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イオ

北畠具教最期の地 (2024/05/04 訪問)

戦国末期に北畠具教が隠居所として築いた城館で、西辺から南辺を堀代わりの谷川で画し、東の茶臼山と西の八幡山の山腹に砦を設け、単に隠棲するのではなく武田信玄に密使を送るなどこの地で再起を図りましたが、北畠信意(織田信雄)が差し向けた長野左京進らにより具教が謀殺された後は、森清十郎が城主となりました。

カズサンさんに倣って茶畑の間の駐車場から登城しました。三瀬館の前にも広い駐車場があり、駐車場北側の館跡には石垣が見られますが、これが城びとの城郭情報にある遺構の石垣でしょうか? 北側の山裾には階段状に削平された館跡が広がっていて、北畠具教卿三瀬館趾の石碑と説明板が立てられています。

館跡には北畠具教最期の地として胴塚の碑と説明板も立てられていて、堀代わりと思しき南辺の谷川を越えたところには胴塚が祀られています(石碑もあります)。胴塚と云うからには首塚もあり、三瀬館から西北西に約9km、松阪市飯高町野々口の山中に五輪塔が建てられていますが、具教の首を奪い返した家臣が霧山城に向かう途中で霧山城落城の報を受けて、やむなくこの地に埋葬したものと伝わります(下滝野城から九曲城への道中にあるため、首塚は前週に訪れました)。その他、八幡山麓の北畠神社(南西に徒歩約5分)には具教が主祭神として祀られています。

三瀬館から東に徒歩約5分の茶臼山中腹には砦が設けられ、見張所として機能しました。現在は公園として整備され、主郭には秋葉社が祀られています。主郭からは宮川と熊野街道、三瀬の町並みを見渡す眺望が開けており見張所だったことを納得しました。見事な堀切をはさんだ北側にも細長い曲輪があり、東屋が建てられています。

目立った遺構はほとんどありませんが、松阪市内の城めぐりをしていると北畠具教の名に接することが多いだけに、その終焉の地を訪れて、館跡に胴塚、神社など具教の無念を伝える多くの史跡に触れることができたのは感慨深いものがありました。
 

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しんちゃん

周辺の城と防衛線を形成 (2024/01/27 訪問)

北を三沢川に面した多摩丘陵の先端に位置する浅間山の周辺に小沢城は築かれており、南西400mほどの位置に読売ジャイアンツ球場やよみうりランドが存在します。一見閑静な住宅地なのですが「余湖くんのお城のホームページ」さんの記事にあるように営業時間中はなかなか賑やかそう。遺構はいまひとつはっきりはしないものの、背後の細い尾根上に西から物見台、浅間山(曲輪として利用)が連なり、途中に堀切もありました。尾根にはだいぶ細い個所があり、木橋がかかっています。尾根の南側一帯には武士の居館跡とみられる複数の扁平地が見られます。
小沢城は平安時代の末期に稲毛三郎重成もしくは、子の小太郎により築かれたとされています。観応2年(1530)に足利義直方の小沢城を足利基氏方の高麗経澄が攻め落城させたとあります。戦国時代には北条氏の城として寺尾城や桝形城と連携があったと思われ、享禄3年(1530)には小沢城から北条氏康が出陣し、小沢原の戦いに向かったとされています。
太平洋戦争中には小沢城跡に探照灯が置かれ、桝形山に設置された高射砲で敵機を砲撃していたとのこと。時代が変われど守りの要として周辺の城跡と連携していたようです。

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にのまる

しりとりの聖地へ(2度目)。 (2024/06/21 訪問)

会津若松から小出まで只見線の旅。
途中の会津塩沢駅に“河井継之助終焉の地”とありましたが途中下車したらそこでゲームオーバーなので降りられません…。
只見川を眺めながら4時間42分の乗車を満喫し上越線に乗り換えて長岡へ。
長岡駅に降り立った時点で長岡城🏯到達\( ˆoˆ )/
乗り継ぎ待ちの時間に本丸跡の碑へ。
駅前の観光案内図を見て旅行気分を味わいました😊

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朝田 辰兵衛

戸石城散策2/2(本城背後~桝形城~米山城) (2024/05/03 訪問)

暑かったですが,尾根道をあっちやこっちに行くのはワクワクします。案内標識が整備されていますので,迷うことはないかと思います。足腰や心肺能力との駆け引きになるかと…。
米山城からは富士山🗻が見えるスポットがありました。この日は肉眼でうっすらと確認できましたが,写真には写っていませんでした…<泣>。

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朝田 辰兵衛

戸石城散策1/2(砥石城~本城) (2024/05/03 訪問)

昨年のGW,松尾古城攻城後に計画していましたが,ふくらはぎがつりそうになり断念しました。ほぼ1年後のリベンジ攻城です。
1年前の信州も猛暑に見舞われましたが,今回も猛暑となりました。基本は雨男なんですが,晴れれば猛暑となるようです…<苦笑>。
昨年と比較しても,上田駅からのバスはかなり少なくなっていました。運転手不足が深刻なようです。しっかり調べることをおすすめします。
ということで,2024年GW後半は信州です。といっても隣県ですが…<笑>。
新潟市内からは高速バスが手頃です。参考までに。

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ぴーかる

知立城 (2024/05/11 訪問)

【知立城】
<駐車場他>知立神社駐車場無料がいい。リパーク知立駅北60分220円に駐車しました。
<交通手段>車

<感想>岡崎平野・知多半島ちょこ城巡りの旅4城目。城びとの城郭情報によると知立城は平安時代に永見貞春によって築城されたとあります。永見氏は代々、知立神社の神主で神社の南側にあるわずかに高台になっている場所に城郭居館を構えたと思われます。戦国時代には永見氏は周辺豪族(特に水野氏)と血縁関係を深めます。桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、追ってきた織田軍によって知立城は落城します。この地は江戸時代には池鯉鮒宿の宿場町になっています。
 まず、池鯉鮒本陣跡の石碑を見に行き、知立古城址に行きました。現地は公園広場になっていて、遺構は残されていませんが、城址の場所は東西に少し長い高台になっていて立地の状態は分かります。次に知立神社に行きました。重要文化財である1509年再建の神宮寺多宝塔があり見応えありました。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

板東武士の鑑なれば (2024/05/05 訪問)

畠山館は「板東武士の鑑」とうたわれた畠山重忠公の居館跡で、現在は史跡公園として整備されています。社のような建物の中には重忠公と家臣のものと伝わる五輪塔があり、重忠公が郷土の人にどれだけ大切に思われているかが伝わってきます。
馬を担いでいるインパクトのある銅像は、一ノ谷の合戦で、崖を降って敵を急襲する際に愛馬・三日月が怪我をしないように背負って降ったという逸話をもとに製作したものです。ちなみに日本在来馬の重さは350kg~420kgとされています。
重忠公は元久2年(1205)二俣川で北条義時の大軍を相手に130騎ほどの少数で戦い、愛甲三郎季隆に射られて討死したとのことです。

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しんちゃん

愛甲城  愛甲三郎季隆 (2024/01/27 訪問)

愛甲城‥神奈川県厚木市愛甲西
愛甲城は鎌倉時代の御家人・愛甲三郎季隆の居館跡とされています。現在は公民館の敷地となり、神明社や城址稲荷が建っており、北側には玉川が流れ、間には畑地が広がっています。
愛甲三郎季隆は弓矢に優れ、将軍随兵や正月の御的始の射手を務めたとのことです。元久2年(1205)の畠山重忠の乱では幕府方として参陣し、二俣川の戦いで得意の弓で重忠に矢を命中させ首級を挙げたとされています。しかし、建暦3年(1213)の和田合戦では和田義盛に味方し、兄の小太郎義久ら一族とともに討死したとのことです。

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零汰

閑話:タイムアタック京都・滋賀 (2024/05/07 訪問)

岬上の城郭はめぼしい遺構が堀切しか無く、毎回似たコメントになるので苦しかったです。北の城郭岬編で一区切りついたので休憩を兼ねてタイムアタック後編、伏見寺田屋からです。

・寺田屋①→14.美豆城→15.神足城②→16.開田城③→17.今里城④→18.上植野城⑤→19.菱川城⑥→20.横大路城→21.下三栖城→22.瀬田城⑦→23.山田城⑧→24.金森城  降雨により中止 (22~24は滋賀県・〇は写真番号)

10時スタート黒丸城より終了金森城は16時30分でした。6時間半で24か所は時間的コスパが非常に良いでした。一部土塁が残っていたり空堀が残っていたりと遺構が少々残っている城郭もありましたが大半は石碑・案内板と神社でした。割り切って城訪問もいいものですね。遺構が少ないのは都心部なので仕方がないと思います。楽に城郭と絡む事が出来るのでお勧めです

今後、北の城郭投稿は暫くの間封印して城訪問中断以前の投稿に入りたいと思います

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しんちゃん

瀬田の唐橋 (2024/02/10 訪問)

瀬田城は琵琶湖から流れる瀬田川の東岸に築かれた城で、瀬田橋とともに重要な軍事的な意味合いを持つ拠点でありました。近江が織田信長の支配下にあった時代の城主・山岡景隆は織田信長の信頼も厚く、信長は上洛のたびに瀬田城を宿所としていたそうです。
唐橋には藤原秀郷の大ムカデ退治の伝説が残っており、宇治川の合戦の舞台となるなど歴史的に大きな意味を持っています。かつて信長は足利義昭より副将軍や管領の地位に就くよう提案を受けますが、かわりに「堺」「大津」「草津」の支配権を要求しました。名前ばかりの官職より、よほどこれらの土地が魅力的だったのだと思います。

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カズサン

海老ヶ島城探訪未消化でした (2024/06/07 訪問)

 小原城を終えて南西に約30km程、常陸未踏の城探訪6城目海老ヶ島城を初登城。

 駐車場:西松原コミュニティセンター(西松原自治会)駐車場利用(36°15'28"N 140°01'53"E h=30m)
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 駐車場から先ず史跡マークの新善光寺を目指す、城跡の案内板など無し指示看板も無し、史跡マークが示す山門前にも特にない、東の参道門柱前に新善光寺由緒が有り、その中に「1595年に宍戸氏14代安芸守義長公が海老ケ島の郷(現在地)に移城するのに伴い、道場を当地に移す」の記載が唯一「海老ケ島城」の名称。
 その後余湖図コレクションさんの俯瞰図を頼りに歩い見るが、東の大川が東外堀かな?龍泉寺辺りに遺構があるとの情報も有り訪ねるが案内板も無し、あまり深く踏み込んで居ませんので堀跡、土塁は良く分からず、グーグルマップの史跡マークで南県道14号線との合流点に「海老ヶ島城二郭土塁跡」が有り龍泉寺より集落中心の交差点に戻り、南へ約300m程歩くと14号線に接して塚の様な土盛りが有り史跡マークの二郭土塁跡か?案内板は無い、上に祠が有りっ祀られている南西面に鳥居。
 史跡マーク二郭土塁跡に来る前の途中に堀跡、土塁跡と思われる個所も有る。
 グーグルマップの航空写真を見ると西松原、東松原集落全体が昔の海老ケ島城域に当たる様に見受けられます、周囲の樹木の周りが土塁の囲み、東の大川が外堀りの代用?外は水田が取り囲んでいる、昔の沼と湿田なのでしょうか?
 それにしても集落内の住宅は入母屋大屋根でお寺の建物より立派な住宅が多く散見されます、龍泉寺を訪ねるのに迷うほどでした。
 
 案内図、解説板、指示板などの設置が有れば遺構の散策も楽しいのですが?
    

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カズサン

本丸水堀跡はグラウンドゴルフ場へ変身 (2024/06/07 訪問)

 加倉井館を終えて南西に約6km程、多良埼城主目的常陸未踏の城探訪5城目小原城を初探訪。

 駐車場:特に無し、小原城本丸跡沿い県道193号線の東側の側道が広く路駐(36°21'41"N 140°19'24"E h=40m)
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 小原城本丸跡は東側が県道に面して、御城稲荷神社鳥居、傍に小原城本丸跡の案内板、標柱、指示板が纏まって据えられてる、本丸の周囲は水堀が有った様ですが、平成3年環境整備上やむなく埋立られて、現在集落の方々のグラウンドゴルフ場に成っています、北角の土塁が高く聳えその他四方は低く曲輪高さの微高地。内部には御城稲荷神社の祠、社務所兼集会所?当日は会合されていました。
 余湖図コレクションさんの俯瞰図を見ると、北の小原神社口、北西の2郭土塁、3郭土塁の残存、水堀の残存など在るようですが本丸跡のみで探訪終了。
 
 案内板によると。
 小原城は、宍戸城の北東部にあってこれを抑える重要な拠点であった。築城年代は明らかでないが、里見氏が永享元年(1429年)小原に領地を得、里見七郎義俊が文亀2年(1502年)現在の館を中心に小原城(館)を形成し、周囲の坂場・和尚塚・橋場(木戸場)には、見張場を置いたと伝えられる。

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イオ

四方土塁が完存 (2024/05/04 訪問)

室町中期から戦国期にかけて築かれた三瀬氏の居城で、宮川と大谷川に三方を囲まれた断崖上に位置し、熊野街道と宮川の水運を掌握する要衝の地であることから、北畠具教が三瀬館に隠棲した際には三瀬館守護の拠点となりました。なお、具教謀殺の刺客の一人の長野左京進は、三瀬砦に在城していたとも城主の三瀬左京と同一人物とも云われるようです。

県道沿いの案内表示に従って南に入ったところの駐車場から登城開始。駐車場のすぐ先から西と南に土塁が続き、土塁東側の登城道は空堀跡と思われます。登城道の突き当りに三瀬砦跡の石碑があり、その脇が主郭東辺の虎口で、虎口の北側には三瀬砦跡の説明板が立てられています。方形の主郭は四方を高く分厚い土塁で囲み、井戸が遺っています。西辺の幅広い土塁上には八幡社が祀られていました。西辺の土塁の西側にも土塁囲みの小さな曲輪があり、南側は宮川まで落ち込む断崖、西側は堀切で遮断しています。また、三瀬砦から北東約150mには三瀬氏菩提寺の慶雲寺があり、慶雲寺との間の川上と呼ばれる一帯には侍屋敷があったそうで、それぞれ説明板が立てられています。

ほぼ単郭の小さな城砦ながら、伊賀や甲賀の城に見られるような分厚く高い四方土塁が完存しており、大いに見応えがありました。
 

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しんちゃん

多摩ニュータウンN0.513遺跡 (2024/01/27 訪問)

多摩ニュータウンの造成工事に先立って行われた発掘調査で、縄文時代から江戸時代にかけての大規模な複合遺跡があったことが判明し、中世の城郭跡や、武蔵国分寺や国府とも関係の深い奈良時代の瓦窯跡が発見されたとのこと(案内板より)。
城の主は不明ですが、主郭には小型の建物跡と柵列の跡があり、周囲には2~3m規模の空堀と土塁状の腰郭(2郭)が配されていたようです。規模的に砦のようなもので、見張り台などに使われていたのではないかと推測されています。

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赤い城

夷山緑地 (2024/06/16 訪問)

国道439号線を少し入ったところ、円福寺裏手の緑地公園が城跡です。
駐車場は無さそうです。
緑地公園となっていて曲輪の跡には遊具も置いてあります。
この丘の頂上部が主郭とのことですが私有地につき断念。
遺構は無さそうですが丘のようになっていてここに城があったことは想像できます。

三好氏と長宗我部氏の間で争われた最前線の城でもありますが今は平和な公園となっていました。

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しんちゃん

海老名氏霊堂 (2024/01/17 訪問)

海老名城の主である海老名氏は保元の乱で活躍し、曾我物語にも名前が出てくるそうです。現在は霊堂が残るのみですが、海老名氏の菩提寺である宝珠寺や居館はこの周辺に築かれていたようです。

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しんちゃん

土塁のぞき (2024/01/27 訪問)

磯部城は長尾景春の反乱の際に景春方の拠点・小沢城の支城として築かれたとされています。能徳寺や御嶽神社のあたりが城の中心と考えられていますが遺構は残っていません。相模川沿いの歩道沿いに磯部城の土塁とされる土盛りが連なり、案内板が立っていますが私有地ゆえに立ち入ることはできません。そんなわけで通りすがりにじっくりのぞかせていただきました。ご容赦を。

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朝田 辰兵衛

公園化されてることがこんなにありがたいとは… (2024/04/29 訪問)

2024年GW前半の攻城はクセ強なお城を巡りましたが,当たり前に公園化されてることがこんなにありがたいとは…と感謝しながらの散策でした。地元の方たちの散歩コースになっているようでした。

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しんちゃん

小沢城と枡形城の間に存在 (2024/01/27 訪問)

寺尾城は周囲を住宅地に囲まれた高台に築かれていたようです。周囲には竪堀と見られる遺構や、曲輪らしき扁平地が見られます。
城主は寺尾若狭守とされ、小田原北条氏に仕えてからは、諏訪氏を名乗ったとされています。不明な点が多いですが、小沢城と枡形城の間を繋ぐ「伝の城」の役割を担っていたともされています。

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しんちゃん

眺望よし (2024/01/27 訪問)

枡形山の山頂に枡形城は築かれていました。建久年間(1190~1199)に稲毛三郎重成によって築かれたとされ、永正元年(1504)伊勢宗瑞と今川氏親が枡形城に入り、ここから立河原の戦いに向かったとされています。
現在は展望台が建てられ、周囲を良く見渡すことが出来ます。付近には川崎市岡本太郎美術館など複数の施設が有り、一日は楽しむことができそうです。

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