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虎の子

城への交通手段実践レポート (2021/11/21 訪問)

※美濃金山城、犬山城とともに登城

6:22 品川(JR新幹線)、7:50,8:07名古屋(JR特急)、8:50,9:15中津川(路線バス)、9:27苗木バス停
 (徒歩15分)苗木遠山資料館(続百名城スタンプ 9:30-17:00) + 苗木城跡

10:50苗木(路線バス)、11:05,11:20中津川(JR)、11:57,12:06多治見(JR)、12:27,12:48可児/新可児(名鉄)、12:48,13:21明智(yaobus)、13:32元兼山町役場前
(徒歩1分)可児市観光交流館(戦国山城ミュージアム)(続百名城スタンプ 8:30-17:00)
   ※ミュージアム見学のみで美濃金山城跡本丸へは登城せず

14:19元兼山町役場前(yaobus)、14:33,14:36明智(名鉄)、14:40,14:44新可児(名鉄)、15:04犬山
(城下町経由徒歩23分)犬山城(百名城スタンプ 9:00-16:30)

18:10犬山(名鉄)、18:48名鉄岐阜
 ※泊:岐阜駅付近

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朝田 辰兵衛

2024年は,こちらから…🙋 (2024/01/05 訪問)

2024年は,東京都のお城からスタート。学生はトレーニングがてら,走って駆け上がって行きました。私を含む年寄りは絶対マネしないでください。ところどころ足場が悪い場所がありました。
なお,山梨県に向かう途中で立ち寄ったので,高尾駅北側の2城を残したまま西へと向かいました。雨男のくせに,昨年暮れから天候に恵まれていて感謝です。

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小城小次郎

それでも城は作られている (2023/04/23 訪問)

古くから山岳信仰のメッカであり神仏習合とかいうそれ以前に恐らく独自の宗教観を持つ一大聖地だったのだろう。どうみてもこの地に武家勢力が入り込む必要はなかったように思うのだがそれでもこの地に城は作られている。

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虎の子

城への交通手段実践レポート (2022/04/06 訪問)

※日本三大桜の一つ「根尾谷薄墨桜」鑑賞、大垣城と共に登城
※前日、名古屋泊

8:11名古屋(JR)、8:45,9:11大垣(樽見鉄道)、10:11樽見
 (季節運行シャトルバス)薄墨桜 ※駅徒歩15分です
 ※樽見鉄道大垣駅で樽見までの往復とシャトルバスの割引券を利用
  樽見駅からバス15分位のうすずみ温泉入浴券付もあった気がします(記憶が定かではありません)

12:03樽見(樽見鉄道)、13:06大垣
 (徒歩8分)大垣城(続百名城スタンプ 9:00-16:30火休)

13:41大垣(JR)、13:52,14:28岐阜(名鉄)、15:03,15:12犬山(名鉄)、15:28、15:40小牧(路線バス)、15:52小牧市役所
(徒歩3分)小牧山城跡(続百名城スタンプ 小牧歴史資料館(9:00-16:15第三木休))

18:04小牧市役所前(路線バス)、18:58,19:20名古屋(JR新幹線)、20:40品川

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虎の子

城への交通手段実践レポート (2022/04/06 訪問)

※日本三大桜の一つ「根尾谷薄墨桜」鑑賞、小牧山城と共に登城
※前日、名古屋泊

8:11名古屋(JR)、8:45,9:11大垣(樽見鉄道)、10:11樽見
 (季節運行シャトルバス)薄墨桜 ※駅徒歩15分です
 ※樽見鉄道大垣駅で樽見までの往復とシャトルバスの割引券を利用
  樽見駅からバス15分位のうすずみ温泉入浴券付もあった気がします(記憶が定かではありません)

12:03樽見(樽見鉄道)、13:06大垣
 (徒歩8分)大垣城(続百名城スタンプ 9:00-16:30火休)

13:41大垣(JR)、13:52,14:28岐阜(名鉄)、15:03,15:12犬山(名鉄)、15:28、15:40小牧(路線バス)、15:52小牧市役所
(徒歩3分)小牧山城跡(続百名城スタンプ 小牧歴史資料館(9:00-16:15第三木休))

18:04小牧市役所前(路線バス)、18:58,19:20名古屋(JR新幹線)、20:40品川

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虎の子

城への交通手段実践レポート (2022/04/05 訪問)

※日本三大桜の一つ「山高神代桜」鑑賞と諏訪大社散策とあわせて登城

5:44新宿(JR)、6:30,6:35八王子(JR)、8:28,8:45韮崎(路線バス)、9:07牧の原バス停
 (徒歩30分)山高神代桜
 ※「山高神代桜」へは便利な公共交通機関はありません、ある程度の徒歩必須です
11:18牧の原バス停、11:34一ツ谷バス停
 (徒歩16分)韮崎民俗資料館(新府城:続百名城スタンプ 9:00-17:00)
(徒歩20分)12:34韮崎(JR特急)、13:05茅野 (参考 13:10上諏訪)
 ※タクシーで諏訪大社上社前宮へ行き散策
 (タクシーにて)高島城(続百名城スタンプ 9:00-16:30臨時休館有)
16:22上諏訪(JR)、16:41,17:03塩尻(JR特急)、19:07名古屋
  泊:名古屋駅周辺
  ※名古屋場近くのホテルの窓からライトアップされた名古屋城が見ることができました
  ※翌日、もう一つの日本三大桜と周辺城跡を見に行くため名古屋泊にしました

※下記方法で新府城にもよれましたが、今回はスタンプのみとしました
 ・神代桜から韮崎に向かうバスを祖母石中バス停で降り徒歩35分
 ・JR新府駅から徒歩19分

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しんちゃん

大洗磯前神社  茨城県大洗町 (2019/01/05 訪問)

大洗磯前神社は茨城県大洗町にある神社で旧社格は国弊中社です。由緒正しいんですね。大己貴命を祀っていて、海岸に建つ「神磯の鳥居」は祭神の降臨地とされています。日の出に向かい合うように三つの鳥居が建てられていて、その時の光景は絵に描いたような見事さです。
大洗町はアニメ「ガールズ&パンツァー」と関わりが深い街で劇中でも舞台として扱われ、ファンの間でも聖地とされているようでした。私は二回訪れていますが時期に応じてTV版、劇場版と絵馬の柄が異なっていました。ガルパン推し今でも続けているんでしょうか?

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しんちゃん

GWの絶景散歩道 (2017/05/04 訪問)

五稜郭タワーから降りた後は待望の五稜郭に向かいます。南側半月堡には一の橋を渡って行くことが出来、そこから二の橋を渡って五稜郭に入ることが出来ます。私はせっかくなので桜を見ながらゆっくり周遊して裏門橋から五稜郭に渡りました。この裏門橋は五稜郭の真北に位置しています。本来は鬼門の位置に当たりますが五稜郭でもそうなのでしょうか?
タワーから桜は白んで見えたのですが、実際に近くに寄って見てみるとしっかり薄紅色をしています。見事な大きな桜も多く実に楽しい散歩コースでした。
遠くには頂部に雪を残した山が見えます。堀の水も空もきれいで石垣も素晴らしい。何より満開の桜が素晴らしい。この日、日本で最も素晴らしい空間だったのではないかと思えるほどでした。うまい具合にGWと満開の桜の時期がマッチしたわけですが温暖化が進んだ今ではGWにはこの絶景は見られないかもしれません。

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しんちゃん

せっかくだから下城まで (2024/01/01 訪問)

本丸を散策して二の丸に降りた後は三の丸に向かいます。三の丸は東側に腰郭を備えています。手前に竪堀も一本ありました。南西側には尾根上に七段の郭が連なっているらしいですが自分はこの城は初登城なので無理はせずに引き返します。思った以上に手のかかった城のようなので地元人であれば何回か通って掘り下げてみるのもありですが、それは他の方にお任せします!ここは尻に帆かけて撤収です。先程見た枡形らしき場所から竪堀が伸びていましたが、その竪堀を登るようにして北上します。
道のよくわからない城は無事に帰投することが何よりも重要で元来たルートをたどって帰ることに全力を集中します。下山道にのっかりそのまま道なりに行くと神社の西側に出ました。ここが本来の登城道のようです。初詣の人達が白い目で見てます。正月から山城登ってますけど好きでやってるんで‥
神社の脇に小さい標識がありました。これだけではわかりづらいですね。せっかくいろいろと遺構の残っている城なので案内板や登城道の整備など進むと良いと思います。

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トク

90【関ケ原の26人】(25)島津豊久 (豊久初陣の地②-沖田畷の戦い) (2024/01/15 訪問)

(25人目)島津豊久の続き③です。豊久初陣の地「沖田畷」(おきたなわて)を訪れてきました。

島原鉄道の島原駅や島原城から北へ徒歩20分程の所にある一帯です(写真①)。龍造寺隆信が自刃したとされる場所には供養塔が立っていました(写真②③)。また近くには隆信の家臣が後に住みつき、亡くなった者たちの霊を慰めるために建てたという二本木神社もありました(写真④⑤)。

“畷”とは(田んぼの一本道)という意味だそうです。当時その両側は腰まで浸かるほどの泥田地帯だったとか。龍造寺軍5万、島津・有馬連合軍はわずか8千、数的には圧倒的に不利な状況です。しかし、祖父の日新公から学び、知略に長けた家久は、事前に家老の鍋島直茂を調略し、そして龍造寺本隊をここ沖田畷の一本道にうまく誘い込み、軍勢が身動きできなくなった所を、得意の釣り野伏で襲撃! 何と総大将の龍造寺隆信を討ち取るという大金星を上げたのでした!!! 当時13才だった豊久は、この時父の家久に同行して敵首級を上げ、見事に初陣を飾ったと伝えられています。

私は沖田畷の一本道があったとされる、現在の島原鉄道の線路に立ち合戦地を眺めてみました(写真⑥)。この踏切の右側に隆信の供養塔があり、左側に二本木神社があります。そして、おそらくこの線路が畷の一本道で、線路の両側が腰まで浸かる程の泥田だったのではないかと思われます。何だかここで、駆け回る豊久の勇ましい初陣姿が、目に浮かんでくるようです。

この活躍で、家久には恩賞として日向佐土原の地が与えられます。そして家久と豊久は、串木野城から佐土原城へ移り、そこから長兄義久の命で豊後を攻めます。次兄の義弘・歳久が岡城を落とせず苦戦している間に、戸次川で仙石久秀・長宗我部元親の連合軍を破り、府内にある大友館を焼き払う快進撃を続け、最後に臼杵城に籠城する大友宗麟を追い詰めます。しかしあと一歩及ばす、逆に豊臣の大軍の反撃に会い、兄三人とともに根白坂で戦うも敗れ、そして家久は佐土原城へ逃げ帰ります。豊久もこの時、父家久とともに佐土原へ逃げ帰ったようです。

次は、家久死後に豊久が城主となった関ケ原当時の居城「佐土原城」を訪れます。
 

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イオ

山頂部の曲輪群 (2023/11/19 訪問)

(続き)

曲輪16から城山の北麓を西側に回り込むと、登城道沿いにも下方にも石垣があちこちに覗いていました。城山の山頂部には西端の曲輪18から山頂(曲輪24)まで尾根沿いに小曲輪群が階段状に連続しており、南西辺には石垣が設けられています。山頂手前には城山の神の祠が建てられており、山頂からは琵琶湖方向だけでなく内陸方向も見渡せ、近江富士と呼ばれる三上山も間近に見えました。

山頂から東麓に続く曲輪群に向かうべく急斜面の岩山をロープを頼りに下りて行くと、岩盤の間に石垣が大規模に積まれていました。岩山を下りたところの曲輪25北端にも石垣が見られます。そして曲輪28東側の堀切で小堤城山城をひとめぐり。この後、堀切を越えて尾根道を東に進み、岩倉城に向かいました。

先達の皆さまの投稿で大いに期待して訪れた小堤城山城でしたが、期待に違わぬ(それ以上の)素晴らしい城でした。さすがに観音寺城には及ばないにせよ、曲輪群を配した尾根を大土塁に見立てて石垣を多用した六角氏の城造りは好きだな、と改めて。
 

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todo94

上館 (2023/12/10 訪問)

間に小栗城をはさみつつも、下館、中館とセットで上館を攻略できてしてやったりです。下館、中館、上館の中では上館・久下田城が最も空堀、土塁といった遺構が残っていて城としての風情を感じることができました。

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しんちゃん

本丸の周辺が最も遺構が充実している。 (2024/01/01 訪問)

先日の続き。東出丸から西に移動していくと北側に土塁のように長い尾根道があるので、その上を歩いて西に向かいます。その先が本丸の周辺部になりますが、この城で最も遺構が多いのがこの部分になります。向かって左・南側に枡形のような窪みがあり、その南側に竪堀が続いています。向かって右・北側には虎口が設けられ北側にも城址が続いています。
北側へ少し行くと堀切や土塁らしきものが見えますが、この城は登城道がはっきりしない城なので深入りを避け本丸を目指します。帰れなくなったら困るわけですね。本丸の下段には石積みの跡らしいものが見受けられます。本丸は周囲に比べて高所にありました。少し急ですがこの程度なら登れます。正月早々直登で本丸に到達します。本丸にはボロボロの標識に少し新しいプレートが貼り付けてありました。かつて人が訪れていたのは間違いなさそう、城を管理してくれる人がいなくなってしまったのでしょうか?
本丸の南側に昇降道がありました。そこを下り南に進むと程なく二の丸に到達しました。

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しんちゃん

五稜郭タワー (2017/05/04 訪問)

五稜郭タワーは特別史跡五稜郭のやや南西よりに建てられていて半月堡の程近くにあります。今建っているタワーは二代目で航空法の制限(緩和されたものの)で避雷針高さが107m、軒高98mにとどまっています。五稜郭もほぼ単郭とはいえ、なかなか巨大で写真を撮ると少し見切れてしまいます。あと20mほど高かったらもっと綺麗に全体が写せたのに惜しいです。まあ私の写真の撮り方がヘタなだけかもしれませんが。1Fにはひじ方歳三・榎本武揚・武田斐三郎の銅像があります。展望所には椅子に座った有名なポーズのひじ方氏の銅像があります。ところでそろそろ「ひじ方」を漢字で入力したいと思うのですが駄目ですか?

※添付写真のコメには漢字で入力することが出来ました。ちょっとだけしてやったりです。

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しんちゃん

都城島津氏の本城 (2014/01/11 訪問)

先日いにしえの写真を見てたらこんな城の写真が出てきました。城郭大系には北郷義久の外祖父・宮丸道時が住んだ都島の地に築したもので都城島津氏(北郷氏)の本城だったが、元和元年(1615)に廃せられた とだけサラっと記載されています。
本丸跡が城山公園とされていて、なんとなく洒落たお城っぽい歴史資料館が建っています。平成8年に城山大手門(脇戸付櫓門・単層櫓)が復元されていて総工費は当時の金額で9500万円かかっているそうです。本丸より西側に城址がのび案内板から察するに東西700mほど、南北500m強といったところで大淀川の支流がかつての堀の名残に見えます。

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ぴーかる

福住城 (2023/12/17 訪問)

【福住城】
<駐車場他>登城口前に<34.609649, 135.913267>もし先客が駐車してあれば、<34.608392, 135.911502>に停めれそう。
<交通手段>車

<見所>横堀・土塁
<感想>福住城の築城は室町時代、文献には1481年には館から城へと築造されていたようです。福住氏は古くからの豪族で、室町時代には筒井氏に属していました。1483年に北東に位置する福住井之市に越智氏・古市氏が築城した城を奪い取り本城を移した(福住井之市城)ようです。移転後もこっちの中定城も副城として機能していたようです。
 登城口はGoogleマップの位置より少し西側より入ります。社のある曲輪までは整備されているので5分程で行けます。社の曲輪の奥が土塁となり、その奥が十字路の虎口になっています。十字路の西側の谷から入る道が本来の大手道のような感じがします。十字虎口から北側に土塁囲みの小さな曲輪があります。主郭の付属主郭になります。広いですがそこそこ鬱蒼と笹藪化しています。
 主郭は南面以外は土塁で囲み、北西側に腰曲輪が付いています。南側の切岸は比較的傾斜がゆるく、横堀を埋めた幅の広い土橋の両サイドに石積みが残っています。現地説明板にある大坂の陣時の改修を加えたのはこの部分かなあと思われました。主郭は横堀で囲み、高い切岸になっています。西側の横堀は網目状に掘られて技巧的です。行きませんでしたが下の方に池が見えました。

<満足度>◆◆◇

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トク

89【関ケ原の26人】(25)島津豊久 (豊久初陣の地①-森岳城) (2024/01/15 訪問)

(25人目)島津豊久の続き②です。豊久初陣の地「森岳城(島原城)」を訪れてきました。

島原城は今年築城400年を迎えます(写真①)。そのため昨年は、足場と防護網に覆われ白漆喰の塗り直しを伴った外壁工事が行われていたので、外からその姿を見る事はできませんでした。しかし工事は昨年末に終了し、今の島原城は白く美しくよみがえっていてとても綺麗でした(写真②③④)。すぐ西の通りにある武家屋敷もよく保存されており、タイムスリップした感覚が味わえます(写真⑤)。湧水や温泉も近くにあるので、散策するにはとてもいい所です。

現在のこの美しい層塔型の島原城は、江戸時代に大坂の陣の功績で大和五条から入った「松倉重政」が築城したものです。それ以前のここには、日野江城主「有馬晴信」が支城として築いた「森岳城」がありました(説明写真⑥)。1578年豊後の大友氏が耳川の戦いで島津氏に破れると、その隙に佐賀の「龍造寺隆信」は勢力拡大を開始します。そして1584年には自ら5万の大軍を率いて島原に進攻してきました。それに対し、有馬晴信から援軍の要請を受けた島津氏は、四兄弟末弟の家久を送り込みます。そして家久は4千の軍勢でここ森岳城に布陣、晴信の軍勢4千と合わせ計8千で龍造寺軍を迎え撃ちます。そして森岳城の眼下に見える沖田畷(おきたなわて)で両者激突しました。

私は島原城の天守に登り眺めてみました。東には島原城下(島原駅)や有明海や遠く熊本まで見えました(写真⑦)。西には雲仙普賢岳が迫って見えました(写真⑧)。そして北にある合戦地の沖田畷を眺めてみました(写真⑨)。あそこには、こちらに攻めて来る龍造寺の5万の大軍がいました。まだ若干13才の豊久はどんな思いでここから同じように龍造寺の大軍を眺めていたのでしょうか? そしてどんな思いで父家久とともに、その大軍めがけ、ここから駆け下りて行ったのでしょうか?


【余談】島原名物「具雑煮」
島原名物の具雑煮を食べてきました(写真⑩)。城のすぐ目の前にある「姫松屋」ここがオススメです。具雑煮とは、冬に行われた島原の乱で、一揆軍は寒さのため士気が落ちた所を、天草四郎が野菜や魚など何でも鍋に入れて温め、その上に餅をのせて皆にふるまい、元気づけたとの事から広まった陣中食のようです。確かに食べているうちに、何だか元気が出ててきました。

さあこれより豊久初陣の地「沖田畷」へいざ出陣、私もここから駆け下ります! と思いましたが酔いが回ってきたので、ゆっくり歩いて下りる事にします(すいません😩~)。
 

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イオ

中腹の曲輪群 (2023/11/19 訪問)

(続き)

主郭から曲輪14・16間の堀切まで上り、堀底からまずは曲輪14へ。曲輪14の北側にも堀切があり、堀切に突出した櫓台と思しき石垣が築かれています。曲輪14の東辺も石垣で覆われていて大いに見応えがありました。

石垣を眺めながら堀切に戻り、堀底道を東に下ってまた上ると、曲輪15の石垣が見えてきます。北西辺の石垣沿いに進み、北東麓に少し下りて行くと竪堀と浅い堀切がありました。曲輪15に引き返し、曲輪上段からは琵琶湖方面の眺望が開けています。眼下には東山道が走り、遠くは水茎岡山城~八幡山城~観音寺城まで見渡せます。曲輪15は北西辺だけでなく南西辺にも大規模な石垣があり、さらに南東辺にも石垣が遺っています。先達の皆さまの投稿で「石垣の中世山城」とは承知していましたが、まさかこれほどとは…。

ここまでですでにテンション爆上がり、意気揚々と曲輪16に登って行くと、曲輪の南部から北西麓の主郭に向けて石垣造りの虎口が開口していました。主郭へ下りるのはまた後にして、今度は山頂部の曲輪群に向かいます(続く)。
 

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小城小次郎

能登・越中の国境線 (2023/04/23 訪問)

中世の一大宗教都市であった石動山から荒山峠に向けた最前線でもあり能登・越中の国境線でもあるこの場所はたびたび戦の舞台になっている。越中の国境線は現在の県境とは比較にならないくらい強く意識されていたようだ。

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todo94

【城びと未登録】小栗城(茨城県筑西市) (2023/12/10 訪問)

「関東の名城を歩く 北関東編」に所収の城です。一度、内外大神宮や城址碑にはたどり着けていたのですが、登城口が分からず撤退していました。今回も空堀や土塁を確認しつつ、最後は鉄塔に向かって藪漕ぎをしてしまいました。鉄塔からは本丸への登城路が整備されていて何とか攻略を果たすことができました。スムーズに下城してみると入口の石碑や城址碑からかなり離れたところに登城口がありました。登城口への案内があるとありがたいのですが。それにしても結構よい城で城びと未登録というのは残念で仕方ありません。

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