を模したトイレが建つ。

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イタさん

規模が大きく、遺構も良く整備されている (2023/11/30 訪問)

諸先人方の内容を参考にさせて戴くと、武蔵七党・猪俣党の猪俣政行は榛沢郡藤田郷に拠って藤田を称し、花園城を築いたといわれる。小田原征伐まで武蔵国北部の国衆として400年余り続く。小田原・北条氏康は武蔵国北部支配を固めるため、藤田氏15代目・藤田康邦に四男・氏邦を入婿させる。氏邦は1564年に鉢形城に入り、1582年まで藤田姓を名乗る。寄居町には藤田氏の菩提寺、藤田善導寺が創建され、町内には少林寺、正龍寺、連光寺など藤田氏により建立された寺院が多い。

善導寺さんに許可を戴いて駐車させて貰う。諏訪神社・花園城跡の入口に標示とA3版の二つ折りパンフレットが置かれている。畑を山に向かって行けば、石段の上に諏訪神社、社殿の右手に小振りな稲荷社があり、横を通り山道に入る。呼称は案内板等に従う。途中から竪堀6に出て直登になる。この竪堀は二重竪堀となり主要郭手前で合流する。突き当たりを右に折れて先で、二の郭と三の郭間の堀切3となる。三の郭から堀切を超え東郭へ、東側は堀切1で竪堀1となる。二の郭に入り堀切4の最北側に土橋?が残り、渡って本郭へ。本郭は東西に細長く段差があり、西奥に城址碑が建つ。西下には堀切5があり、先には幾段かの小郭が見られる。堀切5には「花園城跡・下り」と標示もされている。これに従えば堀切5から本郭・二の郭下の小郭を通り、登りの突き当たり場所に出て、往路を引き返す。

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カズサン

三の丸堀と黄金色前のイチョウ (2023/11/12 訪問)

 三の丸堀の銀杏の紅葉を見たいなぁ~と、常陸武田氏館と水戸城周辺未踏の城廻り、吉田城、武熊城を終えて河和田城へ行く途中に、近くまで来ており銀杏の紅葉もそろそろかな?と水戸城に寄りました。

 駐車場:有料 I.N.パーキング水戸大町駐車場、裁判所の裏手で一番近い、よく利用してるPです。
 
 何時もながら素晴らしい大空堀に大土塁で圧倒されますが、銀杏は色付き始めで黄金色にはまだまだでした、三の丸内側の欅は紅葉見ごろでした。
 帰って水戸城の投稿を見直しましたら、2年前の2021年11月12日に復元大手門、復元二の丸角櫓探訪に来ており銀杏の投稿写真が載っていました、孫の運動会でタイミングが合ったのでしょう。
 色付き前ですが写真投稿させて頂きます。7番目の写真は2021年11月12日の写真です。
 

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イタさん

ハイキングコースの一部になっている (2023/11/30 訪問)

寄居町のHPには、「花園城の背面を守るために設けられた砦。堀・土橋・土塁の一部が残存しています。文献資料は存在しません。」と載るのみ。

藤田氏に関係深い少林寺から出発。ここは五百羅漢像と千体荒神石碑が有名で、円良田湖などを絡めてハイキングコースになっている。本堂の左から九十九折りの坂が始まる。最初から羅漢様が並びだす。途中で千体荒神板碑の道を分ける。帰路は板碑の道を下る。峠に出るとやや広い場所に、説明板と釈迦三尊像・十六羅漢像が祀られている。案内には天保3年(1832)に安置し、信仰の道場として現在まで続いている、と載る。

西に円良田湖へ下る道があるが、そのまま尾根を直進する。緩やかな登りが続き、主郭の東郭から城塁感が出てくる。上った先に鳥居が見えだし、鳥居先が土橋、左右に空堀、石段で上れば主郭。主郭は御岳神社が祀られているが社殿らしき建屋はなく、何々大明神などと刻まれた石碑が多く立ち並ぶ。主郭の南・西下には小郭が確認でき、鳥居から西へ行くと郭・横堀・竪堀が眺められる。

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イタさん

城山稲荷神社の背後にひっそりと。 (2023/11/29 訪問)

説明板には、新田義重の子、義俊が里見郷に築城し、その後、里見氏を称する。里見氏十代、義基が結城合戦で戦死、子の義実が房総に移る290年間あまり、この城に依拠した。本郭の東・南・西には高さ2.5メートルの土塁が巡らされ・・・、南西方向には腰郭、東方向には堀切が・・・。南北朝時代に南朝方で活躍した新田義貞は、幼少期にこの地で育ち、新田宗家の養子に入った・・・、と記載がある。

城山稲荷の一の鳥居脇に駐車。社殿脇の参集殿前に2台停められる。参道には小振りな鳥居が幾つも連なる。社殿裏が一段高く平地になるが、墓地が占めている。墓地の西側も幾段かの平地となり畑もある。平地の北側に民家・作業場が建ち、南は道路を挟み、城山団地が展開する。先人の情報では、道路は堀跡、団地は郭ではとある。本郭方向と思われる民家のある道は、私有地で作業中の方がおり、通る許可と情報を聞いた。快く許可されたが、「城跡は整備されず、草が生い茂り行けない」と言われたが、民家脇を進むと、虎口らしき高まりがあり、郭内は確かに草がすごい。周囲には枯れ草の高くなった場所があるので、そこが土塁跡では。草地を歩き回る気がせず、数枚の写真を撮り戻る。

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イタさん

畑・竹林に僅かに残る堀・土塁 (2023/11/28 訪問)

案内によれば、武蔵七党の猪俣党に属する、川匂政経がこの地に移り人見氏を称する。鎌倉時代には活躍するが、室町時代の初め丹波国に移る。室町時代中頃には深谷上杉氏の一族、上杉憲武が館を改修し居住する。東西に三つの郭が並ぶが、現在は西の郭の北側と西側に二重の土塁と堀跡が残る、と記されている。

史跡の北東にある仙元山公園の駐車場を利用する。南を東西に流れる小川沿いを西へ向かう。案内が建つ辺りから西に土塁・堀跡が確認できる。案内板を南に行くと、右手は畑だが、奥に土塁跡と思われる高さが見えるが、畑とは言え民家もあり入れず。更に西へ回り込むと道路近くの竹林に二重の堀などが僅かに確認出来る。

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イオ

とことん岡山城(城下町~西之丸) (2023/08/13 訪問)

南北朝期に上神高直が石山に築いた城がはじまりと伝わりますが、戦国期には金光氏の居城となっており、宇喜多直家が金光宗高を謀殺すると城下町を築いて居城を移し、宇喜多秀家が本丸を石山から岡山に移して四重六階の天守を築き、城と城下町を大改修しました。関ケ原の戦いで敗れた宇喜多秀家が改易されると小早川秀秋が入って惣構の外堀を築き、秀秋の急死により小早川氏が断絶すると池田氏が入って城下町をさらに拡張、西川を整備して城下町の西端の防備としました。池田氏のもとで明治を迎えた岡山城は、廃城令により天守、月見櫓、西之丸西手櫓、石山門を除く建物が取り壊され、岡山大空襲では天守と石山門が焼失しましたが、戦後に天守や不明門、廊下門などが再建されて現在に至ります。

旭川河口部にある3つの丘陵のうち、岡山を本丸、石山を二之丸に取り込み、天神山を出丸とした平山城で、本丸を三重の内堀、中堀、外堀で囲み、西端は西川で画し、旭川を付け替えて後背(北側から東側)の天然の堀とした梯郭式縄張です。本丸は、天守を擁する最高所の本段、本段の西側一段下に表書院が置かれた中の段、本段と中の段を囲むように配された下の段からなっています。

子どもの頃から行ってみたいと思っていた城でしたが、ようやく念願を果たすことができました。令和の大改修を終えた天守に加えて「夏の烏城灯源郷」とニッポン城めぐりのイベントを目的に、青春18きっぷで岡山へ。真夏の猛烈な日差しが照りつける中、岡山駅から岡電沿いに歩いて行くと西川が南北に流れています。ここからが城内です。

岡電が南に曲がるあたりが内堀の一番広い場所(最大幅100m!)で、内堀の説明板が立てられています。内堀跡を少し南に行くと、東側の駐車場の奥に西之丸の西辺石垣があり、その上に西丸西手櫓が建っています。ビルの谷間にありながらも存在感では負けていません。さすがは国重文の貴重な現存櫓ですね。西手櫓の南から堀跡の路地を東に入ると、西之丸の南辺石垣が続いています。石垣沿いに東に進んだ先が石山門です。富山城の大手門を移築したと伝わる櫓門で旧国宝にも指定されていましたが、岡山大空襲で焼失。石垣に残る焼け跡が空襲の激しさを物語っています…。石山門を抜けて烏城みちを北に進むと、西側の小学校跡地が西之丸です。池田光政が隠居所としてより歴代藩主の隠居所として御殿や庭園が設けられました。西手櫓と庭園の小池が遺っていて、門も開いていましたが、学校地に勝手に入るのはためらわれたので、門前から眺めるに留めました。

西之丸の東側が宇喜多直家期に本丸が置かれていた石山で、駐車場の奥に池田期に設けられた池田家祖廟の石垣が遺っています。西側からは石山頂部に行けないようなので、いったん旭川沿いに出て東側に回り込み、石山の城(前岡山城)の説明板のあたりから坂道を上っていきましたが、石山頂部は駐車場になっていて西辺から南辺の石垣以外に遺構は見当たりませんでした。南麓の駐車場(堀跡)に下りて池田家祖廟の石垣を見上げてから、桜門(説明板あり)を抜けると、対面所跡に建つ林原美術館の前に長屋門があり、石碑の説明板によると岡山藩支藩の生坂藩岡山屋敷の長屋門が移築されたもののようです。林原美術館から烏城みちを東に進むと眼前に内堀が広がります。いよいよ本丸です(続く)。
 

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けむん

立派な石垣群に圧倒されました (2023/11/24 訪問)

行きづらいの城なので、ツアーで訪問しました。流石に日本三大山城だけあって、立派な石垣群に圧倒されました。櫓部分が残っていれば壮麗だったと思います。司馬遼の「おお、大砲」おすすめですね。

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けむん

石垣が見事でした (2023/11/25 訪問)

豊臣秀長時代、浅野氏時代、紀州徳川家時代の石垣が楽しめて良かったです。ツアーなので、サクッと見ただけですので、また来たいと思います。

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けむん

混んでました (2023/11/25 訪問)

12時過ぎでしたけど、土曜日のせいか外国人さんたくさんいて、混んでました。入場口まで30分くらいで、その後エレベーターの並びでしたが、エレベーター使わず階段で。各階とも混んでましたので、落ち着いて見学はできませんでした。平日か朝一で再訪ですね。

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えの

眺望がすばらしいお城 (2023/11/25 訪問)

角牟礼城の続百名城スタンプをいただいた史料館でこのお城の存在を知り、急遽行くことに。
係の方からは角牟礼城みたいな石垣は残っていなし、城としての見どころは無いよ~なんて言われてしまいましたが、そんなことは無い。土の城でも充分楽しめますよ

この山は大きなクスノキを切り倒したときの切り株だという伝説が残っているように、山頂部分がとても広いです。
パラグライダーやブランコなど、アクティビティを楽しめる山となっており、子ども連れをよく見かけました。  

お城の説明看板は立っているので、どこに土塁が残っているか確認できます。
第3土塁は割と分かりやすいものだったかな?と思います
今回見られなかった他の土塁や竪堀、堀切もいつか見てみたいですね。

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えの

日本でここだけの櫓 (2023/11/26 訪問)

暘谷駅から徒歩数分のお城です。

現在、中心部には小学校や中学校が建っていますが、石垣はよく残っています。
ここの学校の生徒さんたちは毎日この石垣に触れながら過ごせると思うと羨ましく感じますね。

日出城の特徴は、変わった形の鬼門櫓です。名前の通り城内の鬼門の方角に建てられましたが、櫓の北東部の角がとれたような造りになっています。櫓内を見学していた最中、近くの資料館の方に建物と石垣の角の両方が同じように取れた造りになっているのはこの日出城だけだと教えていただきました。

二の丸館では手荷物預かり、お土産・御城印販売をしていますので、立ち寄ることをおすすめします

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たぬぬ

藪化しています。 (2023/11/30 訪問)

城址にある案内板の後方が曲輪跡ですが、藪の状態がひどくてよくわかりませんでした。

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T-Shionoya

挙母城のつくりを再確認 (2023/09/30 訪問)

愛知県豊田市の挙母城。
前回は曇り空&短時間だったため、大手門周辺を含めてじっくり19年振りに再訪問。

河岸段丘の縁に築かれた城ですが、改めて訪れると本丸一体は幅広の谷で隔離された独立丘。
城下町&大手門エリアからは本丸エリアが遠くに見える印象。

さて、江戸期の町並みを残す城下町から大手門跡を抜けると、左に絵図の土橋の道が存在。
更に本丸への道筋を進むと、美術館通用口駐車場から広場へ上がる小路が嘗てのルートの痕跡でしょうか。
本丸に建つ美術館の敷地は2段になっており、ここも石垣と多門長屋の名残?

意外と城の姿を残している挙母城でした。

※写真2枚目は2004年のもの

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しろおと

高知城 (2014/01/17 訪問)

四国って現存天守の宝庫なんですよね
高知城は天守だけでなく本丸御殿も残っている唯一のお城
高知県高知市にあるお城で高知県庁のバックにあります

石垣が野面積みで6階建の縦長なお城です

内助の功で有名な山内一豊の建てたお城で
その主役の妻・千代の像がありました
大河ドラマ『功名が辻』で上川隆也と仲間由紀恵が演じてましたね
高知といえば幕末志士の出身地で板垣退助の像もありました

本丸御殿も残っており黒潮をイメージした欄間などがあり
意外にも今時なデザインでした
煌びやかというより、シンプルで質実剛健な感じで
本当に暮らせそう。縁側が素敵でした

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mae

大堀切 (2023/12/03 訪問)

入口は藪ですが、尾根に入れば、比較的歩き易くなりました。圧巻の土木量でした。

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くうくう

国史跡、別名鶴丸城と呼ばれる島津氏の館城

慶長6年(1601)島津家久が築城、約10年で完成させた。平城。77万石にしては天守や櫓のないシンプルな城郭であるが、外城をおよそ100もっていた。
加工しやすい溶結凝灰岩を利用した石垣は加工整形(切石はつり)が多く亀甲積や石材の縁に漆喰を塗った金場取残積など見所が多い。また鬼門除けの隅欠(すみおとし)や西南戦争時の弾痕もある。
擬宝珠つきの石橋は遺構。明治6年(1873)焼失した御楼門は令和2年(2020)復元完成した。二重二階造木造本瓦葺で屋根に鯱を上げた高さ20m国内最大級の城門、大手櫓門。

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くうくう

内堀に映える白漆喰仕上げ黒漆塗下見板の大天守

国宝現存天守。5重6階複合連結式層塔型で、現存12天守の中では唯一の平城。永正年間(1504-20)信濃守護小笠原氏が築城したのが始まり。文禄年間(1592-96)石川数正とその子康長が天守など城郭整備を行う。傾きが目立つようになった天守は昭和25年(1950)文部省直轄国宝保存事業第一号として解体修理が行われた。天守には蕪懸魚が多用され小天守には華頭窓もある。また、黒門・太鼓門の復元、西総堀土塁などの土塁遺構や総堀を復元する計画もあり、城の魅力を高めている。

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とばつびしゃもん

名張藤堂家の屋敷 (2018/10/08 訪問)

藤堂高虎の養子、高吉を祖とする名張藤堂家の屋敷。江戸期の屋敷の一部が現存。
屋敷内の部屋や展示された文化財資料を見てまわる。こぢんまりとした枯山水の庭を見てのんびりした気分に。

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李牧

北側からの登城路 (2023/12/03 訪問)

R477沿いの駐車スペースからの登城路は藪で覆われ通行不可。少し北に歩き、Pみちくさの奥の小径に行くと、切通の脇から簡単に登れます。

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