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しんちゃん

鰐淵寺(がくえんじ)‥武蔵坊弁慶と八百屋お七の伝説 (2019/05/05 訪問)

ぴーかるさん私が以前、椿尾下城の投稿をしたことを覚えていてくれましたか。城びとの城以外の投稿を読んでいただけたとは嬉しい限り。そう‥下城は南側から攻めるとやりやすいんですよ。※

さて‥鰐淵寺の投稿をさせていただきたいと思います。(また城じゃないんかい)島根県出雲市別所町にあるこのお寺、歴史は古く推古天皇の時代に信濃の智春上人が当地の滝に祈って天皇の眼病が回復したことから推古天皇の勅願寺として建立されたとのことです。
鰐(ワニ)はワニザメのことらしく上人が滝つぼに落とした仏具を鰐がエラに引っかけて来てくれたことから寺の名前が来ているそうです。人手は入っているんだけど、この寂れた感じがたまらなく良いです。良い意味で古寺の雰囲気が出まくっています。

武蔵坊弁慶が18歳から3年間、当寺で修行をしていたという伝承があります。松江生まれらしいですね。大山寺から一夜で釣鐘を運んできた(盗んだ)との伝承があり、その時持ち帰ったとされる銅鐘は国の重要文化財に指定されています。
後醍醐天皇の建武の新政の際には南院と北院に分かれ鰐淵寺内で対立が起きたそうです。貞和3年(1347)に両院は和解し唐川から別所に寺を移したそうです。今でも鰐淵寺の配置は山城の縄張りのようにも見えますね。

このお寺の域内に,あの八百屋のお七と若衆小野川吉三郎のお墓が有ります。吉三郎の名は井原西鶴の浮世草子から来ているのかもしれません。実際の名は生田庄之介の方が正しいようですね。お墓の近くに立っている案内板によるとお七を憐れんだ吉三郎は出家して、お七の遺骨を持って全国の寺院を行脚している時に鰐淵寺で行き倒れたと書かれています。
齢16で火あぶりにされたお七の話は悲劇性が強く後世の人が創作した話かもしれませんが、二人のお墓が並んでいるのを見ると何か救われたような気がします。せめて極楽浄土で二人仲良く暮らしていただきたいものです。

※R12に抵触する表現が含まれていた可能性があるので修正いたしました。ヘンな意味は無いんですけどね本当に。

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じゅんじん

クリスマスイブ (2023/12/24 訪問)

仕事終わりに寄りました。

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じゅんじん

詰城 (2023/12/21 訪問)

静岡浅間神社から上っていきます。山頂を越えてしばらく行くと城址があります。土塁が残っています。

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T-Shionoya

市場城 ステキな戦国遺構と桜と紅葉 (2023/11/24 訪問)

秋に咲く桜と紅葉の共演を観賞後、愛知県豊田市の市場城へ。

美濃との国境にも近い三河の北の山間部。見渡す限り連なる標高3~400m級の山の1つに築かれた城。
浅野家の諸国古城之図では、東麓の廣圓寺付近に入城路があり、本丸周囲は石垣で堅められていた様子。

1502年の築城と考えられる鱸(鈴木)氏4代の居城で、4代重愛が石垣を用いた城に大改修。
家康の関東移封を発端に1592年廃城とのこと。

現在は、遊歩道が整備された半分石垣・半分土の城跡。
訪問時、案内板から反時計回りでルートを進むと、空堀に至るポイントがまるで虎口。そこに踏み込めば櫓跡から張り出した曲輪と二の丸に挟まれ、正面には石垣の櫓台が鎮座するステキな光景。
愛知県では大変珍しいという竪堀群は明瞭で、尾根を切り西壁を石垣で築いた桝形門も見どころ。

コンパクトな城郭にステキな戦国施設が凝縮された市場城が、私の城郭巡りの164城目でした。

※写真3、5、7枚目は翌日撮影

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ぴーかる

見落とし遺構を確認しに行く。 (2023/12/17 訪問)

【椿尾上城】
<感想>2022.12.4 以来の再登城。西側方面の曲輪群と西尾根、南西面に落ちる畝状竪堀群を見落としてしまい、満足度の高い城跡、再訪を記述しており気になっていたので再登城しました。私的には前回の補足記述になりますが、城跡西側は舌状曲輪が2段程あり、最西の曲輪には西方向尾根から入る枡形虎口遺構がありました。写真ではちょっと分かりにくいですが、なかなか見ごたえあります。先達方の西曲輪群から南斜面に落ちる畝状竪堀群ですが、表面観察では全然分かりませんでした。私的意見では畝状竪堀は無かったと思います。
 しかし城跡の進入道の南山腹にある曲輪群、横堀、竪堀遺構を見落としていたのが新たに分かりました。軽トラ道で分断されていますがそこに畝状竪堀っぽいのが3条あります。主郭の北側斜面に竪堀が1条ありその下に帯曲輪が回してあるのも見落としていました。主郭虎口左手は主郭の切岸が高く造っていて虎口土橋の石積みも見落としていました。すべて巡りきったとは言えないかもしれませんが、4分の1程は見落としていました。百・続百名城以外の奈良県マイベストに入る見応えある城跡でした。
 ヒロケンさんの投稿で椿尾下城というのがあるのを知り、トライしてみましたが、しんちゃんさんが投稿されていたのを忘れ、個人サイトの方のを頼りに東側よりアプローチしてみましたが、笹藪がひどくて進入できず断念しました。

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とばつびしゃもん

トリーデなるとが立つ城 (2023/07/17 訪問)

勝瑞城から車で約40分。妙見山公園駐車場に駐車し登城開始。
阿波九城の一つ。城址には妙見神社があり、市の防災拠点でシンボルでもある模擬天守「トリーデなると」が立つ。天守館内は無料で入館できるが城址に関する資料展示はなく、最上階からは鳴門市内と紀伊水道を一望。妙見神社の社殿奥には遺構らしき石垣が確認できる。40分ほど滞在。
涼をとろうと道の駅「くるくるなると」に立ち寄り、お目当ての金時いもソフトを目指すも激しい行列ができていたので回避。すだちのかき氷を食べてさっぱりし阿波遠征から撤収。

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しんちゃん

南側の城域は柵の向こうは立ち入ることが出来ない。 (2023/12/31 訪問)

寺山城は谷大川の南側の山の先端部の丘陵を利用して築かれています。残念ですが、近くに駐車場らしきものは見当たりません。どこに停めたかは企業秘密です。登城道の近くに案内板があり城址に道が続いています。中腹あたりまで来たら南北に尾根が伸びていて北側の小高くなっている箇所が主郭と見られています。主郭には土塁が残り、下段には腰郭が配されています。先ほど来た中腹に戻り今度は南を目指します。
城郭大系には南にも主郭と同じくらいの郭が有るとされていますが柵で塞がれ立ち入りはできません。しかし柵より手前側に段々の扁平地や堀切が残っていました。
寺山城は石井氏によって築かれ、桓武平氏の出である名越太郎が元弘年間(1331~1334)に志芳荘に移り住み石井氏の祖となったとされています。石井氏は天野氏との間で毛利氏によって領土替えが行われため、内村を転出し安芸国内の替りに与えられた領土に移っていったということです。

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じゅんじん

夕方の浜松城 (2023/12/01 訪問)

仕事の打ち合わせ後に行きました。

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小城小次郎

畠山・上杉・織田が用いた駐車場付きの有難いお城 (2023/04/23 訪問)

能登畠山氏が越中に越境して築いたのが始まりで上杉方も織田方も活用した。結果、群郭式の態を保ちながら主郭周辺だけ石垣を用いた典型的な織豊系のお城となった。長い道のどんづまりに駐車場があって車で楽に行けるのが有難い。

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しんちゃん

日御碕灯台 東洋一美しい灯台 (2019/05/04 訪問)

出雲日御碕灯台は島根県出雲市の日御碕に建てられています。明治33年(1900)に建造がなされ時代に合わせて耐震補強がされてきました。日本でも指折りの灯台で高さは日本一(46.65m)海面からの灯火標高は63.3mを誇ります。東洋一とも言われる美しさは健在で有り難いことに入場料を払えば展望所まで登ることができ、そこからの眺めは壮観です。
周囲は断崖絶壁で手すりも無く非常に危険ですが、それがまたこの灯台の美しさを引き立てているのも事実だと思います。内部には資料展示室も併設されていて日御碕灯台についての歴史や役割を学ぶことが出来ます。ちなみに灯台内は土足禁止になっています。

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いのさん

波切城訪問 (2024/01/17 訪問)

伊勢神宮への初詣が午前中に終わったので、足を伸ばしてやって来ました。公園として整備されていますが、遺構は分かりませんでした。しかし、立地は凄いです。

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neko_neko

冬は天気がいいと富士山や南アルプスがよく見えます

冬は天気がいいと富士山や南アルプスがよく見えます

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しんちゃん

大友宗麟の居城。 (2023/01/09 訪問)

臼杵城はかつて臼杵湾に面した丹生島に築かれていました(今は陸でつながっています)。大友宗麟は大内氏に取って替り勢力を伸ばした毛利氏と激しく争いました。永禄4年(1561)門司での戦いで敗れ、北部豊前での戦いで大敗し、毛利氏へ対抗するために急遽この城を築城したとされています。
臼木丹生島に攻め込むためには陸路では六ヶ迫峠や津久見峠を越えなくてはならず、東は湾に面し西は臼杵川が流れているので防御の点でも申し分なかったそうです。臼杵城は宗麟の隠居城とされましたが、剃髪して休庵宗麟と名乗ってはいるものの実際にはまだ三十半ばで、実権は宗麟が握っていたため大友館に対するもう一つの本拠としての意味合いもありそうです。
城址は東が本丸跡で西が二の丸跡とされているようです。現在は公園化されていて様々なモニュメントで飾られ、天守櫓跡に面して空堀遺構が残っています。
※本丸周辺の写真は2014年1月の写真を流用しています。

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天守無しがアツい

武田義信 (2023/01/14 訪問)

(武田神社HP)http://www.takedajinja.or.jp/

武田神社…甲府駅からバスで10分程度の場所にあり、ここにはかつて「躑躅ヶ崎館」という武田氏の居城がありました

本殿にて参拝…ある程度長い列ができており、二礼二拍手一礼のお参りこそ済ませたのですが、正面から本殿を撮ろうとすると人が写ってしまいよろしくない…と感じたので、人気のない角度から撮影してみました(画像1枚目)

お参りしてから授与所にて、まず御朱印を求めました。事前に調べたところ直書きは300円と安いがデザインがシンプルで寂しい…書き置きは500円と少し高めだが信玄のイラストが入っており何か惹きつけられる…😍

なので文句無しに後者を注文…立ち姿と座り姿があり、これも後者を選びました(2枚目)。立ち姿はちょっとナヨナヨしく見えるのに対し、座り姿はどっしり構えていて戦国武将のイメージに相応しかったからかな👹

ここはかつて武田氏の居城…ということで、(今は神社にも関わらず)何とここにも御城印の販売が…逃さずにそれを購入しました(3枚目左)今は「信玄公御神忌四百五十年」の限定版となっており、つまり没年が1573年なので(今年は2024年…2024-1573=451…リリースは2023年…ちょうど450年の時だが翌年4月まで販売と書いてあったので451年と計算上なってもセーフ)そう印字されてるわけです🧐

それから宝物館を見学。中は撮影が一切禁止になっているので、ガチで目に焼き付けるだけ…展示品の主なものは信玄の肖像画数枚…肌が浅黒く頭が禿げていて髭を生やしたもの(これは別人説あった気もする)、白い毛のフサフサした兜を被り赤い上着を羽織って目のギョロリとした肖像、武田二十四将の絵…

解説文を読んで一目瞭然なのは、どれも本人の死後に描かれたもの…特に武田二十四将は江戸時代中期だそうです…つまり没後150年後あたり?😅 「信玄のオッサンちょっとイカつく描いちゃえ😁 じゃあ山本勘助はこんな感じぃ?」という具合に、本人たちを見てもない人間が信玄およびその家来をイメージで描いただけ…だから描かれてる顔に信憑性はまるでなし

勝頼の肖像画は目が小さく細め…でも彼は(「どうする家康」でも描かれていたように)日々レスリングのような投げ合いを家臣たちとおこなっており、鍛錬を積んで武勇に長けていたそうです(肖像画および私の中のイメージとかなり違う😅) 彼の代に武田の領土は最大となり決して暗君ではなかった…けれど長篠の戦いから何かおかしくなり、その7年後に再び信長軍と戦うも家臣の裏切りにあい、天目山にて側室や息子と一緒に自害💀💀💀

その首級は京で晒された…とも(解説文に)ありました。他には甲冑、鎖帷子、法螺貝(当時の伝達手段)、武田女子の短刀(いざとなればこれで自害)

信玄年表を見る中で、信玄の長男義信(1538-67)が気になりました

(武田義信wikipedia)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E7%BE%A9%E4%BF%A1

父がまだ十代の時に生まれた長男…有力大名の娘と結婚…戦で活躍となかなか腕は立つ…謀反の嫌疑をかけられ、最期は若くして自害…という点で、松平信康と運命似てます👼

ちなみに武田の家系は現代にまで残ってますが、それは信玄の次男(信親)の系統であることも館内の展示にありました。彼は盲目のため後継者から外されたのですが、返ってそれが塞翁が馬的な結果になったようです(後継者となった勝頼は妻子と共に自害して果てたので)

宝物館は16時で閉館。それからバスの時間まで武田の屋敷跡(4枚目)を見物。画像内の四角く黒ずんでいる場所に建物があったそうです。神社の敷地外にも当時は屋敷があり、堀で周りを囲んだ城でもあった

けれど武田家滅亡後から現在までの間にやがて屋敷は無くなり更地に…近年では宅地開発により史跡も幾分か削られつつあるそうです。ここは市民および武田氏愛好家(?)により保存されることとなった、せめてもの遺構なのでしょう…少し離れた場所に天守の土台のような石垣が見えて、そこに登ってる人もいたのですが時間に余裕が無かったので、バス停まで引き返し甲府駅に戻りました🚌

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とばつびしゃもん

細川・三好氏の阿波拠点の城 (2023/07/17 訪問)

徳島城から車で約30分。勝瑞館跡の専用駐車場へ駐車し、勝瑞城館跡展示室へ入館。
小さな展示室ですが三好氏の資料や映像、出土品が展示されています。とても暑い日で冷房の効いた館内にゆっくり滞在し、勝端城館と三好氏の歴史を学習できました。展示室で続日本100名城スタンプポン。
発掘調査された館跡を一回りし、県道を渡った向かいにある見性寺へ。長宗我部氏との戦いに備え築いた防御施設の曲輪と考えられ、数少ない遺構の土塁が確認できる。あわせて1時間弱見学して次の城へ。

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う~ちゃんママ

久しぶりに小峰城 (2024/01/20 訪問)

久しぶりに小峰城に行ってきました。

もしかしたら夏以来。(8月)
笛も吹けたし満足です。

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しんちゃん

山上の城は総石垣で築かれている。 (2023/01/09 訪問)

佐伯城は慶長11年(1606)に築かれました。毛利高政による築城とされ「一日三人切り捨て」と言われる、かなり荒っぽい工事だったようです。山上に本丸が築かれ、北側に北の丸、南側に二の丸・西の丸と連なっています。山上の城は総石垣で築かれており本丸には三重の天守が建っていましたが後に焼失したようです。
三代目の高尚から三の丸の居館に居住するようになり山上の城は一時期荒廃したそうです。佐伯城の南には潮入川と番匠川が流れ、東には白坪川(中川の支流?)が流れ、その先は湾になっていたようです。今でも城の周囲を複数の川や湾、山地が囲んでおり守りに適した立地だということが伺えます。
麓の三の丸には石垣と三の丸櫓門(大分県有形文化財)が残っています。敷地内には毛利家御居間も保存されていて、そこからほど近い船頭町11-9には三の丸御殿の玄関・広間・書院の部分が移築され住吉御殿と呼ばれており、現在は地元の公民館として利用されているようです。
※山上の写真は2014年1月の物を流用しています。

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しんちゃん

会津若松城冬景色 (2014/02/04 訪問)

せっかくなので会津若松城の口コミも‥10年近く前になりますが、雪が降った後でお堀の水も凍っていました。干飯櫓や鉄門の上に雪が残っていたので天守の屋根の赤瓦にも積雪があったのではと思います。西大手門から訪問するのが一般的と思われ先は枡形になっていたようです。今では駐車場として使われているようですね。かつての天守は郷土博物館になっていて続櫓から二度折れ曲がって干飯櫓に続いています。折れ曲がった部分の下には鉄門が設けられていて天守の展望台から良く見えます。
会津若松城の本来の天守は戊辰戦争でボロボロになってしまいました。木造の美しい天守が失われてしまったのは残念ですが近世城郭としては実戦を経験した数少ない城で(北海道・東北は案外多い)天守としての寿命を全うしたのだと思う他はなさそうです。

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しんちゃん

白黒の世界 (2014/02/04 訪問)

せっかく「かるた」を投稿したので、ついでに口コミの投稿もやっちゃいます。写真が古くて申し訳ござらぬ。
皆様の「かるた」もお待ちしております。麓にあるのが居館で「白旗が峰」にあるのが天守曲輪と天守台ですね。麓からの比高は120mくらいあるようです。ちょっとした小山ですね。この日は結構な積雪で天守台や天守曲輪にもけっこう積もっていましたね。これはこれで情緒が有るのですが城跡の詳細が少しわかりづらい。まさに白黒の世界です。いずれまた訪問してゆっくり散策してみたいと思います。

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刑部

山県昌景が城主の城 (2023/11/04 訪問)

好きな武将のひとり山県昌景が城主だった時もある丸子城! この日夕暮れが近く険しい山城を登るのは困難、ここまで来たのに断念はしたくない!
入り口付近で年配の人が今から登ったら暗くなるから無理だよな〜と話していたが私はがむしゃらに登り各曲輪を足早で訪問、何とか暗くなる前に山から降りることが出来ました! ん〜まだまだ若い‼︎
山城なのでそれなりに遺構を見ることができ大変満足でした。

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