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しんちゃん

井伊直親をかくまった松源寺のある城。 (2023/11/12 訪問)

松岡城は松岡氏の城で河岸段丘を生かした台地上に築かれていて、西側に位置する松岡南城は出城であると言います。城域内には井伊谷の龍潭寺と縁の深い松源寺があり、この寺も土塁と堀に守られています。「女城主直虎」に登場した亀之丞(井伊直親)は今川に命を狙われた際に、この法縁で松源寺に逃げ込み10年を市田郷で過ごしたとされています。
城域は丘陵上に、堀で区切られた各郭によって構成されています。松源寺のある郭を五の郭として背後に五の堀があり、三の郭、二の郭、主郭の間にそれぞれ堀切が存在します。主郭西側から南側にかけ帯郭や腰郭が配されています。竪堀もあるようなのですが、それほど確認できていません。二の堀あたりで地元の子供たちの弓技大会が行われているようです。
矢の先端は竹をとがらせただけのようですが、危ないことには変わりないので距離を取っているとコントロールを外れた矢がこっちに飛んで来ました。子どもの放った矢とはいえなかなのスピードです。これが屈強な武士の放った矢なら回避は不可能でしょう。攻城感が出てきて結構なことです。こんなところで矢で射られて喜んでいる私は変態なのでしょうか?

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ダイエティシャン

赤城(あかじょう、せきじょう) (2023/11/25 訪問)

石見国、川本町の山城探検のイベントで攻城。本来は、飯の山城探検の予定でしたが、天候不順の為、近隣の赤城へ。スタッドレスタイヤに履き替えて、いざ出陣。

地元の著名な先生と、地主さんの案内で攻城。

悠々ふるさと会館に、愛馬を停め、そこから、乗り合わせ車で15~20分。携帯電話の基地②迄行きました。約1分後、本丸に到着。規模からみて陣城だそうです。倒木③ロープ④。本丸からは周辺の山城が見渡せます⑤。切岸⑥で高い防御制が伺えます。本丸の先端⑦
堀切⑧

山城という感じです。近年、整備は行き届き過ぎて山城っぽくない城が増えて来たので、久しぶりの本格的な山城でした。とはいえ、登城路のほとんどは塗装道路で車に乗せて頂きましたが。軽自動車でやっとの広さの町道、30~40℃位の傾斜の道路でした。

2024年全国山城サミット益田大会 益田七尾城から車で東に約2時間程。

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しんちゃん

広くて深い堀切、馬出しと巨大な三日月掘りと見どころが多い。 (2023/11/12 訪問)

大島城は片切氏の庶流、大嶋氏によって築かれました。後に武田信玄の配下、秋山信友によって改修されたとされています。現在は台城公園として整備されていて駐車場から二の丸を経て、本丸にたどり着くことができます。二の丸の西に三の丸、馬出しと続き、馬出しには巨大な三日月掘りが付随します。各郭の間は巨大な堀切で阻まれ本丸から北へ下って行った先、土塁で隠されるようにして井戸郭があり、貴重な水の手である井戸が残っています。鈴岡城すら凌駕するであろう立派な堀切と武田氏の城郭の特徴ともいえる馬出しと三日月掘りは非常に見ごたえがあります。

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カズサン

西美濃未踏の城廻Ⅳ道三晩年の城 (2023/10/21 訪問)


 長年認知は有るものの登城して居なかった鷺山城、相羽城を終えてドライブ途中に黒野城の横を通り本丸土塁を横目に鷺山城北側に在る鷺山公民館駐車場へ到着。

 駐車場:鷺山公民館、道を挟んだ南側にアスファルト舗装で完備余裕あり。
 参考資料:古城盛衰記さん、余湖図コレクションさん、グーグルマップ、城びと投稿者。

 鷺山公民館駐車場から道筋西に20m程の裾に鷺山城案内板、標柱が有り急で狭い階段がある、此処が北側の登城口、古城盛衰記さん、城びとの投稿者数名の情報による。 しかし階段が急で前夜の雨も有り濡れて不安なので登城を諦めて、せめて鷺山城主館址でも探訪見学へと東側から南へ廻り北野神社へ。
 北野神社参拝、斎藤道三公慰霊之碑と鷺山城跡案内板、発掘出土した礎石と解説盤、史跡鷺山城主館址碑、「さざれ石」を確認し斎藤道三を偲ぶ、最後は悲惨ですが信長を認めていた事が唯一の救いでしょうか?
 鷺山公園へ左右に三段丸石垣曲輪が城跡の様子、中の道を登り上段に着くと南側の登城口が有りました、こちらからの登城路が登りやすく思えました、がまたハチに注意の看板、少し登って様子を見て撤退、何時かチャンスが有ったら登りたい。公園からは稲葉山城・岐阜城天守閣が良く見えます、この距離での睨み合い合戦、しっかりした情報の確認、認識が大切ですね。
 

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きよまさ

名古屋城 (2023/11/28 訪問)

名古屋城に行って来ました👍️
あちこち紅葉がキレイで良かった‼️
東照宮の展示もしてました😄

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tomo

満を持して (2023/11/25 訪問)

小田原城や鎧塚さんの店は行ったことあったのですが、今回初めて石垣山城に行きました。興奮するがあまりに100名城のスタンプを逆さまに押してしまいました。かなりショックでしたが、それらを差し引いても立派な石垣や景色に圧倒されました。

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カズサン

西美濃未踏の城廻Ⅲ低高地の相羽城 (2023/10/21 訪問)

 藤橋城・杉原砦と徳山ダムの探訪見学を終えて揖斐川渓谷をドライブ見学しながら今回の3城目の相羽城に初登城。

 駐車場:相羽公民館南のジャリ駐車場(35°27'23"N 136°38'12"E)を利用
 参考資料:城郭放浪記さん、グーグルマップ、城びとの投稿者各位。

 方形の低高地に八幡神社が鎮座しここが主郭の跡地か?東側の廃線跡プラットホーム間、堀だったかも?通り南から八幡神社鳥居と標柱を確認、南側隙間から低高地の土塁と堀跡かな?と確認し、更に南、西と民家を廻り込み北西の隙間から低高地の土塁法面、堀跡かな?を確認、神社に入り込めないので戻って南側、東側へ、神社が鎮座してる段には立派な城名石碑を確認。

 歴史面は皆さんが書き込んでいるように美濃なので土岐氏、斎藤氏絡みの歴史が残って居る。
 

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todo94

拝原水産の奥 (2023/10/29 訪問)

淡路島ドライブの締めは松帆台場。海沿いの悪路を進んでいくと松帆恵比寿神社がありました。そのすぐ脇には松帆之湊の石碑が立っていました。肝心の台場はホテル望楼青海波の敷地内といった場所でした。土塁の上からは明石海峡大橋を望むことが出来ました。

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しんちゃん

武田方との激戦の跡地に学び舎が建つ。 (2023/11/25 訪問)

大宮城は今川方の富士氏の城で現状は市立大宮保育園や大宮小学校になっているようです。遺構らしきものは残っていませんが、今川義元亡き後の武田勢の侵攻を2度にわたって食い止め、三度目の侵攻は信玄自ら大軍を率いてのもので、富士氏も敵に二千人の死傷者を出させるなど善戦はしましたが、北条氏政の援軍を望めず氏政の勧めもあって開城したとのことです。すぐ近くに江戸時代の陣屋の紋が移築されていて、富士宮市によって古民家再生事業として修理復元されており、甘味屋・長屋門の入り口として活用されているようです。

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小城小次郎

上がったり下がったり (2023/04/13 訪問)

一向一揆後に廃城になったと信じてしょんぼりしていたら実は江戸時代に存在していたことを知って小躍りして現地に行ったらあまりの遺構の少なさにやっぱりしょんぼりしたという、個人的には上がったり下がったりのお城だった。

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くうくう

賤ヶ岳の七本槍の加藤嘉明が築城

幕末に再建された天守は最も新しい現存天守ではあるが、小天守・南隅櫓・北隅櫓を渡櫓で連結した3重3階連立式天守で、松山城で21棟の現存建造物があり、加えて22棟の木造復元した建造物が連なる姿は見るものを圧倒する。標高132m平山城。最初から戸のない戸無門、望楼型二重櫓である野原櫓、深さ44mある本丸井戸、大井戸など復元整備された二之丸庭園、二之丸と本丸間を防備する登り石垣、などもしっかり見たい。

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くうくう

よく冷えた朝には幻想的な雲海に包まれる天空の山城

古くは鎌倉期に秋庭氏が城を築いたが、戦国期に三村元親が整備した。山城で標高430m臥牛山頂上に2層2階の現存天守が建つ。付櫓が附属する複合式望楼型天守。大手門付近から尾根に連続してそそり立つ石垣は迫力がある。変わったところでは三の平櫓東土塀が現存の土塀ということで国重文指定を受けている。忘れずにチェックしたい。

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はたけ

現存12天守最後 (2023/11/25 訪問)

階段が恐ろしいくらい急でしたが、歴史を感じました

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ダイエティシャン

中井均教授による現地説明会 (2023/11/26 訪問)

見事な土塁、空堀等で知られていた、伯耆国の尾高城。私有地の為に立ち入り禁止である本丸、二の丸の調査で、石垣が発掘されたそうです!これにより、国の史跡に指定されるそうです。

破城の跡が綺麗に残っていました。

残念ながら、本丸と二の丸は許可無しでは、まだまだ立ち入り禁止だそうです。今後、調査、整備されるそうです。

テレビ放送局さん、新聞社さんも来ておられました。

感動のあまり、帰ってからも、石垣や曲輪の素晴らしさが目に浮かんでいます。

2024年【全国山城サミット 益田大会】七尾城から車で東に約3時間30分程です。(高速利用、山陰道は海からの強風がすごいので要注意!)

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しんちゃん

南信濃のトムとジェリー。仲良くケンカできなかったのか。 (2023/11/11 訪問)

松尾城は信濃守護小笠原氏の分家・松尾小笠原氏の城で鈴岡小笠原氏の鈴岡城とは川を挟んで隣接しています。両氏は当初は共闘していましたが後に対立し、結果鈴岡小笠原氏は途絶えてしまいました。鈴岡城もなかなか立派な城なのですが松尾城も負けないくらいの城域を誇ります。こんな近いところに城を作ったら後々、良くないことになるとお互い考えなかったのでしょうか。現在、鈴岡城とは橋でつながっていて、大きな堀切を眺めながら主郭に向かいます。主郭の西に二郭があり、さらに西に堀切を挟んで三郭があります。主郭の東にサカヤシキと呼ばれる郭があるのですが竪堀群をあまり確認することはできませんでした。地形の改編もあってそれらしいものはほとんど見当たりません。適度にきりをつけて鈴岡城に引き返しました。

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いんげん丸虫

国見要害 茨城県常陸太田市 (2023/11/11 訪問)

標高291m国見山の山頂にあります。
麓の尾根にはそれぞれ北大門城、南大門城があり、詰めの城
避難所的な場所でしょうか。
小さな山頂に4本の堀切が薄くあります。
北尾根に出城群があるとされてますが、ほぼ自然地形ですね。
遺構と断定するには無理がありそうです。

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火ノ島豊後守正宗

本佐倉城 (2023/11/27 訪問)

続72城目。
京成大佐倉駅より徒歩で10分程度で到着。
土で構成されたなかなか見どころのあるお城でした。
尚、スタンプは大佐倉駅内に置いてありました。

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火ノ島豊後守正宗

佐倉城 (2023/11/27 訪問)

正71城目。
JR佐倉駅に隣接している観光情報センターで自転車をレンタルしようと思いましたが
月曜日は定休日でした。仕方ないので徒歩で30分かけて城址公園に行きました。
佐倉城を攻略したい方は月曜日を避けることをお勧めします。
佐倉城内の紅葉と銀杏が大変綺麗でした。

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AJ

オモチャ天守と呼ばないで (2015/11/22 訪問)

全体的に“官兵衛推し”な雰囲気は大河の影響でしょうか。中津城(大分県中津市)は秀吉の軍師・黒田孝高(官兵衛)の縄張りですが、本格的な築城は細川。また藩政は長年、徳川と血縁にある奥平が担いました。一面だけを切り取るのは勿体無い、歴史の深い町です。

もちろん、縄張は名人の域。周防灘に近い河口付近の水城(海城)は後堅固そのもの。華奢ながら梯郭式と連郭式の融合も新鮮。外堀も深い。天守は築かれなかったという見方がほぼ定着しています。今あるのは萩ベースの模擬とのこと。賛否あるかと思いますが、意匠は飽きさせません。

九州平定後も地元豪族の抵抗は続いたようで、黒田による築城は二の丸まで。比較的簡素で小規模だったのではないでしょうか。朝鮮出兵の影響もあり、天守を築く余裕がなかったということなのだと思います。無いには無いなりの理由があって、そこに当地の権力を規定した要因が感じ取れれば個人的には満足です。そうこうしているうちに関ヶ原。そして同家は加増されて福岡に赴きます。

城域で目を引くのはやはり神籠石でしょうか。5キロほど川上にある7世紀(?)の山城(唐原山城)跡の列石の転用が見られます。四角く加工された石を使った石垣は、細川時代の丸みを帯びた自然石との違いが明らか。リユースでエコ、、、というわけではなく、土着勢力の反発に直面し、築城を急いだ黒田の危機感の表れなのかもしれません。

さて、中津といえば唐揚げ、、、そして、福沢諭吉(ですよね?)。加えて、忘れられがちですが、前野良沢(解体新書の)も。当時、西洋科学(蘭学)の理解促進に影響のあった人々を輩出したのが中津藩。外様の多かった九州の地に送り込まれた奥平氏の祖は家康の外孫(長女亀姫の子)として厚遇された御連枝の家柄でした。後に150年以上にわたって安定した藩政を担った同氏は近代科学にも貢献したと言えそうです。

そして模擬天守ですが、御子孫(養子縁組をされた当主)が中心となり昭和に建造(二重櫓は復興)されました。内部は同家の資料館。史実に反したシンボルは不要との見方もあるでしょうが、そうした過去の歩みを紹介するための“ハコ”を後世の関係者がせっせと用意したという事象だけ捉えると、そこも含めて歴史の流れのような気もします。

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トク

82【関ケ原の26人】 (24) 島津義弘 (島津義弘と帖佐館) (2023/10/08 訪問)

(24人目)島津義弘の続き⑪です。
関ケ原当時の居城「帖佐館」を訪れてきました。

JR日豊本線「帖佐駅」からバスに乗り10分、運転手さんに聞いた一番近いバス停「イオンタウン姶良(あいら)」で下車。しかしここから館跡までまだ2km程あるようです。ちょっと遠いなとは思いましたが、またがんばって歩く事にします。

帖佐館は、背後の山と別府川の間の平地に築かれた居館だったようです。館跡は現在は「帖佐稲荷神社」になっていました。館の横には義弘が写経をしたと伝わっている花園寺跡があり現在は小さな歴史公園になっていました。

義弘は(文禄の役)後の1595年に松尾城(栗野)からここに移り住み、ここから1597年に朝鮮へ再び出兵します(慶長の役)。そしてその後1600年ここから関ケ原へと向かいます。

朝鮮では圧倒的に不利な状況を二匹の狐が助けてくれたという逸話があるようで、白狐と赤狐が現れて10倍以上の敵に向かって行くと何と火薬庫が爆発。敵が混乱した所を義弘は攻め込み勝利したという言い伝えがあります(実際は勇猛な家臣だったのではないでしょうか?)。現在ある神社は義弘亡き後に建てられ、その時の二匹の狐を祀った神社だそうです(写真⑤)。

関ケ原で敗走し退き口を突破した義弘は、大坂にいる妻子を助け出し、堺から船に乗ります(この船内で同じく敗走する立花宗茂と何と偶然バッタリ😯!)。そして日向に上陸し、ここ帖佐の館へ無事帰還する事ができました。

しかしほっとしたのもつかの間、この後にさらに苦難の連続が待ち受けているとは、思ってもみなかった事でしょう。そして義弘はこの後に、翌1601年桜島に蟄居したあと、晩年は加治木へ居を移し最期を迎えます。

その桜島や加治木での話はまた後にお伝えする事にして、次は話の舞台をいよいよ関ケ原の「島津義弘陣跡」へ移します。


【余談】南国白くまモナカ
暑い中歩き疲れた時に途中コンビニがあったので休憩がてら寄りました。「南国白くまモナカ」なるものがありました。福岡のあまおうを使っていると書いていますが、福岡では見たことがないので、鹿児島限定販売のアイスかもしれません。食べてみるとミルクのすっぱさとフルーツの香りがもう絶妙でめちゃおいしいかったです(歩き疲れた体にしみる~😊 2個も食べてしまった)(写真⑩)
 

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