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イオ

とことん岡山城(下の段東部~北部~西部) (2023/08/13 訪問)

(続き)

旭川河畔から下の段に戻り、反時計回りに下の段を一周します。本段南東部の宇喜多期の高石垣も南西部と同じく隅部が岩盤の上に築かれています。本段東辺の石垣沿いに北に進むと、宇喜多期の石垣に小早川期に継ぎ足された石垣の継ぎ目がありました。継ぎ目だけでなく積み方の違いもはっきりしていて面白いですね。さらに進むと、本段北東部の石垣下部にはばき石垣が設けられていました。はばき石垣で西に折れた先には六十一雁木下門の石垣が遺り、かつて61段あったとされる石段(雁木)の上には六十一雁木上門が再建されています(通行不可)。

六十一雁木下門の北側では本段の石垣が鈍角に折れています。岡山城の見どころのひとつ、不等辺五角形の天守台です。天守台の下から天守を見上げつつ、開祖宇喜多氏顕彰之碑をすぎると搦手にあたる廊下門があります。櫓門の上屋は本段と中の段を結ぶ城主専用の廊下として使用されていたことから廊下門と呼ばれ、現在の門は昭和に再建されたものです。廊下門の西側から横矢を掛ける小納戸櫓跡の石垣には石樋や刻印石が見られます。中の段の北西隅に現存する月見櫓は、石落としを備えた出格子窓を鉄板で覆っており、下の段から見上げるとなかなかの迫力です。そして中の段の西辺石垣を月見櫓~数寄方櫓~伊部櫓とたどって大納戸櫓で下の段一周です。また、内堀側には油櫓~修覆櫓~太鼓櫓を結ぶ石垣と櫓台が遺っています。

続いては中の段へ。供腰掛の脇から石段を上って鉄門に向かいます(続く)。
 

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todo94

資料館と御殿山公園 (2023/11/23 訪問)

3代山名矩豊が当地に入部した際の陣屋は村岡民俗資料館のあたりで説明板がありました。8代義方が陣屋政庁を移した地は御殿山公園として整備されています。桜の名所になっていて桜山とも呼ばれているようですが、紅葉もなかなかのものでした。

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くうくう

伊東48城の一つ、別名鶴丸城

須木城は松尾城、荒神城、肥田木城と呼ばれる三つの曲輪群の総称。群郭式山城。築城年は不明だが南北朝期には既に存在していた。肝付氏のあと米良氏の居城で伊東方に属していたが、島津氏に寝返り、宮原氏が城主となった。元和元年(1615)一国一城令により廃城した。
城山公園すきむらんどとして整備されている。もっとも城というより緑地広場の体で標柱はあるものの城跡としての案内はない。本丸に相当する松尾城の虎口と石垣を伴った曲輪はかなり広く、歩きでがあった。

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くうくう

石垣が残る相良家歴代の居城、国史跡

もとは平氏の代官がいた城だが、相良長頼が地頭として建久9年(1198)入城、以後35代670年の長きにわたり相良氏が領した。球磨川南岸に位置する梯郭式平山城。石垣造りの近世城として整備されるのは、天正17年(1589)から寛永16年(1639)。何度も中断しながら完成させた。天守はなく2階建ての護摩堂があった。特徴のある幕末導入された槹出工法での武者返しの石垣が水の手門近くにある。令和2年(2000)の豪雨による浸水被害ため一部立入禁止、人吉城歴史館は休館中。早い復旧を期待している。

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しんちゃん

関ヶ原でチェンジした朽木氏の陣屋 (2023/12/03 訪問)

朽木城(陣屋)はかつての朽木村に築かれていた佐々木氏の庶流・朽木氏の城館跡です。関ヶ原の合戦後9595石(ほぼ大名クラス)を安堵され先祖代々の地に陣屋を築いたそうです。資料館(事前予約が必要)や森林組合の周辺が陣屋跡のようでかつてはなかなかの広さがあったようです。井戸や土塁、堀、石垣が残っているようで、ひょっとして駐車場の所にあった石垣がそうでしょうか?
朽木元綱は関ヶ原の合戦で西軍から東軍に転身して純大名格として先祖代々の地に安堵されました。三男稙綱は徳川家光の側近となり土浦藩3万石に出世しています。関ヶ原の合戦の時はギリギリの判断で、改易になってもおかしくは無かったのですが、なかなか世渡り上手な一族です。うまくやりましたね。

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しんちゃん

鯖街道 国道367号線 (2023/12/03 訪問)

鯖街道・国道367号線はかつて若狭国と京都を結ぶ海産物を運搬する重要なルートでした。朽木陣屋や細川城を訪問する目的で通過しましたが鯖寿司の店が三件ほどあったので、せっかくだから寄ってみました。生と炙りと焼きとあるようですが焼きにしました。
今の時期、焼きが無難なのではないでしょうか。値段は皆同じようですし。味はなかなか美味しい‥寿司なので暖かくは無いですが味噌汁が付いています。お茶はセルフで。
店主に確認したところ城びとに投稿しても大丈夫のようです。このあいだもブラタモリでやっていたので投稿させていただきます。やはりこの街道は鯖街道で正解だと思います。

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とばつびしゃもん

熊野水軍の将、堀内氏善の居城跡 (2020/12/13 訪問)

戦国時代、熊野地方を支配した堀内氏の屋敷跡。周囲の道は狭く駐車スペース確保も難しい。
屋敷は全龍寺とその周辺にあったそうだが、遺構を確認できず撤退。

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しんちゃん

大津曳山展示館駐車場に石垣の一部が残る。 (2023/12/03 訪問)

大津城は浜大津の琵琶湖に面した浜に築かれていた水城です。天正14~15年頃に築かれ、築城に際して坂本城の遺材が使われたとのことです。大津港あたりに本丸が築かれ南に二の丸・奥二の丸が配され、その周囲に三の丸が配されていました。文禄4年(1595)に京極高次が入場し、慶長5年関ヶ原の合戦の前に西軍の毛利元康率いる1万5000の大軍の攻撃を受けるも敵を十分に引きつけ和睦に至りますが、結果的に東軍の勝利に大いに貢献したとのことです。城は大破しますが天守は後に彦根城に移築され国宝に指定されています。
部材は膳所城や彦根城に転用されて遺構はほとんど残っていませんが大津曳山展示館(無料)左手の駐車場にかつての石垣の一部が残っています。

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刑部

コンパクトな山城 (2023/11/03 訪問)

麓の神社に駐車して登城しました、車が小さければ中腹まで車で行けます。上からの景色は結構良く夜なら夜景がいいかも。奥へ行くと二の丸方面に行けました。

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しんちゃん

ヤング光秀がトレーニングしていたかもしれない。 (2023/12/02 訪問)

高室山城は標高422mの高室山の山頂に築かれており遺構らしきものはほぼ残っていません。浅い堀切がかろうじて残っている程度で山頂の二つの郭も決して広くなく、城というよりは砦です。尾根は整備されていますがなかなか急でしっかりした登山用の靴やストックが有った方が無難でしょう。ハイキングコースになっているようで比較的多くの人が訪れています。
麓には十二相神社や十兵衛屋敷跡があり、若いころの明智光秀が居住していたことを示唆しています。ひょっとしたら高室山の坂道で足腰を鍛えていたのかもしれません。とりたてて特徴のない城跡ですが、明智光秀ゆかりと思うと不思議な魅力が出てくるものです。

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三浦の晃ちゃん

今は、学校に (2023/12/05 訪問)

今は、敷地のほとんどが、横浜英和学院に、なっています。周囲を歩いたのですが、アップダウンが、そこそこあります。城主は、足利一族の吉良氏のようです。一説には、忠臣蔵で、有名な吉良上野介の、系統が断絶したあと、この一族が、その役割を、踏襲したようです。

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赤い城

立派な塀がある民家 (2023/11/30 訪問)

最寄りは阪急の服部天神駅ですがこの日は出張で江坂に所要があったので江坂から歩きました。
30分かからないくらいかな。
まずは民家の前に外堀跡の説明板があります。
水路になっているのかな?
さらに進むと屋敷があります。
立派な門の前に石碑が立っていました。
現在でも子孫の方がお住まいのよう、深入りは禁物ですね。
二重の堀に囲まれた方形居館だったとされています。
裏手には堀跡とされる湿地も広がっていました。
いずれにしてもあまりうろうろすると不審者?と思われるかもなので早々に退却しました。
帰りは服部天神駅、足の神様の服部天神にお参りし、これからも山城リアできるようお願いしました。

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しんちゃん

敏満寺遺跡 胡宮神社 (2023/12/02 訪問)

敏満寺城は城塞化された敏満寺跡のことで多賀SAから南の胡宮神社周辺までの広大な領域に展開しています。SAのプレートによると胡宮神社周辺に本堂(本丸)があったとのことです。神社から南へ100mちょっとの場所に特別史跡 敏満寺石仏谷墓跡があり期間限定で公開もされているようです。訪問した時には封鎖されていましたが周辺からうかがうことが可能です。
往時の敏満寺の勢力の一端を垣間見ることが出来た気がします。

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しんちゃん

城塞化された寺院跡。 (2023/12/02 訪問)

敏満寺城は多賀SAに隣接して公園として整備されており敏満寺遺跡のプレートが設置されています。城塞化された寺院でかなりの勢力を誇っていたようですが権力者と敵対することも多く、浅井長政や織田信長に焼き討ちを食らったりしています。
土塁が公園の周囲を巡っていますがいつの時代のものかはよくわかりません。SAに隣接していますが下道から車で普通にたどり着くことが出来ます。

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しんちゃん

荒神山神社周辺が城址 (2023/12/02 訪問)

荒神山城はかつて奥山寺があった跡地に建てられている荒神山神社の周辺が城址とされています。上段のNHKテレビ中継塔も城址とみられますが詳細はわからず、神社の石垣にも遺構が含まれているのか不明です。戦国時代には六角氏の家臣が入っていたらしいので観音寺城の支城の一つだったのではないでしょうか。
ハングライダー発着場あたりの眺望は良く琵琶湖周辺が良く見えます。神社の近くまで車で行くことが出来ますが、ハイキングコースとして人気のようなので人や対向車には注意が必要です。

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コロスケコロコロ

松江城! (2023/11/23 訪問)

松江城が最後で国宝五城を制覇できて、良かったです。

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いんげん丸虫

根羽女城(ねばめ) 長野県根羽村 (2023/11/25 訪問)

標高730mの山城です。1km離れて根羽男城があります。
主郭の北に堀切、南に土橋状の遺構があるのですが、かなり
薄まってますね。祠や鳥居も倒壊しています。
看板は無いのですが、小川川の橋を渡る登城路はついてます。
村民の駐車場があり、駐車可能です。

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しんちゃん

鯖街道に面する謎の城 (2023/12/03 訪問)

細川城は鯖街道(国道367号)に面した山に築かれている謎の城です。山の麓にはいつの時代のものか解らない石垣が数多く散見し、郭ともみられる扁平地が数多くあります。山の上まで道が続いていて何かありそうな雰囲気がありますが、参考にした古城盛衰記さんの記事によると比高200mの山上には何も遺構がないとされているので訪問はしていません。築城の途中で放棄されたのでしょうか?発掘調査を希望したいところです。

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しんちゃん

天守と庭園。 (2019/12/31 訪問)

小倉城は細川忠興が慶長7年(1602)から唐風の天守閣を築くなど改修を施し、寛永9年(1632)よりは小笠原氏が入りました。海に面した水城で本丸周囲に水堀が残り、北の丸跡には八坂神社が鎮座しています。
本丸の北東の下屋敷跡には小倉城庭園が再現されています。本来の天守は四重五階で最上階以外は破風が無く、最上階は黒色の唐造りで下層は純白の非常に特色のある天守だったのですが、再建に際して地元の強い要望から今の形になったようです。
史実より見栄を優先した結果なのですが個人的にはオリジナルの方が良かったな‥。建築家の方も残念がっているようですがいささか安易な手法に傾きすぎてしまった感は有ります。反感を覚悟で書きますが何事も安易なやり方で事を進めるのは感心しません。城郭は文化財なので史実を無視した安易な再建や整備には個人的には賛同はできかねます。

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小城小次郎

三家とも独立した交代寄合なのだ(仲良しだったみたい) (2023/04/15 訪問)

西・東・北の高木家はもともとひとつの高木家だが三兄弟(一人は甥っ子だが養子縁組で弟になった)それぞれに武功を上げたので三家とも独立した交代寄合の扱いを受けた。三家のうち二家ずつで仲良く参勤交代してたそうだ。

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