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カズサン

【常陸・武田氏館】茨城県ひたちなか市 甲斐武田氏発祥の地 (2023/11/12 訪問)

 以前より訪ねたいと思っていた常陸の国、武田氏館・甲斐武田氏発祥の地を初登城し願いが叶いました。
 城郭放浪記さん始め城びと多くの方が投稿されて居り何時か何時かと考えていましたが、丁度、孫の運動会観戦で宇都宮まで来ましたので観戦の翌日、武田氏館他水戸城周辺未踏の城廻りを企画し探訪に出掛けた次第。

 住所:茨城県ひたちなか市武田566-2
 駐車場:武田氏館の門前、ジャリ駐車場、数台は可能
 参考資料:城郭放浪記さん、グーグルマップ、城びと投稿者多数の記事

 武田氏館はふるさと創生事業として平成3年11月に武田郷の地に当時の武士の館を再現したとの事です。本来の史跡武田氏館跡は現在の陸上自衛隊勝田駐屯地内の武田池の南の地に在り、駐屯地内入る事は出来ません。
 那珂川の河岸段丘の南西端を活用した高田氏館の様でした、再建した館は湫尾神社(ヌマオジンジャ)の北裏に建てられ居ます。
 高田氏館は南面板塀で囲まれて、門、主屋、厩、納屋(管理棟)の造りです、入場料無料、パンフレット入手、主屋の中心に父源義清と子源清光に鎧兜を身に着けた人形が置かれて大鎧、盾、陣幕で陣立ての様子が設定されています。
 義清からは武田郷にちなみ武田を名乗ったとの事。周囲の回廊には武田氏佐竹氏の系図が清和天皇からの清和源氏系図、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光から佐竹氏、武田氏へ武田氏初代義清、清光へ18代後に信玄公へと継承されます。高田氏館跡の略図、解説。地元武士達とのいざこざにより義清、清光の甲斐の国への配流の解説などが展示されています。
 源氏の分流の勉強にもなります。

 武田氏館から南隣接地に在る湫尾神社(ヌマオジンジャ)へ、参拝して南に在る鳥居へ、鳥居傍に甲斐武田氏発祥の地石碑、また解説板を確認して暫し読みふける、この間地元の方が3人ほど参拝されていました。

 那珂川を越えて南側から望むと段丘が連なり、いい場所に構えたなの感じ、しかし丘陵への道が常磐線を潜る狭い道、危険を感じて住宅団地の真ん中を通る道西へ抜けて団地の通りに高田氏館の看板が有り団地内へ、途中不安になり団地の方に聞き到着しました。
 
 

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ぎりょう

男前の政宗公と城下を望む (2023/11/23 訪問)

所用で大崎市岩出山の町中に出かける機会がありました。城山も紅葉が進んでいるようなので久々に登城することに。中世から使われていた本丸、金丸跡を散策しました。祝日ということもあり、私の他にも数名の先客がありましたが、その後、ガイドに伴われた十四五名の街歩きらしいグループも。
ここ岩出山は、伊達政宗の仙台築城まで12年間伊達家の本拠地であり、藩政時代は政宗四男宗泰が初代となる一門岩出山伊達家が配され、要害として維新まで続きます。芭蕉「おくのほそ道」の旅、一宿の地としても有名です。
城址は草刈りもされ、きれいな状態でしたが、近年の豪雨で本丸北端部が崩れてブルーシートが掛ったまま。北側の展望台も立ち入り禁止の状態が続いてますがその他は見学OK。早い時期の改修をお願いしたいですね。
金丸跡にある政宗像は、昭和39年に仙台城から岩出山城に移された二代目政宗像です。仙台城址の政宗像は昭和10年に政宗没後300年の記念に青年団が寄付を募って制作した初代政宗像がありましたが、太平洋戦争中の昭和19年に戦況悪化による金属徴収で供出されてしまいます。戦後の昭和28年に二代目の像が制作されますが、セメント製で、扇子を持ち平服姿であったため「政宗平和像」と呼ばれていました。さらに昭和39年に初代の騎馬像が復元されます。この像は昨年3月の地震で破損しましたが、一年がかりで修復され、今年3月に仙台城に復帰したことは周知のとおりです。
岩出山城跡の二代目政宗像は昭和39年に仙台市から旧岩出山町に寄贈され、以来金丸から大崎耕土を見渡しています。男前の政宗とともに城下を望み季節の移ろいを感じることができました。

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todo94

山陰海岸ジオパーク (2023/11/23 訪問)

道竹城からの転戦です。城山園地の駐車場からの登城は、足元もさほど悪くない登城路だったのでさほどの困難もなく主郭にたどり着けました。この近辺は、山陰海岸ジオパークに選定されている景勝地ですので、見事な絶景を堪能することができます。駐車場からの眺望もなかなかのものですが、やはり山頂まで脚を伸ばしたいですよね。

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トク

83【関ケ原の26人】(24)島津義弘 (島津の退き口①-島津義弘陣跡)

(24人目)「島津義弘」続き⑫です。関ケ原の島津義弘陣跡を訪れてきました。

家康が上杉討伐のため伏見城を出ると石田三成は挙兵、毛利・小早川・宇喜多・小西なども続いて挙兵しその数9万に膨れ上がった時、義弘はこの時帖佐から参勤で大坂に来ていました。そして石田三成からの出陣要請がある事を薩摩に伝えるも、義久は兵を送りません。よって義弘は今いるわずか200の手勢のみで出陣します。そして私もなぜかわかりませんでしたが、ここで義弘は何と西軍ではなく徳川方に加わるため伏見城に入ろうとします。どうやらこの1ヵ月前、義弘は家康から直々に伏見城への守りを任されていたようです。しかし伏見城を守る鳥居元忠から「そんな事は聞いてないぞ!」と門前払いをくらいます。どうしようかと考えている内にふと気がつくと回りは西軍だらけ? 三成から「島津殿、よう来て下された」と言われたら何も答える事ができず、そのまま西軍に加わる事に・・・😩あれ?

しかしこの後、大垣へ入った時点で、大坂にいた甥の島津豊久、そして薩摩より家老の長寿院盛淳、山田有栄らが義弘を慕ってはるばる駆け付け、手勢は1500ほどにふくれあがりました。義弘は軍議の席で、「家康の体制が整っていない今がチャンス! 赤坂の陣に夜襲をしかけ家康の首を取ろうではないか!」と提案をしましたが、三成が拒否したため、このあたりから三成にかなり不信感を持ったようです。そしていよいよその夜、大垣から関ケ原へ移動する事に・・・

私は関ケ原の義弘陣跡に立ってみました。小池神社という所に陣を敷いていました(写真①②③)。しかしここは戦場の中心、にもかかわらずこの回りだけがなぜかうっそうと木が茂り、ここからだと確かに周りの状況がよく分かりません、勝っているのか負けているのか・・・(いったいどっちだろう?🤔)。もはやこの時、ここでこのまま東軍・西軍どちらにも付きたくないといったのが本音だったのかもしれません。

三成の家臣である八十島助左衛門が再三出陣の要請に来ますが、馬上から降りないため無礼者と追い返します。そして気づいた時には西軍は総崩れとなり東軍に囲まれていました(まずい!)。義弘はここでもはやこれまでと自害しようとします。しかし豊久が思いとどまらせます。そこで義弘はある行動に出ました。何と家康の首めがけ一直線に家康の陣に向かって突進したのです。しかしあと一歩のところで失敗し、伊勢街道の方向へ走り去りました。そしてこれを、井伊直政・松平忠吉・本多忠勝が追って行きました。(この時の様子は私の(21人目)徳川家康(17人目)本多忠勝をよければ御参照下さい)。

私はその場所に立ってみました。(写真④)すぐ左に家康の陣があり、そこへ突っ込むも阻まれ、この道をこの矢印の方向へ走り去ったようです。私はその場所からこの道を眺めながら考えてみました。わずか1500の兵では何もできないかもしれません。しかし退路を断たれているとはいえ、なぜ的中突破の道を選んだのでしょか? そして本当に本気で家康の首を狙ったのでしょうか?

 のかるまじ 所をかねて 思いきれ
 時に到りて 涼しかるべし

しかし結局この判断が、1500人の家臣の悲劇につながってしまいます。

次は義弘軍が「捨て奸」を行った(琳光寺)を訪れます。
 

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しんちゃん

各郭から富士山が良く見える。 (2023/11/26 訪問)

勝山城は麓の谷村城の詰めの城とされています。本丸の案内板によると文禄3年(1594)豊臣秀吉に遣わされた浅野長政家老・浅野左衛門氏重によって築城(もしくは改修)されたと記されています。位置的に谷村城とかぶっていたので存在を失念していたのですが、元々登城したいと思っていたので結果オーライということになりました。ただみんなの口コミをチェックしていなかったので本丸北側の石垣を見逃しています。江戸に献上するお茶を貯蔵していたという御茶壺倉(大沢見張台)は二の丸から帯郭を経由して尾根沿いに向かうのが正解のようですが内堀経由で向かってしまったので途中断念、そのまま南東側に尾根伝いに降りていくと、ここにも道が続いていてそのまま下山と相成りました。ちょっと消化不良ですが「いった」を押しちゃいます。
山々の間から富士山が顔を出していて登城道から良く見えます。二の丸・本丸からも見ることが出来、なんか富士山を見るために、この詰めの城があるんじゃないか?‥とさえ思えてきます。やはり富士山は特別な山ですよ。

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しんちゃん

江戸初期・近世城郭の城下町として発展。 (2023/11/26 訪問)

谷村城は戦国期は小山田氏の居館として存在していましたが、武田氏・小山田氏の滅亡後の天正壬午の乱の後に徳川氏の支配下に置かれました。この頃に近世城郭としての整備がされたようで江戸時代には秋元氏が入府し、その後天領になったようです。本丸は谷村第一小学校や市役所あたりに置かれ、古地図によると背後の勝山城を詰めの城として本丸とは内橋でつながっていたようです。桂川を背後の天然の堀とし、二の丸・三の丸は本丸と隣接していて周囲は水堀で囲まれています。
本丸南東側に向御屋敷が配され、南西側には家臣屋敷と見られる郭があり、いずれも周囲に堀を配し、桂川から水を引き入れています。城域の外側には屋敷や家町と呼ばれる長屋が立ち並び城下町を形成していたようです。
このあたりで「ほうとう」を食べる機会は有りませんでしたが道の駅のお土産で「ほうとう」を購入しました。今風だとジャガイモやカボチャをいれるのですが、信玄公の時代だと里芋やシシ肉、大根などでしょうか。どちらもおいしいので両方試してみようかと思います。

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しんちゃん

天守台と富士山のツートップ。 (2023/11/26 訪問)

浄古寺城は武田氏滅亡後、天正17年(1589)徳川家康の命で内藤左衛門が大修築したとされています。周囲を琴川、皷川、笛吹川に囲まれた丘陵上に築かれているのですが、川の名前が全部楽器から付いているんですね。殺伐とした戦国期の城なのに風流な話です。
最も高い扁平地に主郭が配され天守台や堀が残っています。南側に二の丸、三の丸があり二の丸はブドウ畑や八幡神社になっています。主郭もブドウ畑(桃?)のようですが、すでに収穫を終えているようなので安心してお邪魔させていただきます。天守台の背後からカメラを向けると富士山とのツートップが撮れました。主郭から富士山が見えるのはいいですよね。

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しんちゃん

周囲に見事な土塁が残る。 (2023/11/26 訪問)

於曾屋敷は於曾氏の屋敷で戦国期には板垣氏が支配していましたが、武田氏滅亡の際に織田氏の攻撃を受け、板垣権兵衛がこの地で自害したとされています。屋敷跡の東西南には内土手が残っていて東に虎口が空き、南側にも階段が付けられ入口となっています。南側の土手は高さ3~4mほどもあり見ごたえがあります。駐車場は館跡の東側と南側に設けられていて、どちらからも見学が可能になっています。

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くうくう

根室半島チャシ24ヶ所を代表してヲンネモトチャシ

温根元湾西岸の岬に盛土され平坦面が2ヶ所と堀が見られる。城砦というより見張場、聖地、祭祀場を感じる。案内板があり、歩道や階段が整備されている。多くのチャシが説明もなく、痕跡もよくわからないような中で分かりやすい遺構だ。ただ熊出没や見学地外立入禁止などの看板もあり要注意。

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くうくう

川中の島の対岸の丘という付近の地名から

釧路アイヌの長トミカラアイノが寛永4年(1751)に築いたといわれる。今では解り難くなってしまったが、釧路川に突き出た台地を利用してつくられた。頂部は標高18mで中央に比高差5mの堀が区切り、南側の本チャシと北側の副チャシ、あとは帯曲輪のような段が付いている。別名お供え山と呼ばれるが、雰囲気がよく伝わる形容だ。国史跡。見学には申し込みが必要。

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しんちゃん

甲斐守護・武田氏統一の通過点。 (2023/11/26 訪問)

甲府市の上曽根町勝山の果樹園となった丘陵上に勝山城は築かれていました。甲斐守護の座を巡って武田信縄と弟・(油川)信恵、父・信昌の対立が深刻化していたころに信恵の重要な拠点として機能していたそうです。信縄の死後、武田信玄の父・信虎(信縄の嫡男)が油川信恵父子を滅ぼし武田氏宗家を継承したとのことです。城域は果樹園になっているのですが、収穫はすでに終わっているようで周囲に人はいません。舗装された道が城址につながっているので登っていくと縄張り図にある虎口があるので入って見ます。中には郭跡が広がりますがその先の堀や帯郭は藪に覆われていて確認が出来ません。雰囲気は味わえたので引き上げることにしました。

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しんちゃん

平安の頃からの有力者の城。 (2023/11/26 訪問)

上野原城は平安時代末期に古郡忠重によって築かれました。古郡氏が建暦3年(1213)の和田合戦に敗れて滅亡すると加藤氏が入ったとされています。加藤氏は上野原七騎とともに武田氏に従い活躍しますが武田氏と共に滅びたそうです。城跡は宅地化が進み堀跡もはっきりしませんが南西側の崖は健在で今では高速道路が通っています。

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しんちゃん

戦国期の善得寺会盟の舞台 (2023/11/25 訪問)

善得寺城は今川氏の支城とされ今川、北条、武田の三者が会談したという善得寺会盟の舞台になったと言われています。永禄12年(1569)には北条氏に攻められ北条氏の支城として大藤左近右衛門が守備したとされています。城域は和田義盛神社から日吉浅間神社にいたる丘地のあたりと見られ、江戸時代にこの地域6ヶ村(190石)を支配した東泉院跡地が隣接します。公園内に建つ宝蔵には東泉院に関わる資料が公開されています。

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カズサン

10年振りチョイ寄り再登城 (2023/10/21 訪問)

 西美濃未踏の城廻Ⅴの川手城を終えて北西約300m程の加納城を10年振りにチョイ寄りし2度目の登城で近世築城石垣を観てみたいと暗くなる前に探訪しました。

 駐車場:加納城南側東の堀跡駐車場を利用
 参考資料:グーグルマップに依る。

 駐車場から本丸南側の南東角石垣観察、東に張り出した出枡形の南面石垣観察するが草に覆われている、南側の堀跡と道路の間に低い土塁が復元されてる。
 南口より本丸内部に進入、本丸内部、外枡形の内部に入るが草が茂り過ぎている、本丸の北西角の土塁上は天守台跡と言われてるが草が茂り過ぎ、本丸内部は夕刻に成っていますが犬を連れての散歩、付近の方の散歩などで活用されている。
 北口より出て案内板の確認、立派な石垣が有る北面東側は草に覆われて石垣の存在が失われている、残念が状態です、北面西も同じく、北西角、南西角は何とか石垣が外から見る事が出来る。
 折角遺った貴重な石垣をもう少し景観整備保存に力を入れて頂きたい、岐阜城だけでなく加納城も大切な文化財遺構です。
 発掘調査は継続されているようですので最終結果などで成果としての加納城跡を見てみたいものです。
 

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いんげん丸虫

地徳館 茨城県常陸太田市 (2023/11/11 訪問)

南北朝時代の城郭のようです。
単曲輪の主郭に帯曲輪がまき、両端を堀切で遮断してます。
国道に広い箇所があり、路駐可能だと思います。
小さな看板があり、道がついてます。

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OHagi

井伊直政と彦根城 (2023/08/10 訪問)

今年の夏に行きました。国宝の城はこれまで3箇所回っていますがどの国宝よりも立派な天守で、井伊家の権力がひしひしと感じられました。
あと彦根城の堀巡りも堪能しました

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WEST

松山城訪問 (2023/11/22 訪問)

4年ぶりの松山城訪問です。ロープウェイ・リフト乗り場の近くの加藤嘉明公の銅像を見学してから、登城しました。徒歩でも登城できますが、楽をしてリフトにての登城です。
松山城は城門、櫓、天守等、当時の建物も多く、また立派な石垣など非常に見ごたえがあるお城です。ゆっくり見ているとあっという間に時間が過ぎてしまいますね。
天守は現存天守としては最も新しいものだそうですが、天守内を登ってみるとその歴史の重みに遜色はないようです。平日の登城でしたので、お城内部をゆっくり回ることができました。
訪問時は搦手側の乾門が改修中でした。改修の期間は2024年3月までとのことです。
帰りは、黒門口登城道から徒歩で降りて、二の丸史跡庭園に寄りました。ここには遺構として大井戸がありますが、その大きさにびっくりです。また、この庭園は「恋人の聖地」と呼ばれているそうです。ロマンティックな場所として活用できますよ。

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WEST

湯築城訪問 (2023/11/21 訪問)

松山市の道後公園内にある湯築城を訪問しました。伊予鉄道市内電車の道後公園駅から歩いて直ぐですのでアクセスしやすいお城です。搦手口を入ってすぐに、ビデオ上映や展示等をしている湯築城資料館があり、その歴史の一端を理解できます。
ここは河野氏が250年間以上に亘って居城としたお城で、見どころは良好に残っている二重のお堀と土塁です。建物等も復元整備されており、当時の様子をイメージしながら城内をゆっくり散策できます。
外側土塁の一部が断ち切られて土塁内部断面が見える展示があります。重機の無い時代にこの大規模な土木工事は驚きです。
中央部の丘陵にある展望台にあがれば、松山市内が一望できます。また、数キロ先には松山城の天守が望め、同時に訪問することで中世、近世の城郭の対比を感じることができます。
公園内には子規記念博物館(木曜日は休館)、近くには道後温泉があり、道後観光の見どころの一つとしてお勧めいたします。

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カズサン

西美濃未踏の城廻Ⅴ土岐源氏の居城 (2023/10/21 訪問)

 鷺山城主館址を終えて、稲葉山に聳える岐阜城天守を望み、岐阜駅繁華街を通り、加納城を横目に済美高校内に在る川手城に初登城。

 駐車場:無し、川手城跡の在る校内道路の南側の西に学校関係者駐車場が有り邪魔に成らない範囲で路駐。一時停止。
 参考資料:古城盛衰記さん、グーグルマップ、現地案内板「手城の由来」による。

 川手城は革手城とも称し、現在は済美高等学校の校内に遺跡が石碑、案内板、神明神社、遊具と共に土壇上に遺っている。現在地は案内板によると川手城城域のほぼ北隅の地と推定されると記されてる。
 高校の校内に在り見学できるとは大変ありがたい事です。
 
 土岐氏は清和源氏の一族で美濃を中心に栄えた、3代美濃国守護職土岐頼康の時代に美濃国・尾張国・伊勢国守護職に成ったおり、手狭になった長森城(川手城より約3km東)から文和2年(1353年)川手城を築き、以降11代土岐頼芸まで居城し頼芸は斎藤道三に美濃を追われた。
 道三の時代には革手の町屋は庇護され、信長の時代町屋は岐阜に移り、江戸期には加納城が築城されて残って居た土塁等も使われて遺構は消滅した。(革手城の由来抜粋)

 西美濃未踏の城廻の残りが4~5城有りましたが暗くなり車中泊でもと思っていたのですが荒れて気温が下がる予報で5℃までの寝袋では心もとなく日帰りとし後日挑戦とした。
 帰りは少し暗くなっても大丈夫な隣300m程の加納城を門限前までにと10年振り2度目の立寄り探訪しました。
 

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todo94

朝駆け (2023/11/23 訪問)

西宮名塩SAにて車中前泊し、舞鶴若狭道、北近畿豊岡道にてアプローチしました。この日はいくつもの山城攻略の予定があったので、「あ」さんのように藪漕ぎ敢行しての登頂は断念し、供養塔までとして撤退いたしました。今回の鳥取県の攻城は此処のみ。この後は但馬の城をめぐりました。

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