すいしがじょう

水晶城

広島県広島市

別名 : 石道本城、石道新城
旧国名 : 安芸

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神社の標識わかりづらい
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しんちゃん

せっかくだから下城まで (2024/01/01 訪問)

本丸を散策して二の丸に降りた後は三の丸に向かいます。三の丸は東側に腰郭を備えています。手前に竪堀も一本ありました。南西側には尾根上に七段の郭が連なっているらしいですが自分はこの城は初登城なので無理はせずに引き返します。思った以上に手のかかった城のようなので地元人であれば何回か通って掘り下げてみるのもありですが、それは他の方にお任せします!ここは尻に帆かけて撤収です。先程見た枡形らしき場所から竪堀が伸びていましたが、その竪堀を登るようにして北上します。
道のよくわからない城は無事に帰投することが何よりも重要で元来たルートをたどって帰ることに全力を集中します。下山道にのっかりそのまま道なりに行くと神社の西側に出ました。ここが本来の登城道のようです。初詣の人達が白い目で見てます。正月から山城登ってますけど好きでやってるんで‥
神社の脇に小さい標識がありました。これだけではわかりづらいですね。せっかくいろいろと遺構の残っている城なので案内板や登城道の整備など進むと良いと思います。

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しんちゃん

本丸の周辺が最も遺構が充実している。 (2024/01/01 訪問)

先日の続き。東出丸から西に移動していくと北側に土塁のように長い尾根道があるので、その上を歩いて西に向かいます。その先が本丸の周辺部になりますが、この城で最も遺構が多いのがこの部分になります。向かって左・南側に枡形のような窪みがあり、その南側に竪堀が続いています。向かって右・北側には虎口が設けられ北側にも城址が続いています。
北側へ少し行くと堀切や土塁らしきものが見えますが、この城は登城道がはっきりしない城なので深入りを避け本丸を目指します。帰れなくなったら困るわけですね。本丸の下段には石積みの跡らしいものが見受けられます。本丸は周囲に比べて高所にありました。少し急ですがこの程度なら登れます。正月早々直登で本丸に到達します。本丸にはボロボロの標識に少し新しいプレートが貼り付けてありました。かつて人が訪れていたのは間違いなさそう、城を管理してくれる人がいなくなってしまったのでしょうか?
本丸の南側に昇降道がありました。そこを下り南に進むと程なく二の丸に到達しました。

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しんちゃん

城域はなかなか広い。あとは整備の問題。 (2024/01/01 訪問)

新春一ノ槍‥忘れた。幾つ目だったかな? ともかく初投稿させていただきます。
水晶城は臼山八幡宮の西にある山の尾根上に築かれていました。縄張り図を参考にすると東西から南北に一帯に広がる尾根上に郭が配されているようです。城域はかなり広いですね。実は登城道は有るのですが最初は気が付きませんでした。神社の脇から西に道が続いているんですがすごくわかりづらいです。地元の方で登っている人はほとんどいないんじゃないでしょうか。
低地から段々の扁平地が東の出丸に向かって続いています。山に入ってすぐに城域に突入します。東の出丸の下段にも腰郭が展開していてやがて東の出丸に到達します。そこからは西の主要部に向かいます。

水晶城は古代山陽道が東西に続く谷筋の北側の山の尾根上に築かれています。古くは源氏方の佐々木国正の居城とされ永正5年(1508)大内義興が厳島神領を自らの直轄地とした際に杉甲斐守を城番に置いたとされています。大永3年(1523)銀山城主武田光和の援助を受けて友田上野介が水晶城に攻め込み甲斐守は敗走し、廿日市の後小路にて殺害されたとあります。
天文10年(1541)毛利氏が佐伯郡に侵攻した際には城主で大内氏家臣・麻生左衛門鎮里は毛利氏に降伏し、毛利氏が桜尾城をより重視したため水晶城は廃城になったようです。

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城郭情報

分類・構造 連郭式山城
築城主 佐々木国正
築城年 平安時代後期
主な改修者 大内氏
主な城主 厳島神主家、大内氏
廃城年 不明
遺構 曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)、畝状竪堀
再建造物
住所 広島県広島市佐伯区五日市町大字石内
問い合わせ先 広島県教育委員会文化財課
問い合わせ先電話番号 082-513-5021