戦国末期に北畠具教が隠居所として築いた城館で、西辺から南辺を堀代わりの谷川で画し、東の茶臼山と西の八幡山の山腹に砦を設け、単に隠棲するのではなく武田信玄に密使を送るなどこの地で再起を図りましたが、北畠信意(織田信雄)が差し向けた長野左京進らにより具教が謀殺された後は、森清十郎が城主となりました。
カズサンさんに倣って茶畑の間の駐車場から登城しました。三瀬館の前にも広い駐車場があり、駐車場北側の館跡には石垣が見られますが、これが城びとの城郭情報にある遺構の石垣でしょうか? 北側の山裾には階段状に削平された館跡が広がっていて、北畠具教卿三瀬館趾の石碑と説明板が立てられています。
館跡には北畠具教最期の地として胴塚の碑と説明板も立てられていて、堀代わりと思しき南辺の谷川を越えたところには胴塚が祀られています(石碑もあります)。胴塚と云うからには首塚もあり、三瀬館から西北西に約9km、松阪市飯高町野々口の山中に五輪塔が建てられていますが、具教の首を奪い返した家臣が霧山城に向かう途中で霧山城落城の報を受けて、やむなくこの地に埋葬したものと伝わります(下滝野城から九曲城への道中にあるため、首塚は前週に訪れました)。その他、八幡山麓の北畠神社(南西に徒歩約5分)には具教が主祭神として祀られています。
三瀬館から東に徒歩約5分の茶臼山中腹には砦が設けられ、見張所として機能しました。現在は公園として整備され、主郭には秋葉社が祀られています。主郭からは宮川と熊野街道、三瀬の町並みを見渡す眺望が開けており見張所だったことを納得しました。見事な堀切をはさんだ北側にも細長い曲輪があり、東屋が建てられています。
目立った遺構はほとんどありませんが、松阪市内の城めぐりをしていると北畠具教の名に接することが多いだけに、その終焉の地を訪れて、館跡に胴塚、神社など具教の無念を伝える多くの史跡に触れることができたのは感慨深いものがありました。
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