みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

カズサン

黄門さん所縁の寺、空堀も遺ってる (2023/11/12 訪問)

 高田氏館、勝倉城址を終えて水戸城方向へ戻って来ます、近くまで来て道が細く不安になり通りの方に案内いただく。
 水戸城から南2km程の吉田城に初登城、水戸黄門・徳川光圀が建てられた佛日山常照寺が城域に建っています。

 駐車場:常照寺東側山門の下に2段に分かれて駐車場(36°21'30"N 140°29'28"E)
 参考資料:城郭放浪記さん、古城盛衰記さん、グーグルマップに依ります。

 駐車場よりよく写真で拝見してる山門を観察確認、山門扁額に水戸黄門の源光圀の名が記されている、右わきに吉田城跡の石碑、側面に由来が記されてる。山門を潜り参道階段を登る、両翼は切り取った土塁、上段に着くと大木の杉林参道で幽玄としている、両側は曲輪で有ったのだろうが今や藪に成っている、中の門があり、その手前には空堀が確認できる、奥の門を潜って本堂へ参拝、常照寺は臨済宗のお寺で当日法要がいとなわれていました。
 本堂の西奥裏手に空堀が在るとの情報で本堂と墓場の間を通って奥へ奥ギリギリ生垣の絶えた処から藪越しに空堀が確認、本堂を南、西へと横堀が通って居るようです、生垣が厚くてよく確認できません。
 降りて山門から東方向へ東側の切岸、常照寺池(富士池)の観察見学し往時は三方が沼だった古を描いてみた、現在北側西側とも住宅街に成っています。

 石碑の側面由来によると、常照寺を中心とするこの半島状台地は昔三方を沼が囲み武士の居館に最適は要害であった。
 平安末期から鎌倉初期に大掾盛幹がここに初めて館を立てて、吉田の太郎と称し子孫代々勢力を競ったが応永の末に江戸氏が水戸城を奪取してからは、この城もその一党の手に帰し土塁や濠を強化したと推察される。
 佛日山常照寺を建てたのは徳川光圀であった。と記されています。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ダイエティシャン

若狭城が城Ⅲ (2021/07/01 訪問)

続きです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ダイエティシャン

若狭鬼が城Ⅱ (2021/07/01 訪問)

続きです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ダイエティシャン

若狭鬼が城Ⅰ (2021/07/01 訪問)

若狭鬼が城を攻城

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

甲斐源氏の流れを汲む秋山氏の城。崩落個所が多いので足元に注意。 (2023/11/25 訪問)

中野城は標高1020mの城山に築かれていました。甲斐源氏の秋山氏の城で秋山太郎光朝は平重盛の娘を妻にしていたとされます。やがてその存在を疎ましく思った源頼朝の指図で鎌倉勢に攻められ中野城で自刃したとされています。
北側の登城道から入っていきますが、入り口付近に大規模な堀切があり土橋がかかっています。中野城は標高1020m、比高520mとされていますが実際に登城道から登った時の比高は約160m程度で南側の虎口まではさほど苦労せずにたどり着きます。城域は南北に長く全長は200m程度です。南側の虎口から城域に入ると西側には土塁が残っています。そのまま尾根上を北上していきますが、なかなかの絶壁で落ちたら登ってくるのはほぼ不可能でしょう。気を付けて進みます。あちこち崩落していますが崩れっぷりが凄い。あまり近づかない方が身のためです。北側の行き止まり地点までいったら、無理をせずに戻ります。
尾根上に生えた樹木が眺望を妨げていますが一か所展望所になっている箇所があって、なかなかの眺望です。もちろん足元は危ないので足を滑らせないよう注意が必要です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

くうくう

国史跡になった桶狭間前哨戦があった砦

永禄2年(1559)織田信長が大高城を牽制するため築いた砦。翌永禄3年(1560)には飯尾定宗が立て籠もったが今川方の朝比奈泰能に攻められ全滅した。斜面の頂部に石碑がある。実は砦の位置は明確ではないという。斜面を歩くと堀のようなところ土塁のようなところがあり想像は膨らむが、真実はどうなのだろう。

+ 続きを読む

くうくう

国史跡になった桶狭間合戦初戦に若き家康が攻めた砦

永禄2年(1559)織田信長が今川の攻撃に備え築いた砦。永禄3年(1560)桶狭間の戦いの前哨戦では佐久間盛重が立て籠もり松平元康(徳川家康)に敗れ全滅したという。丘陵頂部には殉難列士之碑がある。小規模な単郭で堀土塁が全周しているような様子が見て取れる。しかし付近はすっかり住宅地になっていた。

+ 続きを読む

しんちゃん

秋の八田家書院 (2023/11/26 訪問)

八田家は戦国期武田氏の蔵前奉行を務めていたため天正10年に織田軍に攻められ館などを焼失したと有ります。後に徳川家康の庇護を受け3400坪の屋敷地を御朱印地として安堵されたそうです。現存する書院は慶長6年(1601)に建てられ朱印状や日記など様々な文書が解説付きで保管され閲覧が可能になっています。
表門は石和代官所の表門が移築されており、屋敷北側に土塁が残り、ここにも案内板が立っています。温暖化の影響で紅葉が普段より一週間ほど遅れており、ちょうどこの日が見頃でした。二度目の訪問になりますが来てみて良かったと思います。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小城小次郎

藩主人材のるつぼと化した (2023/04/13 訪問)

関ヶ原後に高須に入った徳永氏は大坂城普請の怠慢(飲みすぎ?)を咎められ改易されたが、小笠原氏を経て尾張藩の支藩となってからは尾張はじめ全国各地に藩主を供出する人材のるつぼと化した。会津の松平容保もここ出身だ。

+ 続きを読む

しんちゃん

国指定史跡 勝沼氏館 (2023/11/26 訪問)

勝沼氏館は日川に北に位置する河岸段丘の上に築かれていて南側は絶壁になっており、北側と東側に立派な土塁と堀が残っています。西側は県道に面しているため遺構は有りませんが、北と東に門が再現されていて東門の下側は堀の両側に石垣の礎石が残っていて、かつてはここに橋が架けられていたようです。
主郭は内郭と呼ばれ北側の土塁の内側に内堀を備えています。内郭の中には工房や会所、主殿、常の御座所、厩など生活に必要な施設が一式揃っていて水溜や水路も充実しています。
武田信玄の父信虎の同母弟の次郎五郎信友が勝沼氏を名乗ってこの地に居館を構えたのが始まりとされています。しかし嫡男信元の代に武田信玄に逆心ありとされ勝沼氏は滅亡してしまったそうです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

西の城 (2023/11/30 訪問)

 土の城と呼ばれています。この城の役割はよくわかっていないようです。東の城に「西の城(土の城)まで500m⇒」の標識があり整備された登城路があります。途中に堀切が2つありました。倒木があり見づらい所もありますが、良い感じで残っています。西の城の標識から入って行くと曲輪や土塁を見ることができます。手入れされた山で歩きやすかったです。思っていたより城域は広かったですね。どこまでが城域なのか迷いました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

東の城 (2023/11/30 訪問)

 明智光秀ゆかりの城で石垣が多く残っています。主郭に「大規模石垣群はこちら⇒」の標識がありました。進んでいくと「壮大な石垣①⇐」「壮大な石垣②⇐」の標識があり迷うことなく壮大な石垣に行くことができます。そこだけではなく散策していると所々石垣が残っていて楽しませてくれます。主郭には土塁があり、中心部分には穴蔵式の櫓(天守閣)があったと思われる土壇がありました。井戸跡、登り石垣、枡形虎口等も見ることができます。
 よく整備されていて散策しやすい城址です。


 以前にも一度登城したことがありますが、雪の降った後に行ったため積雪で肝心な石垣がよく見ることができませんでした。以前ここに投稿した写真も雪景色です。いつか再登城をと思っていて今日になりました。京都駅前からJR西日本バスに乗り周山バス停で下車。登城口までは徒歩10分くらいです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

かなりの規模の土塁が残る。 (2023/11/26 訪問)

連方屋敷は古屋氏の屋敷跡とも御蔵の庁所とも言われていますが、実際のところ良くわかりません。周囲を巡る土塁はかなりの規模で、土塁の内側は一辺約100mほどの不整四角形の形状をしていて、中に入って見るとかなり広く感じます。西側と南側は私有地になっていて立ち入りは不可能で土塁も途切れているのですが、一部分土塁が残っていて外側から鑑賞が可能です。
屋敷の西側は水路が流れていて堀を彷彿とさせています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

雁金城 (2023/11/04 訪問)

【雁金城】
<駐車場他>登城口<37.171616, 138.377124>に3台程度駐車できる。
<交通手段>車

<見所>堀切・切岸
<感想>1泊2日上越の城攻め旅2日目5城目。上越市のホームページには「雁金城は南北朝時代、直峰城主・風間信昭の軍下に属し、上杉謙信公の時代には謙信公の家臣が守り、春日山城の支城としての役割を果たしたと考えられています。」とあります。御館の乱の時には上杉景勝方の武士が城を守っていたようです。
 上記登城口から真っすぐに登って行くと山の鞍部に着きます。右方向に狼煙台、左方向に主郭主要部に行きます。まず狼煙台の方向に行きました。眺望がとても良いです。狼煙台の先は下って2重堀切があります。その先に山の鞍部があり、そこで引き返しました。雰囲気的に城跡がこの辺りまでかとも感じました。主要部主郭の方は周囲が高い切岸に囲まれています。主郭は奥に土塁が残り、土塁上の南側奥を進むと藪化していますが削平地があります。主郭の西側下段に二の丸・三の丸ととても小さい曲輪がありますが私にはこの南側奥の曲輪が副郭のように思えました。登城路が足場パイプで組んだ階段がありとても整備された城跡でビギナーでも行きやすいでしょう。

<満足度>◆◆◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

猿橋の紅葉  山梨県大月市猿橋町55 (2023/11/26 訪問)

猿橋は山梨県大月市猿橋町を流れる桂川にかかっている刎橋(はねはし)で国の名勝に指定されています。岩盤に穴をあけて刎ね木を差し込んだ上に刎ね木を固定していって、その上に橋桁を載せる方式で作られていて日本三大奇橋の一つとも呼ばれています。刎ね木には屋根が載せてあって独特の外観をしており、周囲の溪谷が造りだす景観と相まって国の名勝と呼ぶにふさわしいと言えるでしょう。
この日はたまたま近くを通りかかって「猿橋」の標識にフラフラと引き寄せられるように寄り道したのですが、思った以上の絶景に心が少し洗われた気がします。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

土塁の三方に櫓台があったのではないか。 (2023/11/25 訪問)

小山城は笛吹川の支流の南の丘陵上に築かれていて、すぐ近くまで車で行くことが出来ます。約72m×約55mの郭の周囲を高い土塁で囲った館のような構造で土塁の周囲を北側から西を周って南側まで堀が囲みます。長方形の郭の長編を縦側として西に40度ほど傾けた配置になっていて、南西側に大きな間口があり、虎口は南東に付いていて案内板も建っています。
土塁は高いうえに幅も厚く、東側を除く三方の隅部に東屋が建っていて、櫓があったことを示唆しているようにも見えます。城の東と北東側には堀が無く、代わりに帯郭のような扁平地がありました。
いささか古い造りの城ですが、穴山氏の城とされていて大永3年(1523)に城主・穴山伊予守信永は南部某と花鳥山で戦った後に小山城で防戦しますが常楽寺まで落ち延び自害したそうです。
そのため「一に花とり二に小山三につらいは常楽寺」という童謡がのこっていたそうです。(甲斐国志)

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

那珂川河岸段丘南端に構えた城址 (2023/11/12 訪問)

 武田氏館を終えて直線で600m程に在る勝倉城へ初登城、勝倉城は武田氏館登城の為に城びとの行ってみたい城にチェックを入れて、何時か行ってみたい武田氏館のフォローに使っていました。
 城びと投稿の常連の方も武田氏館と勝倉城を共に訪ねる城と推奨されて居ります。

 駐車場:無し、許可を得れば勝倉小学校の駐車場を利用できるかも?今回は小学校入口の県道63号線東側の三角コーナー(36°22'43"N 140°31'31"E)に一時停止。
 参考資料:古城盛衰記さん、グーグルマップ、城びと投稿記事

 当日は日曜日で小学生はお休み、がらーんとした校庭は無人、しかし表の門扉は開いている校門は大手門の跡の様、先ずは門扉の右側に絵図入り解説板勝倉城跡が掲示してある、大変ありがたい、これだけで登城した甲斐が有り全部を探訪したように感じる、校庭のフェンス横の道を奥に保育園側に土塁が有るとの写真情報で確認、周囲を観察し一段高うなっており、絵図である処の主郭本丸かな?校庭は馬寄せの広場、戻って門が開いていたので進入し杉林の中に堀が有りそうなので確認、在る在る大きな空堀が存在してる、馬寄せと鍛冶場の間の大堀切の様です。
 無断進入ですので憚られますので駆け足で観察確認写真撮影して出門、ありがとうございました。
 門を出た県道63号線は段丘を切り裂いた大堀切の様で南の那珂川方向へ落ち込んでいる。
 此れだけでも良いものを見学探訪させてもらいました。

 歴史は門扉掲示の案内板によると、鎌倉期初期に平井越後守明綱の築城、その後吉田氏一族の勝倉四郎俊幹とその子孫が居城した。応永23年(1423年)江戸氏が水戸城を奪うと家臣の飯島氏が城主となったが、天正18年(1590年)12月佐竹氏の江戸氏攻撃の際落城し廃城と成った。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ダイエティシャン

若狭鬼が城近くの【平経盛隠棲の地】 (2021/07/01 訪問)

続きです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ダイエティシャン

若狭城近くの【平経盛隠棲の地】 (2021/07/01 訪問)

若狭城から車で数分。平家の落武者、【平経盛隠棲の地】この辺りは、平性が多いそう

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ダイエティシャン

太閤が平陣 (2021/07/01 訪問)

鳥取城跡から攻めました

今年も残り僅か。過去の攻城記録を載せておきます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ363